あんまり慣れていないので書いてきたものを読ませていただきます。
私たちは避難して5年目になります。
私たち家族は2011年3月14日に福島県いわき市を出ました。
自宅は第一原発からだいたい45km強の場所にあります。
その頃娘は11ヶ月でした。
今この子は5歳7ヶ月になります。
子供が大きくなるほどに、この事故がたってからの日々が長く過ぎているんだなって、すごく感じています。
はじめは何が起きているのかわけがわからず、とにかく、とにかく逃げなくちゃみたいな、そういう思い出3月14日に福島県を出てきました。
事故から2年3年と経っていくにつれて状況の変化を感じられないまま過ごしていて、
「とにかく」という思いから、とりあえず、とりあえずまだこういう生活を続けていかなくちゃいけないねって、
「とりあえずまだ帰れないよね」って言って過ごしていました。
4年目以降は、「とりあえず」とか「とにかく」とか、そういうことは言ってられない状況にはなっていますが、毎日頑張って日々を過ごしています。
私たち家族の望みはひとつです。
子供が大人になって、家庭を持って、この子が出産をするとき、
今、私はお腹に赤ちゃんがいまして、来年(2016年)の1月に出てくるんですけれども、
この子たちが子供を産むときに、安心して、何の不安もなく出産ができる。
どうしよう、なにか、お腹の子供に何かがあるんじゃないか、どうしよう。
そういう思いを持たないで子供が過ごせるように。
それだけが私たち夫婦の望みです。
よくチェルノブイリと比較されますが、先日ある団体さんがウクライナに行ってきたという方たちがいて、
そちらの映像を見せてもらったんですけれども、
やっぱりまだ、まだというか、もう29年以上経って、2世3世と言われる方たちが出産したり子育てをしたりしていると思うんですけれども、
その子供たちにやっぱり何かしらの影響が出てきていて、その見せてもらった映像の中でも、生まれて3年しか生きられないというお子さんの映像を見せてもらったりとか、そういうのを見ていると、もしかしたらそういうことは福島にも起きうる話なのかな、って、やっぱり比較してしまうことが多くて、そういうものなく過ごせる環境が一番だなとは思っていますが。
チェルノブイリである地区、ゴメリという地区なんですけれども、
以前に見たニュースだと98%の子供たちが、何かしらの疾患、心臓疾患が一番多いそうなんですけれども、
そういうものを背負って生まれてきていて、たった2%しか普通に、正常に生まれてくる子供がいないというものを見たときに、やっぱりそういう思いを自分たちの子供にさせたくないという思いが一番強くて、こういう避難生活を続けています。
今すでに福島は安全とされていることも多いですけれども、本当にそうなのでしょうか?
まだまだ納得して帰れるとは私たちは思っていません。
でもいま、国や福島県の方針で帰らせられそうな状況になっています。
平成29年の3月いっぱいで、いま住んでいる住宅というものが打ち切られるようになって、
私たち自主避難者は、特に何の保証もありません。
「自主避難というよりは、自費避難だよね」と、友達と話していたこともあるんですけれども、
そういう話って笑って「なんか私たちって本当に自主避難じゃなくて自費避難だよね」と笑って話しますけど、
笑っている内情では、実はありません。
私たち母子避難は、パパが仕事で地元に残って、生活をするために仕事をしていて離れて暮らしていることがほとんどです。
もちろん福島でいままで住んでいた家というものには主人が住んでいるのでそちらの家賃と水光熱費というものはかかってきます。
避難していると、東京なら東京、山形なら山形、避難している先でそちらにかかる生活費用というものも二重にかかってくるので、二重生活ってよく言われますけれども、出費も大体二倍ぐらいになってくることがほとんどだと思います。
主人は、一人暮らしをしたことのない人だったので、日勤と夜勤とを繰り返すような仕事をしているので、
体力的にもギリギリなところがあって、自炊ができないことも多くて、コンビニでご飯を食べることが1日だったりとか、休みの日だともう疲れて何もしたくないから1日何も食べないとか、よくあることみたいです。
いま、住宅が無償提供されているので、なんとかギリギリ生活していくことができていますけれども、
それがそういうことでなかったり、自分たちでどうにかしていこうと考えることもありますけれども、
事実上、ちょっと難しいかなと、選択せざるを得ない状況です。
地元の友達からはよく「お金があるから避難できるんだよね」って、
「お金があるから避難しているんでしょ」ってよく言われるんですけど、
お金があるないとかじゃなくて、お金が無いなら無いなりに、
やらなければならない自分たちの子供に対しての責任っていうものを感じてやっていますし、
私も都内に出てきてパートも始めましたし、
東京に住んでいることの一つは、福島県のいわき市から主人が通えるギリギリの距離。
大体200〜250kmぐらいですかね。
離れているのがこれ以上かかると、主人が会いに来れるペースというのが、いまですら2週間に一度ぐらいなのに、それがもっと遠くなると月に1回だったり、半年に1回だったりというふうになってしまうと、子供が寂しい思いをするので、ギリギリの距離は東京かなと思って都内を選んでいます。
主人はすごく頑張って仕事をしてくれていますが、生活状況からすると、クレジットとかもあるのでそちらを使用することもありますが、2週間に1回主人が来たときに、「ごめんね、これで頑張ってね」と言って1万円を渡すのが精一杯です。
それで彼は次に来るまで過ごします。
本当にギリギリの生活をしています。
いま家から追い出されたら、私たちはどこへ行けばいいのでしょうか。
不安だな、子供のことが心配だなと思いながら、福島に帰らなければいけないのでしょうか。
それとも地べたに座るように生活をするんでしょうか。
いま本当に住宅が打ち切られることが切実な悩みです。
ちょうど打ち切られるときが子供が小学校に入るときです。
子供が大きくなっていくということも考慮して、国や福島県や、そういう私たちの思いを一緒に伝えてくださる皆さまも、子供が成長しているということも踏まえて一緒に戦っていきたいなって思って今日は参らせていただきました。
どうもありがとうございました。
<ディスカッション>「避難を続けたい避難者が追い出されてしまうかもしれない」現在避難者がおかれている状況(文字起こし)
たくさん、皆さん、初めて話を聞きました。
同じ避難者でもあるんですが、
私は避難者でもあり、母親でもあり、あの…、過去では妻でもありましたが、あの…、
全部最初は、消してったんです。
一番最初にママであろうと思って、
それで2年間自分でやっていたこととを、2年間やれませんでした。
私は、歌を歌う仕事をしています。
子供も二人います。
この娘の、二人のために、こちらに、東京都に避難してきましたが、それが今、自分のことを守ることになっています。
今年、フランスに行ってきました。
フランスに行った時の、皆さんの対応にびっくりしました。
一緒に、私と一緒に怒ってくれて、そして一緒に疑問を考えていました。
「どうしてあなたはそんなにサイレント(無言・静か)なの?」って言ってました。
私のことを呼んだ取材者の人は、その事情を日本人であるから事情もよくわかっているし、フランスから何回も取材に来ている彼女だったので、そのサイレントの意味を私と同じく感じることができました。
なので、フランスの方の取材では、受けたんですが、サイレントと書かれていました。
どうして、ただ母親だったというそれだけで、こんなに苦しんでいるお母さんたちがいるんでしょうか。
私は不思議です。
仕事柄私は、一つ一つこういう場所で出会いが生活の糧になり、そして、その一つ一つがまた次につながるわけですが、
最初に皆さんに会った場所が、この避難者の声というステージでもあります。
ですが、私の仕事は歌い手なので、昨日、この場に立つということで書いたものがありますので、
お手元にある黄色の紙を見ていただいて、即席で書いたので、私。
これを、アドリブなんですけど歌ってみたいと思います。
ー拍手
ありがとうございます。
歌♪
いま語ります
いま歌います
福島のふるさとを離れ たどり着いたもう一つの我が家
落ち着いたこの家に 子供達の笑い声が響く
それだけでいい
このままこの笑顔を見つめたい
ー拍手
経験から生まれた2年間の思いを書いた歌を歌い続けています。
歌手活動を始めて2年目になります、2013年から始めました。
その歌をいろんなところで歌っています、学校を含めて。
3.11はきっと5周年、周年と言わないかもしれないのですが、5年になるまで3.11はいろんなところでイベントがあると思います。
(黄色い紙の)裏に私の活動もありますので、是非、来てください。
歌を聴いてください。
ありがとうございます。
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本日は指名にて、簡単ですがお話しさせていただきます。
福島県いわき市から江戸川区に避難生活をしております。
私が住んでおります都営住宅では84世帯の被災者が避難生活を送っています。
そのうち8割が福島で残り2割が宮城岩手で被災した方です。
早い方で来年の2月には現在の都営住宅から転居しなければならないというお話しを伺っています。
避難されてきた方々の多くが津波で田や土地を流され、帰る場所を失ってしまいました。
経済的な問題ではなく、高齢や病気の問題もあるため、スムーズな転居が難しい状態です。
私自身も4人の子どもと90歳を過ぎた高齢の両親とともに現在生活を送っております。
東京へ避難してきた当初は何度か転居を繰り返し、やっとの思いで今の江戸川区に落ち着くことができたのです。
慣れない土地で何度もつまづき、病気も抱えながら暮らしてまいりました。
また子供達も、奨学金とアルバイトをしながら学校へ通っております。
私たち夫婦は生活するだけで精一杯で、子供達には何もしてやることができません。
親としての義務も果たすことができません。
私たち自主避難者も高額な賠償金が支払われていると思われておりますが、実際にはそういった援助はあまりにも少ないものでした。
こうした各自がギリギリの生活を送っている中、平成29年3月には現在の都営住宅の無償提供が打ち切られます。
震災から4年ほどの月日は経ちましたが、未だ生活が立ち直っていません。
悩みや不景気の問題は10人10色ですが、混乱する被災者世帯全員が願うのは家を追い出さないで欲しいということです。
どうか、安心なところで少しでも長く住まわせてください。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」と言えるまで、家から追い出さないでください。
どうか、どうか、よろしくお願いいたします。
最後にお集まりの皆様、諦めず団結して頑張っていきましょう。
以上です。
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みなさん話すのが上手なんですけれども、私はちょっと下手なので、原稿を書いてきましたので読ませていただきます。
皆さん、先日千葉で起こったこんな事件を記憶していますでしょうか?
東日本大震災の津波で家がダメになり、目と足が不自由な姉を山へ置き去りにして死なせたという弟の事件のことです。
震災後住む場所を亡くしたこの方々は親戚宅を転々としましたが、それもなかなか難しくなったのでしょう。
日々生きていくのが大変で、障害のある姉が煩わしくなり、山へ置き去りにしたのです。
一見、弟の勝手な行動と思われるかもしれませんが、私には他人事に思えませんでした。
福島県いわき市の海沿いに嫁いだ家は津波で流され、原発30km内ではありませんでしたが、町は大混乱でした。
海が目の前にある主人が勤めていた病院も車も、津波でダメになりました。
生後10ヶ月だった娘と私は、たまたま友人宅にいて難を逃れましたが、いえでお昼寝をさせていたら、多分助からなかったでしょう。
私が嫁いでから一人で頑張っていた脊髄小脳変性症で歩行困難な母は無事だったので、近くの集会場に避難しましたが、
母は四つんばえになって這って歩くしかなく、トイレに行くのが大変で、娘はミルクも水も無く、昼夜関係無く大泣きし、大きな余震も続き周りの方々も恐怖で寝れず、食べ物も無く、徐々に疲れからイライラしたのでしょう。
咳払いをしたり、「うるさい!」って大きな声で言われたり、障害者の母と赤ちゃんを連れて、それだけで肩身も狭く、集会場にいるのは二日間が限界でした。
母の指示で住宅を片付け、勤務先で津波にあった主人は生きていて合流し、3月16日までそこで生活しましたが、ガソリンが手に入ったので唯一残った私の軽自動車で福島県から脱出することにしました。
でも、軽自動車は4人乗り。
娘のミルクを作るためのお水とお湯を入れたポット。
やっとの思いで集めた離乳食、オムツ、着替え、タオル。
多少日持ちしそうなお菓子、もしもの時の毛布を積むと、チャイルドシートもあり、母を乗せる余裕がないのです。
一旦どこかに避難してから母を連れに戻るのか、
でも、当初携帯でのネットは使えず、どこが避難所になっているのかわかりません。
親戚宅に行くか、
でも震災から1週間、いわき市にいる親戚は津波で亡くなったり、流されたり、他に避難したりでいません。
他県の親戚も家族4人の受け入れとなると難しく、渋られました。
元JR勤務の親戚が「電車で来たらいいじゃん」と言いましたが、震災と原発の影響で常磐線は動いておらず、「それも知らないのか」と、福島県と他県の温度差を感じました。
そして頭をよぎったのは母を置いていく。
そんなずるい事でした。
本当にずるい娘かもしれませんが、その時は本気でそう思いました。
支えられてやっと一歩足が出る母。
田舎なのでガス欠になったら山道を歩くしかありません。
外に出れば被曝する。
止むを得ず出た時は上着を捨てて室内に持ち込まないように言われていました。
でも、途中何もないところでトイレとなるかもしれません。
そしたら車から出るしかないのです。
もしかしたら車の中で寝る事になるかもしれません。
私たちはできます。
でも高齢で障害のある母にはやはり難しく、足手まといになってしまうのです。
でもいわき市から食料の支援はありませんでした。
このまま家にいたら全員餓死です。
タクシーも使えません。
飛行機も、空も危険という事で飛ぶか飛ばないかわかりませんでした。
餓死するか、一か八か車で行けるところまで行って、あとは被曝して歩くか、
その選択しかなかったのです。
原発はいつまた爆発するかわからず、物資もいわき市に入ってこない。
ガソリンも無く、逃げたくても逃げる事ができません。
お金を下ろしたくても金額が制限され、着の身着のままで印鑑も通帳も身分証明もないままの方もたくさんいて、すごく困っていました。
幸いな事に茨城県に住む主人の友達が私たち家族4人を受け入れてくれて、4日間お世話になり、
今はみなし仮設に入れ就職もでき、千葉の事件のようにはなりませんでした。
でも、もしかしたらそうなっていたかもしれないのです。
地元で再建するために家を建てると300万円助成されますが、私たちの住んでいた場所は家を建ててはダメな地区になりました。
主人の勤めていた病院も建て直しの話が出ましたが、津波被害もあった事から、同じ場所で再建する考えと、違う場所で再建したい意見の違いからドクターが別れたり、再建して病院が再開しても、亡くなった方や避難した人が多く、介護職だった主人は入院病棟がないと仕事がないので復帰ができません。
「いつか復帰して欲しい」と言われても、それがいつなのかがわからないのです。
お金が入ってこないのです。
通勤するための車も購入しないといけません。
車はダメになりましたが、津浪被害なので保険金は出ません。
自分たちの再建のために、私も次の年からフルで働き始めましたが、国民健康保険から社会保険に切り替わるため免除がなくなりました。
母も一緒に都内に避難させたので、一人暮らしをしていた市営住宅の家賃も払い続けなければなりませんでした。
そして住む家も職場も車もなくした私たちは全員避難し、母子避難ではないのでこうしょく無料の対象ではありません。
有料です。
原発が怖く、子どものために避難した周りも親と同じです。
ですが私たちは対象に入らないのです。
仮払い100万円もありませんでした。
何でしょう、この差はどこから出るんでしょう。
母の市営住宅の片付けや荷物取りに何度も何度も高速道路を使用しました。
ですが、無料ではないんです。
みなし仮設には入れましたが、あかくりや避難所を出た方々のように、おむつやミルク、服等の物資、情報源の新聞支援もありませんでした。
羨ましいのは食事もでていたことです。
被災した私たちは避難してからずっと、ほとんど自分たちでやりくりするしかなく、時間もお金も使い果たしました。
今住んでいる場所から出ろと言われたら、もう生活していけません。
身障者で車椅子の高齢の母と、保育園に通う5歳の娘を連れてやっと避難した私たちから住む場所をとらないでください。
毎月賠償金が出て、医療費無料、高速無料、家財道具補償もある避難者家族とは、生活レベルがとても違いすぎます。
線引きをしないでください。
汚染した地下水が海へ流出するのを防ぐための海外遮水壁が完成して1ヶ月が過ぎましたが、海水に含まれる放射性セシウムの濃度は変わらないそうです。
また、汚染土を詰めた黒い袋がたくさん積まれていたことも、皆さんもご存知かと思います。
それが今年の9月の大雨で240袋流され、うち2袋は中身がなかったと環境省が発表しました。
汚染水処理機アルプスも故障してばかりです。
その土地へ子どもを連れて私たちは帰れません。
皆さんは帰れますか?
どうかみなさん、ご自身がそうなったときを想像してみてください。
横須賀にも原子力空母が配備されています。
何かあったら大田区も30km範囲に入ってきます。
今はテロもあります。
大きな事故がないとも限りません。
一度で構いません、一緒に考えてもらえませんか。
以上です。
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福島県の二本松というところから来ました。
郡山と福島の間です。
家族は全員で6人います。
いま女房と、一番下、今年高校1年生になった息子が米沢に避難していまして、
私は仕事とか様々な関係があって、米沢と二本松、そして仕事といいますか、福島に絶対に必要だという「保養」をやっています。
「保養」をやるために佐渡島に今保養センターというのを立ち上げていて、そこに通っていますので、
福島と二本松と佐渡島と米沢と行ったり来たりという生活をずっとしています。
なぜ避難したか?
簡単です。
放射能が怖いからです。
私は1986年の時にチェルノブイリのことを経験して、大変だということがよくわかっていました。
ですから直ぐに避難させたかったんだけども、なかなか場所がない。
ということで、1年がかりでようやく米沢の先ほどお話が出た方と同じような雇用促進住宅に入ることができたわけです。
あとはなぜ避難したのかというのは、放射能が高い。
あとは、家屋が汚染されているんですよね。
うちの家は女房のおじいちゃん家だったんだけど、古い家でした。
戦争中にどこからか長屋を移築したということです。
ですから、隙間だらけなんです。
あの当時、2011年の3月27日に家に初めて線量計がきたんだけれども、
その時に外で9マイクロシーベルト。
家の中で3〜4マイクロシーベルトありました。
今は除染というのが去年終わって、その剥いだやつを全部庭を掘ってそこに埋めたんですよね。
だいたいその時で0.2ぐらい。
それが今は0.1〜0.2の間ぐらいなんですけれども、家の中も外も一緒なんですよ。
つまり埃が入る。
猫を飼っているから、猫は出たり入ったりする。
猫を殺すわけいかないでしょ。
しょうがないから拭いて中に入れたりするんだけど、そんなの長く続かないでしょ。
だんだん、だんだん、線量は上がります。
家の直ぐ後ろは山で、山というかお寺さんで上から落ち葉がいっぱい落ちてくるんですよ。
そういうところに住んでいます。
2012年に土を測った時には8万ベクレルありました。
今もそこにいて、庭は除染したけれども、後ろのお寺の土手は除染していませんから上がったままです。
なんで避難を続けるか?と言ったら、さっき言ったように除染しても下がらない現状がある。
それから、もうすでに新しい暮らしが始まっているんです。
それを変えるのはすごく大変です。
赤ん坊の時は出るのは楽なんです。
ところが、僕の一番下の子は当時小学校6年生。
泣いて暴れて「なんで俺がここを出なきゃならないんだよ」という感じで、本当に大変でした。
最初は「岩手県のおばあちゃんのところに行け」と言ったら「行きたくない!」
とにかく説得して「ここには住めないんだ」。
「実際にみんな出て行くんだ」って言って、1年がかりで泣く泣く行きました。
でも、一人ぼっちの入学式は大変だったと思います。
それで、入学式の日に、車を蹴飛ばして「1ヶ月で友達ができなかったら二本松に帰るからな!」
でも、避難していた福島の子たちがいっぱいいて、同じサッカー部で、そして友達もできてなんとかやってきました。
学校もよく休んでいました。
本当に不登校になるかなと思うくらいに。
でもサッカー部をやっていたので、なんとね、県大会で優勝できたんです。
で、「福島から来た子のおかげだね」って言ってね、みんなで手を取って泣きました。
その息子がやはり、「高校は二本松に帰りたい」
「おとうさん、おかあさんは俺のこと、無理やり転校させたんだから、高校ぐらい好きにさせろ。いいでしょ」
って言ったんです。
ところが、幸か不幸か勉強ができなかった。
だから二本松の安達高等学校に入れなかった。
「お前の成績では行けないぞ」と言ったら、結局は私立の高校に今行っているんですけれども。
今はそこで落ち着いて、なんとかいけています。
私は本当にホッとしています。
戻らないのはそういうふうに生活が安定してきているということと、
やはり、原発が全然安定していないわけですよ。
メルトアウトして、いつかまた逃げなきゃならないような状況にある中で、
なんでここにいなきゃならないんだということです。
そもそも国と原発の責任は、国と東電にあるわけだから、ありとあらゆる選択肢を用意して、
「居たい人はどうぞ」の話だと私は思います。
だけど、
「ここに住みたくない」
「心配だ。だから出たい」
という人のことも補助するべきだと思うんですよ。
それをしないで、「今線量が下がったから戻ってきていいぞ」とか、
「心配するな、色々考えすぎなんだ」とかいうけれども、安全かどうかは国や東電が決める話じゃない。
俺が決めるんだ。
理屈が合うとか合わないとかじゃない。
現実、家の線量が下がってもあそこには帰れない。
そして、仮に向こうの基準が下がりましたと言ったって、西日本とか全然ないところと比べたら高いんですよ。
だから、そこに戻って被曝を防ぐのは無理だから、私は帰らない。と決めています。
ただいまなんで住み続けているかといえば、仕事の絡みもあるし、福島の人をなんとか外に出したいと思っていて保養とかをやっています。
あとは息子、長男と次男がいますけれども、仕事の関係でやっぱり出ません。
なかなか難しいんだけど、しばらくはそばにいてあげたいと思っています。
やっぱり雇用促進住宅の人にしてもね、結構出てます。
出てます。
それはだけど福島に戻る人だけじゃないんです。
全然他県に行くとか、他県の親のところに行くとか、福島に戻る話ばかりじゃないです。
だからうちも今現在家賃を払わないで家にいたわけだから、それが今後4万幾らって言ったら、どうすっぺな、っていう話だよね。
だけど戻らないですよ。
戻らないって決めているんだから。
これは必死になって、どこかまた安いところかタダのところを探すように頑張りますよ。
でもうちの女房は実は保険の仕事をしているから、
二本松と福島と米沢と行ったり来たりしなきゃならないということはあります。
だから当面ここでやるしかないんだけれども、国と東電に責任があるんだから、少なくとも自分たちが納得して子育ても終わった。
だったらここ出てもいいよねということになる時まで。
「本人達が納得するまでは手当を続けろ」と言いたい。
一切責任を、何も取りもしないで、ふざけるんじゃないぞということを言いたいです。
色々言いたいことがいっぱいあるんですけれども、私たちは出ないで頑張りたいと思います。
本当に、生活も苦しくなっています。
私は米沢と行ったり来たりして、あとは「保養」ということでこういう活動に来たり、子供達を佐渡に連れて行ったりすることで、ガソリン代もね、月に5万ぐらいかかるんです。
これでやっていけないですよ。
私の給料は10万ちょっとですよ。
まぁ、歳も歳だからね、そんなに高くもらえないのはしょうがないけれども、
だから、本当に苦しくなっています。
ジリジリと殺していくようなことを国はやりたい。
そして、兵糧攻めで帰ってくるのを待っているつもりかもしれないけど、そうはならない。
それは死ぬことを選ぶのは嫌だからです。
とにかく頑張っていきます。
ありがとうございました。
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山形県の米沢市に避難しております。
私の場合は主人が福島市で働いておりますので、そのまま主人は実家の方でお世話になってて、
私と子ども二人で、当時小学校3年生の娘と2歳の娘です。
二人を連れて、職場の方で転籍ができるということで、そちらでお世話になることが決まりまして、
保育所にも入れることが決まったので、自主避難を受け入れているという雇用促進住宅の方にお世話になることができました。
5月から避難先を確保できることになりまして、どうして避難に至ったかというと、
小学校の方への送り迎えで、道路の除染もしていないのに大丈夫なのか?問い合わせたところ、
全然関係ないんですね、学校の人は。
先生たちは何も答えることができないんです。
「上から通知がこなければ答えられない」ということで。
私ともう一人避難した友達がいるんですけど、本当にその学年、当時小学校3年生の娘の学年二人だけで、校長先生とかに問い合わせなどをいろいろしたんですが、なんの返答もなかったです。
で、ちょっと不安に思ったので、市民団体の方に加わりまして、放射能の測定の機会を得ました。
渡利地方の方を測ってみたんですけど、校庭の方で60マイクロシーベルト。
私はちょっと測って警報機を見ても意味が全然わかりませんでした。
すごく、専門家の方もたくさん来て騒いでいる状態を私は側から見て「なんかすごいことになっているのかな」ぐらいだったんですけど、勉強していくにつれて「危ない」と。
「ここで避難しないと危ない」という、直ぐに逃げないとという気持ちが働きました。
子どもももう一人欲しかったので、ちょっとこのままここで。
環境的にどうなんだろうという気持ちですぐに避難しました。
今、4年経過しているんですけれども、雇用促進住宅の、当初5階に入っていました。
階段しかありません。
建物は昭和60年代に造られたもので、部屋の間取りも小さいものなんですけれども、
当時は何の設備もなくて、ガスコンロから何から何も無くて、寒い冬に、シャワーもないんですね。
なので、今もシャワーが付いていないところで生活しているんですけど、そういう不便なところに住んでいまして、
当初1〜2年は母子避難の人が沢山いたんですけど、「もう大変だ」ということでだんだん引き返しまして、
今残っている世帯は数が少なくなってきました。
何箇所かあるんですけれども。
それと、母子の方が多くて男手がないというところで、
フラットというところがありまして、そちらでちょっとお茶を飲みながら皆さんでお子さんを一緒に見ながら生活のことを語ったりしています。
現在、戻っている方たちというのは、小さいお子さんが来年小学校に上がるとか、そういうタイミングで帰っているんですね。
で、私からしたら、まだ除染も、当時していなかったので、
「(除染も)してないところに戻るというのは、ちょっとどうなんだろう?」と心配してたんですけれども、
もう当人たちは、お父さんも行き来で大変疲れていますし、
子供も、パパが来て帰るという生活にちょっと泣いてしまったりとか、それに慣れてしまって逆に何も思わなくなってしまっているとか、悲しい事態が起きてきていていました。
家族がバラバラになるよりは、一緒に生活をしたいという方たちが多くて、
それで戻っていったように思います。
あとは、放射能の不安から離婚ですね、離婚問題がすごくありました。
うちの周りでも何件かありますけれども、
パパさんたちの見解と、お母さんたちの見解がちょっと違って。
米沢に避難している人が多いというのは、通える距離なんですね、福島から。
車でうちの実家まで40分ぐらい。
40分ぐらいで帰れるので、通っている方もいます、お仕事に。
その中で「戻りなさい」とかそういう施策で29年で終わりですとか、
期間期間で区切られてしまうのと、
私の子供は今中学1年に上がったところです。
ようやく慣れました。
友達もいます。
急に「帰れ」と施策が、支援が打ち切りになっても、子供の成長に合わせてもらわないとこっちも困るんですね。
子供も困りますけど、戻りたくないのに「戻れ」というのはちょっとどうなのかな?と。
支援の方、これからも継続していただきたいと思いますので、皆さんに周知して、どういうことが起こっているのか?というのを知らない方にも関心を持っていただいて、応援していただければなと思います。
以上です。
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さいたま市から来ました。
私の妻と子が埼玉のほうに母子避難中です。
妻と小学校2年生の長男と、幼稚園の年長、年少。あと、1歳になる男の子がいます。
なぜまだ避難を続けているのか?というと、信じられないことがすごくたくさんあるんですよね。
まず原発事故が起こった時からいろいろ思い起こすと、政府の話というのは、本当は信じたいです。
「安全だ」「安心だ」
信じたいんですけど、いろいろ調べれば調べるほど分からないことが多いです。
リスクアドバイザーという方がよく来ます。
素晴らしい話をしてくれます。
だいたい1時間半ぐらいの公演だと、1時間ぐらい「安全だ」という話を永遠と続けるんですね。
そして、安全だと思いこました後半なって、「交通事故程度の危険性があるよ」と、なぜか言います。
ここで「おかしいぞ」というふにして質問するのは私みたいなタイプの人間らしいです。
他の人たちはなんか「安心だ」「安心だ」「安心だ」
「交通事故、どうってことないや」で終わってしまうらしいんですが。
実際のところ私は交通事故に二度ほどあっていまして、交通事故は結構遭うものかな、と。
それで実際除染が、郡山とか福島とか。
福島にも家があるので除染の状況を見ています。
実際「科学的にしっかり除染をしました。帰っていいですよ」
郡山市は言います。
ただ、実際の除染がどのように行われたか?というと、
「除染」という形は行いました。
本当に線量を下げるようにしっかりと除染したのか?というと、そうでもありません。
除染したゴミ、置く場所がない。
だからうちは除染しない。
そういう所も沢山あります。
あと、郡山市、福島市。
木を切ったり切らなかったりします。
片方は木を切ってくれます。
焼却炉でバンバン燃やしています。
片方では焼却炉で燃やせません。
だから木を切りません。
どっちがありがたいのか、正直わからないところがあります。
それと不思議な話、「木は切っても線量は下がらない」っていうんですけど、
うちの家は除染しても線量は下がらなかったんですが、隣の家の木を半分ぐらい切り倒したら、なぜか線量が半分ぐらい下がりました。
言っていることとやっていることが思いっきり違います。
例えば森林の除染。
「してもあんまり効果はありませんよ、放射線は来ませんよ」と言いながら、福島の渡利地区の話を聞いていると、「一生懸命除染した、雨が降ると元どおり」そういう話も実際に言います。
で、車で渡利を通ると未だに線量はやっぱりあります。
「除染」のまやかし 神戸大学大学院教授 山内知也氏12/22たねまきジャーナル(内容全て文字起こし)
そういう状況の中で、本当のことを誰が話しているんだろう?
本当に心配になってきます。
そしてうちの子供達は泥んこになって遊んでいます、埼玉で。
で、家に帰ってくると母親に怒られます。
「なんてことするのよ!」
でも私はニコッとします。
「男の子はこうだよな」と言いながら頭をポンと叩いて、
「お前ちゃんと払ってこい」というんですけど、
これ、福島でやったら頭ポンじゃ済まないですよね。
「除染した」と言いますが、したところはやらないというところでして、
実際吹き溜まっているところがあって、後やっていないところがあって、その辺分からないんですよ。
線量計を持ってウロウロすると、突然線量がピクンっというところがまだ沢山あります。
それと、郡山の自宅は悲しいんですが、線量計のスイッチを入れておいて部屋の掃除なんかをすると、鳴るんですよ。
ピピピッ。
悲しいかな、自宅の中に(放射性物質が)いるんですね。
あの粉みたいなやつが綺麗に取れているのか?
まぁ、「取れている」という人もいるし、「取れていない」という人もいるし。
あと、怖い話道路の除染は進んでいないし、側溝の除染は進んでいません。
私が住んでいる郡山の家の前は、大雨が降るといっぺんに水が上がります。
大体このくらいまで水が上がってきます。
泥が道路にたまります。
乾くとそれが舞い飛びます。
郡山市あたりに電話して「こういう状況なんだけどどう?」と聞くと、
「もう手いっぱいで何もできません」というような返事があります。
「安全ですから帰りなさい」と言われても帰る状況ではないです。
それと母子避難になってしまった最大のネックは私の度胸のなさなんです。
度胸のいいお父さんたちはピッと仕事を辞めて新しい職をちゃんと求めます。
高校入試、大学入試、それほど大変じゃなかった気がします。
就職試験、すごく大変だった記憶があります。
この年齢になってもう一度就職試験を受け直す、悲しいかな、度胸がないです。
けれど妻子を福島に戻す、そういう気持ちにはなれないです。
そうこうしているうちに貯金はどんどん目減りをしていきます。
行き帰りの中で車はどんどん痛んでいきまして、これが長期間続くと疲労がたまるんですね。
で、最近妻が事故を起こしまして、車が一台廃車になりました。
(子どもが)育ってくると本当にお金は厳しいものがあります。
で、住宅の支援が打ち切られるぞ。
どうすればいいのかな?
どうすればこのまま残れるんだろう?
となった場合に、私の収入がネックになります。
新しい福島県の政策であれば多分、なんの保証もないのです。
んー、どうしよう。
福島にあるもう誰も住んでいない親の家を売るべきなのか、悩みます。
放射性物質にまみれたところを売っていいのかな?
放射性物質のゴミが庭の中にデーンと埋めてある場所、人に言うべきなんだろうか?
だけど売れるんです。
浜通りの人は買うんです。
向こうの方が線量はめちゃめちゃ高いんです。
でも、そういう土地って本当に売っていいのかな?
私の中にある人間としての理性がどうしてもそこを止めるんです。
それでどうするべきなのか?
退職して退職金をもらうべきなのか?
ただ、一番下の子はまだ1歳で、これから先のことを考えると非常に厳しいものがあります。
それで今現在福島で暮らしている人たちの中にも、すごいリスクを抱えていて、
「本当は出たいよ」
でも、福島県は新たな避難というものは認めておりません。
チェルノブイリでは4〜5年後からがんの子ども、甲状腺がんの子どもが爆発的に増えたという話がありました。
4〜5年経ってきました。
事実はどうでしょうか?
信じられない数の子どもが手術をしています。
それでも「関係ない」と言い切ります。
どう関係ないのか説明してもらいたいんですけど、一生懸命もみ消している感じがします。
うちの子供達も上の二人は最初は何もなかったんです。
今回(検査を)やったら、カエルの卵みたいなのがうじゃうじゃありました。
「小さな嚢胞は関係ないよ。出たり消えたりするものだよ」
そう言う福島県立医科大学の先生の診断がどうしても信用できないんです。
だからいくら「除染をした」と言われても、はるかに線量の高い地元には帰れないんです。
そして、経済的にだいぶ疲弊してきているので、住宅の保証、これが途切れてしまった場合には、路頭に迷いたくはないのですが、いろんなものを切り崩していきます。
貯金はとりあえず無くなりました。
この後どうしようかな、生命保険を解約しようかな?
これも悩むところなんです。
交通事故のリスクはすごく高いんです。
この前こちらに車で来たんですけど、ノーマルタイヤです。
帰り、途中の峠道で雪が降ってきたんですよ。
で、みると氷点下まではいかないんですけど0度なんです。
その時に、小ちゃな子どもを二十歳までは見ていたいなというのをしょっちゅうやっていますと、私自身の心身はどんどんボロボロになっていきます。
国はどうなのかな?
国の説明会とかいろいろ聞いてくると、「安全です」「安心です」を繰り返します。
そして、彼らに何を話しても答えは決まっているんです。
彼らの解答用紙というのがあって、それを延々と繰り返すだけなんです。
壊れたテープレコーダーと同じと言えます。
そして復興庁の役人もこういうことをやるんです。
すごく腹が立ったんです。
なんでこういうことだけはきっちりとやるの、あんた。
あんた公務員でしょ、服務の宣誓したの?っていうような感じが致しました。
もっと話したいことは1時間ぐらいあるんですがこれで終わります。
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2015年5月21日 UPLAN
福島から神奈川へ避難している原告の方の話
まず、私がどうして今自主避難しているのか、という経緯からお話しさせていただきたいと思います。
2011年3月11日の東日本大震災、3月12日の福島第一原発の爆発によって、
かなりの不安と、何が起こっているのかわけがわからずいるなか、
ちょうどその当時小学校6年生だった次女を、東京の妹のところに、
もしかすると福島が危険かもしれない、ということで避難をさせました。
当時、福島に山下俊一という方がいらっしゃって、
「福島は大丈夫だ」と、「放射能は怖くない」ということを、
盛んにラジオなどで話されているのを聞いて、
ま、一時的のことなのか、と思いつつ、
ただ、なぜ大丈夫なのか?
「大丈夫だ」としかお話しをなされないので、
いろんな中で個人的に調べていく中、
子供福島ネットワークという事故後立ち上がった団体のメーリングリストがあるということで、
私はそこに入れさせていただきて情報を、どういうふうになっているのか共有するために入らせていただいて、
その中で、郡山市。
福島第一原発から50km〜60km離れた郡山市も、一番中心のところにいたのですけれども、
やはり、かなり汚染されたということで、
子供をとにかく守らなければ。
で、そのうちに、
私は子供が二人いるんですけれども、
上の子はその当時はもう成人していましたので、一緒には生活しておりませんでしたけど、
次女の娘がだんだん体調を崩していくんですね。
その前に同僚の息子さんたちが、前回鼻血問題がありましたけれど、
そのような感じで鼻血が出るということをかなり心配しているなか、
うちの娘も鼻血を出しているという状況になって、
やはりこのままではよくないということで、
私は7月に、2011年7月に、夏休みを待たずして、
当初のメーリングリストから、3月に神奈川県が民間借上の募集をするということで、
私はそこにとにかく、無我夢中でそこに応募して、
7月に娘と一緒に神奈川に自主避難という形で避難して、現在に至っています。
今現在でいうと、娘も少しずつこちらの生活に慣れて、今は高校2年生になりました。
娘的には、福島に戻りたい気持ちも……、
言いませんけれども、あると思います。
私も、福島しか知らないでずっと育ってきたものですから、
できれば、戻りたいという気持ちもあります。
ただ、現実がそうではないということを、やはりこちらでいろんな勉強会や、
当時ここに一度、勉強会に来ているんですね。
その時にやはり、「信じたくはないけれど、現実を知らなくちゃいけない」という思いで今に至っています。
ただ東電は、東電も県もそうですけれど、
福島は、もう、復興という名の下に子供達の…、なんていうんでしょう、
命というものに関しては、何も手立てをしてくれていないのが現状だと思います。
今回第二回の甲状腺の検査を、娘が6月7日に検査をします。
一回目の判定は「大丈夫でした」という話でしたけれども、
今甲状腺の被害があって、甲状腺癌という子供達がどんどん増えているのが現状なんですね。
でも、私は今、そうですね…
できればですね、今訴えたいことは、
もう私達は、福島県は年間1mSvという被曝以上の被曝をさせられたということで、
できれば、広島長崎の方ではないですけれども、被曝手帳をいただきたいと。
子供達にはその権利があると思っています。
私は民間借上を借りていますけれども、
2016年度、2017年の3月で打ち切りということが、東京新聞に掲載されていましたけれど、
そういう日が必ず来るとは思っていたんですけれども、
まだまだ、東電や国は何も賠償していないし、誰も責任を償っていないんですね。
その現状をやはり、一人でも多くの、
私達みたいな自主避難者や、福島にとどまって子供を守りたいけれどもいろんな事情があって避難できない人達もたくさんいるんですね。
そういう現状をみなさんにわかっていただいて、
できるだけ早期に、子供達を被曝から、少しでも放射線量の少ないところに避難させてあげたいという気持ちがあります。
これは私の、ま、疫学的に証明されないと思うんですけれども、
私も2年前から、かなりの高熱と体調不良のために…、調べたところ、膠原病ということが判明して、今治療している最中なんですけれども、
これはやはり、原因としては、先生は、
「膠原病の中でも●症候群という病気で、原因は3種類あるんだけれども、あなたはその原因に値していない。
その原因がわからないんだけれども、間違いなく膠原病だ」ということで、
ステロイド治療が始まり、今はリュウマチの方の薬を飲みつつ経過をみているところです。
これは、私は、やはり被曝の原因があるのではないかと疑っております。
それは証明されないと思いますが、
私は当時、郡山市ではなくて福島市に仕事に行っておりましたから、
福島市は郡山市よりも、
福島市の駅周辺はかなり、後で知るんですけれど、放射線量が高かったらしいんですね。
私は県から、
「3月11日から7月11日のあなたの外部被曝実効線量はおよそ1.9ミリシーベルトです」
という、外部被曝実効線量推計結果のお知らせというのをいただきましたけれども、
この4ヶ月の間に1.9mSvと。
これは私がその当時の行動記録を書いてた情報をもとにして提示された数字なんですけれど、
これはあくまでも行動記録をしたもので、
記憶を辿っても自分の行動を辿って書いたものにもかかわらず、
こういう1.9ミリシーベルトを出してきた福島県立医大に対して、
どういう気持ちで、どういう考えでこういう数字を出したのか?
専門家の方が出したんでしょうけれども、
4ヶ月の間に娘も1.8ミリシーベルト。
私も1.9ミリシーベルト被曝させられたと。
むやみに、被曝しなくてもいいものを被曝させられてしまった、ということに対して、
まだまだ、ふくしまは終わっていませんし、これからも私は訴えていきたいと。
今回子ども脱被ばく裁判の原告として、私も一緒に戦っていこうと思っております。
6月23日に裁判が行われるんですけれども、
これは、福島だけの問題ではなくて、これからも再稼動させようとしている国や東電、電力会社ですけれど、
そういう人達にもっと強く訴えていかないと、
福島だけではなくて他の、本当にまだまだこれから成長時期のお子さんに影響が起きるんじゃないかと、の気持ちでいます。
4年。
いろいろ、この間NHKでも廃炉の番組をやっていましたけれども、
原発はかなり廃炉に年数がかかる。私が生きている間には福島の原発は廃炉になるのか?
私はそこのことは見ることはできないと思います。
これからますます、甲状腺癌ではなくて、
私のような、目に見えない小さな病気に苦しむ人たちが一人でも増えないために、
私は声を上げて、こういう機会があるごとにお話しさせていただきたいと思います。
〜14:55
質問15:15〜
https://youtu.be/bvNW1f_doio?t=15m15s
質問:裁判では何を訴えたいか?
応答:
私たちは被爆したということを自覚し、被曝手帳をいただきたい。
子供達に真実を、とにかく話していただいて、子供達を少しでも低線量、というか、あの、
線量の低いところに避難させていただきたいということを強く訴えたいと思います。
質問:娘さんがいらしたクラスで避難された方はどのくらい?
応答:
私は一度、中学校になる前に避難させて、中学に上がるということで戻すんですけれども、
いろんな周りの状況を聞く中で、自分の娘が鼻血を出したり、下痢をしたり、早退してくる中で、
…私の娘が一番早かったと思います。
なので、娘が通っていた郡山の中学校では娘が早かったので、
その後私もすぐに避難してしまったので、そこの状況はわかりませんけれども。
ただ、娘に聞くと、その当時鼻血を出していたのは自分だけではなかったという話は聞いております。
通っていた中学の道路を挟んで反対側の郡山の薫小学校というところでは、当時早めに120人が自主避難したということを私は聞いております。
質問:
双葉未来学園ができて、福島の子供達も未来を目指して頑張るんだとか、県も観光キャンペーンをしていますが、
身近に入る方はどういった話をされているでしょうか?
例えば「いろんな話を聞くと、あんまり被曝の心配はしなくてもいいみたいだよ」とかありますか?
応答:
それは多分あります。
福島にとどまっている方たちの中には「(自主避難なんて)何を言っているの?」という人たちの方が多いかもしれないです。
当初、自主避難した時もそうであったように、今はもう、
「そろそろ4年経ったし、何も変わっていないんだから、そろそろ帰ってきたらどぉ?」
と言う友達もたくさんいます。
ですから、私が声を上げて言えば言うほどギャップというか、
私が異常なのではないか、というような感じにはなると思います。
で、今回原告になった人たちは、その中でやっぱり危ないんだと。
いろいろと勉強していくうちに、やはり被曝は決して子供には良くないと。
大人にも良くないんですけれども、決していい状況ではない。
郡山もやはり6万ベクレル、ですか、
「汚染されている」ということは知っていらっしゃる方もたくさんいますし、
ただ県もできれば福島に戻って欲しいんですよね。
目に見えるものでもないし、匂いもしませんし、
測ればわかると思うんですけれど、測らなければ何も変わらないんですよね。
そこで生活している人もたくさんいますし。
だからこの溝というか、
私たちみたいに声を上げている人間と、そこで生活していかなければならない人間との間に、
かなりの…、なんていうんですか、差はたくさん、まだまだ。
4年経って、これだけ情報がこんなに蔓延しているにもかかわらず、
やはり「信じたくない」という人たちの方が多いと思います。
質問:
福島の方で何回も電話をくださる方がいるんですが、
彼女は「危ない」というのはわかっているんですね、放射能で。
原告にはなっていないんですが。
疎開裁判のチラシも100枚200枚近所に隠れて配っているらしいんですが、
皆さんにいうと「何言ってるの」っていう感じで言われてしまって、
避難していた人たちが、ものすごく最初注意していた人たちが、
やっぱり気持ちの挫折と、子供が精神的に参ってきたので、
最近みんなが帰ってきているんですね。
それが本当にすごい思いで避難していたのに、
帰ってきて、今まですごく思っていたのとは逆に、
学校に帰ってきたら、部活も外でするようなことになってしまったり、
前に言っていたことと全然違っちゃって、流されて「どうしちゃったんだろう」ってその人は言うんですけど、
そんな風に帰ってくる人も、みんな諦めて、
行く前はすごく注意していたのに、帰ってきたら「もう仕方がない」っていう感じで、
部活もさせるし、給食も食べさせるし、
知り合いは送り迎えは車で、給食じゃなく弁当も持たせていて、プールもやらせないんですけど、
帰ってきた人たちは、すごい思いで避難して行ったのに挫折感が大きいらしくて、
周りにもあんまりこの方は言えないし、
「私だけが頑張ってもしょうがない」って言っているんですけど、
「あなたは間違っていないから大丈夫よ」といつも励ましてはいるんですけど。
周りはみんなそうだということで、どうしたらいいかわからないということで、
どうしたらいいんでしょう?
応答:
難しい問題なんですよね。
これが目に見えるものだったら、多分もうみんな居なくなると思うんですけど、
私も「なんでこんなことをしていなくちゃいけないんだろうか」とすごく、
当時1年ぐらいの間は本当に無我夢中で、
どのくらいの被曝っていうか汚染されてしまったのか、というのを知るために、
とにかくいろんな方の、勉強をしました。
私も病院に従事しているので、放射線被曝ということに関して、少し知識はありましたから、
放射線は、いろんな方法で、骨折をしたり肺炎になったりしたときのために放射線をしますけれども、
そこは管理区域になっていて、私たちが入るときは、必ずプロテクターを着るんです。
それはどういうことかというと、被曝を最小限にとどめるためですよね。
で、お腹に子供がいる人とかには決して放射線を浴びさせることはないと思うんです。
ただ、命に関わる脳出血とか、今にも、という時には、止むを得ずCTを撮ったり放射線を浴びるということはありますけれども、
うちの医院んは、やはり「被曝ということは消すことはできないんだ」と。
「積算量になるので、子供にはなるべく受けさせたくない」とおっしゃいます。
なので、「福島県はもう汚染された」ということを、みんなが自覚をすることなんですよね。
それをやはり勉強会とか学習会をして、みんなで共有し合って。
だからと言っていろんな生活がありますから、
わかっていても避難が出来ない環境にいる方もいますし、
私も実際、たまたま運良く民間借上を借りることができてましたけれども、
民間借上が借りられなかったら、二重生活で、多分途中半ばで、家はありますし、
だから、帰っていたかもしれないですよね。
なのでこの悩んでいる人たちのためにもっと学習会を行って、
より一層、悩んでいる人たちに少しでも。
「知りたくない」という人たちの方が多いんですよね。
「知ってもどうすることもできない」というか。
東京とは違って、私もそうでしたけど、
後々は野菜を育てて生活をしていこうという、
福島はそういう土地柄があるので、
その土地を離れて生活をするっていうのは、かなりの決断力がないと出来ないと思います。
ですからせめて子供達をということを間に、私たち市民が学習会をしていくということで少しずつ、
溝というか、そこで悩んでいるお母さんたちに、
そうやって勉強していくしかないんじゃないかなと私は思うんですけど。
質問:
県民健康管理調査委員会でも、被災者にどういう風に説明をしているのか?
例えば、検討委員会で内容を発表する前に学会で発表してしまっていることについて、どういう説明をしているのか?と記者が聞いたら、交代した担当者が「一般的な治療を受ける程度の説明をしています」等の答えだったが、
実際はどういう説明をされているか?
主体でやっているのは県で目的は何か?
県はどういう説明をしているのか?
応答:
県は全然、説明という説明はしていないと思います。
行動調査に関しては、していない方の方が多いかと思います。
さっき私が行った行動を書いてくださいというのは多分福島県民全員に出していると思いますが、
私と娘は出しましたが、主人と上の子は出していないし、私の知り合いも「その当時の行動はそんなに細かく書けない。だからこんなのは書かない」という方の方が多かったと思います。
その当時私は娘と避難することを考えていたので、必ずこれは何かの証明になると思って、
私は、もう何ヶ月もたった自分の行動を事細かに書いたんですけれども、
ただ、本当に県からはこういう用紙一枚ぽろっと封筒に入ってきただけです。

なのでなぜこのような管理をするかという説明は、みんなわかっていないと思います。
質問:すくなくとも、「調査研究目的のためにやっている」とは思っていないですよね?
応答:
そうです。と思います。
私の認識は山下俊一という、当時アドバイザーとして長崎からいらした方が、
「全然危なくないんです」
外に出ても構わないし、布団も。
あの当時、5月の頃はお母さんもとても心配して、
「汚染されているから外で子供を遊ばせちゃいけないんじゃないか」とか、
疑問に思う方もたくさんいて、みんな聞きに行ったんですね。
チェルノブイリの研究をした偉い方が健康アドバイザーということで、
その方の意見を聞きたいと思って、お母さんたちは、かなり真剣にあの方のお話を聞いたと思うんです。
でもあの方は、今はどういう話しをしているかは分からないですけれども、
「全然問題ないんです」と。
だから、あの当時彼の方がはっきりしたことを言ってくれていたら被曝していなかったと思うんですけれども、
被曝させられたということがあって、あの人の研究材料になったんじゃないかと、
私は個人的には思っています。
なので、あの方が「子どもだけでもやはり危ないから」と注意していただけたなら、
あの当時盛んに、
私の家の隣には高校があるんですけど、
そこでテニスをしたり野球をしたり、していました。
その後になってからなんですよね、校庭の土を剥いだりしたのは。
あれはなんだったんだろう?と私は思うんです。
あの当時あんなに学生が、甲子園のためにとか、盛んに練習していたんです、校庭で。
それなのに、それから何ヶ月も経ってから校庭の土を剥ぐっていうことは、
いったい、な、なんなんだろう?って、みんな不思議に思うんです。
汚染されていなければ除染する必要もないし、校庭を剥ぐこともないと思うんですよね。
だから言っていることとやっていることの差があるので、
多分父兄はすごく半信半疑で、
私たちはモルモットではないですけれども、どういう状態になるのか?というのを研究材料にされるんじゃないかと思う父兄は私だけではないと思います。
質問:
先週新宿で福島エートスを応援する東京の人が集会をやったんですね。
100人ぐらい集まっていました。
そこで、伊達市に住んでいる主婦の方が、お母さんが呼ばれてお話ししていて、
その方は最初青森に逃げたんだそうですが、戻ってきて。
大家族を失いたくないというので「逃げなくていいための勉強に必死になった」と言うんですね。
で、その時「ちゃんと勉強するとね、子どもでも怖くないということがわかるんですよ」とおっしゃるんです。
それで、伊達市にも山形の方から最近戻ってくるお母さんたちがいるんですって。
戻ってきても本心では放射能が心配で、「私と話しが合わないの」。
「そういう時どうするんですか?」って会場から質問があった時、
「特に話しをしません、世間話だけします」と。
「やはり環境にだんだんと慣れていくうちにご自分で悟るはずです」っておっしゃるんです。
つまり今まで放射能を心配しすぎていたことを反省するだろう、という意味のことをおっしゃるわけです。
私はそれを聞いて、あんまり「ひどいな」とは思わなかったんです、申し訳ないんだけどね。
やっぱり人それぞれ自分が今やっていることを自分で納得するために勉強するっていうことになると、
問題なのは汚染が問題でね。
学ふには問題はないんだけど、教える側の情報になってしまうことはしょうがないとある程度思います。
それで、この裁判が、逃げてきた方と福島にまだ住んでおられる方と、両方が原告になっているということが、
これはものすごく素晴らしいことだなと思っているんです。
話しが合わないところもあるんでしょうが、何を見据えていくのかというところで裁判をするということでものすごく期待をしていますし、応援をしたいと思います。
質問:
放射能を測った時、危険といった時に、周りの反発とかは?
応答:
私の住んでいた郡山市だと60kmだと思います。
なぜか中通りが、郡山市と福島市と、
当時どのくらい高いのか?ということで、機械を借りて測ったんです。
自分の家の玄関のところが2.7マイクロシーベルトあって、
玄関から入って、茶の間が0.42ぐらいですね。
二階が、寝ている寝室が高くて、2マイクロシーベルトあったんですね。
これがどういうことか、その当時測った時は分からなかったんですけど、かなり高い線量だったと。
そのうち、薫小学校というところが、一番最初に土を剥いだんです。
その時に私は、テレビではなくネットで見たんですけど、その時に薫小学校は8マイクロシーベルトあったということで、除染を、土を剥いだということを、Youtubeで私は聞きました。
この8マイクロシーベルトというのがどういう値なのか、私は見当がつかなくて、
いろんな、小出先生の話を聞きに行ったりして、あと、矢ケ崎先生の話を聞きに行ったりしているうちに、
「かなりの線量だった」と。
それを県は分かっていたと思うんですけれども、なぜか公表しなかったんです。
普通の、民間が見るテレビやラジオでは一切流すことはなかったです。
測るのは、私がいるところは、
「薫小学校があったところは120名避難した」ということを聞いていただくとわかると思うんですけど、
比較的地元の人ではない人たちが多かったんですね。
なので「何を測っているのか」とか、そういうことを言われたことはなかったです。
もしくは、町内会の会長さん自ら測って、
「ご心配でしょう」ということで、子供のために測っていただいたというのが現実です。
なぜあそこがホットスポットになってしまったのかは、ちょっと私はわかりませんけれども、
坂が多いところなので谷間になってしまったのか?
私がいるところというのは学校が多いんですね。
小学校、中学校、高校と周りにたくさんあって、校庭も近いところなんです。
ですから体育館のところに被災された方たちがかなり逃げていらっしゃっていて、
体育館がいっぱいなくらいに避難されていたところなんですね。
なのでどうしても、うーん、これはどうなんでしょうね。
どうしてそこがホットスポットになってしまったのかというと…
私たちのところにはそんなに大きな山はなくて、
そこから南の方に行くと山というか、大きい高台のところはありますけれど、
郡山市は比較的そこからすると地形が低いのかもしれないです。
福島市の方がもっとぐっと谷間になっていますけど、
郡山市も比較的土地としては低いのかもしれないです。

一番赤いところが飯舘でそこから避難してきた人たちがいた。
雪が降ったり雨が降ったりしましたから。
それでかなり落ちたということはないでしょうか?
質問:
地図の一番上のちょっと緑色のところからきているんですが、宮城県の北部です。
指定廃棄物の最終処分場があって、そこの南の、同じように緑がかかっている上町の田代岳、山間で地崩れがしたところなんですけれども、宮城県民の命の源みたいなところで、汚染はされているんだけれども山の上の方は汚染されていないんですよ。
私が測ってみてわかるんですけど。
そういうふうに未汚染地にやって、そこでまたそういうところで広がってくるという、
被曝の強要という面では全く同じだと僕たちは考えているんですけど、
なかなか地元でも、ここの問題と結びつけているというのはなかなか。
努力はしているんですが、
同じような問題だということで被害、健康の問題と指定廃棄物の問題を結びつけようとやっていますけれども、
一つ聞きたいのは
学校の先生たちの反論だとか、医療関係者とか、自治体の保険関係とか、
もっと身近に守るべき人がどういう動きをしているのか?不思議でならないので教えていただきたい。
応答:
私がいろいろなことを調べたわけではないんですが、
私が本当に知っている限りでは、
中学校も小学校も、私が「放射線による被曝のことが心配で転校させていただきたい」と学校に申し入れた時に、
かなりポカンとした反応だったことを覚えています。
やはり福島県が何か強い力を持っているのか、
当初の、同僚の子供が鼻血を出して「どうしてもおかしい」と言って病院に行っても、
「大丈夫だ」「思い過ごしだ」という感じで、
「本気になって指導してくれるというか、説明してくれる先生はいない」ということは聞きました。
私も娘が鼻血を出しましたけど、私は医者には連れて行っていないんですね。
なので、どうしてですか?って言われるとお答えするのが難しいんですけれど、
多分「連れて行ってもきちんとした検査をしていただけないだろうな」という気持ちがあって、連れて行かなかったと思います。
それはやはり、先ほど何度も話していると思うんですけれども
山下俊一という方がかなりの、あの当時本当に、3月4月は。
3月は水とか食料を確保するのにかなり大変だったんです。
やっと落ち着く頃の翌月の4月11日にまた地震があって、
わたしも福島市に通っていたものですから、避難民にもなって生活するような時だったので、
やはりあの山下俊一さんの強い言葉に委ねたいという気持ちで、
みんな「大丈夫なんだ」と。
「福島第一原発から60kmも離れているんだから心配することはないんだ」と。
「長崎から来た偉い人が言っているんだから何も騒ぐことはない」というふうな気持ちでいたのと、
なぜ、何の理由で大丈夫だというのか?わからない半信半疑があって、
やはり、福島はそういう風土になってしまって、
医師に自分の命を預けるという気持ちにまでは至らなかったと思います。
質問:他の人は預けてしまった、ということ
応答:
そうだ…、と思います。
やはり、なんていうんでしょう、やはり土地柄があると思うんです、田舎ですし。
先生という名のつく方がおっしゃることは信じたいと思う気持ちがあると思いますので、
私みたいに信じていない人間もいるかもしれませんけれども、
ま、信じた方たちが多かったんじゃないですか。
柳原敏夫弁護士 55:27〜
https://youtu.be/bvNW1f_doio?t=55m27s
20141122 UPLAN
http://youtu.be/wcqiUcTtuUk?t=28m50s
「被ばく者として─今も福島で」古川好子さん(避難を考える会/ 会津若松市在住)
ご紹介いただきました、古川と言います。
私は東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、強制避難地域と言われる場所ができたんですが、
そこの住民です。
ですからいわゆる強制避難者というやつです。
今は会津若松で暮らしています。
「被ばく者として」という大仰な題にしたんですけど、
こんなにふくよかな感じで、被ばく者というと、
「おいおい、大げさじゃないか」って思われる方がもしかするといらっしゃるかと思います。
それと私が「被ばく者」なんて言うと、うちの子供達がどう思うのかというのも、
聞いたことはありません、実は。
ただ、聞いたらきっと「俺たちもだろ」って言うのだろうなと想像はします。
私は事故のすぐ直後から自分を「被ばく者」というふうに自覚していたのか?と言ったら全くそうではないです。
少なからず「逃げ切った」というふうに自分で自信があったんですね。
事故の直後にすぐ県外に出て、1週間ほどで福井の方におりましたので、
ま、大きなところというか
一番危険なところからは逃げ切ったんじゃないかなというふうに、自分では思っていました。
そのあと事情もあって、4月中旬から会津若松に戻るんですが、
放射線のことは非常に心配していましたので、
被ばくをしないようにいろいろなことを考えて、いろんなことを調べて、
とにかく神経質に暮らしたりもしましたから、
自分が被ばく者だということをその時点から自覚したわけではないです。
ただ、徐々に徐々に徐々になんですけど、
「あの日どのくらいの放射線量だったのか」ということとか、
さっきの資料にもありましたけど、
「どこまで放射線の被害があったのか」ということが徐々に発表されてるんです。
それを見るたびに、「あ、わたしここにいた」「あ、あの時じゃない?これ」って思って、
「なんでよ、がっつり浴びてるじゃない」というふうに思うわけです。
そこから、
がっつり浴びているんだとしたら、被ばくして傷ついた私の遺伝子はどう考えてもそう簡単には回復しない。
ましてや、元に戻るっていうことはないだろうなっていうふうに思うようになりました。
で、傷ついたと言っても、日々痛む傷ではないので、それほど苦しむということはないんですが、
やっぱりショックでしたし、どうしようかなというのはありました。
ただ、出来るだけ悲観ではなくて、そこから先は自覚、
「自分は被ばく者」という自覚を持って行こうと考えるようになりました。
で、その自覚の一つなんですが、
臓器提供の意思の署名をするところがありますよね、保険証とか免許書とか。
そこに署名するのをまずは止めました。
子供達にはなんていうか?というと、
私が臓器提供ができるような状態で死んだ時には、
私があの事故の被害者で少なからず被ばくをしている人間である。
ということをきちんと説明して、ちゃんと理解してもらって、
「それでも」という方がいるんだったら、どこでもいいから全部差し上げなさい。
っていうふうに言ってあります。
被ばくしている私の臓器でもと思われるほど切迫した状態の方というのも確かにいるんだろうなと思うので、
それすらもお断りしなさいとは思えないところがあるんですね。
同じような理由で献血も一切止めました。
事故の前までは年に2回ぐらい400mlの献血をするように心がけていたんですが、
事故以降は一度も献血をしていません。
やっぱり、被ばく者の血なので、それを健康な人じゃないです。
怪我をしていたり病気をしたりして弱っている方の体の中に輸血するっていうのは、
どう考えても私には許せない。
そういうふうに思うので、献血を一切止めました。
有楽町の交通会館の前で「献血お願いします」と言ってらしゃる方をよく見かけるんですけれども、
やっぱり見ると心が痛みます。
臓器提供にしても輸血にしても、被ばく者のものであるかどうか?ということを確認しない。
相手の方が理解しないということをしないということは問題じゃないかなというふうに、
わたしなら納得できないというふうに思うんですが、
どうしてこうなっているのか?というと、
実は今時はどの血液もどの臓器もそれなりに被ばくしていると誰かが思っているんじゃないかと思うぐらい、
私は被ばく者として見られることもないですし、扱われることもないです。
で「被ばく者だ」というふうに自覚してからは、
会津若松での生活は、それ以前にもまして神経質にもなりました。
食べ物にカルシウムの錠剤を毎晩欠かさず飲んでいましたし、
季節外れのリンゴを一生懸命食べていました。
食品にすごく気を使って、体の中に入れるものにすごく気を使って、
産地を吟味して、
今でもあんまりそれは変わらないんですが、
北海道と、あとは北陸以西のものっていうふうに、常に気になります。
あと、水道水は一切口にしませんし、料理にも使いませんし、お米を研ぐのにも使いません。
そういうふうに生活をしています。
まだそういうふうに生活をしている部分もあります。
また、外に出るときは、夏でも長袖を着てマスクをして帽子をかぶって、
ちょっと異常な感じで歩いていたんですが、
その点だけはだいぶこういうふうに緩和された、というか、緩んできていて、
今はこの格好で会津若松市内も歩いています。
そういうふうにしている私から見ると、
会津若松の人々はとても普通に暮らしてらしたんです、あの頃から。
で「どうしたものかな」というふうにすごく気になるところがあって、
かといって「ここも危ないんじゃないでしょうか」とか
「気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか」って声を上げるようなことはやっぱりできなくて、
自分の中では「私は被ばく者なので追加の被ばくをなるべく避けたほうがいい」
「会津の方は被ばく者じゃないので、とりあえず普通の生活でもいいんだ」っていうことに、
頭の中で線を引きました。
そうすると日々の生活がすご〜く楽になったので、
で、なんていうんでしょう、篭るようにして暮らしたのでどんどん孤立して、
被ばく者という自覚だけが強くなるという、そういう生活をしばらくしました。
ところが、篭る、孤立するという生活は意外に長く続けられなかったんですね。
同じアパートの方が、私が避難者であるということで心配して声をかけてくれたりとか、
あと、会津若松市内のスーパーマーケットで、10年ぶりに友人に会ったりして、
そうすると元々の性格がこんなもんですから、ついつい話をしてしまいます、長らく。
そうすると、無口で大人しい女性というイメージが一気に崩れてしまって、
こういう形だっていうのが露呈すると、声をかけてくれる人が少しずつ増えるようになって、
で、会話の時間が増えて、会話の回数が増えて、
少しずついろんなことを話すようになってくると、
実は会津若松の方も決して安心して暮らしていたんではないんだということに気づかされるんです。
心配はしているけれども、どうしたらいいかわからなくってこんな感じで暮らしているとか、
「ここは大丈夫」って言われているしな、と思って暮らしているとか、
そういう話を聞くようになりました。
それ以上にもっと私が驚いたのは、
きちんと放射線の危険を感じて、
被ばくをできるだけしないように気をつけて暮らしている方がたくさんいらっしゃったんです。
そういう方は大概お子さんを持つお母さん方なんですけど、
そういう方とも知り合うことができて、お話をするようになって、
すると私の方が今度は勉強させてもらうぐらいに、皆さんいろんなことをご存知でした。
だから外から見るだけでは決してわからない。
本当はどういう心配をしているのか?
どういうふうに考えてらっしゃるのか?
そこは外から見ただけじゃわからないんだなと、大きく感じたことです。
で、そういう生活は実は今でも続いています。
会津若松で暮らしている私、会津若松で暮らしている皆さん。
今日も被ばくしているだろうな、昨日も被ばくしただろうな、
というふうにやっぱり思って暮らしているんですね。
「そんなに心配しているのに、じゃあなんであなたは福島にいつまでもいるんですか?」
って、きっと思われる方もあると思うんです。
わざわざ被ばくしそうなところにいなくても、他に引っ越せばいいのではないかとか、
それこそ避難をすればいいのではないかとか、
私もそう思わないことはないんですが、
どうしていつまでも会津若松にいる、っていうか、福島にいるかというと、
「現実を忘れないように」「危険性を忘れないように」
家族が県外におりますので、そこに入ってしばらく県外で暮らすと、
私でもさえが、「あ、福島のあの事故って、もしかしたらもう大丈夫なの?」とか、
「あ、アンダーコントロールだったわけね」っていうふうに思えるぐらい報道は少ないです。
で、福島に帰ると、一気に汚染水の話が出て、トレンチの話が出て、
防護カバーを外すとか外さないとか、燃料棒を移動するとか移動しないとか、
そういうニュースがバーッと入ってくるんです。
それを見るとさすがに「ウワー、やだな」っていう思いもしますけど、
現実それが起こっているっていうことは、どこにいても危険性は同じなんじゃないかなと思うんです。
で、会津若松市っていうのは福島第一原子力発電所から100kmです。
それをぐるっと円にすると、
栃木県の那須塩原のあたり、茨城県だと日立、宮城県だと仙台市のあたりがちょうど同じくらい。
距離でいうとそんな感じです。
で、線量計を時々持って歩くんですけど、
会津にいてもこちらにいてもそんなに大きく変わるっていう感じがしなかったんです。
特別なところに行かない限りなんですが。
だとしたら、この危険性をきちんと思って、きちんと自覚をして生きていくために、
とにかく福島に帰る場所を一つ置こうと思って、私は会津若松に今もアパートがあります。
で、皆さんにお願いしたいのは、
私は皆さんの前例になると思います。
「決してない」と言われた原子力発電所の事故が起こったので、
これは「決してないことではない」と思うんですね。
私が被ばく者というときに長崎広島の方は私の前例にはならないというふうに言われたことがあります。
それは被ばくの原因が違うからです。
で、私が原発事故の被害者だというときにチェルノブイリは前例にならないと言われました。
それは国が違うからです。
でも私は日本で、原子力発電所の事故によって被ばくをしました。
次にどこかで起きた時、皆さんの前例は私たちです。
私たちはどういうふうにされたのか?
どういうふうにしてどういうふうになったのか?
そこをできれば、見ていてください。
そうすると、次の自分の時に何に気をつければいいのか?
どう動けばいいのか?
少しだけわかっていただけると嬉しいです。
どうもありがとうございました。
42:45
2014年8月29日 UPLAN
お母さんたちの声
http://youtu.be/pnMTCBh8XAc?t=1h5m3s
母1:
福島原発事故から3年半が過ぎようとしています。
事故当時、福島県民に疎開の指示はありませんでした。
私たちは混乱の中で給水所に並び、食材を求め●に必死でした。
東京電力のみならず、福島県までも情報の隠蔽や意図的とも思える情報の公開●が繰り返され、
SPEEDIによる拡散予測を公開ぜず、
「直ちに影響がない」と私たちに被曝を強要しました。
事故後すぐ、私の息子と娘に赤い発疹が出ました。
それから1〜2ヶ月後に、息子が大量の鼻血で倒れ、白血球の減少、喘息の悪化。
その当時5年生の息子は、「放射能が怖い」と外のものに触れることを嫌がり怯えていました。
借り上げ住宅を借り福島を離れようと思いましたが、
度重なる嫌がらせに子供たちは怯えて、週末避難という形をとらざるを得ませんでした。
目に見えぬものから必死に逃げようと苦しみ悩み、苦しみ抜いた3年半です。
今中学になった息子は、体のだるさを訴え、横になることがとても多いです。
娘も頭痛を訴えることが多くなったと思います。
二人とも貧血で、食事に気を使ってはいるのですが、改善はなかなかされません。
私の家は除染もまだの状態です。
娘は「将来子供が産めるのか?」「白血病になるのではないか?」と、
「福島を出よう」と言っています。
私たちに選択の権利は与えられないのでしょうか?
結局、福島の子供達は無用に被曝させられ、今後も無用の被曝を強いることが確実であると思います。
福島原発事故における国や福島県の最も重要な判断ミスは
事故直後、中通りやいわきに居住する人々を避難・疎開させなかったことにあると思います。
住民の命を守ることが最大の責務である行政として、その責を負わなければならないと私は思っています。
娘はサルビアという花の蜜がとても大好きでした。
<お嬢さんの手紙>
サルビアの蜜がとても大好きなのに今では一つも飲めない。
私の中の嚢胞が癌になるの?
ブランコにはもう乗れない。
前は裸足で草原を走れたのにもうできない。
除染しても無駄だ。
山下俊一が「笑っていれば放射能は消える」なんて嘘だ。
元の福島に戻せ。
おいしい桃や梨が食べられない。
おばあちゃんの家の野菜が食べられない。
と、娘は書いています。
http://youtu.be/pnMTCBh8XAc?t=1h9m29s
母2:
あの福島原発事故から3年半が過ぎようとしています。
もう3年半、まだ3年半、とても複雑な思いです。
原発事故後私の息子二人は、鼻血、赤い発疹、体調の悪化、いろいろなことがいっぺんに起き、
私もどうしたらいいかわからないような状態がしばらく続いていました。
あまりにも体調の悪化がひどいので学校を休学させ、
私はシングルマザーなので一人福島に残り、
実の母に子供達を保養という形でお願いするような日々を3年過ごしていました。
私は子供と離れる辛さが、本当に耐えられなかったんですけど、
子供達が「元気だよ」って電話をよこしてくれると、
やはり遠く離れて暮らすことは辛かったですけど、
子供が元気になるならば、私も福島で頑張って働こうという気持ちで必死に頑張ってきました。
私は、枝野官房長官が「直ちに影響はありません」と連呼されたあの言葉が今も忘れられません。
「直ちに」はなくとも「徐々に」ということは、
あの言葉を耳にしたときからずっと思っていました。
現在福島で小児甲状腺癌やその疑いがあると診断された子供達は104名にものぼり
減少することはないと思います。
これからさらに増加していく恐ろしい現状を黙って見ているわけにはいきません。
子供を守るのは親の責任と思います。
子供達には何の責任もありません。
私は持病があり原発事故後体調の様々な異変が現在もあります。
子供だけではなく、大人にも放射能は危険だということを私は伝えたいと思います。
大病した時、命より大切なものはないと、本当に心から思いました。
その体験をした私はこの裁判の原告の一人になろうと思いました。
「健康に影響はない」
「除染をすればより安全に住める」
「だから避難・疎開の必要はない」と言いましたが、
私の家は2年前に除染していただきましたが、なぜか空間線量が今高いです。
これは事実です。
福島の子供達は、目に見えない放射能と戦い、無用な被曝をさせられ、
今後も無用な被曝を強いられることが許せません。
学校給食の改善と健康診断の充実をしっかりとして欲しいです。
福島県は「放射能に負けない体を作ろう」というとんでもないスローガンを抱えていましたが、
本当にとんでもないと思います。
本当の意味での安心と安全を私たちに与えてください。
「命と健康より大切なものはない」と私は思っています。
ありがとうございます。
http://youtu.be/pnMTCBh8XAc?t=1h13m46s
母2の息子さん:
放射線とは本当に恐ろしいものです。
人間の力を奪います。
血が黒くなったり、はっぱが黒くなったりします。
学校では福島産の桃を食べます。
福島産の桃を食べるのは嫌です。
http://youtu.be/pnMTCBh8XAc?t=1h14m21s
母3:
私が伝えたいことはただ一つ、「子供に普通の生活をさせて欲しい」ということだけです。
食べ物を何も気にせずに食べられること。
雨に濡れても気にせずに外を歩くこと。
草、花、虫に触れること。
室内ではなく、外で自由にのびのびと遊ぶこと。
そんな当たり前の普通の暮らしです。
しかし、国と県は
「健康への影響はない」
「放射能と上手に付き合おう」
「放射能に負けない体を作ろう」
などというまやかしの言葉でごまかし、
実害があるにもかかわらず、風評被害だと言って汚染された食品を子供達に食べさせ、
モニタリングポストを設置し、空間線量は下がっていると安心感を植え付け、
土壌汚染は見てみないふりをしています。
通学路は手付かずのまま、除染をしている住宅のすぐ近くを子供達が登下校をしています。
その挙句、除染基準の0.23マイクロシーベルト/hの数値を引き上げようとしています。
身体に影響がないからいいのではありません。
事故前の数値で生活をすることが私たち親の望みです。
福島第一原発は未だに安定した状態ではないのに「安心、安全だ」と言い
今の国と県が子供を守ろうという姿を見せているとはとても思えません。
今でも無用の被曝をさせているということを認め、早急な対応を要求したいと思います。
以上です。
http://youtu.be/pnMTCBh8XAc?t=1h42m55s
質問:
とりわけ被曝の問題は口にしたりとか主張するのが困難な中で原告になろうという決め手というか、決心したタイミングというか、ご家族で相談したりとかいろいろあったと思うんですけれども、
一番、やっぱりこれはと思った状況とかきっかけがあったら教えていただけますか?
母1:
私は子供の体調があまりにも悪化したので、そこからですかね。
何か行動しなければいけない。やっぱり母親が守らなければいけないし、
そういう未来を残さないとけないっていうのが、すごく思いました。
「子供に恥ずかしくない生き方を見せたい」と思ったのがきっかけです。
母2:
私も子供の体調の悪化、あと除染をしても私の家の空間線量が高いことと、
私の体調の様々な異変と、いろいろと本当に悩んでいた中、
迷わずここの原告になろうと気ままして、
やはり子供を守るのは母親しかいないと。
「わたしが守らずして誰が守るんだ」という気持ちで原告の一人となりました。
母3:
私は事故当初のころから国と県の対応に疑問を思いながらも、
どのように個人として対応していいかわからず、
そのまま過ごしてきましたし、
今よく言われている「声を上げない福島人」と言われていますけれども、
個人の力ではどうすることもできないと諦めていましたところ、
今回こういったお話をいただきまして、参加することになりました。
質問:
母2の方が除染しても放射線量が高かったということですが、
どのくらい高かったということなんですか?大体でお願いします。
母2:5cmのところで9
質問:9マイクロですか?
母2:はい。
会場:エッツ!?
母2:
そうです。
学校のすぐそばです。
私も唖然としました。
見間違いかと思ったんですけど、ありました。
ちなみに私の自宅の空間線量が、一番高いので100cmで0.6マイクロシーベルト/hあります。
報道するラジオ 2014年8月8日
「元日本兵の証言〜戦争の現実とは〜」
4:42〜http://youtu.be/eqH2X4wtyX8?t=4m42s
報道するラジオ、今日の特集テーマは元兵士が語る戦場です。
リポートは千葉アナウンサーです、こんばんは。
千葉:
私が今回お話を聞いてきましたのは、
不戦兵士・市民の会という市民グループで戦争体験を語り続けている元日本軍の兵士の方なんです。
この方にお話を伺ってきたんですが、
このグループはですね、戦争を経験した元兵士の方々が、
二度と戦争をしてはいけないという思いを持って、
生き地獄である戦争を見てきた証人として、戦場や戦争を語り継ぐために作った会なんですね。
私が話を聞きましたのは、谷口末廣(たにぐちすえひろ)さんという方なんです。
現在93歳でいらっしゃいます。
1920年、大正9年ですね、鳥取県のお生まれなんですけれども、
1942年22歳のときに招集をされまして日本の兵隊となりました。
そこで幹部候補生としての訓練を受けて、軍曹という下士官の階級になりまして、
1944年にフィリピンのミンダナオ島に派遣をされました。
そしてミンダナオ島では日本軍の飛行場に勤務をしていました。
この1944年という年は、サイパン島で日本が玉砕。
つまり全滅した年ですね。
連合国によるB29という爆撃機による日本本土の空襲も始まった年なんですね。
大きな町では、疎開ですね、「郊外に避難しなさい」という命令が出て、
日本国内では竹槍の…本土攻撃に備えた竹槍ですね、の訓練が始まったり…していた時です。
水野:敗戦の前の年
千葉:はいそうです。
水野:まさに泥沼化していた時期ですね。
千葉:
敗色のこうというのが、見えてきた時期でありましたけれども、
谷口さんのいたフィリピンではですね、まさにアメリカ軍が上陸してくる直前でした。
谷口:
8月の10日頃にね、みんな、
飛行場と言っても、もう、一種のローラーがあるでしょ、あれで土地をならしてもね、
あれは、コンクリートの立派な飛行場じゃないんだから、
それの整備やそういう事をやって、
見方の飛行機がくるのを待っているんだけど、待てど暮らせど来ないわ。
そしたら9月9日にね、4、50機がね、5、60機だったかもしれない。
カラスの群れのように遠くから飛んでくるんだよね。
それで、アメリカの航空機にね、「安泰だ、安泰だ」って喜んで手を振ってね、
いやあ「ばんざーい」ってやりよって言いながらいたんです。
そしたら、ブアーーッて雨霰のように砲弾と機銃兵がさ、
それで、たこ壷しか無いんですよ。
それで大隊長が「谷口軍曹、たこ壷へ入れ」って、
入った途端にバカーーンってきた。
そしたらもう、僕はもう、頭だけはなんとか出た、
だけど僕の目の前に、ダーーッンと上体が飛んできた。
見たら、首が無いわ、ああ。
もうちょっとだったら、僕がやられている訳だな。
僕はもう、●みたいに首だけは出とったんだけども、
その時に11名ぐらい亡くなったんだな。
いやぁー、これが戦争だって言うんだな。
「これが戦争だ」とね…
水野:
はぁ〜、「これが戦争だと感じた」っておっしゃっていますけど、
「たこ壷に入っている」っていう言葉がありましたね。
千葉:
「たこ壷」というのはですね、土をシャベルで掘りまして、
やっと一人が身を隠せるぐらいの穴を掘ったもののことを言うんですけど、
空襲から身を守るために、戦場の兵隊がほぼ必ずと言っていいくらい掘らされているものなんですが、
そこに入って谷口さんは助かったという事なんですね。
隠れた位置の3mの違いで、谷口さんは助かったという事なんですが、
この空襲で滑走路も燃料置き場もすべて燃やされてしまったという事で、
話の中にもありましたけれども、
延べで120機から130機のアメリカ軍機が空襲にやってきたんですけれども、
日本の飛行機は1機も来ないし、
水野:待てど暮らせど来ないけど、ずーーーッと待ってらしたんですよね?
千葉:そうですって。
水野:日本の飛行機が来ると思って、
千葉:そうなんです、はい。
水野:1機も来なかったんですか?!
千葉:
来なかったんです。
で、来たのは敵機で、打ち返す武器も無い。
ただ撃たれるがまま、という状態だったんですね。
水野:
じゃあ、そこまで日本が追い込まれていて、
武器が無くなっているという事を、
戦場にいた谷口さんは知らされてはいなかった。
千葉:そうなんですね。
水野:
なんとか戦えると思っていたけれどとてもそんな状況では、
もう無かったんですね。
千葉:
この後アメリカ軍の地上部隊が、本格的に攻撃してくる事になるんですが、
しかし、実は谷口さんの仕事はですね、「補給隊」と言いまして、
食べ物や武器弾薬を運ぶ事だったんですね。
実はその「補給」が全く無くなってしまったんだそうです。
谷口:
マライバライという町にチームがあったんです。
僕は補給隊で、ものを運ぶ方ですよ。
そこに受け取りにいったら、でももうそんなん無いんだよ、受け取りに行ったって。
だから途中で、パイナップル畑を見つけて、そこからパイナップルをとって車に積んでね、帰るとかね、
途中で、ヤシのね実を取って持って帰るとかね、
もう、悪い事しばっかりで、
とにかく食料を取りに行ったって、仕入れの方に無いんだからね。
車で来たから空で帰るわけにはいかないから、
そんなのはもう、民間の作っているのはね、取って帰るでしょ。
ま、そういう事をずっと繰り返しとったわけだ。
千葉:
でも、畑のものを取っちゃったらですね、そこの地元の人は困っちゃいますよね。
谷口:
あの、恨めしそうな顔をして見ているけれども、
よう…、向かっては来ませんよ。
千葉:
食べ物が無ければ生きられないけれども、
司令部は食べ物も弾薬もくれない訳ですよ。
取りに行ったって無いんですからね。
でも、「飛行場を守れ、守れ」という命令だけはくる訳ですよね。
そういう状態の中で、こんな形になった訳ですけど、
フィリピンの人たちにとっては、
日本軍は自分たちを守ってくれるどころか、
逆に殺されかねないようなそんな存在になってたんですよね。
軍隊はやっぱり武器を持った集団だから、
フィリピンの人が向かっていったってね、かなう訳が無いという状況になってますので、
誰も取り締まれないという状況なんです。
そうなると、人権も倫理もない、まさに集団強盗の世界になってしまったのかなという感じですが、
そんな状態でアメリカ軍の攻撃はさらに激しくなって行くんです。
で、司令部から「ジャングルの奥深くに入ってそこで自給自足の生活をして戦え」という命令が来たんです。
水野:食料が無いから自分でなんとかしろ!?
千葉:
そうです。
「そして戦いを続けろ」という命令になってまして、
もう、部隊としては所属する兵隊に配る食べ物というものは、ほとんど無くなっていた状態だったんですね。
谷口:
大隊長がね、
「これ以上の食料も無いし、兵器も無い」と。
「組織的な戦闘行為はもう出来ないから、大隊が解散します」と。
とにかく食べれるものは何でも食べて、
取れるものは何でも取って、
「生き延びろ」と言って大隊を解散しちゃった訳ですよ、
軍隊が、部隊攻撃が出来ないんだから、
食料もなんにも無いし、
●にやっとったら、ますます山にある、なんだ、…トカゲだとか、
あるいは、あの…カタツムリだとかね、ムカデだとかね。
ムカデなんか、喜んで捕まえてね、そいつを焼いて食べたりしたんだから。
だからもうみんな、人の事はかまっておられない状態で、
「自分がいかにして生きるか」っていう事だね。
倒れた者をね、助けて一緒に食うって言う事は出来ないものだから、
ほったらかしになるでしょ。
しまいには死んじゃっている。
異臭がものすごいですよ、あの、死人の臭いっていうのは。
はじめは、亡くなった人はよその部隊でもね、
その辺の山の草を亡くなった人のちょっと枕元に置いて、
名前を言って弔ってやってたけど、
もう、そんなこともできないんだよ。
ポケットに何か食べる物を持っていないかとか、
●さんみたいに、靴がもうぼろぼろになるから、履き替えたりね。
服や下着を、服を履き替えたりしてね、
それを食べるのがまた唯一の楽しみになって、死人が無くなると困るって言う訳だよ、みんな。
水野:は…
千葉:
遺体のポケットを探って、
その仲に食べ物があったら、それを食べるのが唯一の楽しみとい鵜用におっしゃっていましたけれども、
遺体の
水野:そうなってしまうんですね、
千葉:
はい、そうなんです。
で、遺体のポケットを探って何があったのか?というと、
カビが生えて腐った乾パンだったりしたそうです。
水野:
最後の自分のお命のためにともってらした乾パンなんでしょうけど、
そういうかたちになるんですか、
千葉:
はい、それを見つけて食べたということですので、
他にも、ご遺体の首の周りをうろついていたトカゲだとか、
そういった物を取って食べたそうです。
水野:「ムカデも焼いて食べた」っておっしゃいましたね、
千葉:
そうですね、はい。
本当に私たちの、いまの私たちの常識で言えば、本当に目を覆うばかりの事なんですけれども、
それをしなければ生きて行く事が出来ない。
まさに本当に生き地獄って言えるんじゃ無いでしょうか。
そういう生き地獄を生み出す事がやっぱり戦争なんだな、という事を感じますけれども、
本当に、「ポケットをあさるための死人が居なくなったら困る」という、
考えが出てくるくらいですね、
谷口さんは食べ物が無くなって、飢える。
「飢え」という物が、どんなに人間性を無くしてしまう物なのかという事を強く語ってくれました。
水野:
谷口さんのお話はとても具体的で、
目の前で、こう…映像が浮かんでくるような、ものすごくリアルに、
「戦場ってそういう事なのか」って、
私がいままでいろいろ聞いたお話の中で、あのー、
ほ、本当に震えがくるような思いでいま聞かせていただいていますけれども、
これが戦場というものなんですね。
千葉:
そうです、
現実の姿なんです、
実際にあった事なんです。
そんな中、谷口さんは、何人かの兵隊さんが何かを囲んでいる場所に出会ったんです。
谷口:
途中でね、7〜8人で囲んでいる。
なんか、何かを捕まえてね、それを処理しようと、みんなでなんか取ったのかと思って、
それでよたよた歩きながら、ぐーっと肩口に見たら、
兵隊が真ん中に寝て、それで目頭に涙が溜まってるんだよな。
息をどうもしているようなんだよな。
「なにしとるねん、こんな」って、
そしたら、
「いや、もうこれ以上つれて歩く事が出来ません」と。
このままね、放っておいたらね、どうせもう死んじゃう。
放って置くしかない。
だからせめてね、我々がもし元気で日本に帰ったら、
戦友ですからね、囲っているのは。
彼の国へね、彼の遺品を渡したいと。
言って、爪はがしてるんですよ。
千葉:生きている人の爪をはがしているんですか?
谷口:
もう、僕が見れば生きているのに、
目に涙があるけどね、
それから、言葉も何もでないでしょ。
で、かすかな呼吸ね。
それで、はがす方も涙で、見とる方もね、涙で。
千葉:
生きている人の生爪をはがすなんていう事は残酷極まりないという事のように思えるんですけれども、
戦場という場ではこれは、ひとつの戦友愛なのかもしれないですね。
戦地で亡くなった方の遺族には、遺体はおろか、遺骨だって戻ってくる事は少ないです。
だから、このままもう死んでしまうのならば、
「せめて爪だけでも遺族にお届けしたい」と。
本当は戦場で亡くなった方には、亡くなったご遺体の片手の手首を切りまして、
それを燃やして灰にして、位牌としてもって帰るという事が行われていたという事なんですけれども、
とても、もう、灰を入れる入れ物も無く、
そういう事をやっている体力も時間もないという状況の中では出来ませんし、
まだ息のある人の手首を切る訳にももちろんいきませんので、
で、「自分たちは前に進まなければならない」という状況の中で、
爪をはぎ取るということになったんですね。
で、そんな時一つの事件があったんです。
実は、大隊が解散という事になった谷口さんの部隊なんですが、
もし、応援の日本軍が、見方の日本軍が、
いま攻めてきているアメリカ軍の後ろから上陸してきて戦うという事になった場合に、
自分たちが挟み撃ちにして、アメリカ軍を挟み撃ちにして戦うんだ。
その時にお腹を空かしているという状況ではないので、
その時の食料にするんだ、という事で、
ある程度の量の乾パンをですね、
乾パンが、警備の兵隊に守られて、実は保管されていたんですね。
水野:ほお〜
千葉:その乾パンを巡ってこんな事件が起きたんです。
谷口:
乾パン一袋ずつね、一人。
それは、大隊が保管しておきました。
これは東條がね、東條がもうすでにあの当時、あのころ多分
大艦隊を引っさげて逆上陸する。
そんなね、もう食う物が何にもないのに、まだ、まだ勝つ気持ちでおるんだからね。
上官も我々もさ。
逆上陸してね、来る。
だから我々はね、山奥からね、下りて敵を挟み撃ちにすると、
「その時の乾パンだ」と。
よその部隊が通りがかりにそれを持って逃げたら困るでしょ。
だから、よその部隊に取られないように、警備しとった訳ですよね、乾パンを。
そいつをさ、同じ部隊だよ。
昨日まで一緒にやっていた同じ部隊の総長が、兵隊を2〜3人連れて、
銃で撃ち殺すと、音がしてみんなに聞こえるからね、
だから銃剣のごぼうさしで打ち殺して、
そうしてその乾パンを持てるだけ担いでさ、
食料が無いと、いま言ったようにね、同じ補給隊でしょ。
それが乾パンを巡って、警備している人を殺してまで逃げるんですから。
飢えたらね、人間っていうのはどういう事をやるか分からないよ。
うん。
千葉:敵と戦うどころか、仲間を殺す事もあったんですね。
水野:同じ部隊で、本当にもう
千葉:生活を共にしてきた仲間を、
水野:ね〜、死線を越えてきた方同士がこんなことになるんですね。
千葉:
そうなんです。
これが戦場というものなんですけれども、
そんな状況の中で谷口さんはさらに恐ろしい体験をする事になったんです。
お腹を空かせた谷口さんたちが、食べ物を探していた時の事です。
谷口:
あっちで●をやっているわけだね。
そうすると、いい匂いがするんだね。
それで、チラって見たら、ちょっと小高いところで、
3〜4名で飯ごうを囲んで食べてるわけだ。
「あぁいい匂いだな、あれは何の肉だ?」どこで捕ってきたんだろうな、なんて言って近寄って行ってさ、
我々は何にも食べてないから「頼むから一切れくれんか」と、
「何の肉だ?」と、
俺等も捕ってね、食べたいから、ウサギか?大トカゲか?
その頃はね、ウサギも滅多に見なかった。
大トカゲがたまーに居たりね。
で、さ・・・、
こんなところに野生の家畜は、家畜というか、馬や水牛が居る訳ないと。
だけど、何にも言わないんだよな。
うん…。
で、「頼むから、この通りだから食べさせてくれんか」って。
「教えてくれんか」って。
教えない。
それで、ま、…、…何の肉とも言わないで、
「じゃあ・・・」
執拗にぼくが、まさに泣きながら「頼む、頼む」って言ったものだから、
ナカゴウを出せって、
ナカゴウに一切れずつね、入れて。
それで・・・、
こちらは、まぁ、「地獄で仏さんに会ったような気がする」と、
「ありがとう、ありがとう」と。
俺はもう、なんとかして「こういう美味しい肉をね、見つけて食べたい」と。
だから教えたくないかもしれないけどね、教えてくれって言っても教えてくれないんだよね。
で、「何の肉」とも言わないんだよ。
それで、ま、「仏さんに会った、ありがとう」って言って。
それで下りて行ったらカラカラカラって、笑い声がしてね、背中に響いてくる訳だ。
「なんでだろうなぁ」って思って、
それでもう、川で水でも飲もうって言って、谷川まで下りて、
そしたら、もう首を突っ込んだままみんな死んどるわけだ。
どこかの●でね、これは末えの道だぞと、
「我々はこんな状態にならないように助け合って行こうぜ」と言って、
死人を一人超え二人超えしていって、
そうしてもう居なくなったと思って、そこで水を飲もうとしたら、
川下の方は首突っ込んでるから、ちょっとやっぱりね、
もう死んじゃったのも半ば腐りかけてるんだからさ、
それで、ふっと見たら、飯ごう炊さんした跡の水があるんだよ。
その跡に近づいてみたら、ああ、足の肉が取られて、やっとるわけだ。
「ああ、これだな」と、
兵隊がね、いや何の肉だか教えなかったのは、
よし、「よくもこんなことをやりやがって」と言って
それで、歩けもしないのによろよろまた上りかけてね、
「奴らを殺したる」とか言って、
支那事変でさんざんやった上等兵や兵長だからさ、
で、僕は、いや、もう体力的にね、
こっちは銃が持ちこたえられないから、
一人に1丁持ってないんだよ、向こうはちゃんと持ってるしね。
反り打ちを食らうから、もうここは我慢しようと、
りょうをなだめて、そしてそこを去ったんだけどね、
まあ、だから…、まぁ、あれで人肉を食べたことは確かだと思うのよ、僕は。
その当時は人肉とかなんか味は分からなかった。
ただ美味しいっていうだけでね。
ただ、そういう飯ごう炊さんがしてあって、
その足で、腿で肉が取られた足がそこに捨ててあったりしたから
「あ、これだな」ということ
水野:
飯ごう炊爨の跡があって、そこへ行ってみて足があった。
という、それは人間の足だった。
つまり、仲間の足だった、という事なんですね。
千葉:
弱った人はやっぱり水を求めて小川に行くんですけれども、
そこで息絶えるんですね。
で、「末期の水は飲む事が出来たのか」という状態で、ま、息絶えている訳ですけれども、
そんな遺体の足の肉が、削り取られていた。
水野:あ、そういうこと・・・
千葉:
それを食べていたんだという事なんですが、
足のお肉をはぎ取られた日本兵の周りには、どす黒く血が流れていたそうです。
水野:・・・・・
千葉:
この肉を分けてもらった時ですね、
谷口さんたちは2週間、食べ物らしきものは何も食べていないという、
本当に餓死寸前の状態だったんですね。
水野:涙を流しながら、「僕にも肉をくれ」っておっしゃったんですね。
千葉:そうです。え・・、そうやって食べたものが…・
水野:は・・・・・
千葉:
ね…、もう、本当にそういう状況だったという事で、
この後ですね、本当にもう限界で、
「はやく死んで楽になりたい」と言い出す仲間も出てきたということなんです。
水野:
「人間が人間でいられない状況に追い込まれる」
というのが戦場なんだという事が伝わってきますね。
千葉:
本当に、これが戦場で、まさに現実に起きていた事なんですね。
で、谷口さん等はですね、この後
「このまま死んでしまうなら、せめて戦死しよう」という兵隊も、仲間もおりまして、
ジャングルを抜け出してアメリカ軍のいる方に歩いて行ったんですが、
その途中で終戦になっている事を別の日本兵から知らされました。
でも、簡単にそれを信じる事は出来ませんでしたので、
アメリカ軍の撒いてくる投降、
つまり、出てきて捕まえる事を呼びかけるビラを慎重に見ながら、
終戦から1ヶ月半経った後の、昭和20年9月の月末にアメリカ軍に投降をしたということです。
これまでね、谷口さんの対談を聞いていただいて、
まさに生き地獄という体験をしてきた谷口さんなんですけれども、
その後自身の体験をふまえて、戦争というもの、そして軍隊というものについて、
こう話しておられました。
谷口:
戦争というのはね、これは話し合いじゃないんですよ。
殺し合いでね、
「殺して勝つ」という事は相手を殺さなければ勝てない訳ですよ。
負けるというのは大部分が殺されるから負けるんです。
殺し合いなんですよ。
だから軍隊というのは、人を殺す事が、
殺す事の訓練をやっているんですよ。
あれは人を助ける訓練をやっているんじゃないんですよ。
ところが殺せないんです、普通の人間は。
面と向かってね、いくら相手が敵国だといってもね、殺せないんですよ。
それが人間なんですよ。
だけど、それを殺さないかんのですよ。
だから「鬼になる」というんですよ。
相手をね、自分よりも犬畜生とみなければ殺せないです。
相手はもう人間じゃないんだと、だから殺せと。
そうすると殺せないんですよ。
お互いが人間だと思っていたら。
だから「人間からね、離れる訓練をどうするか」っていうのが軍隊なんですよ、ええ。
千葉:その、離れさせるためにね、軍隊というのはどういう訓練をするんですか?
谷口:
いや、もうね、理屈に合わない事でも何でもね、
「これは軍隊教育」って言って、教育がとにかく天皇中心主義なんですよ。
もう天皇が神様なんですよ。
ね。
我々はその神様の子供なんだと。
だから神の子なんだと。
世界のあれはね、獣の集まりなんだと。
「だからやっつけろ」ということですよね。
千葉:
あの、上官、
軍隊で言ったら上役は、もう上役の命令は天皇の命令で、
谷口:
そうそう。
これは軍人勅語でね、「上官の命令は鎮の命令と思え」と、ちゃんと詠ってあるんですよ。
だから上官はね、「俺の言葉じゃないんだ」と。
「天皇の言葉なんだぞ」と、自分がやっているのがね、
だからもう、理屈が合おうが合わまいが、
「へい、へい」って言ってやっとらなあかんのやから。
千葉:
あの…、
人を殺してしまうような戦争から永久に抜け出して、足を踏み込まないという事が、
いまの日本国憲法の精神なんですけど。
水野:
そうですよね、永久に人を殺してしまうような戦争には向かわない。
そこには「もう永久に抜け出したんだ」という宣言ですよね。
千葉:
そうです。
そうなんですけれども、谷口さんは国の自衛権についてこう話します。
谷口:
自衛権というのは「軍隊を持つ」という事だけじゃないんですよ。
「自衛権がある」というのは、戦争じゃなくして外交でね、
お互いが「自分の立場はこうでございますよ」と、
「これは理解していただけませんか、どうでしょうか」と、
お互いに話し合ってね、
じゃそいつはここまでならいいと、手を引きましょうと。
そのかわりあんたもこの点ね、一歩手を引いてくださいと、
それが自衛なんですよ。
自分が生きる道なんですよ。
だから自衛権というのはね、
「自衛権があるある」というけれど、
軍隊持っ戦争するのが自衛権じゃないんだって。
外交。
商売なら商売。
民間なら民間でね、お互いが、文化やいろんなものを通じてですよ、
そうして和気あいあいのうちにね、
人類としての幸せをお互いが感じるような交流をやると。
戦争する事が自衛権じゃないんだよ。
そこをね、僕は人に知ってもらってね、賛成してもらいたいんだな。
水野:はい。
千葉:
谷口さんはこう話しています。
今回は、93歳の谷口さんにお話を聞いたんですけれども、
この谷口さんのように戦場での体験をお話ししてくださる方は、実は多くはないんですね。
多くの人は、語るのがあまりにも恥ずかしい。
人間性を無くしてしまったその姿を語るのが恥ずかしいという事で、
家族にも黙ったまま亡くなって行くんです、
本当に、出来れば知られたくない自分の人生の忘れたい部分であり、
本当にね、人間が人間でなくなる場所。
そこを見てきたという、非常に辛い体験ですので、
でも、谷口さんは勇気をふるって話をしてくれました。
それはですね、日本国憲法の第9条の平和主義が、
時が経つにつれて形だけのものになって、
いまのうちに原点に戻さなければ大変な事になってしまうと思われたからなんですね。
本当に93歳の思いなんですけれども、
谷口さんが所属する不戦兵士・市民の会という市民グループでは、
かつて14人の戦場を体験した元兵士の方々が
「語り部」として自分の厳しい体験を語ってくださっていたんですけれども、
会が活動を始めたのは1988年の事なんですけれども、
もうすでに何人かの方々が天に召されてしまいました。
いまは一番若い方が85歳ということになります。
谷口さんは今回3時間以上お話をしてくれたんですけれども、
「まだまだ語り残さなければならない事がある」という風に話をされておられます。
終戦から来年で70年になりますので、
悲惨なこの戦争体験を語り残せる人はもう多くはありません。
3852
水野:
リスナーの方が、
「いやー、いままでテレビラジオを通して初めて生の声を聞きました」と言っていらっしゃいます。
本当に生々しい
平野:
改めて、極限状態のね、凄惨な状態というのを…、
私は聞きながら終始、「自分だったらどういう行動をとっただろうか」というのを、
ずっと思い続けて聞いていたんですけれどもね、
ふと、その
今の為政者にタイムスリップをして、その場に連れて行きたいなという思いに駆られましたよね。
水野:
私だったら、あなただったら、
本当にその、人間性を失わずにいられるんですか?
平野:
これは戦争というよりも、飢えと病気との戦いですよね。
武器を持って戦っている状態じゃないですよね。
そういう状態にまで追い込まれる極限の状態というものをですね、
一兵士で、本当にもう、逆に言うと無力感に苛まれますね。
戦史をね、ちょっと紐解くと、
このフィリピン戦線というのは、一番犠牲者が多かったんですよね。
太平洋戦線の中ではね、47万人の方が亡くなっていて、
戦争が終わっても13万人の人がまだ戦争状態を続けていたと。
最後は捕虜になる方が多いんですけれども、
作家の大岡昇平さんが同じ、人の肉を食べた事をフィクションで書かれていて、
『野火』という小説でですね、私も読んだことがあるんですけど、
これはあくまでも自らの経験をふまえたフィクションなんですけれども、
今の谷口さんのお話は、よりこう、生々しくね、我々の胸に刺さりますよね。
まだまだ他にも厳しい状態があったと聞きます。
兵士のお尻の肉をですね干し肉にして持ち歩いて食べ合ったとかね、
フィリピン人の現地の女性の腹を切り裂いて肉を食べたとか、
という証言はあるんですけれども、
私は直接聞いたのは本当に今日初めてですね。
あのー、まさにこう、
「戦争というのは人を獣の集団にさせてしまうな」という思いですよね。
水野:そうですよね。
その、武器を持って戦う、武力を使うということが、
いかに、「人間であっては出来ない事」か、
「人間から離れて行かなければ出来ないんだ」っておっしゃっていましたよね。
そういう道具でもって、ね、平和を構築できるのか?って、
平野:
一兵士は、この時はもう実は戦争の対境から消したんですよね。
全体某空拳というものがサイパンの玉砕でですね、
もう本土にB29が東京に現れたんですよね。
それでもフィリピンの島ではこういう事を繰り返したと。
本当に戦争の指導軍人と兵士のね、落差というか、
本土決戦だと叫んでた人たちのこの比較ぶりですね、
これもちょっと思いをいたしたいなと思うんですよね。
水野:今日語っていただいたものを聞かせてもらって、本当に残りますね、これは。
千葉:はい、
水野:
よくぞ語ってくださったと思います。
集団的自衛権の話をしていた時に、いくつもの事例というものが出されましたけれども、
いかにそれが机上の空論だったのか、
今日の谷口さんのお話がいかに貴重であるかという事を痛切に感じました。
千葉アナウンサーのリポートでした。
どうもありがとうございました。
リスナーの方がいろいろ書いてきてくれました、感想を。
戦争体験をした父が5月に亡くなりました。
海軍だったんです、父親は。
船で爆撃を受け、足に破片を残したまま亡くなりました。
隣にいた方は即死だったそうです。
戦場では普通の精神ではなかったように思います。
生き残った人も次々と亡くなり、父の戦友は一人だけになりました。
あるいは、
戦争体験を聞ける機会は本当に貴重となってきましたね。
でも現実には現在進行形で戦争がもたらす悲劇が続いていますよね。
ただ、戦争体験が無い私たち世代としては、
貴重な体験談を自分自身のDNAに刻み込んでおかなければ
こんなふうにいってらっしゃいます。
平野:
今日の谷口さんのお話の中で、一番最後にあった、
自衛権というのは軍隊を持つ事だけじゃなくて外交でお互いの立場を理解し合うと、
この体制を強調されてましたよね。
これを我々は重く受け止めるべきじゃないかなと思うんですけれどもね。
水野:
平和を構築するための「戦いでの自衛権というのは、それは無理なんだ」
とおっしゃいましたね。
平野:
ところが、例えば今の安倍政権はですね、
隣国に対して「対話のドアは開かれている」と言うだけで、
具体的に何も理解する行動をとってないですよね。
むしろ、地球の裏側まで行ってですね、隣国の脅威を強調するようなことをやっていますよね。
それをまた喝采するナショナリズムというんですかね、国内でも高まっていると。
いう印象が強いんですよね。
水野:
安倍さんはそれは、
「国民の命と平和な暮らしを守るためのものなんだ」という、おっしゃりようなんですけれども、
平野:
でもそれに同調して、かつて自衛の名の下に戦争が始まった訳でしてね、
やっぱり我々メデイアが心しておかなければいけないのは、
ナショナリズムをあおるような熱狂に組してはならないと、
いう、こう、自戒ですよね。
その事を今日は強く思いました。
リスナーの方は
全滅の事を玉砕と言い、敗戦を終戦と言い換える言葉の、
ある意味伝統みたいなものがありますよね。
積極的平和主義という言葉に危うさを感じる
というふうにメールをくださいました。
今日の谷口さんの証言を皆さんどんな風に受け取られて、
そしてこれからの日本はどうあるべきと感じられたか、
また来週の放送するラジオもお聞きください。
<16歳兵士の証言>
猪熊得郎「とにかく戦争が終わったときに真っ先に逃げたのは将校ですね、上官ですよ」
8/15報道するラジオ(文字起こし)
2014年4月18日 谷山市民会館
広瀬隆です、始めましてよろしく。
木内さんがおっしゃったようにありかわさんという方を私は全然知りませんでした。
今日初めてお会いしましたが、
その前にですね、彼女が城南信用金庫という、東京でですね、
原発反対の今本当にハッキリおっしゃっている城南信用金庫に以前お勤めになっていたと知りまして、
それで前日太郎さんと一緒に城南信用金庫に行きまして、
理事長の吉原毅(よしわらつよし)さん本当に素晴らしい方にお会いして聞きましたら、
ありかわさんという方は本当に城南信用金庫にいた時から、自立精神が非常に豊かな人だったとおっしゃっていました。
それと、信用金庫というのは私は原発事故が起こるまでは全然知らなかったんです、一体どういうものか。
「銀行みたいなものだろう」と思っていたんですが、
そうじゃなくて、信用金庫というのは組合組織で自治精神で、大衆のために金融をやる。
そういう組織で、その信用金庫を日本に生み出したのが、鹿児島県知事だった加納久宣(かのうひさよし)さん。
まぁ、今から100年ほど前の方ですが、
今の鹿児島県の基礎を築いたと言われる加納久宣さんが信用金庫を生み出した。
それでその精神を受け継いで私たちは、今、城南信用金庫が原発反対ゼロを訴えている。
そういう本当に大衆のため、民衆のためにやっているとおっしゃっていました。
それを受け継ぐのが、なんと有川さんだったんです。
こういう非常に面白い関係であることが分かって、私も感激しました。
今日はこの、当選のためにお話をさせていただきますが、
選挙というのは頭数を数える事ですから、人数がちゃんといないといけません。
皆さんこれだけの数では絶対に勝てません。
だけどもいいですか、ビデオも今日は撮っておいてくださるそうなんですが、
それを何日か後でYoutubeかなんかに上げて下さるらしいので、広めて下さい。
皆さん一人ずつで広めて下さい。
事実を広めて下さい。
それが一番大事な事です。
人間が変わるのはそこが一番大事なことであります。
私もここに「作家」なんて書いてありますけれども、「作家」じゃないです、私は。
本は書きますけれども別に私は物書きのために生きている訳ではありません。
簡単に自分について伝えておきます、この中身に関係ある事ですが、
私は若い頃、もう今は71ですが、若いころは技術者でした。
エンジニアのはしくれで、ま、原発とは関係ないですが、
エレクトロニクス関係の技術者でしたが、当時はご存じの東京オリンピック後の高度経済成長と言いますか、
私の記憶ではそうじゃないんです。
あの時代は大公害時代でした。
そういう事で私も自分でなにかをやっているんじゃないかなという、そういう不安があって、
それで、ある時会社を辞めまして、それから医学●の道をとりました。これが一番大事なところですが、
ずーっと医学関係の仕事をしている中で出会ったのが大公害。
つまり水俣病であり、皆さんのすぐ近くで起こりました水俣病だとか、
それからイタイイタイ病、それと薬害●。
そういうのが大変な時代でした。
だから今、テレビや新聞ですぐ高度経済時代って振り返る人達は、あれは若いから何にも知らないんです。
デタラメです。
そんなに明るい時代ではなかったというのが本当です。
ですから、そこから私は医療関係の仕事をしているうちに出会ったのが放射能の問題で、
アメリカやヨーロッパでは放射能の危険性は非常に強く論文やなんかに出されているのに、
日本の新聞を読むと、私が読むと何も書いていない。
「一体この違いはなんだろう?」という事で疑問を持って原子力について調べ始めた人間です。
だから一介の姿勢の人間です。
みなさんも同じように調べれば、同じ結論になりますから、
必ずこれはですね、広く鹿児島県内に広めていただきたいと思います。
2014年4月19日
選挙フェスIN鹿児島 ありかわ美子
鹿児島2区の衆議院議員補欠選挙に山本太郎さんが立ち上げた新党ひとりひとりから、
全国初の公認候補として、わたくしありかわ美子が立候補いたしました。
あの、鹿児島人なので一部鹿児島弁で。
私の事を知らない人ばっかりだと思うんです。
私は無名です。
そしてお金もない。
でも、何があるかって、私は人を愛する、人が大切だ、そういう気持ちだけはあるんですよ。
わたし、ニコニコ笑っています。
ま、寝ている時は笑ってないんですけど、
なんで私が人と目が合うと笑うかというと、母がそういう人なんですよね。
でもある時期から私はわざと、別れるときとかかなしい時、笑うようにしています。
なんでか。
私は双子の妹がいます。
妹は3人子どもを産んで育てています。
兵庫にいるんですが、その妹の長男がある日階段から落ちました。
「ああ、落ちたぐらいか」じゃぁなかったんですよね。
脳幹グリオーマと言って脳幹、脳の真ん中、
息をしたり身体を動かしたりという大事な脳の真ん中に癌が出来たんです。
だから突然出血して階段から落ちた。
その連絡を夜の11時過ぎに受けました。
妹が言いました、一言。
「だめだ」
「だめだ」って。
その一言で私はあくる日の朝一番で神戸空港について兵庫に行きました。
甥っこはね、命は取り留めたけど障害のある身体になりました。
左の半身不随。
なので、今まで元気に走り回っていた男の子が、10歳の男の子が車椅子の生活になったんです。
その前に生きるかどうかさえもわからなかったから、
とにかく親戚中が神戸に集まった。
結果的に家に帰る事が出来たけれど、
言われた、お医者さんが「この病気は1年、1年したら必ずみんな再発して亡くなっていく病気なんですよ」
分かりますか、10歳の男の子。
昨日まで元気に小学校に通っていた男の子が次の日には「あと一年の命だ」って言われちゃう。
私は、命はひとりひとり輝いているというのを甥っこから教えてもらったんです。
36の時に。
気付かなかったんです、30何年も。
私は自分の命が輝いている事さえもわからなかった。
初めて、10歳の甥っ子が一生懸命小学校に行きたくて、
苦しいリハビリをして、小学校に行って、装具を付けて通う姿を見て、
そして、同級生たちの励ましの言葉とか、気持ちを受けて、
小学生に教えてもらったんですよ。
ひとりひとりの命は輝いているって。
だからここにいる皆さん。
ただただ通り過ぎてきた、駅のみなさん。
今4時35分、私とご縁があった。
ありがとうございます。
マスコミのみなさんもありがとう。
ただただ仕事で来てたって、私と縁があってこんな、こんな拙い話を聞いて下さる。
それだけでうれしい。
私は子どもをお持ちのお父さん、お母さん、
私は子どもが元気で成人するなんて私は信じられない。
でも、元気で美味しい食べ物を食べて、安心した環境で大人になって、
この日本を未来を支えて欲しいから、
だから、川内原発の再稼働に反対なんです。
目に見えないものを信じられますか?
目に見えないものを信じてますか?
人の心なんて目に見えないですよ。
形もない。
でも、本当に子どもを守りたかったり、自分の親を守りたかったり、
恋人とか、彼女も旦那もみーんな友達も守りたかったり、
ただただ自分の命を守りたい。
それだけでも、愛です。
愛するっていう事は素晴らしいじゃないですか。
私は何の、なんにも持っていないただの介護福祉士の鹿児島の女だけど、
誰かを愛する気持ち、これだけは正々堂々と言いたいです。
みんなを愛している。
愛しているからこそ私は立候補したんです。
大きな決断。
仕事の仲間には大変な迷惑をかける。
でも、なんで手を上げたんだ。
世の中おかしくないですか?おかしいですよね。
戦争だって、戦争が無い世の中に私たちは生まれさせてもらって、平和に愛されて生きてきたのに、
今安倍さん、集団的自衛権の行使!?
なに?なんで?なんで戦争したいの?
おかしいよ。
国会に座っている一部の人を除いて、戦争したいような議員のおじさん達。
そして、戦争を食い物にするような人達。
その人達は自分の命だけが助かればいいのかもしれませんが、
わたしは違う。
みんな違うでしょ。
自分の命と人の命は同じ輝きなんだから、
障害を持って生まれても、途中で年を重ねて歩けなくなっても、
病気になって半身不随になったって、
そして、身体には出ないけれど、心を痛めて病んで人には見えない痛みを誰もが抱えて、
みーんな苦しんで生きてきている。
それの上に戦争なんてあり得ないよ!
人の命を軽んじるこの世の中に文句が言いたい。
だから私は国会議員になりたい。
そう思うんです。
いまバス停で待っている人達、もしかしたら私の話が過激に聞こえるかもしれません。
じゃあ、こう考えて下さい。
消費税が4月1日から3%上がりました。
4月1日私は奄美の空港にいました。
奄美の空港でお水を買ったんですよね、これと同じサイズの500mmのペットボトル
110円、レジに持っていきました。
ピッ!レジのお姉さんが「113円でーす」明るく言われて、大ショックですよ。
110円のものが3月31日を越して4月1日になった途端に113円。
「んーー3円か」
私はそうは思いません。
この3円が全てのみなさんに消費税の増税としてかかって、
小さいけれど、日々の小さな積み重ねが大きく大きく私たちの家計に打撃。
そして、小さいと思って「ま、いいか」と見過ごしてた人は、
いままさに真綿で首を締め付けられるような、そういう状態に今の日本がなっているんです。
今日、安倍総理が来ていますよ、鹿児島に。
一度見に行きたいなと思った。
何を言うんでしょう?
何を言うんだろう?
それは、ウソを言いにきたんです。
私たち鹿児島県民をだますために来たんですよ。
なんでだって?
来年消費税を10%に上げたいから。
10%ですよ、1割!
このアミで買い物する時に「1割引き」っていう値札を見たら嬉しくないですか?
私は飛びつきますよ「1割引きサイコー」
でも来年になったら税金が1割乗せられる。
こんな世の中にしたくないから、
家計を持っている主婦の方、消費税を来年1割にしたくなかったら、
わたし「ありかわ美子」の名前を書いて投票して下さい。
この鹿児島2区だけの話じゃない。
日本全国で消費税の増税を止められるのは、鹿児島2区のこの補欠選挙だけです。
これから2年間国政選挙はないんですよ。
安倍さんに「あんたおかしいんじゃない、なんで私たちから税金を取るのよ」って、
そう言えるのは、今しかないんです。
選挙、投開票日27日
でも、もう始まっています。
期日前投票というのがあります。
ハガキが無くても身分証明書があれば、ちゃんと投票できるんです。
日曜日、仕事でいけない、用事がある。
子どものサッカー教室がある。
それでも今いけるんですよ。
何が必要かって、
投票に行く。
安倍さんに「消費税増税なんかやめて」
「川内原発の再稼働なんかやめてくれ」って言える権利を
鹿児島2区の方が全国で唯一持っているんです。
絶対、絶対に消費税と原発とTPPと集団的自衛権と秘密保護法。
これを認めちゃいけないんです、私たちは。
いま、鹿児島人が全国の代表になっているんですよ。
みなさん、もっと自覚を持って下さい。
そして、ここは鹿児島1区。
鹿児島1区のみなさんは「ごめん」って皆さんおっしゃる。
「投票権が無いんだよね」
できる事は沢山あります。
なぜならば、2区にお住まいのお友達、
もしくは「あの人2区の人を知っているかも」という顔の広い方、
電話をして下さいよ。
「鹿児島2区が全国から注目されているんだって」
「来年消費税が上がるかどうか、わたし、ありかわ美子が勝たないと上がるんだよ」って。
必ず言って欲しいんです。
私は川内原発の再稼働を許さないばかりか、
「日本に原発はいらない、即廃炉」そう思っています。
でも、まずは川内の再稼働が止まらなければ、廃炉の話なんか絶対に始まらない。
そして今私がお願いしたところで、ハガキがあります。
鹿児島2区の住所が載っています。
魚見町,卸本町,小原町,上福元町,ずーっとずっと書いてある。谷山へ行って指宿へ行って、奄美群島。
ここに一人でも、一人でもお知り合いがいたら、私に力を集めて欲しいんです。
企業も団体も組織もない。
なんにもない。
全国からのボランティア。
こんなに、こんなに力のあるボランティアはここしかない。
そして、全国からのご寄付で300万円の供託金を払いました。
でもね、政党じゃないから政党助成金はないんですよ。
そして、NHKさんの政見放送をご覧になりました?
私は出れません。
なぜなら、政党じゃないから。
あの人達はお金をもらって、人を呼ぶことができて、
税金ですよ。
税金で自由勝手に選挙戦をやっているけれど、
私は「政治とお金の問題なんて。私が勝つことで解決してやる」そう思っている。
なぜならば、市民の、心ある市民のみなさんのボランティアとご寄付と、
そして、3月の末日まで介護福祉士だったわたし。
私の様な、たすきを取ればだれも知らないような、そんな女性がこの保守王国の鹿児島2区で勝てたら、
みんな出れますよ、ここにいる人みんな選挙に出れるようになる。
選挙、選挙は絶対みんなが出ないとダメだよ。
だってさ、だって、選挙って楽しいんだよ。
世の中を変えられるチャンスなんだもん。
おかしいよね、本当におかしい。
もっと日本は教育するべきです。
二十歳になったら、ちゃーんと選挙権があって、
有権者となって社会に対して1票、重い1票で意見が言えるようになるんだと教育するべきです。
わたしが、わたしありかわ美子が介護福祉士としてやってきたこと。
お年寄りのみなさんのお世話。
そして、今年の越冬でホームレスのみなさんの、越冬炊き出しのボランティアをしました。
わたしの周りは昔から、家族でも障害を持っていたりとか、
少し、経済的に弱かったりとか、高いお給料の人なんてほぼいない。
身体がいたかったり、何かしら社会から不備な立場にいる人がいっぱいです。
でもそんな人だって日本人だからね、同じだからね。
どこかのお金持ちさんとなんにも変らない一人の人間だから。
そこに、みんなに等しいのが選挙権なんですよ。
いま、選挙権のない10代の方達、
絶対に二十歳になったら選挙に行かないとダメなんだよ。
絶対に覚えていて。
私は今後悔している。
後悔しているから立候補したんです。
なぜならば、18で東京に出て、城南信用金庫に入社しました。
その時に杉並区の区議の投票があったけれど、行きましたよ、行った。
だけど、たいして政策も見なかったし、
「この人女性だから入れちゃおうかな」と思った。
でもその後、いくつかの選挙があった時、
うっかり、ある女の人のいう事を聞いちゃったんですよ。
「選挙なんか行ってもさ、世の中変わんないよ。どんな政治家に入れたってさぁ、一緒だよ」
20年前に言われた言葉です。
これをうっかり20代で信じちゃった私がバカですよね。
変わるんだもん。
選挙で私みたいな市民の代表が国会に行って、
ヒールを履かずにスニーカーで、走り回っている様な女が選挙で勝って国会に行けば、
必ず、必ず、経済的に弱い立場の人も、社会的にも環境的にも不利な条件にある人も、
そしてこの鹿児島に今集まっているみなさんひとりひとりに光が当たる政治を私が必ずやります!
だから、だから必ず投票に行って下さい。
そして女性はたった一人だから、名前は忘れてもいいから、
ちゃーんと確認して、ありかわ美子と書いて欲しい。
それから、このはがき、この封筒が右のテントにいっぱいあります。
是非、1つずつでいいから持って帰って下さい。
そして、今晩の食事の時の話しのネタにでもして下さいよ。
友達と飲みに行くんだったら、飲んでいる先で選挙の話をしようよ。
それが鹿児島だよ。
そういうふうにならなきゃ世の中は変わらない。
でしょ。
選挙の話はタブーじゃないよ。
みんなが出来るようにならなきゃ。
原発の話もタブーじゃない。
福島の事があってから、絶対にみんなが考えたはずだから。
みんなが共通で考えられる話になっている。
みなさん、お尻も冷えてきた、足も痛くなってきた。
とにかくこの鹿児島2区、保守王国で私は負けないよ。
みんなの力で勝つ。
必ず、必ず勝つ。
勝てるから。
徳田毅前衆院議員の辞職に伴う衆院鹿児島2区補選
鹿児島2区
鹿児島市(魚見町,卸本町,小原町,上福元町,錦江台一・二・三丁目,希望ヶ丘町,喜入瀬々串町,喜入中名町,喜入生見町,喜入前之浜町,喜入町,喜入一倉町,五ヶ別府町,小松原一・二丁目,皇徳寺台一・二・三・四・五丁目,桜ヶ丘一・二・三・四・五・六丁目,坂之上一・二・三・四・五・六・七・八丁目,下福元町,自由ヶ丘一・二丁目,慈眼寺町,清和一・二丁目,谷山港一・二・三丁目,谷山中央一・二・三・四・五・六・七・八丁目,中山町,中山一・二丁目,東開町,南栄一・二・三・四・五・六丁目,七ツ島一・二丁目,西谷山一・二丁目,東谷山一・二・三・四・五・六・七丁目,光山一・二丁目,平川町,星ヶ峯一・二・三・四・五・六丁目,山田町,和田一・二・三丁目),指宿市,奄美市,南九州市(旧頴娃町域),大島郡
続きを読む
たぶん、小さい子どものころから体力には人一倍自身があって、運動能力が高くて、
そして鍛えて一般の同じ年齢の男性よりもずっと頑強な身体を持っていたんだと思います。
なのに、米軍のバスに轢かれ、ろくな治療も受けず、何の補償もなく、放置され、
その上、嫌がらせを受け職を失い、いまは一日のほとんどを寝て過ごし、
ちゃんとした食事をすることもできず、痛みに耐え生活保護を受けているという。
なんか…どう考えても納得がいかない。
けれど、これが現実。
自衛隊は国の機関だから、
自衛隊員になにかあれば、当然その隊員はきちんと国から補償してもらえるんだと私は思っていました。
けど、そんなことはなかったんだと・・・
今までの私の中の「当たり前」と思っていた事が
どんどんガラガラ崩れていきます。
知らなかった事が多すぎる
ーーーー
2014年3月20日(木)16:00~
元イラク派遣空自隊員と問う、集団的自衛権
池田頼将氏(元イラク派遣空自隊員)、
川口創氏 (自衛隊イラク派兵違憲訴訟弁護団)
志葉玲氏(フリーランスジャーナリスト)
動画はこちら→http://www.ustream.tv/recorded/45089862
47:34~
志葉:
それでは、みなさんに池田さんに何が起こったのか大体分かって頂いたところで、
池田さんに話を振っていきたいと思います。
事故にあった直後、まさにその時の事をちょっと振り返って頂けますか?

池田:
とりあえずは、アメリカが独立記念日だったので、
先着何名とかに入賞すると記念のTシャツがもらえるので、その記念Tシャツをもらうために僕は参加して、
そして1等賞をとったらもっといいTシャツが、米軍の方から貰えるという感じだったので
7月4日は体調を万全にして、早く寝て、そして朝6時にスタートしました。
そして、5kmマラソンなんですが、ありあり・・・、ちょっと舌が回らないのですが、
ありありあるむ基地内でのマラソン大会で、
5kmは、片道2.5km走って、給水があって、
先頭集団を走っていて、先頭集団は後続集団よりも何100mも先に先頭集団。
米兵2人と僕1人と、その3人で上位決戦になるのかなと思って、
で、その時に給水ボトルで2.5km付近、
Uターンの時に給水ボトルを無事に2~3回飲んで、
「よし、これで米兵2人追い越すぞ」という考えを持って走った瞬間にドスンっ!という音とともに気を失って、
それから、さっきも説明があった通り、
気が付いた時には米軍の医務室でした。
志葉:
その時、「全身血まみれだった」というふうに前聞いたんですけど、
池田:
その時はもう、痛くて、興奮というかアドレナリンみたいなものが湧いていて、痛いのが先にあって、
それで米軍の●、小指の第一関節位ある大きい、すごく、日本で見た事のない錠剤を4錠飲まされました。
志葉:痛み止めなんですかね?
池田:それは眠らせようと。
志葉:睡眠薬
池田:
睡眠薬だと思いますけど、
それを飲んでから僕は全く記憶がありません。
それで次に目が覚めたのが23時間後の自分の自室のベットの上でした。
志葉:で、ひどいのが、米軍が「お前たいしたことない」と言ったわけですよね。
池田:そうです。
志葉:
いや、バスに轢かれたんですよ。
さらにひどいのは、自衛隊も「米軍が言うんだから大したことないんでしょ」
そういうふうな事を言われた訳ですよね?
池田:そうです。
志葉:
で、何度も「治療を受けさせてくれ」だとか、「日本にいったん帰らせてくれ」だとか、
池田さんは言ったんですよね?上司に、何回も。
池田:はい。何度も上司にお願いしました。
志葉:その時の空自の最高責任者も派遣部隊の最高責任者もその事は知っていた。
池田:知っていました。
志葉:お見舞いに来たんですよね。

池田:
イラク復興支援隊長が「具合はどうだ?」という事を僕に聞きににきて、
僕はソファに横になって仕事をしてたんですけど、
「何とか仕事ができる状態です」とはしゃべりました。
志葉:そうですね、通信兵なので指先がかろうじて動けば、という感じなんですかね。
池田:
はい、その通りです。
二人で勤務するので、チームとなって、僕の後輩がほとんど仕事をして、
最終確認は僕がソファで横になりながら間違いがないかチェックしてそれを日本の航空幕僚に送る仕事でした。
志葉:
普通はそういった事故とかが起きるとすぐ日本に連絡が行きますよね、防衛省の●の方に。
池田さんの事件はどうだったんんですか?
池田:
僕の場合には・・、
僕は通信員で一番良く分かっているんですけど、
クエート内の事故で、3日目ぐらいに韓国軍のテポンド―の練習で、
勝手にその人が練習していてアキレス腱を切った人がいるんですよ。
そのアキレス腱を切った人は、もう即日本に帰国させてもらえました。
そして僕の場合は、多分イラク復興支援隊長が2回もこういう事故が続くと、
イラク復興支援隊長も自分の階級出世にも関わると思って、
僕は隠されたんだなと、80%はそう思います。90%思いますね。
そして僕は通信員だから、全部事故とか、事故速報とかは、東京の市ヶ谷の防衛省に全部FAXを流すんですけど、
そのアキレス腱を切った人は即事故速報として流して、本採用になってて、
で、僕の事故速報は航空幕僚長には一切流しませんでした。
それで僕は通信員だから、もうそれは事故を隠しているというのは確信に変わりました。
以上です。
志葉:
まさに轢かれたという、民間ウェッジ(WEDGE)企業、
米軍関係の民間ウェッジ企業にまさに轢かれたという事自体が本当にひどい事ですけれども、
その後の対応がもう本当に、聞けば聞くほどひどいみたいな感じで、
で、なんとか日本に帰れたのが、任務が、派遣期間が終わるまで結局帰れなかったんですよね?
池田:はい。その通りです。
志葉:それで、その間はずっとコルセットをしていた訳ですよね。
池田:
ずっと、ずーっとコルセットを首に巻いたまま、
あと痛み止めの湿布を貼って、
それで、顎がどうしても斜めに開くのがつらかったので、
ご飯食べる時も、あの、
一応クエート内では日本人の料理人がいて、朝ごはんと、
朝食はご飯とパンと選べるんですけれども、僕はみそ汁とご飯を取って、
ご飯に味噌汁をかけてとにかく噛まないように飲み込むような感じで食事をしていました。
志葉:顎を動かすと「パキンッ」という音がして、すごい激痛が走るみたいな、
池田:
そうです。
そうです、顎がもう2cmぐらいしか開かなかったので、その時。
志葉:その後病院に通う中で、結局顎の蝶つがいの部分を取ってしまったんですよね?
池田:
あのー、左半分の、米兵のバスから左半分を後ろからドスン!と轢かれたので、
撥ねられているから、左の軟骨円盤というやつが前方に転移していたんですよ。
志葉:
ここにある骨の事ですよね。
これが前にグワーッって出たっていう事
池田:
軟骨円盤が前に転移してたんです。
そしてそのために顎がまっすぐ開かなくなり、斜めに開くようになって、
それがものすごく、本当に口を開けるとすんごい激痛が走るんです。
だけど、もう…、本当にみそ汁だけとか、噛まないでいい様な牛乳とかで栄養をとりながらという感じでした。
志葉:
で、その顎の状態は、その後残念ながらますますひどくなってしまったというか、
軟骨円盤を取ってしまったので、顎が動かなくなってしまったと。
池田:
はい、そのとおりです。
新潟へ転勤する前は、新潟大学の顎の関節、顎関節っていわれるんですけど、
その両側の軟骨円盤を切除したがために、ますます、あの。
最初の1~2ヶ月3ヶ月は普通にまっすぐ開いて食事はとれてたんですけど、
だんだん、だんだん、軟骨がないので骨と骨が癒着してくるっていう、
骨と骨が引っ付いてきて、結局はもう最後までものを食べられなくなりました。
志葉:
今は、池田さんは、
これは今、普通に喋ってらっしゃいますけれども、
実はですね、顎自体はほとんど動いていないんですよね。
中で舌が動いているのと、あと唇が動くという状況で、
ですので、池田さんがどうやってお食事を取られているのかというと、
こういった、いわゆる流動食というか、液状のものを歯の隙間から流し込んで食べてらっしゃるんですよね。

池田:
その通りです。
液状の流動食のラコールというのがあるんですけれども、
このラコールを「一日4本まで」って医者から決められているんですけど、
僕は一日10本ぐらいラコールを飲みます。
もうどうしてもお腹が空いてたまらないし、たまにテレビでステーキとか出たらすごく食べたくなるし、
だからテレビの食事の番組はもう、見ないようにしています。
志葉:
この前池田さんと話をしていた時に、
年末になるとみんなで集まって、ご飯を食べたりすることもあるんだけど、
池田さんだけ、やっぱりご飯が食べられないから、
それがものすごく辛いという事をおっしゃっていましたね。
その、単純に「食べられない」という事だけでも大変だと思うんですけれども、
この前、ご自宅に取材に行った時も、
すごく部屋をあったくして、ジャンバーを着込んでいらっしゃいましたよね、それはどうしてですか?
池田:
流動食に代わってから、すっごく寒がりになって、
体温がすごく低くて、もう外にも出れない位の寒がりで、
寝るときなんかもエアコンをずーっと付けて、でもなんか良い方法はないかなと、
僕は一日24時間あったら20時間はずーっと家で横になっている身体なので、今の症状は、
20時間横になっているので、
電気毛布もある方から頂いて、その電気毛布でくるまって寝ると、寒さが和らぐっていうか、
だけどもう、冬は本当にもう、ラコールだけじゃ体温も上がらないんです。
お米とかお餅とか、そういうのを食べると身体が温まるんですけど、
正月にお餅を、親から、お餅を本当に融ける状態にして、だし汁と一緒に飲んだ時は、
やっぱりお腹に入って、あの、やっぱり体がほてってくるっていう感じが良く分かりました。

志葉:
初めて私が池田さんと会ったのは、まだ池田さんが新潟に住んでらっしゃった頃なんですけど、
新潟は寒かったですね、本当に。
池田:
本当に寒いです。
もう●だったら死んでいます。
いま新潟にいてたら死んでましたね、完全に。
志葉:だからそういう寒い時はほとんど家にいて外に出ない状態ですね。
池田:そうです。全く外に出ていません。「ひきこもり」ってやつですね。
志葉:
そしてやっぱり、悪いのは顎だけじゃなくて、
いろんな、体が痛いとかそういう症状があると。

池田:
はい、
もう痛いのは、特に痛いのは、今日は雨の日なので、
目の僕からみて左の、左目の眼球の奥がガンガンガンガンして、
それで次に腰ですね。
腰が痛くて。
一番痛いのは頭痛です。
その次にこの首の頸椎。
頸椎からもう、すごく痛いです。
もう頭を支える力がないのか、事故の後遺症なのかちょっと分からないんですけど、
もう本当に頸椎とか腰とか、
特にこの雨の日は本当に最悪な身体になります。
志葉:
雨の日にかり出しちゃって申し訳ないんですけれども、
あの、だから寝るときなんかも大変ですよね。
私が取材に行ったときなんかも睡眠薬を飲まれてたと思いますけれども、
結構強いのを飲んでらっしゃるみたいで、これ見せていただいたやつですね、前に新潟に行った時に。
もう睡眠薬なしでは眠れないような状況ですか?

池田:
睡眠薬がなかったらもう、心臓がバクバクして息苦しくなってもう絶対に眠れない。
身体が睡眠薬を欲しがるんですよ。
それでお医者さんからは1日これ1包だぞって言われている強い睡眠薬を一日2回飲まないと
僕は身体の呼吸困難を止める方法はそれしかないんですよ。
だから毎回早めに病院に行く事が多々あります。
志葉:
池田さんがイラクから帰国されて、いろいろパワハラというか、嫌がらせというか、
という様な事が何度かあったと思うんですが、
その「原因は何だったのかな?」というのと、
その中で一番つらかった事というのはどういう事だったんでしょうか?
池田:
僕のパワハラの原因は、まず最初に、
僕は仕事で、電話で●に注文をしていたら、
後輩の隊員が、僕が35歳ぐらいでまだ25位の後輩の隊員が
「うるさいから外でしゃべって下さい」って言って、
だけど、その部屋で型番を見ないと●できないので、
型番を見て電話を切って、その「うるさいから外でしゃべって下さい」って言った人間を、
中川っていうんですけど、中川を呼んで、電話を切った後、
「うるさいとはどういう事や」
「これ仕事で僕は、仕事でやっているのに、どういうこどだ」って言ったら、
中川の同級生の友達は「徒手格闘」という自衛隊で人を殺す格闘技があるんですよね。
徒手格闘ってテロ活動でやるんですけど、徒手格闘っていう。
で、徒手格闘の教官がいきなり入ってきて、
僕の胸を手のひらで思いっきりドーンッ!と押して、僕は2m位吹っ飛んだんです。
それで僕はすぐ、すぐに胸が苦しくなって、痛くなって、
病院にすぐ、通院で行きました。
そして通院して帰ってきた時に、もう、隊長を含め基地のナンバー1、ナンバー2、
隊長、副隊長、総括班長、あと人事幹部、6人か7人対僕で、
通信隊長もいましたけど、
「全部池田が悪いんだ」「全部池田が悪いんだ」と言われて、
僕も納得いきませんから、じゃあ、自衛隊にある「警務隊」という警察と一緒なんですよ。
自衛隊は警察に届けて被害届を出せないんですよ、警務隊じゃないと。
で、「警務隊に僕は連絡しますから」そうい言うと、
救難隊長という一番お偉いさんが、あの、あの
「池田、警務隊長に電話した瞬間に池田は自衛隊におられんようにしてやることになってる」と言われて、
それで翌日の朝自分の、
自分は通信員だから、テンキーという暗号のパスワードを打たないと部屋に入れないんですけど、
2回間違えて、「あれ、おかしいな」と思って、
3回間違えたらちょっと危ないので、もう一回変えないとダメになるので、
それでピンポンを鳴らしたら僕の後輩がまた出てきて、
「池田さんはもう通信班には入れませんよ」という事を聞かされて、
「え?」と思って。
なにも僕、僕に前もって話も無かったのに、「入れませんよ」という事になって、
僕は何処に行けばいいのか?
宙ぶらりん状態になっていろいろ探したら、
本当に仕事がキツイ基地業務小隊という、なんでもする仕事なんですけど、
もうその仕事は半端なくしんどくて、
志葉:重い物とか運んだりする
池田:
そうなんです。
段ボールが必要だったら段ボールを、もう体が痛くて持てないのに、無理やり「運べ」とか、
その上司が無理やり「走って来い」とか、
「なんでこんな所でゆっくりしてるんだ」とか、すっごい嫌がらせをとことん受けて、
「もうこれはダメだ」と思って、僕は依願退職に至ったんですけど、
結局は僕は●でたたかれたのは、
警務隊が捜査してくれて僕は完全に白だったんですよ。
他に一切手を出していなくて。
相手は認めたんですよ。
だけど認めたけれども、もっと偉いさんがきて、「示談にしよう」というとになって、
僕は納得が絶対にいかなかったんですけれども、
「おまえのためにわざわざ飛行機に乗って、埼玉県の入間基地から来てるんだぞ」
という事を上司達から言われているので、
「もうこれは仕方がないな」って。
それも、その、「飛行群司令」というんですけれども、
「飛行群司令」もわざわざヘリコプターで来なくても、ヘリで来なくても輸送で来れば、
ヘリできた方がお金もかかるし、これも税金なのに、ちょっと矛盾してるかなと思って、
それでその人隊長と、殴った人間の前で、「示談」という事で。
僕は殴られて1万払わされました。それだけです。
志葉:
自衛隊ってかなり上下関係が厳しいですよね、先輩後輩。
そのきっかけとなった後輩の人がですね、「うるさい!」
普通はそういう口は利かないと思うんですけれども、
そういう口を利かれるような状況が帰国してからあったという様な感じなんですか?
池田:
新潟基地に行った時にはまだそれほどでもなかったんですけど、
症状がだんだん悪化して行くうちに、だんだんだんだん、なんか嫌がらせとかが。
それで僕が身体障害者の手帳を交付してから、
それからもう、特にひどくなりました。
志葉:
川口先生もちょっとその事に触れていたけれども、
その「お前の怪我は治ったんだ」という事を執拗に求められた訳ですよね?
池田:そうです。
志葉:
「大したことないんだ」
「治癒したんだ」という事を。
池田:はい。
志葉:
で、これは前見せてもらった診断書なんですけれども、
「政治的な理由により回復」みたいなね。
「政治的圧力により回復」みたいな、すごい事がカルテに書いてあったんですよね。

池田:
はい、僕は無理やり自衛隊の方から「治癒しろ」という提案を、幹部二人が来て、
1回目に来て症状を聞いて、
2回目にはもう診断書を「こういうふに書く」という診断書を医者に、
顎の方と肩と、頚椎の方も医者に書いてもらうよう出したんですけど、
その時に個室から幹部二人に出てもらって、医者の先生と二人で話し合いまして、
「池田さん、これでもいいんですか?」って言われたんで、
「政治的圧力により治癒」という一文を残して下さいと、二つの病院にお願いしました。
納得いかなかったからです。
志葉:
まず、撥ねられてからこっち、その、無かった事にしよう、無かった事にしようというね、そういう圧力があって、
その中で症状が悪化するし、
自衛隊の中での立場はどんどんどんどん悪くなっていくし、というようなことで、
正直…まぁ、自殺を考えた事もあったと聞きますが、
やっぱり辛かったですよね。
池田:
はい。
自殺は何回も考えました。
もうこの先、生きとっても夢も希望も無いと。
「自衛隊に勤めとっても、おまえは射撃、銃も撃てないし、体力測定も受けられない身体だから、
階級は一切上がる事は無い。給料も一切上がらない」
と上司にさんざん言われ続けてきて、
この中からやりたいものも、もう無くすし、もうこんな目にあっているし、
もう本当にきつい仕事に最後は回されて、辞めるしかないなと決断して、依願退職に至りました。
志葉:
池田さんの事件の直前ですよね。
陸上自衛隊がイランのサマワから撤退して、
それで当時の小泉純一郎首相がテレビとかでもこういう様な事を言っていたのが、演説したのが映っていましてね、
「ひとりの犠牲も無く、よくぞ無事に帰って来た!」みたいなね。
多分池田さんが戻ってきてもそういったパレードというか、式典があったと思うんですけれども、
そういうセリフを聞いてどう思われました?
池田:
自衛隊はもう完全に嘘の組織、嘘の集団。
もう、嘘の塊で塗りつぶされた集団だと思いました。
もう本当にそれを聞いて憤りを感じました。
志葉:
んー、やっぱりお話を聞いていると本当にもう、ヒドイ、ひたすらヒドイとしか言えないんですけれども、
どうでしょうね、どう思われますか?
たとえば今後ね、自衛隊がどんどん海外派遣に出るようになって、
かなり危険な紛争地というか任務に就くようになって、
ま、そういうようなことになったら、
「もしかしたら池田さんみたいな人がこれからも何人も出てしまうんじゃないかなぁ」
と私は懸念しているんですけれども、
池田さん本人はどう思われますか?
池田:
僕自体は、あの、僕みたいな人間がまた第二第三と莫大に被害者が出ると思います。
日本の自衛隊は完全武装してってなってそういうふうになれば、
僕は死人も出ると思うんですけど、
国は多分死人に対しても大した慰謝料の何も払わないと思います。
志葉:
ちょっと、立場的に言える事と言えない事があるんじゃないかと思うんですけど、
イラクにいた時もですね、いろいろそういう、池田さん以外のそういう話があったというような事は、
前にちらっと聞いた事があるんですが、
差し支えない範囲でちょっと
池田:
僕は通信で、事件とか事故とか、速報ですぐに航空幕僚長の方に情報を送るんですけど、
いろいろな、いろいろな事件事故が相当起こっていました。
事件事故、言える範囲のはあんまりもうないんですけど、もっと話すとちょっと僕も罰せられるので、以上です。
志葉:
えーまぁ、押して知るべしというような状況ですよね。
まぁ、私も取材している中で、なかなかね、確証をつかめないんですけど、
こうやって証言してくれる方がほとんどいないですから、なかなか掴めないんですけれども、
たとえばその、私が聞いた話の中では、
たとえば、「米軍と撃ち合いになってしまった」とか、
それは「お互い間違えて」という事ではあるんですけれども、そういうふうな事があって、
その時のトラウマで少しおかしくなってしまった人がいるとかいないとか、
ちょっと、あくまでもあの、確証の無い話ではあるんですが、
そういうふうな事を聞いたりはしています。
ただ、池田さんは守秘義務があるので、今ここで全部話してしまう訳にはいかない所もあるんでしょうけれども、
ま、「察してくれ」という事でしょうね。
戦場に行けば当然いろいろな事が起きるというような事ですね。
1:24:42
近藤昭一先生
1:30:58
質問1:
いま生活支援というお話が出たんですけれども、
向こうへいらしてこれだけ体が動かなくなって、とっても痛い思いをしているのに、
生活だとか、体の治療に関してとか、それから今後の生きて行くためのお金とか
そういうものは一切支援がないんでしょうか?

川口弁護士:
先程の私の説明の中で今の状況をお伝えしていなかったのですが、
池田さんは今、開口量が1ミリですね、口の開口量が1ミリとその他いろいろな障害が残っていまして、
いまお住まいはご実家がある出身地の大阪の方に移られてお一人で生活されていますが、生活保護を受けています。
で、裁判を起こす前から、症状の等級を打ち切った。
症状の等級が認定されないとお金が出てこないので、
ずっとほったらかしにされていたものですから、提訴する前の段階で入間基地の方に私たち弁護士が行ってですね、
「はやく等級を出せ」という事をせまって、
裁判になった後もずっとせまっていて、「もうじゃあ裁判を起こすぞ」と。
「別の裁判を起こすぞ」と言っていた時に、去年の12月にやっと障害の等級が出ました。
10級という、かなり低いものでした。
こちらとしては3級相当だという事で請求している訳ですけれども、
かなり低い「一時金で終わり」という事で、
一時金の金額は申し上げられませんが、出てもですね、生活保護のお金を受給する以上、
条件として裁判で入ったお金があれば、その治療費とかそういうので
生活保護で使ったお金に全部返せという条件が付いていてですね、
一時金をもらってもそっちにいって生活保護に返さなければいけないと。
今後も生活保護を受けて行く中で、ここから裁判で勝ってもですね、
過去の生活保護の需給のお金を返さなければいけないという事になっていて、
なんとか生活保護ということではなくて、なんとか池田さんが自立できる道は無いかなと思っているところで、
生活を支えていただける事はありがたいんですけれど、
なかなか、ここにおいでのみなさんはカンパ義務があると思うんですね、どんどんカンパしていただく。
いろいろあるのでなかなか難しいかもしれませんが、
そういう形で大阪や名古屋とかでささえようとは努力はしていますけれど、
お金の形でなくてもかまいませんので、いろいろな形でこういう声を広げていただくということを
今の状況としては生活保護のお金で全部、裁判で入ったら、
今回の一時金も入ったらそれで補てんという事になっちゃうので、
いろいろ厳しい状況にあることは事実です。以上です。
質問2:
この自衛隊の派遣の流れ、
自衛隊の内部から行きたくないとかそういう事は言いづらいと思うんですが、
そういった場合に市民の方で「行くな行くな」と、「行かせられない」という声は、
自衛隊の内部の人達にとっても実はありがたいことになったりするんでしょうか?
池田:
自衛隊に入ると、そもそも「上官の命令に従う義務」というのがあるんですよ。
だから上官が「どこに行け」夜中だろうがなんだろうが、
上官が「トラックで飛行機の部品を運べ」って言ったら絶対にやらなきゃいけない。
それに「いやだ」と言っちゃいけない義務があるんです。
上官の命令に服従に。
自衛隊の7大義務の中の一つです。
これで、わかりましたかね。
志葉:
拒否権は無いという事ですよね。
ですから、それが、たとえ命がかかっている話でもということですね。
池田:はい、そうです。
志葉:
だからまぁ、自衛隊をどこに派遣するのか?というのは主に防衛省のさらに上の総理大臣とかそういった、
要するに政府ですよね、政府がどう動くかという事によって決まるわけであって、
自衛隊員一人一人はもうそれは、その命令に従うしかないわけですね。
日本は民主主義国家ですから、例えば「政府がどういう安全保障政策を取るのか」とか、
そういった事はですね、結局は国民一人一人の意志と決定に基づくものだと思うんですよ。
ですからやっぱりですね、結局は我々がひとりひとりが頑張らないといけないという事なんですよね。
川口弁護士:
今のちょっと補足というか、反論するつもりはないけれど、
単純に民主主義じゃなくて違憲民主主義ですよね。
憲法で決まっているから今自衛隊は海外で戦争をしない訳ですよ。
まさにアメリカの戦争につき従って自衛隊がどんどん出されようとしているんです、憲法を壊すためにね。
憲法のたがを外されたらそういう事になってくる訳ですから、
今一番危ないよと言っているのは、
民主主義で私たちが決める。
憲法なんか関係ないと。
国民が選んだのは私たち(安倍政権)で、
「私たちが必要だって言うんなら何でもできるんだ」という発想なんですよね。
そうじゃなくて、憲法のたががちゃんと今、はまっているはずなんですよ。
それを憲法のたがを外して戦争できるような国にしようとしているわけですから、
まさにその、池田さんの様な犠牲者を今後作らないためには、憲法の縛りをきちっとさせていくんだと。
だから、憲法を壊してしまうという様な事にはきちんとあらがっていかないといけないでしょ。
というところだと思うので、是非池田さんの様な方を出さないように、
自衛隊は海外に行くなとか戦争に戦地に行くないう声を出すのは、まさに決められる前。
今です。
憲法を壊されようとしている今こそ声を上げて、
そういう国にしないように憲法を壊さないんだという戦いを作っていかなければいけないと思うので、
是非、国会の中でも立憲主義という事をきちっと、壊される事にあらがう議員も沢山いますので、
そういう議員の方達と連携しながら憲法被害にあらがっていく。
それが池田さんの様な人を出さない事に繋がっていくと思うので、
そういう意味でも声を上げていくことが非常に大事なんじゃないかなと思います、以上です。
<集団的自衛権:元内閣官房副長官補柳澤協二さん(2)>抑止だけが戦略ではない2/28(文字起こし)
私がよく申し上げているのは
自分が経験したイラク派遣でありますけど、
撤収の際に小泉総理が記者会見をする、その時に総理に私が申し上げたのは、
「総理、この自衛隊は1発の弾も撃たずに見ずに、ま、交通事故はあったけど、
一人のけが人も出さずに無事に帰ってきた。
これがすごく大事なことで、なかなか簡単にできる事じゃないんです」という事を申し上げたら
小泉さんも「うん、そうだ」という事で、記者会見で盛んにそれを強調しておられた。
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2014/03/01
伊達市にお住まいのシマアケミさんの手紙
1:16:25~http://youtu.be/x4n14TcK79U?t=1h16m25s
3年目を迎えて
本日は発言の場所を頂きながらこの場所に伺えなくて残念です。
皆さんのお声をお聞きしたかったですし、私もじかにお伝えしたかったのですが、
家族の入院のため福島を離れることができませんでした。
私の住む伊達市の現状を少しお話したいと思います。
伊達市は福島県の北部に位置し、計画的避難区域になった飯館村の西側で、
特定避難緩衝地点に指定、1年半後に解除された地域を含む市でもあります。
この特定避難緩衝地点については住民はかなり翻弄させられました。
いまだに解決はされていません。
住民同士の分断もそのままです。
学校教育現場においても子どもたちは精神的にズタズタにされたままです。
そのような環境であるにもかかわらず、
行政からは安全安心を刷り込む様な広報が配られ、
教育現場でも「放射線教育」と称して、放射能の安全刷り込み教育がなされている状況です。
復興や風評被害防止の流れの中では、真実さえも見えなくなり、
起きてしまったこともまるでなかった事のようになってきています。
放射能の危険性はいつしか、個人個人の「気にするか、気にしないか」という精神論にすり替えられてしまいました。
確かに事故から3年経ち、セシウム134の半減期が過ぎたおかげで
なにもしなくてもモニタリングポストが表示する空間線量は下がりました。
下がったとしても、事故前に比べるとそれでも10倍ぐらいです。
土壌汚染はかなりひどいままです。
通学路の路肩の土壌で約10万ベクレル/kg
地上近くで3~10マイクロシーベルト/h以上の汚染も点在しています。
「その部分を取り除いてほしい」とお願いしても、行政では放置したままでした。
「仮置き場がない」という理由からです。
だったら線量が高い場所を除染が終わるまで立ち入り禁止にするとか、
何かわかるように目印をつけて下さいとお願いしても放置されたままでした。
「高い場所があっても、その場所にずっといる訳ではないでしょう」
「道路ならば数秒で移動するでしょう、だから影響はありません」と、行政や国から言われました。
その場所の線量が高いと知らない人達、特に子どもたちがその場所だけを避けて遊んだり歩いたりする筈がありません。
子どもたちの行動を見て下さい。
そんな場所で座り込んで砂をいじってあ遊んでいます。
そんな遊びも事故前なら微笑ましい事でした。
今はもうそうではありません。
この環境での砂遊びや草むしりが健康に影響を与えないなんて、誰も言えないと思います。
もちろん子どもたちへの影響だけではありません。
私は通学路をどうしてもそのままにはしておけず、
汚染された土壌を自分で取り除いて、自分の庭に保管するしかありませんでした。
自宅の庭も自分で除染しました。
土嚢袋100袋以上になりました。
「自分で除染するなんて」と否定的な意見もあるでしょう。
でも、避難できない私にとって、毎日の生活をそこで続けていくためには自分でやるしかなかったのです。
そんな住民は沢山います。
子どもたちのために今すぐ線量を低くしたいと思えばそれしかありませんでした。
そんなお母さんたちに対して、
「子どもたちの被ばくを選んだバカな母親」という事を言う人もいます。
とても、胸が張り裂けそうになります。
自分のしている事はこれで良いのか?このままでいいのだろうか?という葛藤ももちろん出ています。
そのような3年間を福島で過ごした私の中では、ある言葉を受け付けなくなりました。
それは「絆」「復興」「風評被害」
とてもじゃないですが受け入れられません。
全てごまかしの言葉に聞こえます。
「復興」ってなんでしょうか?
現実を見て下さい。
「風評被害」って誰のための言葉でしょうか?
生産者のための言葉ではないはずです。
2011年、激しい余震が続く中、
多くのお母さんたちが、なぜか毎日毎日涙が出ていたという話を聞きます。
もちろん私も家族がいない時には涙がこぼれ落ちていました。
子どもの前では明るく元気にと毎日必死でした。
そうしないともたなかったのかもしれません。
2012年、現実がだんだんと見えてきました。
しかし何故か「原発事故での影響はなし」という結論ありきの県民健康管理調査が行われ、
福島県の医療機関に対して疑問が出てきました。
県民健康管理課に直接電話をしたり、国に電話をしたりしても、ますます不信感が募りました。
2013年、現状は何も変わらないのに帰還事業が盛んになりました。
なにも変わっていないのに。
伊達市は「地上1cmで3マイクロシーベルト/h以下ならば安全だから除染はしない」という方針でした。
除染にはお金がかかるし置く場所もないから、どこかで線引きをしないといけないからという判断です。
私たちはそんな線引きでどうやって暮らしていけばいいのでしょうか?
放射能汚染を忘れて生活しなさいという事ですか?
だいたい福島県伊達市というひとつの市が放射能汚染の線引きをしていいのでしょうか?
伊達市だけの基準は、私にはどうしても納得ができませんでした。
「除染なんかしたって仕方ないでしょ」とも言われます。
私だってよく知っています、除染の限界も。
でもどうすればいいのかわかりませんでした。
やはり自主避難しか道は無いのでしょうか?
出来たならもうすでにしているでしょう。
それが出来なかった。
いろいろな人から「自己破産して家も土地も全て捨てて行きなさい」と言われました。
「年老いた親も親戚も全て捨てて行きなさい。行ける人だけでも行きなさい」と。
自主避難はそうも簡単ではありません。
タイミングもあるでしょう。
今現在それができる状況ではないのです。
国や行政からは帰還事業の声ばかり聞こえてきます。
その中で声を上げることもできない状況です。
原発事故の責任はうやむやにされ、今度はすべて自己責任、こんなことってありますか?
あれから3年になります。
遠い昔の様な気もしますが、でもまだ3年です。
何一つ始まってさえないと思っています。
今年1月26日に行われた伊達市長選挙で、現職の市長は公約を追加除染に急きょ転換して当選してしまいました。
しかし残念ながら市長の考えは、年間5ミリシーベルト被曝容認のまま変わりありません。
行政だって板挟みで苦しいのかもしれません。
でももっと住民の声を吸い上げて国にあげていってくれないと、行政の意味がありません。
声を上げられない人達もいます。
だからこそ気が付いた人から、声を出せる人からどんどんあげていかないといけません。
3年経ちましたが何も変わっていないし、逆に諦めも出てきて悪化しているように見えます。
「風評被害」とか「復興」という言葉でごまかさないでください。
私たちはこれ以上切り捨てられたくありません。
果たして日本政府は本当に放射性物質の汚染について前代未聞の事で分からなかったのでしょうか?
広島長崎での原爆経験、チェルノブイリ原発事故、原水爆実験でのマーシャル諸島などでの被爆、
第5福竜丸事件も、世界にはもっともっと放射能汚染のデータがあったはずです。
飛行機の搭乗とか医療被曝と比較しなくても、
過去の放射性物質の被ばくと比較すればいいじゃないですか。
データもある筈です。
知っているでしょ?
知っているからこそこの3年間国や東電や県のやってきた事は被害を小さく見せる事だけだったのではないでしょうか?
県の健康管理調査を見てもハッキリわかると思います。
被害をできるだけ小さく見せようとすること。
そのために私たちはあらゆる方向で翻弄させられ、
住民自ら分断するように仕組まれてしまったのではないかと思っています。
被害者本人から被害を語れなくされています。
被害を語っても自分たちにはなんにもよいことがないからです。
「実害」なのに「風評被害」という言葉でごまかされてしまっています。
差別される恐怖。
この原発事故被害とは矛盾ばかりを生み出しました。
被害にあったのに無かったかのようにしていくのです。
全て切り捨ての考えでしょう。
私たちは今までの被ばく者の方々が味わった事を無駄にしてはいけないのです。
どんなに苦しく悲しかったか。
声を上げることもどんなに勇気が必要だった事か。
私は当事者になってまだ3年ですが、
被ばく者の方々の悲しみや苦しみがちょっとだけ理解できました。
今日ここに言葉を寄せる事でさえ身構えてしまいました。
それだけ相手は大きいのです。
でも泣き寝入りはしたくありません。
切り捨てられたくありません。
事故から3年です。
まだ3年です。
おかしいことはおかしいと、声を出させて下さい。
【福島原発告訴団】
「沢山の被害者がいるのに加害者がいないのはおかしなことです」武藤類子さん3/1(文字起こし)
―こども・被災者支援法の行方― より
森田省一さん
双葉郡楢葉町出身。「那須塩原放射能から子どもを守る会」副代表。那須塩原市在住。
(音声)
2013年12月15日
宇都宮市 宇都宮大学峰キャンパス大学会館2階 多目的ホール
私は森田というんですけれども、資料の中にもありますが楢葉町で双葉郡楢葉町。
私の住宅は原子力発電所から15.2km直線で。
南の方に避難したところに家がありまして、
こちらの方に、那須塩原の方に今厄介になっております。
私の家、15.2km南にある自宅の放射能を、自宅に戻るたびに測っているんですけれども、
今は庭が0.5マイクロシーベルトから雨戸の下は4マイクロシーベルト位
道路全体で0.5からちょっと高いところで0.7、それから1.2ぐらいのところに自宅があります。
那須塩原市で私は子どもを守る会、放射能から守る会の運動に参加をさせていただいているんですけれど、
なぜこの運動を始めているのか?って言うと、
放射能の汚染が、私の家の汚染と那須塩原市の汚染はなんら違いがないんです。
それで同じ被害を受けて同じ放射能で差別を受けても何の支援もない。
こういう事で大変疑問を持っていまして、
それで私は出来るだけのことをやっていきたいなと、こんなふうに考えている訳です。
で、アンケートをですね、清水先生が取られたアンケートをちょっと見ていきますと、
那須塩原市の那須町の地域で生活をしている人たちの、
お子さんを抱えてですね、生活をしている人たちの心理と言いますか、
よそ者の、よそ者の私自身は大体こんな感じだろうなっていうのはあったんですけれども、
こういうふうに具体的に数値に出していきますと、
85%にも上る人達が不安であったり不安を感じるというふうな回答をしていますし、
そうではなくても具体的な行動にまでは至らないという人が77%いらっしゃると。
それから子どもたちの将来に対する不安ですね。
これは今もそう思っているという人達が62%もの人たちがいる。
これは私たちがですね、私はこの地に住まわせていただいて何を考えているか?というと、
いろいろ放射能のことを勉強するとか、知識を広げるというのも大事ですけれども、
それをしたうえでですね、この地でなにをすべきなのか?
どうやって自分は生きていけばいいのかなという事をいつも考えています。
それを考えてですね、この地になにか問題提起が出来たらいいなというふうに思いますし、
原子力発電所の事故がある前から人々の意識というのは、
原子力発電所の事故が起きてですね、こういう被害が起こる、
起こり得る背景が私たちの中にもともと潜んでいた訳ですよね。
本当に目をつぶってきた。
それが今度の大地震で暴露されたといいますか、明らかになったわけですよね。
誰の目にも嘘だと明らかになってしまった。
津波に多くの家が流されて、そこに多くの●があったということも明らかになった。
いろんな事が社会で明らかになったんじゃないかと私自身は感じているんです。
で、あともうひとつはですね、被災者支援法関係なんですけれども、
被災者支援法、福島県内33自治体が住居指定地域が栃木県の白紙市町になっていますけれども、
こういう実は「差別」というもの。
「差別」ですよね。
同じに放射能で汚染をされているのに、この地は指定されない。
準指定。
指定されても何するかもまだはっきりしない。
こういういい加減なものになっている訳ですけれども、
市民の流れと全く逆の方向に行っている訳ですね。
今の現状を見ますと非常に問題があるわけですけれども。
ただこの状況というのは支援法だけではないんですよね。
ご存じだと思いますけれども、
たとえば子どもさん、避難した人も避難しない人もそうですけれども、
子どもさんに一時金で40万円、大人には8万円。
これは一時金で支給されていますけれども、これは福島県内の23自治体に限られています。
33自治体ではないです。
いろんな差別がもう、
今度の原発事故では全て差別で成り立っています、原発の放射能に対する対策というのは。
これは原発の周辺の色分けされている、
帰還困難区域と居住困難区域ともうひとつは避難指示解除準備区域、こういう物の色訳です。
これは同じ色でも自治体によって、対応によってバラバラです、賠償の実体というのは。
それからこの枠から20km離れたところ。
ここは賠償を打ち切られているんですね。
地域によって違いが出てますし、さまざまに差別がこの中にあります。
支援法の典型的な差別、支援法と同じようにですね、
典型的な差別が実は原発周辺に今現存してあるんです。
ですから今度の放射能の被害というのは全て差別と分断です。
対応、政治、東京電力の対応というのは全てそうで支援法に限ったものではないと思います。
これが極めて問題な訳ですね。
それで私はこれから放射能から子どもを守る会としてですね、私自身が思っているのは、
じゃあ、全体の差別をなくしたらいいんですけれども、
非常にそれは困難ですし、政治を根底から変えなくちゃいけない。
これは非常に困難性を伴いますけれども、
私たちが、自分が出来ることは何なのか?各自が出来ることは何なのか?と言うと、
やっぱり清水先生がアンケートをとられた、あの地のお母さんたち、
子どもたちの現状と言いますか、不安な気持ち。
この気持ちに●してわたしは音頭するしかないと思っているんです。
大事なのは解釈することも大事ですけれども、現状をどう見るのかということも大事ですけれど、
じゃあどうするのか?というのが一番大切な事なんじゃないですか?
どう生きていくのか?自分たちが。
この差別と分断の世の中で、何をしてどうして生きていけばいいのか?
これが最も大切な事なんじゃないかなというふうに思っていまして、
いま、守る会もどういう運動をしていくのか?という事を一生懸命考えてですね、
代表といろいろ意見を交わしてですね、そういう事を考えてこれからやっていこう。
この地で少しでも自分の意識がですね変わるきっかけをつかめる事が出来ればいいな、
こんなふうに考えています。
来年の4月19日、小出裕章さんをですね、那須塩原市にお呼びして講演会をやる予定でして、
それに向けて今いろんな取り組みをして頑張っているところです。
よろしくお願いします。
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さよなら原発11.10九州沖縄集会
えー、続きまして秋山さんですね。
日本人初の宇宙飛行士であります。
1990年にソ連のソユーズに乗りまして、初めて日本人として宇宙に飛び出し、
地球に帰ってきたら福島県で農業を始めましたけれども、
福島の原発事故で全てを失い、いま放浪の旅に出ています。
よろしくお願いします。
秋山豊寛さん
今日お集まりのみなさん、本当にこんなに大量の方々。
素晴らしい事だと思っております。
わたくしは16万分の1でございます。
福島の原発から32km地点。
30km地点まででしたらいろんな保障がもらえるんですけどね、
私はまだ保障を全く受けていない。
退職金などを全部つぎ込んで、福島の山の中で静かに暮らそうと、百姓仕事をやっていた。
シイタケ屋をずーーーっと16年間やってきました。
福島ではまだシイタケが作れないんです。
樹木の中に放射性物質が蓄積されて、それを切り出してシイタケを作ることができません。
東北の方々で山菜が食べられないんです。
事故がいったん起これば、その地域の人達は捨てられるんですよ!
私も捨てられた一人だと思っています。
気持ちとしては在日日本人のつもりです。
今の政府が私を代表しているなんて到底思えない!
みなさんはどうなんですか?
今の政府は代表していますか?
倒さなきゃいけないんですよ、あんな政府は!
私は今京都に住んでいます。
学校の教員をやって、細々と暮らしています。
契約社員ですから、後3年経つとどうしたらいいか分からない。
捨てられるという事はこういう事です。
自分の老後というものが見えなくなってしまう。
おそらく玄海の原発が事故を起こせば、
ここの人々のほとんどが、暗い将来しかなくなります。
その事を考えたら、それこそ今はやりの言葉ではないですが、
「今しかないでしょ!」
立ち上がるのは今なんですよ!
「九州の男たちは元気が良い」って言う。
もちろん「女性も元気が良い」って言う。
元気が良すぎて困る人もいるかもしれませんが、
この力を「再稼働阻止」に、その1点に向けて行きましょう!
頑張って下さい。
2012年6月14日
「ちょっと待った!再稼動」秋山豊寛氏6/14たねまきJ(内容書き出し)
続きを読む
2013年10月13日
No Nukes Day 原発ゼロ☆統一行動
-福島を忘れるな・再稼働を許すな-
鮫川村はいわき市のとなり内陸側に入ったところにある村です。
そこで昨年の9月から起きている焼却の施設についてのお話を伺いたいと思います。
福島県鮫川村焼却炉連絡会
和田央子さん
みなさん、こんにちは。
福島県南端部、茨城県との境界にあります塙町からやってまいりました、和田と申します。
いつも福島に多大なご支援、ご声援を賜りまして心より感謝を申し上げます。
本当にありがとうございます。
原発事故によってもたらされた放射能の被害により、今なお多くの人々が苦しめられています。
少しずつ、確実に私たちの身体を蝕んでいる、放射性物質による健康被害への不安。
仕事や、気概の喪失。
長期に及ぶ不自由な避難生活、家族離散などに翻弄され、疲弊し、
復興ばかりが大きく取り上げられていますが、現実は厳しく、むしろ深刻の度を深めています。
そんな中今福島は、大手メディアがほとんど取りあげない
もうひとつの重大な問題に直面しています。
原発からまき散らされた膨大な放射性物質はあらゆるものを汚染しましたが、
それらの処分の問題が、今私たちに新たに重くのしかかっています。
国は汚染された膨大な廃棄物を焼却によって減容化するという
世界的に例のない方法で処理することとし、
各地に焼却施設を設置する方針を決定しました。
県内ですでに稼働された4基を含めて、合計20もの計画が進行しています。
放射能汚染物を集めて焼却すれば、
焼却灰や気体に放射性物質が何十倍に濃縮され、
二次汚染と深刻な内部被ばくにつながる恐れがあるため、
国際原子力上「厳禁」とされています。
環境省は排気筒から出る放射性物質をバグフィルターで99.9%除去できるとしていますが、
排ガスの排出基準や測定方法は極めて疑問が多く、
「焼却炉周辺において、市民側の自由な測定をさせない」など、大きな不信を招いています。
復興の名のもとに進められる除染と帰還の促進。
そしてそれに伴って増え続ける膨大な除染廃棄物。
これが美しかった福島の風景を一変させています。
早急にこれを処分しなければ復興が進まない。
「さもなければあなたの町は、何時まで経っても廃棄物に占拠されたままになりますよ」
環境省はこのように説明し、専門知識を持たない市町村に焼却施設の受け入れを迫っています。
これは脅迫に等しいのではないでしょうか?
そもそも私たちのかけがえのない土地や水。
自身や家族の健康。
そしてあらゆる大切な財産を汚染させたのはだれなのでしょうか?
なぜ汚染者の罪が全く問われないのでしょうか?
そうは言ってもあまりにも膨大な廃棄物をどこかで減容化しなければならないのだから、
汚染された福島で行うのが最も合理的なのではないか。
そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、ある日突然自宅の裏手に放射性廃棄物線用焼却炉が設置されたと想像してみてください。
殆どの人が恐怖を覚え、反対するのではないでしょうか。
私の自宅から2km以内の鮫川村に突然焼却施設が秘密裏に建設されました。
福島でも奇跡的に高濃度の汚染を逃れた極めて線量の低いエリアであり、
関東のホットスポットよりも低い値となっております。
ここで施設を稼働すれば、新たな二次汚染は免れません。
この鮫川村の焼却施設はkgあたり8000ベクレル以上もの指定廃棄物を安全に焼却し、
減容化を図るための実証実験とされ、
ここで得られたデータを基に、各地で焼却炉の設置をするためのモデル事業とされています。
しかし、その進め方は恐ろしいほど密室で行われました。
僅か30世帯の同意だけで決定され、
村民にも近隣市町住民にも知らされず、住所も非公開。
公道から施設が見えないように設計し、
法的に授けられた環境設備等を逃れるために施設を小型にするなど、
とても国の事業とは思えないルールを無視したやり方に戦慄を覚えるばかりでした。
この焼却施設の説明会では、
地権者の一人が「大切な家族を実験に使わないでくれ」と訴え、
もう一人の若い父親は「かわいいわが子を避難させて離れ離れに暮らすことは堪えられない」
と泣いて訴えましたが、願いは届きませんでした。
建設地区限定の説明会は初め、ビデオの取材を許されず、
すぐそばに居住する私たち隣町の住民は参加を拒否され、
氷点下10度以上の中、会場の外で震えながら中の説明に耳を傾けざるを得ませんでした。
反対していた地権者も次々と説得され、覆されました。
私たちの必死の反対もむなしく、環境省は8月に本稼働に踏み切りましたが、
僅か9日目にして、地響きを伴う爆発を起こし停止に至りました。
が、絶対安全とされていたモデル事業は破たんしましたが、
環境省は爆発の事実を認めず、
「ボンッ!という大きな破裂音」と称して事故を矮小化し、
原因は作業員の人為ミスであるとして、更迭することで責任逃れを図っています。
そして、施設の全面的な増改築と、作業員を大幅に増員することで再稼働を目指しています。
施設に不安を持つ複数の住民はすでに鮫川村を去り、今後も増えるとみられています。
各市町村においても同様に、
施設建設によって新たな避難者を生み、帰還の妨げになるとして反対する声が上がっていますが、
「復興」の掛け声にかき消され、建設地抜きで進められつつあります。
爆発事故をきっかけに、私の住む塙町ではバイオマス発電施設が白紙撤回となりました。
住民の粘り強い運動の成果です。
このバイオマス発電施設は一日340トンもの
とてつもない量の森林除染廃棄物、そして、震災木質がれきを償却する計画でしたが、
同じような施設はさらに少なくても5カ所候補が上がっています。
深刻な内部被ばくをもたらすとされる危険な施設を子どもたちが住む町に建設させてはなりません。
高汚染地帯の無駄な除染と帰還をやめ、
汚染物は排出元である原発周辺において、汚染者負担のもと処理を行うよう強く求めます。
この環境省が進める焼却政策を許せば、
福島、そして日本は、新たな放射性物質の汚染が進むことは必至です。
皆様どうかこの問題に注目し、施設建設反対に一緒に声をあげていただきますよう強くお願い申し上げます。
ありがとうございました。
ーー関係ブログーー
「これは最初から出来レースなんです。こんな犯罪を許せますか!」
佐藤和良氏(いわき市議会議員)9.1さようなら原発講演会(文字起こし)
29日に鮫川村に放射性廃棄物の焼却施設。
これがひどいんです。
環境アセスをしなくてもいいということを、環境省が法の抜け道をつくって、
自ら住民の反対を押し切って稼働させた焼却施設があるんです。
そしたらこれが爆発したんですよ、実は。29日に。
コンベアーの部分がですね、まだ原因を環境省も発表していませんけど、
3mにわたって、ステンレス製の砲艦が爆裂して裂けてしまいました。
あれだけ住民、これは鮫川村の地権者も反対をした。
あるいは北茨城市の市長さんも反対した。
我々いわき市議会も「おかしい」ということで問題にしてきた。
そういう周辺住民の声を押し切って環境省がそういう事を今福島県内でやっております。
それが爆発しました。
これこそ見過ごすわけにはいきません!
福島民報 2013/08/31 09:23

放射性物質で汚染された稲わらなどを処理する鮫川村青生野の仮設焼却施設で
29日に異音が発生し、運転を停止した問題で、
「主灰コンベヤー」と呼ばれる装置を覆っているアルミ製ケースの溶接部分が
約3メートルにわたって裂けたことが30日、環境省の調査で分かった。
「原発事故で汚染された稲わらや牧草、 除染作業で出る木の枝や落ち葉など」
鮫川村仮設の焼却施設本格稼働
福島県のニュース NHK福島放送局 08月19日
鮫川村の焼却施設本格稼動へ
(前半)もうひとつの選択肢=「脱ひばく」集団移住権利法実現の課題と展望
6/16 松井英介氏(内容書き出し)
そして問題はこれ、
ひとつ大きい問題は福島県内の焼却物の実験施設を鮫川村という所で始めようとしていると。
しかもそこに配備される焼却炉というのはですね、
199kg/時という、非常に小さなものを何十個も並べてですね、
これは要するに排出法の網にかからない奴。

鮫川村というのはこういう位置にあります。
いわきのすぐ隣。
あるいは、茨城県のすぐ北側にある。
「除染・鮫川村・バイオマス発電」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
これは鮫川村というところ。
福島県のちょっと県南の方に入っていくんですけれども、
そこに突然降ってわいたように8000ベクレル以上の農林関係の廃棄物ですね、
それを燃やす焼却場が、焼却実験炉が出来るという事が分かったんですね。
そしてこれは、実に水面下でずっと進められていたんだそうです。
それでここの地権者だけには、30人ぐらいの地権者だけには承諾をとったんだけれども、
他の村の人達は何も知らないままにこういうのが検察され始めていたんだそうです。

0.13という放射線の数値が見えると思うんですけれども、
福島県内では比較的線量が少ないというか、低いところなんですね。
原発から50kmぐらいなのかな?ここ。5~60kmだとおもうんですけれども、
その割には線量が低いというふうに言われている場所です。
<なぜ燃やすの?環境省>
8000ベクレルを超える指定廃棄物を燃やす焼却施設建設着工・中断“鮫川村”
&森林除染木材でバイオマス発電“塙町”/12(文字起こし)
「燃すものが無い」というのは、実は鮫川村も全く同じです。
資料の中に600トンという計画が入っていますが、
実際に燃やすものとして今あるのが、たったの116トンです。
たったの116トンのうち指定廃棄物は28トンしかありません。
もし国が最終処分場にさらに持っていくということであれば、
28トンは10トントラック3台分なんですね。
これに今、環境省は7億円以上のお金を付けて燃やそうとしている。
まったく馬鹿げているとしか言いようがないと思います。
「世界中にある焼却炉の3分の2が日本に…だから燃やしたくってしょうがない」
山本太郎さん2/23ラジオフォーラム(文字起こし)
山本:
ま、基本的に焼却処分というのは絶対に、
日本中のどこでも、世界中のどこでも多分しちゃいけないんですよ、これ。
だから焼却以外の道を探さなきゃいけないと思うんですね。
けど、世界中にある焼却炉の3分の2が日本にあるんですって。
だから燃やしたくってしょうがないという…
「バグフィルターに騙されちゃいけない」青木泰さん講演会前編 (内容書き出し)
「バグフィルターという魔法の杖が、焼却炉についていますので、そこで、放射性物質は99.99%取れます」
そんなふうに言われています。
これを言いだした人は、国立環境研究所の資源循環・廃棄物研究センター長をやっている、大迫政浩さんという方で、
あちこちで、99.99%取れるっていう事を言っている。
アエラで記者に尋ねられた大迫さんは
「煙突から放射性物質は出ません」というふうに答えている。
「出ません」と言いながら、「月刊廃棄物」という、専門誌のインタビューでは、
「今まで市町村の焼却炉で放射性物質とか放射能の汚染物質という物を燃やした事はありません」
「国立環境衛生所といえども、それについての知見とかノウハウはありません」
「したがって、本当に取れるのかどうかというのは、今後の課題です」
などと、同時期に答えている。
専門誌では専門家から抗議の声が嵐のように襲いかかってくるから本当の事を言う対応を取っている。
さようなら原発1000万人アクション 2013年10月13日
No Nukes Day 原発ゼロ☆統一行動-福島を忘れるな・再稼働を許すな-
文字起こしブログ
「生きている間に今の原発の火を全部止めて死ぬ。
これが今生きている日本人のみなさんの責任である」
10/13肥田舜太郎医師(文字起こし)
「高汚染地帯の無駄な除染と帰還をやめ、
汚染物は原発周辺において汚染者負担のもと処理を行うよう強く求めます」
10/13和田央子さん(文字起こし)
「私たちは本当に本質的に
将来の子どもたちが生きていける社会、世界というものをつくらなければならない」
10/13大江健三郎さん(文字起こし)
「いまちょうど私たちは歴史的な瞬間に立ち会っていると思います。
どういう瞬間か?と言いますと、原発をゼロにするという瞬間です」
10/13鎌田慧さん(文字起こし)
シンポジウム「未来への福島、そして脱原発」
出演:坂本龍一 / 桜井 南相馬市長 / YAE / 吉原毅 城南信用金庫理事長 / 藤波心 / 広瀬隆 / スイスより政治家を含む60人の福島視察団 / (財)グリーンクロスジャパン&スイス /
58:15

桜井 南相馬市長
みなさんこんにちは。
福島県の南相馬市からお邪魔しました、市長の桜井勝延でございます。
広瀬さんにあのような形でお話しされると、
私が南相馬に住んでいる事が悪のような感じがいたしますけれども、

あの、現実的に我々はこの原発事故と対峙していかなければいけないんだろうと思っています。
私はそういう意味では最前線に立っていますし、あの現場からはほとんど逃げた事がありません。
逃げた事というよりも、逃げたためしがないわけですけれども、
ここで、今日20分という時間を与えていただきましたので、
「命」という問題をみなさんがどのように捉えているのか、
「命」ということにどういうふうにみなさんが自分自身の問題として考えているのかということを、
原発事故のみならずこの震災で我々が経験させられている現場を通して、
皆さんに考えていただければありがたいなと思っています。
3月11日。
2011年3月11日の2時46分、あの激震がまいりました。
が、その午前中、県内のすべての公立中学校の卒業式で、
南相馬市内の原町第二中学校の3年生の卒業のお祝いに祝辞を述べに行っておりました。
帰ってきて、議会の一般質問を受けておりました。
その最中にマグニチュード9.0、我々のところは震度6弱、津波最大21m、そういう津波がやってきて、
前途洋洋たる若者たちが、残念ながら自宅に戻った瞬間に、津波にのまれて死んでしまう。
南相馬市全体で、被災面積41平方km。
亡くなられた方636人。
ひとりでも自分の知人が亡くなった、肉親が亡くなった時、どれほどの悲しみを覚えるんでしょうか?
それが636人で、110人もの遺体がまだあがっていない。
そういう現実に、南相馬市民が直面をしてるわけです。

3月12日、
福島第一原発1号機、爆発しました。
信じられない事が起こって、皆さん避難をし始めました。
信じられない事が起こったのは、多分霞が関も永田町も同じだったと思いますけれども、
あのときすでに「爆発するであろう」という事が政府内では予測されていて、
さき程の(広瀬さんの講演中の)双葉町も大熊町も、バスが準備されていた。
南相馬は20km圏内に1万4000人住んでいる自治体で、双葉町の2倍の人口、そこだけでも。
双葉郡全体8市町村で7万6000人。
南相馬1自治体で7万1500人いるわけですね。
なぜ双葉郡には…、浪江町にも連絡がこなかったそうですけれど、
連絡がいって、
20km圏内で3番目に人口の多い南相馬市は連絡が来ないのか。
…連絡来ないばかりじゃなかったんですね。
20km圏内避難指示が出ました。
我々はテレビでそれを夕方ようやく知りました。
震災で、大津波で捜査最中で、
避難所を設けて避難所がいっぱいになっている最中で避難指示が出たというのを
我々に連絡も来ませんでしたし、テレビでようやくテロップで見ると、
結果的には国は南相馬市を20km圏内の対象に指定しておりませんでした。
後々知った避難指示の文書によると、南相馬市というのが書かれておりませんでした。
これが実態で、30km圏内避難指示が出た、
屋内退避指示が出た3月15日の日にようやく南相馬市という言葉がそこにあったわけですけれども、
それも我々のところには連絡が来ない。
あの時現場でどんな事が起こっていたか?
津波で亡くなった方々、また、見つかっていない方を、
消防団はじめ多くのみなさんが捜索をしている最中の原発事故ですから、
家族をおいて探せなくて逃げ出さなければならない人もいたし、
家族を見つけるまでは逃げ出すこともできなかった、逃げ出さなかった人達も多くいて、
消防団員は津波であの最中に9名亡くなりました。
消防車両14両、14台流出しました。
地域の行政区の代表の方々が、救うために津波で4名亡くなりました。
原発事故で、あれから2年5ヶ月、間もなく経とうとしておりますけれども、
避難させられた、避難によってなくなられた方々の認定死が南相馬市だけで、428名になっています。
どこかの政調会長の、
「原発事故で亡くなった人間はいない」というような発言が、日本のマスコミから次第に消されていく。
「自民党大勝利、圧勝」
南相馬市内でも自民党の候補者の得票数が多い。
※自民党高市早苗政調会長
「福島第一原発で事故が起きたが、それによって死亡者が出ている状況ではない」
信じられない事ばかりが起こるのですけれども、なぜこんなことが起こるんでしょうか?
「命」が、ある危機にさらされた時に本当に大切だったはずなのに、
今は、生きている人たちは生活することが何よりも大切になってくる。
また一方で、子どもを持つ親御さんは、南相馬市に戻ることをためらっている人たちが多いことは現実です。
一時期6万人、南相馬市から避難しました。
現在4万6500人南相馬市に戻っておりますし、
先ほどの(広瀬さんの講演中の)双葉町、隣の浪江町、飯舘村からも、
南相馬市に避難をして暮らしている市民もおります。
合わせて、今南相馬市は5万1000人ほど毎日暮らしております。
双葉郡は全体でも5000人も戻っておりません。
南相馬市よりも線量の低いところであっても、たとえば広野町、川内村もそうですけれども、
広野町は5800人の町で1割弱。
川内村は帰村宣言しましたけれども、3000人の村で、1000人も戻れていない。
なぜ南相馬市が、同じ20km、30km圏内に役所があるにもかかわらず、
今4万6500人が戻っているのか?
それは、我々避難できなかった方々が1万人弱いました。
市職員を預かって、
市の幹部の中には「もうここから避難をしなければいけない」と言って、
私のところに直訴するような職員もいました。
3月14日。
3号機が爆発しました。
夕方自衛隊が我々のところに入ってきて、
「国が100km避難指示出した」と。
100km避難指示だという事で、役所に迷彩服を着た自衛隊がやってきた時に、
役所職員は大慌てで避難を始めた職員達もいました。
ただ一方で、避難が出来ない人たちがいて、障害者も含めて。
この人達を誰が助けるのか。
3月15日から私は、自分の勝手な判断で、
30km県外に、相馬市・伊達市、そして宮城県の丸森町まで避難をさせましたけれども、
約1500人、一晩で、バスで運びました。
これも全く誰の指示でもありません、私の独断でした。
が、こういったことは日本の政府の中では全く予想していなくて、
私の避難指示を出した事が、後々罰せられることもありませんでした。
3月16日。
NHKの取材を受けて、その直後、朝のニュース7の直後、
電話取材の直後に新潟県の泉田裕彦知事が私のところに電話をくださいました。
「南相馬市市民全員を避難させていいですよ」と。
「新潟県が引き受けます」
そう言って下さったので、その夕方から、「明日から避難をさせる」という判断をして、
新潟方面へ避難を誘導しました。
一時的に、本当に安心をしました。
が、いまどんな事が起こっているんでしょう?
津波で亡くなった方々の命は戻ってきません。
津波を経験していない南相馬市民が圧倒的に多い中で、
「我々だけが原発で苦しまなければいけない」
そういうふうな声を上げる人たちも少なくありません。
「なぜ、南相馬市に戻らなければいけないんだ」という人たちもいます。
我々は「南相馬市に戻れ」といったことは一度もありません。
が、「戻れる環境を取り戻すための努力をする」という事は、当初からしておりましたし、
1日も避難しなかったのは、1万人弱がいる中で、
どうして役所を避難させるような事ができたでしょうか?
ましてや国から連絡が来ない時に、
自己判断で役所を30km県外に移すなんていう事を、なぜできたでしょうか?
南相馬市は幸い国からも県からもそういう判断の連絡がこなかったことが幸いして、
1日も役所を閉鎖することがありませんでした。
地震で上水道が寸断されて漏水状態になっても、
水道職員が、民間の職員が避難しても、
役所職員は自ら漏水を防ぐための仕事をして、3日間でほぼ水道を復旧しました。
東北電力、東京電力ではありません。
東北電力は私が役所に残るという事を宣言した後に、
隣の営業所長は「南相馬市市長が残るんであれば、私も残る」と言って、
1日たりとも停電をさせませんでした。
東京電力とどれほどの違いがあるかは、
「命」という問題に直面して、ひるまない活動をするかどうかだと思っております。
南相馬市の子どもたちの検診は、ホールボディカウンターの検診は、
7月から始めました。
県内で一番最初でした。
鳥取県からホールボディカウンターをお借りをしました。
9月からは精度の高いキャンベラ社のものを購入して、
これも県内で最初のキャンベラ社のホールボディカウンターで検査をしておりますが、
当初は確かに内部被曝が出ておりました。
が、いま現在は子どもたちは全て検出されておりません。
これは何よりも、先程広瀬さんもおっしゃっておりました
そして、グリーンクロスの方もおっしゃっておりましたけれども、
水、食べ物、食するものに気を使って、検査をして、
検査をした物のみを子どもたちに食べさせる努力をしてきました。
結果として、いま若干内部被曝がある、若干というのは1%程度あるのは、
大人の方々で、「もう自分はこの先長くないから自分の畑でつくったものを食べてもいいだろう」
と思って食べている人の中には、内部被ばくをする人もいる。
今、南相馬市の将来を考えた時に、
さき程の廃炉の問題もありましたし、汚染水の問題もありましたけれども、
東京電力は「40年後には廃炉にす」ま、国もそういう方針で動いています。
みなさんどうでしょうか?
40年後に日本を想像した事があるでしょうか?
ましてや100年前の日本。
1000年前の日本。
100年後の日本。
1000年後の日本を、想像したことがあるでしょうか?
我々は津波に出くわして、1000年前を想像しました。
干拓で作り上げた水田は湾でした。
津波で一瞬に湾になってしまいました。
けれどもそれを再興してもう一度やり直したいという農家の方々は、
今5割を切ろうとしています。
20km圏内では90%以上諦めようとする人たちも出ています。
こういう現実の中で40年後、今一番多いのは団塊の世代以降の人口ですので、
廃炉が確定した時にどれだけの人間が南相馬を含めて生活をしているんでしょうか?
電気がどれだけ必要なんでしょうか?
考えると恐ろしくなるほどいらない世界が現出します。
こういう事に一つ一つ、
今だけを考えるのではなくて、明日を、そして3年後、5年後、10年後、50年後、100年後を考えて、
「今」という事をしていかないと、
亡くなられた方々、私が本当に大切にしていた少女がいます。
ゼロ歳児から面倒を見ていた場所が津波で亡くなりました。
7人中、この家は6人死んでしまいました。
その彼女たちの将来に、我々が言い訳を出来ないような生き方はしたくない。
従って、南相馬市を取り戻したいし、このままにはしておけない。
原発再稼働、そして、原発輸出。
自民党圧勝。
再稼働を進める。
原発輸出をするといいつつ、県内の自民党の公約は全基廃炉。
これが、現場で進められている政治的なまやかし、ですね。
「命」というものと対面した時に、今を生きるのではなくて我々が与えられた命を誰に繋いでいて、
この与えられた地域をどのようにして守り発展して次の世代に移していくのか、
この事が今一番問われているんでしょう。
東京は素晴らしく発展していて、
今朝も大雨が降ったかと思うと晴れてしまって、
毎日素晴らしい生活をしているように見える人たちが多い中で、
田舎は、原発立地地帯は、高齢化をして、
再稼働をしないと自治体の運営もできなくなると言って、
柏崎刈羽が申請を許すという報道がされていく。
悲しい現実以外何物でもないです。
エネルギーは自分たちが使うものであります、間違いなく。
けれども、何のために今使い、自分は何故使うのかという事を
意識して以内人たちが、あまりにも多いのではないでしょうか。
最後に、私があの被災した現場を役所から、
役所に50日間止まり続けて、次の日からあの被災地を走り続けていますが、
素晴らしい命の発見が次々にあるんですね。
天昼顔が花を咲かせ、
小鮒があの被災地を泳ぎ回り、
そして、絶滅危惧種の糸トンボが昼間糸トンボが命を燃やしている現実を見ます。
その時に人間たちは、彼らの命を奪い、残念ながら自分たち中心で生きようとしている。
これが悲しい現実です。
でも、南相馬の我々は、この地域を再興するために諦めずに、
国の官僚にもしっかりとこの現実を見てもらい、
永田町の政治家のみなさんにも、現場というものをしっかりと見ていただいて、
この地域、日本の再興、福島の再興、
そして世界というものに対して我々は今後も発信していくというふうに考えています。
みなさんの本当にご支援に感謝をしながら、
一緒に日本というものを再生し、もっともっと発展させる素晴らしい国にしていきたいなと思っております。
今日はありがとうございました。
ーーー
むずかしい。
とっても。
ため息が出ます。
市長の気持ちも理解できるけど、
けど、難しい・・・
避難したくてもできなかった市の職員もいたかと思うととても苦しくなる。
小鮒や糸トンボを救うために犠牲になる人間がいるかもしれないという事はどうなんだろうか?
だからと言って、簡単に桜井市長が間違っているとも言えない。
けど「逃げる」という言葉いやだ。
そこに放射能があるから、避難しなければいけないんじゃないか。
放射能から逃げないで戦う事は美徳では無いと思う。
でも、町を失えない。
簡単じゃない。
簡単に答えが出ない。
わたしは賛同できないけれど、この市長の考え方も分からなくはない。
だから苦しくなる。
原子力の事故はこうなるから最悪なんだ。
書き出していて、ものすごく辛い気持になりました。
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岩上安身による谷口稜曄長崎原爆被災者協議会会長インタビュー
動画はこちらにあります↑↓
<1.長崎原爆>
大変有名な被ばくした少年の写真・谷口稜曄さん8/9 岩上安身氏インタビュー(動画・文字起こし)

一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだ
26;05
岩上:
あの、ものすごい御苦労をなさって、
そして戦争、これは正しい戦争をやっているんだ。
そして天皇陛下のために死ぬんだという思いで、そういう教育を受けて、
そして、自分が原爆の直撃を受けてですね、
何年間か寝たきりで、社会に復帰して、そしたら社会ががらっと変わっていて、
受け入れるのも大変だったと思うんですけれども、
世の中の価値観ががらっと変わっている時に、なんとか動いて働きだすのも苦しかったと思いますが、
そういう社会の変わりようと言いますかね、
信じていたものが全然違う事になっていた時の驚きとかはどんなものだったんですか?
谷口:
そうね、
よく、いろんな人たちがね、「日本のために働いてくれた」と、これは今でも言いますけど、
「誰が日本のために働いたのか?」という事ですよね。
本当に日本のために働いていたならね、こんなに国民は苦しまなくていいんじゃないかとね。
まさに戦後直後あたりはね、戦後直後、その頃になると食べ物はないしね。
住むところも無いし。
そのなかでもね、言われますよね、「国のために働いた」って。
誰が「国のために」と言いだしたのか?っていうね。
今でもですね、「国のために亡くなった人たちをね、祭っているんだ」と、こう言っているけど、
岩上:靖国神社ですね。
谷口:
ええ。
それだって本当に国のためであったのならばね、
日本国民がね、苦しまなくていい状態になっているわけですけれども、それが全くなっていないと。
だからそれが「国のため国のため」と言いながらね、
それは確かに戦争に駆り出された人達はね、亡くなっているわけ。
その人達は けど、それ以外のね、
戦争に行かなかった人たちもね、ものすごく沢山の人達が殺されていった。
それは国のためにね、戦争をした、その「国のために」と一緒ですから。
だからその事について全くね、知らないと目をつぶったような状況でね。
岩上:今日でも目をつぶっているとお感じになりますか?
谷口:そうですね。
岩上:
お感じになります。
「国のため」と言っても「国民のためじゃなかった」という事ですか?
谷口:
そうですね。
一部の人のためのね、一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだということでね。
そういうふうにね、考えられていますね。
核と人類は共存できない
岩上:
あの、核廃絶を求める運動をそれからずっとやってこられました。
広島・長崎と原爆投下、この災禍を繰り返すまいと思って運動をされてこられたんだと思うんですけれども、
同時にその「平和利用」という言葉がですね、1960年代から始まって、
それからずっと容認してきた原発がですね、大変大きな事故を起こした。
今ですね、「原発を止めよう」という声が上がっているんですが、
推進派の人は止めるどころかですね、これを輸出して再稼働して、
あろうことに今、猛烈な勢いで軍国化を進めて、
そして「原発を持ち続けるには原爆をつくるためだ」と、
「核保有するために必要なんだ」という事を公言する政治家まで出てきましたよね。
石原さんみたいな、ハッキリとそういう事を言う人が出てきています。
原発の事故、それからこれまでの運動の事、
それから今後急性向かいでですね、日本が軍国化しつつある事。
ちょっと沢山の質問になって申し訳ないんですけれど、
今どのようにご覧になっていますか?
谷口:
結局私たちはね、「核と人類は共存できないんだ」と。
核兵器は“核”という事でね、綺麗な核もね、汚い核も無い。
人類は共存できないんだという事でね、そのことを。
そんな中で原子力発電所の建設についても、
昔はですね、初めごろは原子力発電所はどこにつくっているんだ?と。
海の近くにつくって、海からきれいな水を引いてきて冷やして、そして海へ温かい水を流すんだと。
それがどんどんどんどんその層がね、深くなって広がっていって。
だからそれがね、地球温暖化に繋がっているんだということでね。
しかし今はその事については全く誰も言わなくなったのね。
その中で今回の福島のね事故だって、
ああやって結局 のと、自然のものじゃなくて、
人がつくって人が壊したものであるんじゃないかと。
そんな中でも今でもね、収束していないどころか放射能が漏れて、どんどん進んでいるというね、
これについて結局私はね、広島・長崎の被ばく者、放射能を浴びた被ばく者と、
それから今原発から出ている放射能が全く同じものであるという事でね。
だからこうやって私ら被ばく者は、
原発をなくさなきゃいけないと言うと同時に、核兵器も無くさなければいけないと言ってきたわけです。
岩上:
ずっと、そうしますと、谷口さんとしては、皆さんとしてはですね、
原発はですね、核の平和利用だからいいんだという言い分には与しない(くみしない)と、
あるいは危険だというふうにお考えになってきているんですか?
谷口:そうですね。あれは絶対にね、あってはいけないものでね。
岩上:原爆はもちろん原発も
谷口:ええ。
岩上:あってはならない。
長崎は完全に実験だった
谷口:はい。
何故かというと、今世界にある核兵器というのは全部長崎型の原爆でしょ。
そこを遡ってみますとね、アメリカの人達はみんな言っているんだけど、
「戦争を早く終わらせるために正しかった」
それだったら広島と同じ爆弾だけでよかったじゃないかってね。
それなのに長崎に違う原爆をね、プルトニウム爆弾を使って、
これは、長崎は完全に実験だったんだと。
それが成功した。
そうやって結局、ずっとアメリカ政府はね、被ばく者の実態を調査して、
そしてどんどん核兵器をつくっていった。
長崎の原爆がそういうふうに成功したために、コロンビアのほとりに原子力発電所をずっと増設して、
で、そこでプルトニウムをたいて、そして出てきたウラニウムをね、燃やしてプルトニウムを取り出して、
そして核兵器をどんどん作ってきたわけだ。
だからそないしてやってきてね、それは結局今だったら、5カ国がね、協定を結んでいるけど、
それ以外にそこにかかっていない国がどんどん増えてきて、
そのなかで被ばく国の日本政府だってインドとか、パキスタンとかに原子力発電所を建設をやると。
原子力をやるって、「何を言ってるんだ」っていう事ですよね。
だから今日も安倍総理がいましたけれど、
そのことについて、田上市長も平和宣言の中で言ったように、
結局、原発の「政府がやっていることは絶対に許せない」という事を言ったけどね、
岩上:「政府がやっていることは許せない」と安倍総理に対して長崎の被ばく者の方がおっしゃった。
谷口:結局平和宣言として、田上長崎市長が今日読みあげたけど、
岩上:あ、平和宣言の中でね。
谷口:
その中でね、その事に触れています。
原子力発電の問題に触れています。
岩上:
あ、そうですか。
広島と長崎、よく簡単にね、遠くからみている人にとっては同じように捉えられるんですけど、
やっぱり1発目と2発目では意味が違う。
それと2発目はプルトニウム型だった。
実験だったと。
それから移行の運動が、そういう事によってやっぱり影響を受けているんでしょうか?
広島の市長が出すね、今回実際そうは言いませんでしたが、
知事、「原発と原爆は違うんだ」と。
原爆はひどいんだけど原発に関してはですね、容認するような発言をすると言う話が、
産経新聞とかに書いてありました。
実際そんな言い方ではなかったようですけれど、
広島と長崎とでは、今日も運動している方も一般の市民も行政も政治家も、温度差があるんでしょうか?
谷口:それはやっぱり長く生きているとね、ありますよね。
岩上:ありますか。
谷口:
まぁ、人間的なものもあるかもわかりませんけれど、
がちがうのがあります
だから広島の場合はね、先ほど言った核兵器廃絶という事については真剣に捉えていますけど、
原子力発電所の問題についてはね、まったふれていなかったというかね。
岩上:
これまでもね、うん。
それじゃ、長崎の方がより徹底して原発も原爆もダメだと言うような事を言う方が多かったり、
そういう話し合いをしてもそういう見解がおおいと。
谷口:
そうですね。
だから、市長の宣言も、そういう宣言を作るのも、全部が集まってその中で検討して出来上がっていく訳。
岩上:
あ、そうですね。
これは広島は市長が書くけれども、
長崎では委員会を作って、市民のみんながかかわって話し合って作ると聞きました。
谷口:
そうですね。
そのなかにも時間的なねいろいろと事がありましてね、
長くは出来ない部分もありますけれどね。
岩上:
だからそこで、市民の声が寄せられる過程で、
やっぱり311の福島の原発事故は、
これはやっぱり相当深刻に受け止めて、「原発はダメだ」という事に思いを込めようというのが、
長崎のそういう人たちの総意と言ったら言い過ぎかもしれませんが、
思いは大方の思いになっていますか?
谷口:
そうですね、はい。
そういうことです。
ーーつづく
続きを読むに

広島の原爆については、はだしのゲンはじめ、いろいろなところから、良く話を聞きますし、
このブログでも、肥田舜太郎先生や、橋爪文さんの
8月6日の原爆の日の事については文字起こしをしました。
けれど、私は、長崎については、あまり知らない・・・、と思っていました。
この「有名な」と、岩上さんがおっしゃられた背中が真っ赤に焼けただれている少年の写真。
私も何度も見た事がありますが、これが長崎原爆で被爆した少年だったということは、初めて知りました。
そして、その少年が長崎原爆被災者協議会会長になっていらっしゃるという事も、初めて知りました。
岩上さんのインタビューはとても貴重で大事なものだと思います。
ちゃんとお話を聞いて心に刻みつけるため、文字起こしをしました。
2013/08/09 岩上安身による谷口稜曄(すみてる)
長崎原爆被災者協議会会長インタビュー
Video streaming by Ustream
岩上:
みなさんこんにちは。
ジャーナリストの岩上安身です。
大変暑い夏の昼下がり。本日は私、長崎の方に伺っております。

この、大変有名な被ばくした少年の写真があります。
背中が一面焼けただれてしまった。
長崎の原爆によって被爆したわけですけれども、
この方が谷口稜曄さん。
そして、本日お伺いするのはその谷口さんです。
谷口さん、よろしくお願いします。
谷口さんは日本原水爆被害者団体協議会、約して被団協という、
その代表委員という事なんでしょうか?
谷口:はい、そうですね。

岩上:
長崎原爆被災者協議会、こちらの会長もお努めになっている。
今ちょっと、お名刺の裏側の写真をみなさんにお見せしたんですけれども、
この背中の具合はどうなんですか?
大変やっぱり後遺症がきつい状態にある?

谷口:
完全に焼けてしまっている関係でですね、
結局皮膚呼吸ができない関係で、非常に夏というのは苦しいんですね。
特に今年は暑くてね、もう背中が沸騰するみたいで苦しいですね。
岩上:
申し訳ありません、そのコンディションの良くない時にですね、
お時間を少し割いていただきました。
今年は長崎に原爆が投下されて68回目。
本日はその68回目の当日に当たります。
そして午前中から式典も行われました。
ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行っていたんですが、
改めてですね、一般的な事でもあるんですけれども、
68回を迎えての思いというものを一言いただけないでしょうか。
谷口:
それはやはり、犠牲になってはそういう事が出来ないですけど、
あらためて68年目の8月9日というものを思い、否が応でも生まれたのが大事という日なんですね。
その当時私は16歳で、爆心地から約1.8kmのところを自転車で郵便配達を配っていました。
岩上:
郵便配達の仕事をしていた。
あの、思いだすという事は大変お辛い事と思いますが、当時の忘れられない事ですけれども、
その郵便配達の仕事をしている時に、どのように爆発に出会い、大けがを負われたのか。
ちょっとひとこと。
谷口:
結局爆心地から約1.8kmのところを走っていて、後ろから焼かれました。
それで、空襲警報が解除になってね、配達を開始したんですが、
その時にかすかに飛行機の爆音がして「おかしいな」と思って をした途端にあっという間の出来事ですよね。
岩上:あー、なにか飛行機の爆音が聞こえておかしいなと思った瞬間に閃光が走ったと。
谷口:そうです。
岩上:え…、あっという間の出来事だったと。
谷口:
結局よく言われる3000度、4000度と言われるね、石や鉄を溶かす熱線と、
目には見えない放射線とで後ろから焼かれて、
次に秒速で200億300億と言われる爆風で自転車もろとも飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていた時にね、「これじゃ死んでしまう」という死の恐怖を味わいましたけど、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならんぞ」と自分を励まして生きてきたんです。
そして途中で へ入って見てみると、ずーっとあった家はほとんど焼けてしまって、
溶けてしまって、焼けてしまって、
近くで遊んでいた子どもがこっちへ飛ばされてしまっていた。
それでまた大きな石がね、直径31ぐらいある石でしょうかね、
私の方ををめがけて飛んでくるというのも見えました。
そこでね、「ここで死んじゃう」と死の恐怖に襲われましたが、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならん」と自分を励ましてきた。
しばらくして、がおさまって起き上ってみると、
左の手は腕から手の先までおもりを下げたように皮膚が垂れ下がり、
背中に手を当ててみると左側はなんにもなく、焼けただれたように黒く が手に付きました
それで乗ってた自転車を見てみると、車体も車輪も使い物にならない位に曲がってしまってた。
あの時 でやったのが だと思います。
一滴の血も無い、痛みも全く感じない それも皮の状態
そのなかで放心の状態でとぼとぼ歩いて、あれからは何処にいけば 火事で焼けたりしていました。
岩上:あの、痛みが全くない状態というのはどういう事ですか?
谷口:
結局、なんていうんでしょうかね、
よく鞭などでピシャッ!と叩かれる時にね、アイタッ!って言うだけでね痛みをしばらく感じない、
そんなものだよね。
しばらくしてから痛みが出てくる。
ってしまえば 殆ど痛みってなかった。
岩上:いつ頃感じるようになったんですか?
谷口:
だから、結局なんていうのか、血は出ないし、痛みは感じないし、
だから夢遊病者みたいにね、 の行き先は で焼いていったんだ
岩上:え、どこへ向かったんですか?
谷口:
その時、250ちかく離れた所にね、トンネル工場に避難しました。
途中で、先ほど言ったここに飛ばされた子どもがね、一人の子どもは黒焦げになって死んでいて、
ひとりの子どもは何の傷もうけないで死んでしまった。
そういうのを見ながら、またまわりには、女性の人達は男か女か分からない状態で それを見ながら
様子を見ながら「どうしよう」という気も起らなかった。
で、トンネルまで行って、
そこでその中にいた女の人に頼んでね、
腕に下がった皮膚が邪魔だからそれを取ってもらいました。
岩上:手に下がって皮膚が邪魔だからと、どんな状態で
谷口:
結局、ここからダラーッと下がっている訳ね。
ここから剥げていて、ここに溜まってダラーッと下がっている。
岩上:それは背中の方からの皮膚?
谷口:いや左の手、
岩上:左の手
谷口:
左手。
背中はもう焼けてしまっていますから、何もなかった。
これが約1カ月後の写真です。

これが頭ですね、こっちがお尻の方です。
これが左手ですね。
ですから、これ下は焼けていませんから皮膚がありますけど、
こう焼けたところは骨。
皮膚も何もなくて骨ばかり。ここに骨が見えてる。

下の方は腐って溜まっていますけどね。
岩上:なにが溜まっているんですか?
谷口:
腐って流れて溜まっている。

これ真ん中に黒いところがありますけど、
ここは15年経ってもこの傷はふさがらなかった。

これは結局芯の底まで焼けてしまって、石みたいのが出てくるんです。
岩上:白くなっているのはどういうことなんですか?
谷口:これは薬なんです。
岩上:あ、薬なんですか。
谷口:ええ。
岩上:これは、痩せてて本当にご飯ものどを通らなかったんじゃないですか?
谷口:
そうですね、食べ物だって今みたいにそんなに無いですからね。
こうやってうつぶせに寝たっきりですから。
で、こいつは、これは半年位。
岩上:あーこれは半年経って・・・。

谷口:
こっちはアメリカのカメラマンのジョー・ダンナルという人が写した
こっちは約半年後で、アメリカの原爆、新爆弾調査のハーバード・スミスさんという人が写したもの。
これは なんかに記録されていますけれどもね、21年の1月31日に撮影。

こんな状態でですね、1年9ヶ月寝たきりですから、
だから骨が腐ってしまいました。
岩上:骨が?
谷口:骨が腐ってしまった。
岩上:腐ってしまった。
谷口:だから今でも骨と骨の間からね、心臓が動いているのが目で見る事が出来る。
岩上:・・・
谷口:ピクピクッてね、動いている。
岩上:心臓が見える。
谷口:ええ。ピクピクッと動いているのが見えます。
岩上:・・・・いや・・・・奇跡的ですね
谷口:
誰一人としてね、「生きる」っていう人はいなかったんです。
毎朝看護婦さんが病室に出てきて、「今日も生きてる」「今日も生きてる」と廊下でささやいてた。
このように被爆した関係でトンネルへ入って、左手の皮膚を切り取ってもらって、
しばらくすると、そこへね、まだ攻撃されるかもわからないから避難所へと言われましたけど、
10分も過ぎてなかったかな、とにかく自分の力で立ち上がる事が出来なかった。
で 元気な人に背負われて、山の上の木の陰の草の上に寝かされた。
そこで二晩過ごして、3日目の朝にやっと救出されて、
なんか2km離れている医者のところにおくられました。
ま、そこでもしばらく治療は受けられなくてね、
で、送られていって、それから3日ぐらい経ってから、
やっと傷から血が少しずつじわじわと出てきました。
岩上:それまで血が出なくて、火ぶくれのようになってたんですか?
谷口:
結局全然血が出なかったね。
もうあの時に完全に、血管からなにまで全部侵されてしまったんでしょう。
だから、6日ぐらいしてからやっと血が出始めて、
それでたまに痛みがじわじわと襲ってくるけどね、
それは私にとって、まだ痛いというほどじゃなかったね。
それで、1ヶ月ぐらい全く血が ができなくて、
9月になってから、やっと が出来るように多少はこう、
そこで 大丈夫だろうという事で に送られてきました。
そこで一番初めにやったのが輸血ですが、
輸血だって、血管に注射針をさせますが、入っていかない。
岩上:注射が打てない。
谷口:はい。
岩上:輸血が出来ない。
谷口:
輸血でもね、入っていかない。
なんかそれで結局、内臓も全部侵されてしまっていたんでしょうね。
岩上:内臓が全部・・・
谷口:はい、心臓からなにから侵されてしまって、
岩上:侵されてしまっていた。
谷口:
だからそんな中で、あの時は牛を殺して肝を持ってきてね、
目の前に小さく切って、それを「生で食べなさい」と言われて、
「焼いたり炊いたりしたんじゃだめだ」っていうのね。
岩上:焼いたり炊いたりしちゃダメだと、生じゃないと…
谷口:はい。
岩上:どうしてですか?
谷口:それは結局血液がね、出来ないからでしょうね。
岩上:たとえば生のレバーみたいなものを食べると。そうすると血を取りこめるという事ですか?
谷口:
そうでしょうね。
だけどその頃は、原爆症のことは誰も知らないですからね。
なんか、そんな事をしてもよくならないし、
ずっと日にちが経つにつれて、焼けたところが腐って、流れていくわけね。
岩上:ああ・・・火ぶくれが大きくなって破れて、血が出て、・・腐っていくんですか?
谷口:
腐っていく。
そのやけどの写真のようにね、ただ横に溜まって、1日何回もぼろ切れでつまんで背中を洗ったんです。
岩上:痛かったですか?
谷口:
もう、痛いというんじゃなくて、苦しくて苦しくてね、
もう痛みというのはそんなに感じないわけですね。
もう背部を鞭でピシャーっ!と叩かれてね、対外的に「痛い」っていうだけでね、しばらくは痛みを感じない。
またそういうもんなんですね。
11月になって、今の の海軍病院ですね、
いまは(高知病院?)になっていますけれどもそこに送られていきました。
それもうつぶせのままでね、担架に乗せられて送られていって、
それからそうやってうつぶせになってて、さっきも言いましたようにね、とこも全部腐っていきますね。
ってね、 になってしまいます。
まあ、そうしていきますけど、背中がだんだん腐って流れていくばかりでね、
結局そこでアメリカが持っていたペニシリンを使いましたけど、
これだってほとんど効果が無い。
岩上:アメリカが
谷口:ペニシリンでね。
岩上:ペニシリン。ああ、効果が無かったですか。
谷口:
ペニシリンっていうのはね、化膿止めですからね。
全然良くならないし、
結局、やっぱりそこら辺で原爆症だって分かったわけですよね。
岩上:原爆症。
谷口:
これはある特殊な薬を使いましたけど、
その薬というのは戦時中に軍の命令でプロジェクトチームが作って、軍の海上点検されてと言われています。
ナサは研究投与で をいかなくして、全部 してしまったわけね。
岩上:え?な、なにが?
谷口:終戦になってプロジェクトチーム全部が解散してしまった。
岩上:あ、プロジェクトチームが解散しちゃった。
谷口:それを したものを の にもってした
岩上:なんていう薬なんですか?
谷口:それは、
岩上:日本軍が作った薬なんですね?
谷口:
いやいや、熊本医大でね、研究されてと言われています。
それを使ってから、血液が非常によく立ち上がって、そして傷が徐々に良くなっていった。
岩上:そうなんですか。それは塗り薬なんですか、飲み薬なんですか?
谷口:飲み薬。
岩上:飲み薬なんですか。
谷口:
それから結局4カ月してですね、
4カ月経ってやっと、傷が良くなっていくと。
その時は主治医が看護婦さんにいってね、控室の壁に掛けられている大きな鏡を持ってこられて、
こうやって、よくなっている傷を見せてくれました。
たいがい傷の端の方から薄いシワがあってよくなっていました。
岩上:あー、そうですか。
谷口:
そうやって、21年の10月頃にね、 行ってて、
1年9カ月経って、22年の5月にね、やっと自分の力でベットから できました
岩上:寝たきりだったんですね。
谷口:
それまで全く動けなくてね、寝たきりで。
ある日突然「起きれるんじゃないかな」と思って、
自分でベットで自分の身体をずっと動かして、それで立ちあがって して
その立ち上がった時の痛みっていうのはね、
これは誰もそんなこと言っても信じないし、体験したことないんじゃないかと
何故かというと、1年9カ月寝たきりですから、
起き上がる時にね、頭から足に向かってね、血管の中を血液が流れていくのが分かる。
岩上:頭から足へ流れていくのが、
谷口:
血液がずーっと下へ流れていくのがわかる。
それがものすごく痛くてですね、ちょうど針を刺すような痛みでね。
岩上:これ、背中を通る時が痛いという事ですか?
谷口:
血液が。
普通はこう寝たきりですから、普通は寝たきりで、 ないわけでしょ、
それが起き上がった時に結局、血管の中を血液がずっと流れていくからね。
もうすごい、足だってどこにあるのか分からない状態にね、なりました。
岩上:全身が痛いっていう事ですか?
谷口:
そうですね。
しばらくもう目を閉じてね「エエイッ!」って我慢しなきゃいけなかった。
そうこうして を行っていって、
3年7カ月経ったときにやっと、「退院しても良い」という許可が出ました。
普通だったら「退院していい」と言われたら喜ぶんですが、私には喜ぶことができなかったね。
岩上:喜べなかった、
谷口:
こんな体でね、社会に出て してみんなと一緒に仕事ができるだろうか、自分に出来るだろうかと、
みんなはダメだと言わなかったけれども、情けなくて歯がゆくてね、
なんたって戦争が憎い、原爆が憎い。
世の中は私にウソ言ってたと。
日本は絶対に負けないんだと。
お国のために、天皇陛下のために死ぬことは名誉誉れと美化していってて、いわないでいて、
なぜ戦争に反対しないで でいって、 なんで たのかと、出てないと思った。
岩上:
天皇陛下のために死ぬのが日本人の誉れだというふうに言われてきたけれども、
ごめんなさい、ちょっと聞こえなかったんですけれども、
日本人がそのように生きてね、天皇陛下のために死ぬのが誉れだと言われてきたけれども、
谷口:
だからそのね がねウソだったんだと。
まずはそんなことはないというね、
だから世の中の親たちはね、 だったんだと。
まだ16歳ですからね、子どもの時に被爆しているわけですから。
もうその頃というのは本当に軍国主義をね、叩きこまれることばかりですよ。
だから、それが正しいとみんなが思っている訳ですよ、ね。
岩上:正しいと思って。
谷口:
今でも小さい子どもたちにいろいろと親が言うとね、それは正しいと思う訳ですね。
それと同じですね、子どもの頃はそう思ってました。
いざ退院してみた時に、 そんなね、思いましたね。
20年の3月20日に が入ってきて、
岩上:20年の3月20日
谷口:3月20日ね、24年ですね、24年の3月20日に が入ってきて、
岩上:なにが入ってきたんですか?
谷口:病院を退院して、長崎に帰って来た。
岩上:ちょっと長崎から離れた病院だったんですね?
谷口:大村ですから
岩上:大村ですね。
谷口:
ま、その後ずっとですね、治療を続けていますけれど、
退院して12日目に元の職場にやっと復帰して、
岩上:12日後には働きだしたんですか?
谷口:はい。
岩上:そうすると、もともと郵便配達の仕事。それに戻れた。
谷口:
その頃は結局、逓信省でね、郵便配達や電報やらが一緒だったけど、
23年に省が分割になってね、私は電通省に配属されて、
そして今度は郵便配達じゃなくて電報配達のね、
岩上:電報配達…動けたんですか?
谷口:
結局それも動かなきゃいけないと思ってね。
自転車に乗って走りまわっていました。
岩上:
背中から血が出るとか、その、火ぶくれのようになっていてね、またこすれて、破れてというような、
そんな事はなかったんですか?
もう、大丈夫、ふさがっていたんですか?
谷口:
結局、その後ずっと次から次へね、あの…よくなくて、
これまで14回入院してね、24回手術をしてます。
岩上:24回も手術を
谷口:24箇所
岩上:24箇所。
谷口:
被害で言うと、皮膚を移植しなきゃ。
皮膚を移植しても、移植した皮膚はね、全くやられたところもダメになってしまうと。
これだってそう。

これだって全部ここ、これだけずーっと全部剥ぎ取ってしまってここが伸びない訳ね。
初めは寝たままで、 をしてるから。
だから関節が変形していますよね。
だからここを延ばすために一応手術しましたけど、こっちは剥げてしまって、
初めはこのくらいしか伸びなかった。ずーっと今はこう、110度まで伸びます。
そしてここに皮膚ね、太ももからこんなに大きな皮膚を取ってきて、貼った。
その時は綺麗に、綺麗に貼ったけど、貼ったあとはこないしてね、貼ったけど後でこないになってしまう。
岩上:初めは綺麗だったけど変わっていっちゃうんですか?
谷口:
結局こんなにね、ケロイドになってしまう。
背中だってそうだね。
背中も始め綺麗なのを持ってきて貼ったけど、
全部焼けたところは同じになっちゃうね。
岩上:同じになっちゃう。変化してしまうんですか?
谷口:
そうだね。
だからそんな状態で、また悪いところは悪くなっていくし。
岩上:ご家族は無事だったんですか?
谷口:
家族は、私の家はずっと、爆心地から約2.7km~8kmありましてね、
ある程度家の方は大丈夫でしたね。壊れていはいますけれどね。
って、家族というのは非常に からね、複雑なところですから、
そこに私とお姉さんとおじいさんとおばあさんとね、
まあそこで、まずお姉さんが子どもをかばってね、いったけど、
その子どもは全然怪我も何にもしていなかったけど
なんか、1ヶ月ぐらいが過ぎてから、甲状腺がいかれてね、2回手術したと聞いていますね。
その頃は2歳ですかね。
2歳ぐらいね、女の子ね。
まあその、早くここ(甲状腺)に出たからいいんだと思いますね。
その後は全くね、今は異常が無い状況でいま生活しています。
岩上:今もお元気で。
谷口:はい
岩上:ああ、よかったです。
つづくーー
<1.長崎原爆>
大変有名な被ばくした少年の写真・谷口稜曄さん8/9 岩上安身氏インタビュー(動画・文字起こし)
<2.長崎>
「核兵器は“核”という事でね、綺麗な核もね、汚い核も無い」
谷口稜曄氏8/9 岩上安身氏インタビュー(文字起こし)
<3.長崎>
「私たちは日本は完全にアメリカの人質のなかにある」
谷口稜曄氏8/9 岩上安身氏インタビュー(文字起こし)
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2013年6月6日
文字起こし部分のYoutubeはこちら↓
http://youtu.be/AhJZhRsVPmM?t=2h28m6s

私は主に双葉郡の20km圏内の避難指示区域福島原発被害者訴訟原告団事務局長の金井なおこと申します。
私は今日、避難指示区域の損害賠償金のお話をするんですが、
たまたま、今ですね、同じ原告団に所属しております双葉町の方から、
ちょうどメールが入ってきていますので、
それをまず最初に読みあげさせていただきます。
で、双葉町はご存じの通り96%がもう帰宅困難区域ですので、
自分の家に戻りたくても住みたくても、もう住めない、帰れないという地域です。
それを踏まえて、
あと今から読みあげますメールの内容は、どうぞ皆様方がご自分のお家を想像しながら聞いて下さい。
では読みます。
双葉町一時帰宅者のメール
金井さん、私たちは先月29日(2013年5月)に一時帰宅しました。
古い家なので、前回の3月にも増して、家の中はネズミの糞がそこいら中にあり、
糞の大きさも前回の2倍ぐらいに大きくなっていました。
そのうえ死骸まであったので、悪臭がひどくて最悪でした。
先に双葉町に来た人から、ネズミの大量発生で、家の中に蛇がとぐろを巻いていたと聞いていたので、
怖くて気が進まなかったんですが、まだうちには蛇はいなかったです。
ゴミ袋にまとめておいた食べ物類なんかを全部食い散らかされ、
悲惨な状況で、家の中はボロボロ。
ホッカイロまでかじって中身が出してありました。
家の柱まで齧ってましたよ。
片付けていたら汗だくになって、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
もう住まないと思っていても我が家です。
行けばネズミの死骸を始末しない訳にもいかないし、
このままではどうしようもありません。
でも片付けたものも庭に捨てて置くしかないし。
そして帰りのスクリーニング会場で
「ネズミを駆除してもらわないと困る」って東電社員に言ったら、
「帰宅困難区域には入れませんので、ネズミの死骸を持ってこられても困ります」
ってヘラヘラして答えるんで頭にきました。
うちの人が「俺だってネズミの死骸を持って来たかったよ!」って怒鳴ってしまいましたが、
所詮東電には他人事でしかないんですね。
いつもの事だけど、帰りは10人ぐらい2列に並んで、
ただ見送りに頭を下げるだけで立っていたから余計に腹が立ちました。
道路工事や復旧作業の作業員は帰宅困難区域だってちゃんと仕事に入っているのに、
なんで入れないんですかね?
自分の家に帰っただけなのに、スンゴク疲れてしまいました。
近くの家では庭に大量の牛の糞があったという話もあります。
牛に罪はありませんが、どうにかしてもらわないと本当に困ります。
後日ネズミの駆除の件をもう一度東電に聞いたら、
「役場に電話しろ」とのことです。
帰宅困難区域は5月から申請すれば月に一回年10回一時帰宅できるようになったんですが、
もう、正直持ち出せるものも無いし、
とりあえず家があるので様子を見に行くしかないのですが、
今更どうしろというんでしょう?
悲しみが増すばかりです。
金井さん、東京は暑いですか?
お気を付けて。
私たちのこの悲惨な現状を是非訴えてきてください。
というメールでした。
続きまして私の方も避難指示区域の損害賠償金の話を少しさせて下さい。
避難指示区域の損害賠償金
平成23年の9月ですね。
疲労困憊(ひろうこんぱい)の、…本当に私たちはくたびれているんです。
私たちに向けていよいよ東京電力が最初の損害賠償金の本払い請求書を送りつけてきました。
これは同じく4月に、同年(平成23年)4月。
避難住民に「仮払い」と称して東電が振り込んだお金を清算します。との内容でした。
この請求書を最初に見た時、どうしようもない怒りと、
複雑極まりない書類内容の多さに驚き落胆しました。
避難している住民の中には、高齢者や障害者の方々も沢山います。
東京電力はあまりにも事務的なマニュアル通りの冷酷な請求用紙を送りつけてきました。
これをすべて理解したうえで、「正当な賠償金を受け取ることは、当然不可能です。
事実、事務手続きの手順をしっかりと理解できている筈の私でさえも
つい先日自宅の財物賠償金、宅地と建物ですが、
合わせた合計金額が楢葉町は避難指示解除準備区域という位置づけであるがために、6分の2。
つまり、新築での時価相当額の3分の1の金額を認知された請求書類が東電から返送された時、
私は本当にショックでした。
実際楢葉町はまだ宿泊も禁止なんです。
ですからまだ避難指示の最中で、私も借り上げ住宅を借りて避難しているにもかかわらず、
そのような回答でした。
「あなたのところはとりあえず2年分払いますからこれで同意をしてね」と。
もちろん私は同意などできません。
それ以前に精神的慰謝料も一人10万円。
財物の家財は各世帯一律と家族人数分。
それも金額は東電がすでに印字した請求書を送りつけてきます。
また避難により持ち出せなかった自家用車などは、また別の請求書類を自分で請求しなければなりません。
私たちはただお金が欲しくて行動して請求しているのではありません。
今までの賠償金でさえ、実際受け取った人は、
生活費として消えているのが実状なんです。
みなさん住宅ローンや車のローン、子どもの進学による教育資金の貸付金による返済など、
失業や減収した人が、それでも何とか生活を維持するためには、
賠償金=私たちにとってはもう生活費なんです。
世間では私たち避難生活者があたかも大きな賠償金額を東電から受け取って
勤労意欲も無くし怠けているなどと思われている風潮が一部独り歩きしているようですが、
私たちは自宅から強制的に避難させられ、
ふるさとを奪われ、
生活の基盤そのものを奪われたのです。
それに見合う生活再建するための賠償は当然要求します。
この前代未聞の大災害を起こした東京電力と国の負った責任は、あまりにも大きく、
このまま絶対に見過ごすことはできません。
そしてもし本当に誠意のある対応をするというのであれば、
今日、東京電力、さらに国の真意をここにお聞かせ願いたいです。
以上です。
2:36:56
第38回全国公害被害者総行動デー [東京電力・政府合同交渉]書き出し記事
●「原発事故による死者はいない」と言わせないため申し立てをしました
6/6樽川さんと謝罪しない東電(文字起こし)←動画あり
●「俺らはわかってる。だから私は食べない」「自分の子供に食べさせたいと思わないでしょ?」
「風評じゃない!根にも葉にもある」6/6東電・政府交渉(内容書き出し)
●「事故後卵巣に腫瘍ができました、それにセシウムが入っていたら責任を取ってくれますか!」
6/6東電・政府交渉(内容書き出し)
●双葉町一時帰宅者のメール・避難指示区域の損害賠償金6/6東電・政府交渉(内容書き出し)
46:57~http://youtu.be/F0taOVAflQ4?t=46m57s
吉田邦博さん(安心安全プロジェクト・NPO実践まちづくり・つながろう南福島)

みなさんこんにちは。
福島の南相馬から来ました吉田といいます。
先程から皆さんが訴えているように、
汚染地帯というのが、今やもう福島だけではありません。
つい先日千葉県柏の方の河川地域で立ち入り禁止区域というものが出来ました。
そこは1マイクロシーベルトを超えているという事です。
しかし福島県を見て下さい。
1マイクロシーベルトを超えているところはそこいらじゅうです。
福島県の3分の2に近いその面積は1マイクロシーベルトを超えていると言います。
ですが面積が大きいために、移住や避難をさせないというような、
県として成り立たなくなるという事からだと思いますが、
とにかく移住や避難は認めません。
これは県知事もハッキリと県外の知事に
「受け入れを止めろ」と、打診したことも分かっていますし、
そのようなことから、この国のひどさというか、問題点が浮き彫りになっています。
そして今回私たちは郡山のモニタリングポストとか、
いろいろな土壌の汚染などを測定して報告書として出しましたが、
郡山市に関してはですね、モニタリングポストが無いところは除染していません。
公園なんか。
だからモニタリングポストが無い公園は除染をしていないということは1発でわかります。
それくらいひどいんです。
だから市の方もそういうふうな意図があるのか、
そういう所にしか(除染をしたところしか)モニタリングポストを設置していません。
子どもたちも、私たちが測定して歩いているとですね、
そういう所じゃない、除染していない所には一切いません。
だから子どもたちも分かっているんです。
で、そういうようなストレスを与えながらですね、子どもたちが生きていく。
「そういう所で遊ぶな」と親たちが指導している。
なかにはですね、車から子どもを一切地面につけずに抱っこしたまま目的の施設の中に入る。
そういうふうな行動をしながら仕方なく住んでいる人もあります。
ま、お金のある方はさっさともう、出ていってしまっているので、
そういう方達が残されているというのが現状です。
たとえば「南相馬市の市職員が300人減った」と桜井市長が訴えていましたが、
その300人のうちの200人程度は医療関係なんです。
みなさんどこに行っても仕事があるし、お金もそこそこもらっている。
そういう人たちがみんな危険だという情報を手に入れることもできますし、
情報を手に入れる事ができるのでいなくなったという事です。
そういうようにお金が無かったり、いろんな情報を手に入れる事が出来ない人達が今福島に残っていて、
この裁判の結果でですね、「由々しき問題である」
「人体にものすごい影響がる可能性がある」というような判決を下したので、
どんどん皆さんの力を借りながらですね、
この国の問題なんです。
福島の問題だけではありません。
どこにも原発はあります。
これからも同じ様な事故は起きると思います。
そのためにも協力をしていただいてですね、何とか達成したいと思います。よろしくお願いします。
<衣服の放射能汚染>
「中学生一人で500ベクレル超を着ている」吉田那博さん1/18ふくしま疎開裁判会見(内容書き出し)
福島エートス

43:40
福島の中では、本当にそういったいろんな事が起きているんですね。
それで、次々、次々起きてくる中でみんなくたびれ果てているというような状況です。
そして一番問題だなと思っているのは、
また新しい放射能安全神話みたいなものが次第に流布されてきているという状況があるんですね。
たとえば子どもが行く施設みたいなところがあるんですけれども、
そういうところで「正しく怖がろう放射能講座」みたいなものが連続で行われていたりとかですね、
放射能に対する副読本みたいなものが、ノート式みたいなものが渡されたりするんですね。
それから高校のような所に、福島県の放射線リスク健康管理アドバイザーの方を呼んでですね、
そこで「100ミリシーベルト以下は大丈夫だ」というふうな、そういう講演がなされたりとかしています。
そして、ま、ちょっとなんて言うんですか、
あの…、正しいのかあれなのか私も何とも言えないんですけれども、
福島エートスというグループでね、
そういうところが講演会をどんどん始めています。
それからジャック・ロシャール(ICRP委員)という方が言ったダイアログというものも
各地で読まれたりしています。
そういう中で次第に「放射能もこのぐらいなら大丈夫なんじゃないか」みたいな
そういうものが流布されているような気がしています。
日々暮らしている中で非常にくたびれてくるので、
私たちも、意識していないと放射線というものを忘れてしまう瞬間があるんですね。
いつもいつもそれを意識しているのはとても大変なことです。
だから「もういいかな」と思ってしまう人も沢山おられると思うんですね。
そういうところを見計らって、なにかその「もう大丈夫なんじゃないか」という事とか、
「もうここで暮らすしかないんだから、復興に力を入れていこうよ」という、
そういう空気が生まれているような感じがするんですね。
そういう中で人々のとも?というのは
非常に複雑化され再分化されています。
一つの事に関しても、もう小さいところで意見が違うんですね。
それによって、同じ地域にいる人とどんどん考え方がずれていくと、
なかなか放射線の事に関して話題にすることも難しくなってくるんですね。
だからみんなもう、何も言わないで黙ってしまうみたいな、
そんな風潮があるような気がしています。
それがとっても問題だなというふうに思っています。
先ほども福島の県民集会の話題がちょっと出ましたけれども、
いろんな立場の方がお話しなさったんですね。
林業の方、漁業の方、環境協会の方々、
みんなそれぞれに一生懸命その、努力をして頑張っておられるんですね。
でも、その方向が本当にちょっとずつ違っているような感じがしまして、
その切なる、本当に切なる努力が、何か一つの事に結び付いていかないのが、
いかないのではないか、そんな、なんて言うか、こう…、悲しい気持ちがとてもしました。
福島原発告訴団

http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=47m19s
47:19
これは私がちょっとかかわっております
福島原発告訴団のことについてちょっとだけお話しさせていただきます。
昨年の3月に結成をいたしました。
そして6月に福島県民で集団告訴をしたんですね。
1324人の人で福島県に住む者も、それから避難をしているものも一緒にやりました。
これは8月1日に受理されました。
その後ですね、原発事故の被害者は福島県民だけではないだろうという事で、
全国に告訴告発人を募りまして、11月15日に第二次告訴をしました。
これは1万3262人の方が参加をして下さったんですね。
今は合わせて1万5000人弱の人達が告訴告発人になって下さっています。

第二次の告訴に行くところです。
で、みんなマスクをしているんですけれども、
福島地検というところは非常に線量が高いところです。
6月に行った時には1マイクロシーベルトを超えている所が沢山ありました。
11月に行った時も0.9とか0.8とかそれぐらいのところなんですね。
そういう中で仕事をしている人たちが、
「同じ被爆者として私たちの気持ちをくんでくれないだろうか」という思いで、
福島地検に告訴することを決めました。
告訴が終わってから、全国に10カ所の事務局が出来たんですね。
この全国告訴のために。
で、その方々も来て下さっていたので、一言ずつお話を頂きながら報告集会をしました。
第二次の告訴も12月30日に受理されたんですけれども、12月20日かな?受理されたんですけれども、
そのあと地検は東京地検と福島地検と合同で捜査が始まったようなんですね。
それで、勝俣元会長(東電)それから清水元社長(東電)そういう方が呼ばれて事情聴取されているようです。
安全委員会の斑目委員長も呼ばれているようですね。
さまざまな方が呼ばれて、実は私も告訴人として事情聴取をされました。
そういう中で、なかなかですね、事情聴取は始まっているんだけれども全て任意なんですね。
それで、強制捜査というものが行われないんですね。
強制捜査が行われて証拠が押収されたり、
身柄が拘束されたりとかそういう事が行われないと、
なかなか起訴ということにならないのではないかと思ったんですね。
それで、是非とも厳正な捜査と起訴を求めたいということで緊急署名を今年の1月から始めました。
たった2カ月間の間だったんですけれども10万筆を超える署名が集まったんですね。
本当に沢山の署名が集まりました。
この場をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。
それで、その署名を持って2月22日に東京地検にそれを提出に参りました。
その時は第一次だったので4万筆ぐらいだったんですけど、
手に手に「地検は起訴せよ!」というプラカードを持っていったんですね。

この地検行った後に東電にも行きました。
東電本社は近かったので行ったんですね。
で、その下に「東電は自首しろ!」というのが書いてあるんですけれども、

本当にこれが言いたい事だったんですね、東京電力に対しては。
私たちは告訴するために莫大なエネルギーと時間を使っているんですね。
「本当にこんな思いをなぜ普通の市民がしなければいけないんだろう」という事を思いました。
でも、東京電力が本当にこの犯罪性を自ら自覚して、
自分で「悪かったな」と思って、自首してくれるというのが一番簡単でいいと思ったので、
ぜひこれを言いたいというふうに思ったんですね。
これを持って私もここに立ちたかったんですけれども、
当日インフルエンザになりまして、すごい熱でウンウン唸りながら家でネットのニュースで見ていました。

これは最終的に集まった10万3766筆なんです。
ところがこの後も毎日毎日、昨日もきたんですね。
送って下さるんですね、皆さん署名を。
それでまたその集まったものを4月26日に、
チェルノブイリの27周年ですけれども地検の方に持って行きたいなと考えているところです。
この署名も終わったんですけれども、
報道によりますと、3月中に起訴か不起訴かの結論が出るという事が、大分流されていたんですね。
でも3月中に強制捜査がないままに結論を出されたのでは困るなと思って、
3月の終わりだったんですけれども、ランチタイムアピールというのをやったんですね。

毎日地検の前に行きまして、ここで、
ここは1時間だけなんです。線量が高いものですから、1時間だけここでアピールをしています。
マスクをして、タイベックを着てアピールをしているところなんですね。
この時に地検の人達が出てくるんですね、外に。
マスクもしないで若い方なんかも出てくるので、
「どうぞマスクをして下さい」なんて持っていったんだけれども、
「いりません」って言われたんですけれども、
で、とにかく1時間ずっとそこに立っていられるのもあまりにも気の毒で、
「せめて交代制にして下さい」とお願いしたら、
最終日ぐらいには交代制で15分ぐらいずつで交代して下さっていたようでした。
こんなこともやりました。
まだ結論はもちろん出ていません。
3月いっぱいで起訴か不起訴かの結論を地検が出しませんでした。
その後も多分事情聴取等をしているのではないかというふうに思っていますけれども、
結論が出るまでの間、何かしら私たちもできる事を続けていくしかないなというふうに思っているんですね。
いろんな証拠になる資料とかがあったら、それをもって行ったりですね、
また、5月31日に東京地検に行動していろんな要請をして激励をしたいというふうには思っています。
54:58~
http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=54m58s
「どんぐりの森から」写真と武藤さんご自身のお話~最初に書き出した
「原発事故以来、私はほとんど戸外で過ごす事がなくなり窓ガラスの向こうの世界になりました」
武藤類子さん4/21(内容書き出し)の部分になります。
ーーおわりーー
「二分する被ばくへの対処方とエートスと決別の理由」上杉隆氏10/20
アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見 (質疑応答後半・内容書き出し
それからエートスとの問題についてなんですけれども、
いろいろなことがあったんですけれども、たもとを分かつ一番の理由になったことというのは、
測定はする。けれども、その結果について、
「被ばくをしている子どもに対しての対策はしちゃダメ」とエートスの方から言われました。
ベルラド研究所としてはペクチンサプリを子どもたちに渡して、被ばく量を減らそうという方に、
「そういうふうにした方がいい」と言ったのに、
エートスは「そのようなものはあげなくていい」
「そんなことは我々はしない」と言われたので、それで我々はエートスから離れることにしました。
赤い羽根共同募金から多額の助成金をもらって「放射能は怖くない」と洗脳講演
福島から日本を変える「福島の1300人が告訴状提出」6/11OurPlanet-TV (動画・内容書き出し)
「脱原発を目指す人は、橋下さんの一挙一動に一喜一憂するべきではないと思う」
河合弘之氏6/18たねまきJ(内容書き出し)
「この事故の責任者たちは一日も早く起訴されて厳罰に処せられるべきだと思います」
須賀川市(原発から70km)福島原発告訴団
検察が捜査!東京&福島地検が刑事告発・告訴を受理
8/1会見(内容全て書き出し・動画あり)
この日の武藤類子さんの講演 書き出し分
「原発事故以来、私はほとんど戸外で過ごす事がなくなり窓ガラスの向こうの世界になりました」
武藤類子さん4/21(内容書き出し)
「作業員『汚染水は浴びたくない』・モニタリングポスト数値半分」
武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「除染・鮫川村・バイオマス発電」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「IAEAがやってきた」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「福島エートス・福島原発告訴団」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
IAEAがやってきた

動画→http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=31m32s
31:32
これは去年の12月ですね、
福島県の郡山市というところで行われました
IAEAとそれから日本政府の共催で行われた世界閣僚会議の様子なんですね。
これは本会議の中の様子です。
この会議が行われるという事を、私たちもちょっと前なんですけれどわかりまして、
一体何がこの会議で行われるんだろうかという事を大変懸念いたしました。
で、私たちは「IAEAは福島で何をするの?」というリーフレットをつくったんですね。

これは受付のところにあります。
多分みなさんの分もあると思うので、もしよかったら後でお持ち帰りになって下さい。
IAEAと聞いた時に、私たちがまず思ったのは、
チェルノブイリの原発事故の後、IAEAとWHOというところが協定を結んで、
お互いの了解がなければ、いろんな放射線の研究ですとか、
それから測定データとか、
そういうものを発表できないという協定を結んだという事を聞いておりましたので、
福島県の中で、福島県とそれから福島県立医大と、それぞれに協定を結ぶという事なんですね。
それがいったいどんな意味をもつのか?という事をとても私たちは心配いたしました。
もしかしたら健康被害とか、大事なデータが隠蔽されて行くのではないか、という懸念を持ったんですね。
それで、IAEAに正しく対応するための資料集という本も、
今日は5冊しかないんですけれども持ってきました。300円ですのでもしよかったらお買い求めください。
それでこの会にも、わい所に「傍聴は出来るのか」という事を聞いたんですけれども、
それは外務省じゃなければ分からないという事で、福島県でもよく分かっていなかったんですね。
それで外務省の方に出向きまして、是非傍聴させてほしいという事をお話しまして、
傍聴は可能になったんですけれども、
このホームページそのものに傍聴の募集が出ていた訳でもなくて、
すごく分かりにくい所にあったんだそうなんですね。
それで仲間の何人かがここに入りました。
で、ここで話された事というのは、いろんな参加があったんですけれども、
IAEAはもちろんですけれども、ICRPとか、アンスペアーですとかWHO
そして最終的にはインターポールもここに参加していたという事だったんですね。
※インターポール
インターポール いんたーぽーる Interpol。
International Criminal Police Organization(ICPO)。
国際刑事警察機構。
1956年設立。
フランスのリヨンに本部がある。
2003年3月現在181か国・地域が加盟。
主な活動
国際犯罪及び国際犯罪者に関する情報の収集と交換
国際会議の開催
逃亡犯罪人の所在発見と国際手配書の発行等
それでこの中でいろんな各国の閣僚の方が来られたんですけれども、
ナミビアとキューバ、それからマーシャル諸島を除いて、
その3国を除いて、ほとんどの国が
新しい完全な原発をつくって、または導入してそれを推進していくという表明を
次々にしたという事なんだそうです。
それでこの中では、福島県産の野菜食べ物ですね。
「福島はもうこんなに復興しているよ」という写真がいっぱい展示されていたという事です。
わたしたちはこの中に、自分たちの思いを手紙やFAXとして送りまして、
それを是非展示してほしいという事で展示してもらったりもしました。
場所は隅っこの方に会ったんだそうですけれども、
だんだん3日目には真ん中の方に持ってきてもらったということです。
実際にこの会議の途中にIAEAに申し入れをしたりですね、
それから会場の外で抗議行動などもしました。
「原発事故の過小評価をするな」それから
「チェルノブイリの真実を隠すな」
「防護基準を見直せ」など、そういうことをみんなで抗議をしたんですね。
最終日には、郡山駅からみんなは帰られるので、
駅でみんなで待っていてですね、
福島のお母さんの手紙というものを英訳してもらったものを渡しながら
「どうぞ国に帰ってこれを読んでください」ということで閣僚のみなさんにお渡ししました。
会議は3日間だけだったんですれども、
このIAEAというものが福島に常駐するという事を聞いたんですね。
それで「どういう形で常駐するのか?」という事を県にいろいろと聞いたりしました。
「IAEAが今、郡山に乗り込んで福島県民を殺そうとしているんです」広瀬隆氏12/15(文字起こし)
えっと、今日はどういう日か?と言いますと、
IAEA国際原子力機関が今、郡山に乗り込んで、
それでですね福島県民を殺そうとしているんです。
<1> 原子力マフィアによる被ばく強制の歴史“IAEAとICRP”
12/14広瀬隆氏郡山(内容書き出し)
今、郡山からタクシーに乗ってここに来る途中、
運転手さんが「労働福祉会館はなにかあるのか?」って言うから
説明してあげました。
IAEAというとんでもない奴が乗り込んでくるから、みんなで集まってやる。
「あなたたちボーッとしてちゃダメだよ」と言ったら、
「そうだよ」って、ちょうどホテルの前を通る時に「ここらしいな」って言ってましたけど、
「だけどこんなのを招くなんて福島県がおかしいんじゃないですか?」って僕が言ったんですね。
「そうだよ、あいつらはどうしようもない奴らだ」ってタクシーの運転手さんが言っていました。
※広瀬隆さんの「原子力マフィアによる被ばく強制の歴史“IAEAとICRP”」は
<1>~<11完>まであります。長いですが読むべき、知っておくべきと思います。
IAEAと環境創造センター

36:35
ここはですね、実を言うと私の家のすぐそばなんですけれども、
田村の三春町というところの工業団地なんですね。
工業団地の一角に広く空いている所があったんですね。
ここに福島県が、環境創造センターというものをつくるんだそうです。
これはですね、三春町と南相馬市の二か所につくるんだそうなんですけれども、
三春町の場合には建設費60億円。
南相馬市は15億円だったかな。
そして様々な予算全部で190億円という莫大なお金を使って
創造センターというものをつくるんだそうなんですね。
このなかにIAEAが常駐するんだという事を聞いていたんですね。
で、つい2,3日前なんですけれども、
福島県に参りましてこのIAEAというものについての説明を色々と求めたんですね。
福島県の職員の方々に聞いたんですけれども、
実を言うと、ここに建物が出来るのは2年後なんですけれど、
もうすでに今年中にですね、福島県庁の隣の建物にIAEAの部屋が出来るんだそうです。
で、そこは何をする所かというと、
緊急時対応能力研修センターというものが出来るんだそうなんですね。
アジア太平洋地域の核に関する緊急事態のようなことが起きた時に
「どう対応するか」という訓練センターみたいなものが、ここ、福島で行われるということなんだそうです。
私はよく分からなかったんですけど、
ラメットというところのいろんな機器というものを福島県に置いてですね、
それの使い方なんかを研究するんだそうです。
「被爆地福島というところでそういう訓練がなされるのか」という、
そんな思いでちょっと帰ってきたんですけれども、
で、そこにIAEAが来る訳なんですね。
それで、そのIAEAは、こっちの建物が出来たらそこに移行するんですけれども、
福島県としてはですね、最初に発表していたのは、
福島県とIAEAとの協力で、
放射線のモニタリング、そして除染、それから廃棄物の処理に関する研究をするという事ですね。
それから人々に対する放射線の教育とか広報とかそういう事をするという事を言ってたんですね。
でも、もともとの目的というのは、その緊急時対応能力研修センターという事のようなんですね。
福島県で、
環境創造センターの中にはですね、IAEAの他にJAEA、それから国立環境研究所ですか、
そういうものが入るんだそうです。
それで県の方にそういう、言わば推進機関ではなくてですね、
もっと市民の立場に立った世界的な研究者とかそういう人たちを、
そこに混ぜていただくという事は出来ないんでしょうか?という事を聞いたんですけれども、
「除染などに関してはIAEAが世界最高水準だ」という事を言っていて、
「そこにお願いするしかないんだ」という事を言っていたんですね。
「県としては今まで推進してきたことに対して責任を取れよという意味もあります」
というふうには言っていたんですけれども、
なんだかあまり…、こうちょっと心もとないと言いますか、
「いずれそこがどうなっていくんだろう」という事がとっても心配なんですね。

40:36
1週間ぐらい前にまた、家の近くなものですからしょっちゅう行って
「どんなふうになっているのかな?」と見に行っているんですけれども、
地質調査というものが始まっていました。
3月11日から10月3日までという、結構長い期間の地質調査をやるようで、
上の方にちょっと小さくボーリングの機械が映っているんですけれども、
結構大規模なボーリングの調査をやるみたいなんですね。
だから大きい建物が建つのかな?というふうに思っています。
このIAEAの事に関しても、私たちも、
本当に私たちは素人なのでね、何ができるか分からないんですけれども、
とにかく県にある程度の、交渉できる場をつくり続けて
発言して行ったり、質問したり、そういう事を続けていこうというふうには思っています。
で、県立医大とも協定を結んでいるんですけれども、
「福島県は全くその内容は分からない、関知していない」というふうに言っていました。
甲状腺検査の結果が発表されたので、
福島の中で2011年3万8000人の18歳未満の子どもたちの中に、10人の悪性の方がいて、
そして、3人が癌だと確定されたという事が分かったんですけれども、
その事でやっぱり子供を持つ親御さん達は非常に心配しています。
のう胞や結節がある方は沢山周りにいるんですね。
その人たちが、「セカンドオピニオンとかそういうものを何処でやったらいいだろうか」ということを、
よく話題にしておられます。
甲状腺だけではないというふうに思うんですね。
2011年に厚労省が行った動態調査というもので、
心臓疾患で亡くなった人が福島県は日本一になったんだそうなんですね。
で、徐々に心臓疾患で亡くなる方は増えているんですけれども、
2011年でグンと上がったという事だそうです。
だから健康被害というものがこれからどんな風に起きてくるのか、
チェルノブイリと同じなのか違うのか、
その辺も分からないですけれども、とても心配しています。
で、この3月に学校の卒業と同時に福島県を離れるという人たちも沢山おりました。
でも一方で二重生活がままならなくて福島県に帰ってきた人たちも沢山いるんですね。
山形県の友達に聞いたんですけれども、山形に避難している友達なんですけど、
「約半分ぐらいが福島に帰ったよ」という事をこの前言っていました。
ーーーつづく
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チェルノブイリ・フクシマを忘れない! 集会とデモ
武藤類子さん
除染作業

18:59
今除染という言葉が出てきたんですけれども、これは除染の様子なんですね。
http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=19m10sから除染作業の写真など
20:34~動画(Youtube)→http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=20m34s
私の友人もここに除染に出ているので様子を聞いてみました。
彼女は一日1万円の日当を貰っていると言っていました。
そして、支給されるものは薄いマスクが1枚と布の手袋が1組とゴムの手袋が1組ということで、
そういう軽装、ま、支給されるものはそうなんですね。
白いタイベックという防塵服とかそういうものは支給されていないというふうに言っていました。
素人が除染をしてはいけない 児玉龍彦氏
それでこれも後で述べますが、
だから除染とかなんかは研究事業を除いた素人の方がやるのは勧めません。
マスク一つ、防護具一つをとっても
やっぱりアスベストとおんなじような、かなり専門的な知識のもとに行われるものなんだ。
そういうものが必要なものが大量に環境中にまき散らされてしまったということが、
今回の事故の非常に複雑な問題だというふうに思っています。
4.「除染はなぜ必要か?」 児玉龍彦氏
除染というのはなにか?と言うと、緊急時はしょうがないです。
だけど本当の緊急時じゃなくて恒常的にやる作業というのは、
基本的にはかなり毒物を扱う専門家がきちんと防具をもって、
どこに放射性物質があるかを確かめながら行う専門的な作業。
やっぱり、結構重労働な作業らしいんですね。
身体にロープを付けて斜面の土を削ったりとか、
そんな仕事もあったりして、なかなか除染を続けるのは難しいということも言っていました。
そういう作業が行われているんですけれども、
1軒の家を除染した時に出てきた放射線の廃棄物ですね。
これは今福島県内ではこのようにフレコンバックと呼ばれているんだそうですけれども、
それに沢山詰められていろんなところに山積みにされているという状況なんですね。
中間貯蔵施設はもとより、仮置き場も決まっていない所があるんですけど、
莫大なお金が除染に投入されたので、どんどん除染作業が進められている訳なんですね。
もちろん子どもがいるところとか、除染が必要な場所はあると思うんですけれども、
先が詰まっているのにどんどんゴミが出続けている。まるで原発のようなそんな状況になっています。

これは私が住んでいます三春町から二本松市というところに行く途中の道なんですね。
こういうのが、本当に道路際に沢山あります。
これにちょっと線量計を近づけてみたら、2マイクロシーベルトぐらいあったんですね。
1軒の家から出るのが123456って、番号もちゃんとふってあって、
20個とか30個とか、その家の敷地の広さによって違ってくるんですけれども、
それはなるべく家そのものですね、屋敷よりは遠くに置きたいと思うと思うんですね。
で、遠くに置くと隣の人の家の敷地のすぐそばだったりとか、そういうことがあって、
いろんな軋轢があったりしているというふうに聞いています。
それからどうしても道路際に行ってしまうんですね。
そこが子どもたちの通学路であったりするわけなんですね。

手前の方にフレコンバックがあります。その向こうにもありますね。
この道路を走っていくと次々と何軒も何軒もこういう光景がずーっと続いているんですね、
そんな状況が続いています。
この袋自体がすごく重いんだそうです。
何重にもなっていて、なにも入っていない袋を持ち上げるのは、
ひとりで1枚がようやくだというふうにも言っていました。
非常に高価なものだそうですね。
1枚何万円もする物だというふうに聞いています。
そうであったとしても、やがてこれも劣化していくと思うんですけれど、
そうなったらどうなるのかな?というふうに思います。
5.「農地・道路・森林・水・そして海の浄化、放射性物質の保管と管理」児玉龍彦氏
ところがこれ(フレコンバック)は土の中に埋め込まれてしまいますと、
後で掘り起こして除く時にパワーショベルみたいので引っかいて壊れてしまう。
それから夏になると、たとえばいろんな雑草やなんかを刈った分は、
これが水がありますと発酵してきて、すでに
フレコンバックが爆発するというのが昨年何例か起こっております。
ですから、この生ごみやなんかも
フレコンバックに入れて何年も保管するというのもほとんど無理だと思っています
24:17
これは鮫川村というところ。
福島県のちょっと県南の方に入っていくんですけれども、
そこに突然降ってわいたように8000ベクレル以上の農林関係の廃棄物ですね、
それを燃やす焼却場が、焼却実験炉が出来るという事が分かったんですね。
そしてこれは、実に水面下でずっと進められていたんだそうです。
それでここの地権者だけには、30人ぐらいの地権者だけには承諾をとったんだけれども、
他の村の人達は何も知らないままにこういうのが検察され始めていたんだそうです。

0.13という放射線の数値が見えると思うんですけれども、
福島県内では比較的線量が少ないというか、低いところなんですね。
原発から50kmぐらいなのかな?ここ。5~60kmだとおもうんですけれども、
その割には線量が低いというふうに言われている場所です。
村の人が気が付いた時にはもう焼却炉を立てる基礎まで出来ていたという状況なんですね。
それで分かった人がビックリ仰天して、
こういう焼却施設というものをつくるのは本当に安全なんだろうか?という事で、
いろいろと反対運動を始めたんですね。
で、ここの場所はこのように湧水がいっぱいあるところなんですね。
水が豊富なところです。
これは隣にあるいわき市というところ、海沿いにある大きな都市なんですけれども、
そのいわき市の水源地になっています。
それから隣の茨城県の高萩市というところの水源にもなっているところなんですね。
それでいわき市も高萩市もこれについては市民達が
水源を汚されては困るんだという事で反対運動を始めました。
それで最初に承諾した地権者たちも、水が汚れたんでは大変だという事で、撤回したんですね。
3分の2ぐらいの人達が承諾を撤回をしたそうなんですけれども、
いままた、撤回した人たちを一人ひとり回っては
村の村長や村の職員の人達が切り崩しをしているというふうな状況なんだそうです。
撤回した時点で工事はいったん中止になったんですね。
中止になったんだけれども、今また攻防戦が起きているという事だそうです。
こういう焼却炉とかをつくる時に、必ず環境アセスメントというのがありますよね。
環境影響調査という、それをやるんですけれども、
普通焼却炉の場合には
1時間に200kgの焼却能力がある場合は必ず環境アセスメントをするという事なんですけれども、
ここの場合は、1時間に199kgという推定なんだそうですね。
そういうことをですね、実はこれは環境省直轄でやっている事なんですね。
本来だったら
そういう環境アセスメント逃れのようなものをする業者を取り締まるのが環境省だと思うんですけれども、
その環境省が直接やっている事業だそうです。
で、これは鮫川村だけではなくて、川内村、南相馬市、飯館村という
その他にもね、つくる予定があるようなんですね。
でも一番最初にこの鮫川村になっています。
28:23

この下の方に赤い丸があって、焼却試験場というふうに書いてありますね。
で、これ、地図を見ていただくと、
これは早川教授の地図なんですけれども、ちょっと色が薄くなっているところなんですね。
このように線量が、本当に(原発から)近くても奇跡的に低かったという、そういうところなんですね。
こういうところに、もしかしたら水を汚したりですね、
空気が汚れる焼却場がつくられるというのはいったい何なのだろうか?
そういうことを疑問に思います。
こういう事がったんですけれども、分かりますか、
焼却施設の「焼」の字の真上のところに塙という地名があるんですけれども、
ここ、塙町は隣町なんですけれども、
この焼却場の問題にみんなが注目していたら、また別の事が分かったんですね。
それは木質バイオマス発電所というものがこの塙町に出来るということになりました。
すでに福島県には、会津若松には元々あったんですけれども、
事故後に白河というところにも一つ出来ました。
この塙町だけではなくて、結構沢山のところに出来る予定なんですね。
先ほど言った川内や南相馬、飯館などにも出来て、いわき市とかにもできるみたいなんですけれども、
山林地帯なんですね。
で、この木質バイオマスの木質なんですけれども、
これは除染のために伐採した木を燃やすという、そんなことも言われているんですね。
それはもちろん汚染された木質な訳ですね。
これはやはり、国が半分、そして市町村が半分、という、
復興のために事業の一つとして行われるんだそうです。
一応こういう焼却する場合には、
「バグフィルターとかそういうものが使われる」と言われているんですけれども、
そのフィルターが果たして全ての放射性物質を除去出来るんだろうか?
という事を疑問に思って発言されている方もいらっしゃいます。
そういうものが次々とですね、良く分からないうちに起きているんですね。
私たちも一つ一つに「あ、大変、あっ、大変」と思って対応していくんですけれども、
なかなか追いつかないという状況です。
なによりも、その焼却場にしても発電所にしても、
秘密裏、意図的に秘密にしているのかどうかは分からないけれども、
本当に県民や自治体の人々にあまりよく分からないままに進められて行くという、
そういう状況が続いているんですね。
その事自体もとても問題じゃないかなというふうに思っております。
<なぜ燃やすの?環境省>
8000ベクレルを超える指定廃棄物を燃やす焼却施設建設着工・中断“鮫川村”
&森林除染木材でバイオマス発電“塙町”326政府交渉ネット2/12(文字起こし)
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チェルノブイリ・フクシマを忘れない! 集会とデモ
武藤類子さん

動画(Youtube)→http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=12m08s
福一作業員辞める人続出「汚染水は浴びたくない」
12:08
1号機から4号機まで
とにかく水をザーザーザーザーかけて冷やしているという状況が毎日続いているんですけれども、
その水をろ過したりしながらこういうタンクにためているんだそうですね。
それがどんどんどんどん敷地を占めてきて、置く所が無くなってきているという、
そういう状況があるようです。
この間水漏れ事件というのが起きましたよね。
私たちも本当にビックリしましたけれども、
あの穴を掘ったところに3層のシートを敷いて、そこに汚染水を入れていた。
しかも本当はストロンチウムを除去するべきそうだったんですけれども、
それが除去されないままにそこに入っていたという事があったんだそうなんですね。
で、その汚染水の事が出てきてからですね、
ここで働いている人達は、みんなその汚染水を浴びるという事にとても危機感を感じて、
辞めている人が沢山いるという事なんですね。
あの、もちろん高線量の線量を浴びながら作業をするんですけれども、
でも、空気、見えないものと違って汚染水だと実際に浴びるわけじゃないですか。
だからとてもその事を「いやだ」と思って辞める方が続出しているという事を聞いています。
やっぱりサイト内のお仕事というのは沢山被曝をするわけですよね。
だからそこを辞めて除染作業の方に移っている方も沢山いるというふうに聞いています。
今ここで、第一原発の中では3000人の人が働いているそうなんですね。
毎日3000人の人です。
それで、「その中の60%の人が福島県民だ」というふうに言われています。
もともと原発で働いていた方もいらっしゃいますけれども、
事故によって仕事が亡くなった方が沢山いたんですね。
たとえば農家の方ですとか、林業、漁業、そういう方がおられます。
それから観光関係の仕事の方ですね。
そういう方が仕事が無くなって、原発サイトで働いている。
それからまたは除染作業に出ている。
そういう状況なのだそうです。
モニタリングポスト

14;27
これは事故から半年ぐらい経った時に
福島県内2700カ所に設置されましたモニタリングポストです。
これは10分おきの空間線量が表示されているんですね。
これはソーラーパネルが付いています。
先日福島県に行ったら、
「2700カ所も電気を使ったら大変なのでソーラーにさせたんだ」って
なんか、県の人がちょっと威張っていたんですけれども、
あの…、こういうものが、本当に街の風景の中にね、今は溶け込んでいるぐらいに沢山あります。
公共施設が多いんですね。
学校とか幼稚園とか公園とか。
これは三春町というところのコンサートホールの前にあるものなんですね。
このモニタリングポストなんですけれども、
これが、果たして本当に。その地域の、その場所の空間線量を正しく表示しているんだろうか?
そういう疑問が持ち上がってきたんですね。
それでいくつかの団体が測定をしました。
このモニタリングポストのそばで測ったんだけれども、
全てでもないんだけれども、どうも周りの空間線量後違うという事が分かったんですね。
それはいくつか理由がありますけれども、
たとえば、ソーラーパネルを使っていてエコなんですけれども、
ここでつくられた電気がバッテリーに溜められるんですね。
そのバッテリーというのには普通鉛が入っているんですね。
測定器のそばにバッテリーがあるという事で、鉛が放射線を遮蔽して、
そして低く測られているんではないかということもでてきました。
ついこの間、郡山市というところで、
今まで合同庁舎というところで郡山市でテレビなんかに発表される数値がそこで測定されていたんですね。
その郡山の合同庁舎にある機械がですね、違う機械に代わったんですね。
それと同時に測定している場所が別のところに移動しました。
そしたらですね、数字が急に下がったんですね。
0.6ぐらい出ていた所が0.3ぐらい。0.2とか、そのぐらいに下がったんですね。
一体これは何なんだろうと思ったんですけれども、
ネットのニュースでちょっと見たんですけど、
郡山市の職員の方が、「せっかくのこういう装置なので除染をしました」というふうにおっしゃっていました。
だからそこの場所を除染をして置いたんですね。
だから周りの空間線量と違うというのは当り前の事かなというふうに思いました。
それからいろんな機械があるんですね。
たとえば単位が違うものもあるんですね。
マイクロシーベルトで測定されるもの。
それからナノグレイという単位で測定されるものがあるんですね。
今まで合同庁舎では、マイクロシーベルトという単位で測られていたんですけれども、
急にナノグレイというものになったんですね。
だから、当然ながらその数値が違ってくる訳なんですね。
どちらで測っても正しくはあるかもしれないけれども、
単位が違うので数値が違うという事なんですね。
そういう事が詳しく市民に説明されないんですね。
で、その事で随分電話が郡山市に行ったそうなんですけれども、
それで初めて単位が変わった事と、除染がされたという事が分かってきたという状況です。
自分たちが住んでいるところの空間線量というのは、本当に最低限必要な情報だと私は思うんですけれども、
それがきちんと発表されていないのではないかという、そういう懸念と言いますか疑問があります。
ーーつづくーー
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チェルノブイリ・フクシマを忘れない! 集会とデモ
http://youtu.be/N6zjaKGCLr0?t=1h7m23s
1:07:25~武藤類子さん

これが私の住んでいたところなんですけれども、
ちょっとですね、「子どもの本棚」という本があるんですけど
そこに投稿させていただいた文章がありますので、
それをちょっと読ませていただいてお話を終わりにしたいと思います。
冬枯れの柴山を背景に音もなく降り続ける雪が
野原も小屋も真っ白に染めていきます。
福島原発事故から2年がたとうとしている私の家の前の風景です。
いまだに毎時0.2マイクロシーベルトを計測する放射性物質が確実に存在していますが、
それでもなお美しい森です。
私は原発事故が起きる前までは
福島県の阿武隈山系の中にある雑木の森で細々とカフェを営みながら暮らしていました。
カフェの名前は「里山喫茶燦(きらら)」といいました。
人生には様々な波があり、私にもドドンと落ち込んだ時期がありました。
そんな時に始めたのですが、何とか気を取り直し、
今からきらめく様な人生を生きようとつけた名前でした。
森にはこなら、さくら、漆、かえで、ヤマボウシなどの広葉樹があり、
秋には色とりどりに紅葉し、冬には一枚の葉も残さずに落葉した枝枝が夕焼けの空に映えました。
早春のパステルカラーの芽生えは、夏至のころには圧倒的な深緑になりました。
四季折々の光景の中で、
「私はなんと美しい星に暮らしているんだろう」とひとり呟く事が何度もありました。
森にはいつも小さなドラマがありました。
私は日々観察しては驚嘆し、森の暮らしは退屈することはありませんでした。
原発事故以来、私はほとんど戸外で過ごす事がなくなりました。
草の匂いも、せせらぎの音も、割った薪が渇く時にピンピンと奏でる音。
頬を撫でる風も、甘酸っぱい木イチゴの実も、雪の上の獣の足跡も、
窓ガラスの向こうの世界のものになりました。
どんなに美しくても触れる事の出来ない世界は悲しいものです。
原発事故がもたらしたものは人類だけに及ぶものではありません。
地球に生きる生き物としての私たちは、今からどんな世界をつくっていったらいいのでしょうか。
この文章を書いている間に夕闇が迫ってきました。
雪は20cmほど積もって今は止んでいます。
のぼってきた月に光に照らされて、透明な青い世界が広がっています。
深く考えなければいけない時ですね。

という事で、この店に今も住んではいるんですけれども、
ちょうどこのお店を始めたのが2003年の4月26日だったんですね。
「チェルノブイリを忘れないように」と思って始めたお店でした。
震災以来閉じてしまっていたんですけれども、休業していたんですね。
もう再開の見込みはないなと思って。
つい2週間ほど前にここを廃業にいたしました。
本当に、原発事故というものがもたらすものの
もたらすものというのは、もちろん健康に被害があったり、経済的な被害があったりしますけれども、
あの、人の心っていうんですかね、
そこに与える影響というのは非常に大きいなと思っております。
この前ETV特集というのを見ていたら、
アメリカの規制委員会の委員長さんが辞められてねその事をやっていましたけれども、
彼が言ってたのは「人はどういう影響を受けるのか?」という、
「人の暮らしというものがどういう影響を受けるのか」
その事がすごく重要だという事をおっしゃっていました。
ーーつづくーー
武藤類子さんのこの日のお話を今後書き出していく予定です。
「福島からあなたへ」武藤類子さんインタビューOurPlanetTV2/9(内容書き出し)
9・19「さようなら原発集会」全員の集会の発言内容完全書き出しました
「私達は静かに怒りを燃やす東北の鬼です」
9月19日の武藤類子さんのスピーチ書き出し
この日の武藤類子さんの講演 書き出し分
「原発事故以来、私はほとんど戸外で過ごす事がなくなり窓ガラスの向こうの世界になりました」
武藤類子さん4/21(内容書き出し)
「作業員『汚染水は浴びたくない』・モニタリングポスト数値半分」
武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「除染・鮫川村・バイオマス発電」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「IAEAがやってきた」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「福島エートス・福島原発告訴団」武藤類子さん4/21郡山(内容書き出し)
「脱被曝」 荒木田岳氏(音声)
動画はこちら↓
http://www.ustream.tv/recorded/29195314
2013年2月11日
アカデミズムは原発災害にどう向き合うのか
21分ごろ~荒木田岳氏 福島大学(福島大学行政政策学類准教授)

みなさんこんにちは、荒木田です。
福島大学に勤めています。
えっと、正直に申しますと、何を話していいのかがよく分からないんです、頭の中が混乱していて。
で、わたしはだから、パワーポイントもレジメも準備できなかったんで、
思いつくままにいくつか話をさせていただきたいと思います。
ただ、そこでお話しようとする内容とかかわってですね、資料を準備したんです。
折に触れてみていただければ良いかなというふうに思っています。
まず、「アカデミズムは原発災害にどう向き合うのか」という今回のテーマ。
「向き合うのか?」というのは多分未来志向で
「これからどうするのか?」という事がそこに込められていると思うんですけれども、
私の立場は、それは「災害に」ではなくて「放射能に」というふうにまず説明したいんですけど、
「放射能に私は人間は勝てない」と思っているんですよ。
それは将来、未来永劫「そうだ」という訳ではなくて、
少なくても今の段階では「放射能に人間は勝てない」
その段階で
「将来勝てるかもしれないから」と言って被曝し続けるという事は「やはりおかしいんじゃないか」
というふうに思っているんですね。
ですから「どういうふうに放射能問題と向き合うか」という点でいうと、
「いかにこの被ばくを避けるか」
そういうところを問題の出発点にしているというのが私の大体の考え方です。
ですからそういう考え方で、原発災害に向き合うと言う問題であるというふうに今整理しています。
正直に申しますと、先程質問が出ました、
福島大学でね、「通常通り授業をやっているのはどうなんだ?」と、
で、私はそれを聞くと本当に心が痛いんですよ。
その事は2011年の4月からずっと言ってまいりました。
私自身も福島に本当は居たくないし、
「そこで人さまの子どもを集めて授業をしているっていうのは何だろう?」って思います。
他面でですね、じゃあ自分にはほかにどういう道があるか?
それもよく分からないんですよ。
どうもできない自分がいます。
だからそういう事はまさに自分の問題として、
みなさんに正直にお話をしていこうと。
だから、早川先生もね、多分同じ事をおっしゃると思うんです。
で、それは痛いほどよく分かるんです、私は。
最終的にね、福島で残っている人。
「この位の放射線料だったら我慢すれば住める」っていうふうに思っているか、
「我慢しても住めない」
その出発点、議論の出発点のね、どちらかで、多分かなり違うんだと思います。
それは、福島大学のスタッフの中でもかなり温度差があると思いますし、
えー、ま、いろいろそういう事を思っています。
で、今日一応お話しようと思ったのは、
やがて今度原発事故から2年になります。
その2年目をどういうふうに迎えるか?っていう事をちょっと考えてみたいなというふうに思ったんです。
これも非常に時間が無いので、ざっくりした話なんですけれども、
「2年も経ったのに」という問題と、
「2年しか経っていないのに」という二つの問題があるだろうと思っています、私は。
で、「2年しか経っていないのに」という事で言えば、
実際原発事故っていうのは皆さん収束したと思われますか?
おそらくそうではないでしょう。
で、たとえ冷温停止がもし成されたとしても、
「それで原発事故は終わりか?」って言うと「そうではない筈」なんです。
だから、結局原発事故って「終われない」んですよ。
そうでしょ?
その放射性物質が残る限りずーーっと続いていく問題なわけです。
だから、100年1000年のオーダーで。
だから終わりたくても終われないその問題を僅か2年でね、
あたかも「終わってしまったような」あるいは「忘れてしまっているかのような」、
「この現状は何なのか?」という事をまず問題提起したいと思います。

それからもうひとつ。
「2年しか経っていないのにわかる事」もいくつかありまして、
2011年4月ぐらいでしたか、5月ぐらいでしたかね、
あそこに座ってらっしゃる京都精華大学の細川先生等と一緒に
福島市内の、特に通学路とか、学校の近辺を中心に除染活動に加わった事があります。
私は放射能が怖いですから、除染活動なんかやりたくないんですよ。
で、それはね、あの、これは本心なんですけど、
しかし150マイクロシーベルトとかあるホットスポットをね、子どもたちが毎日歩いていく訳です。
何も知らずに。
マスクもしないで。
それはやっぱりね、放置できなかったんですよ。
にもかかわらず、放射線を怖がっている人しか除染する人がいないんです。
「安全だ」と思っている人はする必要がないわけですから。
こういう矛盾があるんですよ。
だからこの放射能問題って、本当に矛盾の体系だというふうに私は思ってて、
この問題とどういうふうにつき合っていくか?
そういう問題なんだろうなというふうに、ま、正直なところお話しておきたいと思います。
「2年も経ったのに」という点で言うと、
いやもちろん私の生活からすればね、2年も経ったのにね、
「なんでお前は福島で震災前と同じように暮らし、学生の前で授業をして、平気でいられるのか」
それは私自身もいつも自問していますが、
そういう私の個人的な話だけではなくて、
2年も経ったのに、いろんなデータが全然そろってないですよね。
私、小山さんってすごいなと思うんですけど、
先程の調査の報告をお聞きになってみなさんどういうふうに思われたかわかりませんけど、
結局ああやって淡々とデータを集める事によって、初めて実態が明らかになる。
だからそういうデータの積み重ねを、つまりなんて言うんでしょうかね、
民間とかあるいは大学とか、ちまちまと足元から草の根レベルで積み上げていくしかなかった。
よって、データがですね、全然2年経っても貴重なデータは集まっていないですよね。
それから初期被ばくについてもよく分からない。
多分復元できるはずなんです、もっと。
だけどそのことも今の時点では十分になされていない。
たとえば、私が一番福島に住んでいて問題だなと思うのは、
福島に住んでいる人、それは東京に人も含めてですけど、
「自分が一体どれだけ被曝しているか?」って言う事を知らないんですよ。
そうでしょ?みなさん自分が一体どれ位被ばくしているかご存知ですか?
それが分からないのに、「どこまで大丈夫」とかという議論は全く、何の役にも立たない。
だからそういう事態、その事自体からしてですね、
今の状況をなんというか非常に象徴しているんだろうなというふうに思っています。
で、結局やっとここまできたんだけれども、
いつか使う事になるかもしれない証拠の保全みたいな事を、
この2年も経つのに「相変わらずやっていかなければいけない」というのが現在の状況かな
というふうに思っています。
時間が無いので結論だけ行きますが、
私が今考えているのは、今後は、
もちろんここの集会に集まっておられる方はどういうお考えをお持ちかは私はよく分かりませんけれども、
「脱原発」を言う人は多いんだけれども、
私はそれとは別にね、
「脱被曝」という事を、それ自体を目標としてやっていかなければいけない。
それは単に福島の中だけの問題じゃなくて、
皆さん自身の、皆さんというか、福島以外の方の問題としても、
「脱被曝」についての問題を考えていただければと思っています。
で、小山さんから私は教えていただいたんですけれども、
福島産の農産物って2011年度分、12年度分も、あのー、
出荷規制になったもの以外はほとんど売れているそうですよ。
末端まで流通しているかどうかは分からないけれども、
在庫はすでに一掃しているというような状態、あるいはそれに近い。
だからその事の意味を「もう一度考えていただきたい」というふうに思います。
それから、今から振り返って、2011年の3月4月の事を申し上げたいんですが、
正直言って私、同僚からですね恫喝を受けたり、あるいは私自身もそうですけれども、
あるいは上司から恫喝を受けたという知人が何人かおります。
それで私は同僚の森さんという方にお願いして、メーリングリストを作ってもらいました。
それがFGF(福島大学原発災害支援フォーラム)の母体になったわけです。
結局いろんな情報交換をして、学内でどういう…
で、そのメーリングリストに実は誰が入っているかも知らなかったんですよ。
私はあんまり・・・不用意なもんだから、率直に色々書いていますけれども、
実は誰が読んでいるか?って言うのがよく分からなくて、
でも、それを3月4月と動かしていた訳です。
で、4月の何日ぐらいでしょうか、半ばぐらい、正確には覚えていませんけれども、
私は「授業再開」をするという事に非常に大きな懸念をもっていました。
で、「何で授業が再開できるのか?」という事を学長の問いただすために公開質問状を作ったんですね。
それを、私は自分の名前で出そうと思ったんだけど、そういう勇気が無かったんです。
で、それをそのメーリングリストに流して、
いろいろ添削していただいて、資料に入っていますけれどもね、
それがFGFとしての、事実上最初の動きでした。
私がここで言いたいのは、
結局そうやって、その、授業は再開されたんだけれども、
声を、自分が思ったことを率直に声をあげて、少しでも現状を変えていけるような、
そういう事につなげていくっていう事が、今いかに大事かという事が一つと、
もうひとつはそのためには、やっぱり仲間が大事だなという事を感じました。
という事を、みなさん、本を購入していただいた方には、
なんか一人だけね、私元気のない事書いてるんですが、
そこにも同じような事が書いてあります。
だから世で行われている不正義とか不条理とか、
そういう事をみんながね、黙認するんじゃなくて、少しでも声をあげていく。
だからその姿をね、学生たちに見せる事って「すごい教育上大事なんじゃないか」って
私自身は思っています。
だから結局、その除染の話しにしろ、授業開始の話しにしろ、敗北の歴史なんですよ。
結局、「んーー、ダメだったんじゃないの」なんていうふうに思っているんですが、
結果はともかくですね、そのこともやはり糧にしながら、
今後、どのように、なんていうんですかね、まとめにならないんですが、
「活動を続けていくか」という事。
それを今日のシンポジウムなんかでは、
みなさんのご意見なんかも頂きながら、考えていきたいというふうに思っております。
えっと、難しいですねw
放射能を浴びるとなんかいろんな事が促進されるそうですよ。
で、前からそういう傾向があったんですけれど、
他の方はみなさんすごい前向きで元気でしょ?
元気な人はますます元気になって、
私はもとから、その、暗い正確なもんだから、ますます落ち込んでしまって、
本当はここに来るのもね、随分躊躇したんです。
で、本を書く予定も無かったんで、
「いや、私出版記念パーティーに呼ばれても本書かないから」って言ったら、
あそこにいらっしゃる平井さんがですね、
12月も後半になってですよ、
「まだ書いてもらうこともできるから。その時は来てね」みたいな話でですね、
1か月足らずの締め切りでやむなくまとめたのが、
今みなさんのお手元にあるかもしれないその本の原稿です。
えーっと、一人だけトーンが暗いので、
え・・ww、でもね、そういう人もいて良いし、
そういうことも許容してもらわないと困るなというふうに思っています。
おわります。

あの、インセンティブとはちょっと話は違うんですけど、
私はあんまりその、「やっぱり放射線は浴びない方がいいよ」とか、
そういうふうに変わってくるという事に対してはそんなに悲観的じゃないんです。

ただ、「変わってももう遅い」っていう面がどこかにあるじゃないですか。
その事と同時に、変わっても「前からそうだったんだ」というふうな事を言う人がいますよね。
で、 加藤典洋さんっていう方が、「敗戦後論」という本の中でね、引用しているんですけど、
太宰治が戦争が終わってみんな世の中が、社会がこんなに変わったというのを聞いて、
「あほらしい感じ」って書いている。
で、私はそれを読んでみて「あ、なるほど」と思ったんですけど、
私も似たような事を考え、なんか感じる事があって、
たとえば、福島大学で行政政策学類の同僚が、燃料が無い頃、学区外に学生を、
ようするに“福島脱出バス”を仕立てた事があって、
燃料代が2倍とか言われて吹っ掛けられたんだけども「それでも良いから行ってくれ」って言って、
何台出したかな、
その事がですね、最近「いや、大学はそういう事をうやったんだ」と、
なんか自分の手柄のように大学当局が言ってるっていう話があります。
それから私が先ほど言ったように、
細川先生たちと除染をやっていた時に、
私、大学のトラックを借りたんですよ、お金がないから。
梯子を運ぶのに。
それがテレビに映ってしまって、で、呼び出されました。
で、言われたのは、
「市民の不安をあおるから、除染なんかやめろ」って。
つまり、5月6月ごろなんてそんなもんでしたよ。
ところが今は全く逆ですよね。
今は除染すれば住めるというふうに変わって。
だから、世論は変わらないっていうふうに私は思っていないんだけど、
コロコロ変わるのに、なんか、ほんとにあほらしい感じなんですよ。
全然反省なく、何かサラサラと流れていく流れのようにね、
何の総括も無く変わってしまうって、
この事の方がすごく問題が大きいんじゃないかなっていうふうに思っています。
だから、全然お答になりませんけど、
だから、そういう事なんじゃないでしょうか、ね。
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2013年2月19日
11:00
今の学校の対応について自分の経験した事をちょっとここで話しさせて下さい。
まず、うちには中学生と小学生と幼稚園児の子どもがいるんですが、
小学校5年生の子どもは、私が先生や学校に問い合わせたりとか、自分が をすごく嫌がります。
なので、私もこの1年間、2年間ぐらいは静観ではないですけれども
先生と連絡帳でやりとりをしたりという事はあったんですが、
つい先日、一番末っ子の入学説明会があったので、
質疑応答の時に、除染の事ですとか、不安に思う保護者の、
「なにを不安に思っているのか」というのを学校に把握していただくためにも
「無記名でアンケートを取って頂けないか」、という事を聞いてみました。
その時には質疑応答の場なので、沢山の保護者の方々がいらしたんですけれども、
「除染についてはしで対応してもらう」ということでした。
この市で対応という事は私たちはその時よりももっと前から好調先生に問い合わせをしていたんですけれど、
いつも同じ答えで、
「市で対応している」
「市で順番に除染をする事になっているので、うちの学校のこの程度の汚染では最後の方になると思う」
みたいなことでした。
市で除染の適応をする数値というのは0.23マイクロシーベルトなんですけれども、
0.23を超える場所は鉄棒のしたですとか、子どもが遊びそうな所にありました。
そのことも問いかけました。
ですが、学校の対応は私の問いかけに関しましては、全部「市で対応する」という答え。
何でもそうなんです。
プールに関しても、給食に関しても、学校独自の対応はしない。ということで、
「給食も不安ならば食べさせなくてもいいですよ」
「心配ならマスクもして来て下さい」
「外遊びもさせたくないならしなくてもいいです」という個別の対応はしているので充分だ。
という答えをいつも貰います。
それでは、みんなが遊んでいる中孤立してしまう子どもが出てくると思うので、
平等に子どもを大人が守るという事をそれを提案したかったんですけれども、
先ず危険度の違いが校長と私が全く違うので、何を言っても分かりあえる事が出来なくて、
それで、その質疑応答で納得できなかったので、電話で問い合わせたりしました。
そうすると私個人での会話になるとまたちょっと対応が違ってきて、
「集まる場所が線量が高いから近づかないという事は指導するまでもなく子どもたちはもう分かっている」
「副読本で指導がもう済んでいる」と、
「だから、そんな当たり前のことを学校ではしない」というような事を言われました。
それで、アンケートの事についてもまた伺ったんですが、
「手をあげられない保護者というのはうちの学校ではいない」と、
私の周りには沢山いるんです。
それも伝えました。
「現実にいます」と。
「それでもそういうお母さんたちは、連絡帳で直接私のところに声をあげてくれているので、
私はしっかり声を知っている」という答えでした。
で、そんなに心配ならば、放射能の出前授業があるから、その時に講師の先生に質問して下さいと、
それで、昨日、その出前授業があって、京都大学から女性の講師の方をお呼びして、
私は質問が最後に出来るという事で、文科省が発表した副読本をコピーして
「これで指導して大丈夫と言っていますが本当に大丈夫なのか?」という事を伺ったんですが、
その授業の内容が、
放射性物質と放射線、放射能の違いからはじまって、
その講師の最初に出た言葉が、
「放射線がそこにある事が問題ではない」とさらっと言いました。
それで子どもが ようにシャワーにたとえました。
「シャワーは適度な水圧で、適度な温度で浴びれば気持ちがいいでしょ、」
「でも、それがうんちやおしっこだったら気持ちがわるいよね」って。(泣)
子どもたちは笑いながら「やだね」って。
自然放射能の話にもなって、
「みんなはポテトチップス好き?」
「ポテトチップスにも自然放射能が沢山あるよ」って、
低線量の影響が分からないのは何故か?
「怪我して血が出ても、ちょっとの怪我だったら血がずっとずっと流れて、それで死ぬ人はいないよね」
あと、低線量の影響が分からないのは、
「誰も実験台にはなりたくないから、低線量被ばくの影響は分からないんだよ」
「5年から10年後にはわかると言われています」と、
「世界のどこかの人は100ミリシーベルト年間受けている人もいるけれど、みんな元気です」
「ジャガイモの芽が出ないようにガンマ線を当てています。
「病院のガーゼを滅菌するのにもガンマ線が使われています」
ここでクイズが出ました。
「私たちの暮らしに放射線は役に立ちますか?」
1.害になるだけ
2.役立つ
正解は2番です。
6問あって、そのようなクイズを出されて、
点数が高かったチームが表彰状を渡されて、先生に褒められていました。
そこで を見てもらって、と思いましたけれども、
私は、想像以上の授業だったので、自分の書いたアンケートを渡して、その場から立ち去りました。
感情的に子どもの前で質問してしまいそうになったのと、
それが自分の子どもに になってしまうので、そのまま帰ってきました。
これは学校での一つのシーンですが、
国とか県とか市の対応の縮図です。
こういう現実があるという事をもっともっと沢山の人に知ってもらいたいです。
ありがとうございました。
21:12
今の話しを聞いて、
やっぱりひとりひとり考え方、捉え方が違うなってすごい思うんですね。
そこに本当に子ども騙しというか、ポテトチップスを出した事が
「じゃあそのジャガイモが、本当に安全な食べ物なのか?」を検証もせずに行っている事自体、
そこが子ども的なところからやられてしまうので本当に話にならないと思うんですね。
そこを変えていかなければならないのはやっぱり大人だと思うので、
こういう集まりをやる事によって一つになれると思うので、
お母さんたちで訴えたら何かが変わるという事を信じてやって行ったらいいと思います。
24:02
私は40を過ぎているおばさんなんですけれど、
子どもが小さくて、4歳と小学生の子どもがいます。
今言って下さったのは、実際に小学校で普通にある事です。
真剣に受け止めてみんなと繋がっていけたらいいなと思っています。
25:30
私は一番上の子が小学校5年生で、下に二人いるんですけれども、
一番上の子が保養に行った時に甲状腺の検査を受けさせていただいて、
その時にのう胞が見つかりまして、経過観察というか、 だったんですけれども、
なので、気を付けていたけれどもなんか、周りには気をつけていないお母さんもいたり、
それがこういう事で学校でのつながりとか保育園の繋がりでもすごく難しさを感じて、
「あ、言えなかった」みたいな事が多かったんですけれども、
その、のう胞の話とか、のう胞について知らないお母さんたちもいたりして、
知っているからとか、勉強したからとかそういう事ではなく、
少しずつ話していく事によって、今まで気にしていなかったお母さんとかも
「あ、ってなんなの?」とか、
少しずつ「こういう会にも参加したい」って、教えてとか、そういう事を最近感じるようになってきて、
少しでも情報がシェアーできる環境があったらいいなと思っています。
27:40
5歳の息子がいるんですが、今幼稚園とかで、あんまり気にしなくなってきたような雰囲気が出始めて、
本当にその中に息子は混じってしまっていて、という空気だったんですけれども、
今日改めて動画を見たりお話を聞いたりして衝撃を受けましたし、
これからやっていかなきゃならない事が沢山あるんだなと思いました。
28:31
気にはしているんですけれど、やっぱりいろんな情報がありますし、
私も当時からそうですけど、今も、
「やっぱりどこの情報が正しいのか分からない」という時がたびたびありますし、
その温度差があるので、私が強く誘っても、
「いや、いわきはもう安全だし、もっと大変なところはいっぱいあるから」というふうに、
順番は一番最後だよというのがあります。
3208
知らない人が沢山いると思うんですが、初期被ばくを沢山受けてしまったという事で、
キチンと対策を行政とかにフォローしていってもらいたいので、
そのためにはまず沢山のお母さんたちに知ってもらって働きかけていくことが大事だと感じました。
33:10
私の周りの環境は放射能に対して私と同じ考え方の方が多いので、
「話せる」という事がとても救いだと思うんですね。
中には、もうそういう事が「話せない」というお母さんも沢山いらっしゃるって
ひそかにいっぱいいらっしゃるっていう事が今の現実で、
放射能に対する事実を共有するという事が大切で、
こういう機会が広まってくれるといいなと思っています。
34:15
3歳の息子を持つ母親です。
先程の小学校での話を聞いて・・・ショックでした。
35:22
小学生の子ども。
子どもたちを守るために前向きに進み、皆さんと力を合わせて
35:45
4歳のむすめと2歳の息子をもつ母です。
NHKスペシャルを最初から見て、
自分の3月11日以降の行動と照らし合わせてみると、
やっぱり私たちは大量にヨウ素を浴びてしまったし、
子どもにも沢山浴びさせてしまったなという、
怒りと悔しさとがいっぱいで何とも言えない気持ちになりました。
で、私も震災後、2年になりますが、やっぱり誰にも話せなかったりして、
ひとりで悩んだ日も多かったんですが、
今日この場に着て同じに悩んでいるお母さんがいるという事がわかって、
「がんばろう」って、ここから頑張ろうっていう気になりました。
36:53
小学生の男の子と幼稚園の女の子がいます。
学校に対してそこまでなにもした事が無かったので、
「そんな対応なんだ」という…。
学校によってとも言いますけれども、結局は市の対応だと思うので、
すごく頑張っているお母さんたちと、形の人が多いと思うんですけど、そこのレベルをあげてあげたいと。
知らないから、というのがあるので、頑張っていけたらと思います。
39:10
これを知ったら「えっ?」って思う人が沢山いると思うんですけれど、
黙っていたらデータだけ取って子どもたちがモルモットにされる可能性があるんですね。
いろんな事に疑問を持ち始めると、やっぱり「みなさん騙されちゃダメだ」って思うんですよ。
私たちは初期被ばくをしたという事実があるので、
いわきの方は励まし合って、どんどん発言して情報を開示して行く事がすごく大事だと思うんです。
ーーー
もうすぐ2年が経ちます。
その中で感覚がマヒしそうになる時もたびたびあります。
そのたびにもう一度言ってみます。
「あの日から世界は変わってしまったんだ」
「放射性物質は私が生きている間無くなる事はないんだ」
「面倒でも出来るだけ避ける努力をしよう」と。
疲れちゃいます。
だけど、今がとても大事だと自分に言い聞かせています。
小学校への放射能の授業。
京都大学にもこのような先生がいらっしゃるんですね…
授業の中で、このように偉い先生に自信たっぷりにお話しされると、
子どもたちは殆ど信じてしまうでしょう。
そして、小さい時に信じてしまった事は大人になってもなかなか変わらないかもしれません。
線量が高い中で生活していくために「不安ではなく安心を」という方向にもっていくのは、
安易で大きな間違いだと思います。
放射能は怖くないというのではなく、
放射能は危険だから、どうやって避けていけばいいのか?
そういう知恵を付けるのが本当なのではないでしょうか?
有無を言わさず授業として全員に受けさせるという事にも問題があると思います。
「放射能はいらない」と、「脱被曝」についてはなかなかまだ声に出しにくい状態が続いています。
けれど事故当初は「原発はいらない」という声をとても出しにくい日々がしばらく続いていました。
でも、いつの間にか「脱原発」と普通に言う事が出来るようになってきています。
今まだ声をあげられない方一人ひとりが繋がっていく可能性を広げる
このような活動にはとても意義があると思います。
「無用な被ばくを避ける」という当り前の権利を大きな声で言える日は必ず来る、そう思います。
(聞き取りにくい部分など、全ては書き出していません)
続きを読む
下地先生と一緒に逮捕され、一緒に釈放された方の報告会見です。
とても明るく報告されていますが、
このような方が20日間も拘留されていたという事は、私はとても許せません。
文字に起こしてしまっていいものかどうかちょっと悩みましたが、
ごく普通の家族を巻き込んで突然このように権力を振りかざしてくるという事があるという事実を、
私たちは知っておくべきだと思いますし、
また、このような事を知らん顔して放置していたらいけないと思います。

2012年12月29日 釈放記者会見
30:09~

拘留後半の時多くの方に来ていただきましてありがとうございました。
それも含めましてみなさんのおかげで、こうやってここにおるんですけれども、
まぁ、感想と言えばいろんな面で霜で先生がお話しいただいたのとほとんど重複しまして、
「がれきに何故反対するのか」というのは拘留後半で三日三晩寝ながら考えた演説をうちまして、
その時は普段全然無関心を装っている嫁さんと長男も来まして、
「まァまァ出来が良かったよ」と言われましたので、
そうした評価もありますので、今度、来年の16日ですか、
此花説明会で、私や下地さんはなんぼ手をあげても当ててくれないでしょうから、
タマちゃんとか、フェイントをかけて当たる人がいますんで、
当たった人がまた回してくれたら一席ぶちたいなと考えております。
最初にお願いしておきます。
そういう事も含めまして、私はネット上では、丑年生まれだからウシなんで、
今後はですね、北堺141号のウシですというかたちで、
橋下君はじめみなさんが新たなキャラクターで私に名前をくれたと思いましてね、
実は下地先生もちょっとおっしゃっていましたけれど、
私も暇だったもんですから、3直の弁当がこういうもんだっていうのをね、
場内はこういうもんだとか、
で、朝7時から始まっての、こう、いわゆる体育会系なんですよね。
私なんかは普段早く寝て早く起きているもんですから、
9時に電気が落ちちゃうんで、どうしても寝なくちゃいけないんですけれども、
その前に私なんかもう寝てるんですよね。
酒がないでしょ、
煙草も、たばこは吸わないんですけど、5時ですから、ご飯食べるの。
5時ですからね、だから8時に寝るとすこし窓を見るんです、鉄格子の外側にはられた。
それが白けてくるのが何時かなというのを何回かやっていると、
最近、この2~3日は違ってきましたけれど、
入った当初はちょうど7時になるとポッと白くなったんです。
まだ、朝が遅いというか、
それを見てそろそろいいかなぁ、と思うんですけれども、
あんまり早いとまた怒られますんで、
ま、そんな形の中でこんなふうな問題をやったり、
ずーっと毎日やっていますと、本当に、出てきた方がちょっとアレでしてね、
いる方が調子いいかなと思う位の―笑ー
コント141号みたいなですね、
なんか脚本でも書いて大阪発で全国ネタにしてもらえないかなと、思う位な感じなんですけれども、
まぁ、それはそれとして、
ちょっとそういう意味で私も貴重な体験をしましたので、
その中でちょっと考えた事を先に申し上げます。
今日来られているんですけどもね、たまたま下でお会いしたんですけど、
何カ月か前に成田の空港問題で、
「成田空港をもう一度農地に取り戻そう」と言う、将来的な仕事をやっている農家の方がおられます。
多分そういう方がつくられた農作物を、福島の新鮮な野菜が欲しい方に届けている。
そういう事をやってた方がおられたみたいで、私は知らなかったんですけれども、
そういう方が逮捕されて、
それを支援されてる牧師さんまで自宅にガサが入ったと。
その集会にたまたま行ってその話を聞きまして、
「そんな事が今でもあるんかい」と。
ま、私は実は今は63ですけど、成田抗争とかいろいろありましたんで、全然知らない事はなかったんで、
ああ、そんな事を今でもやっている人がいるんだし、
そんな事を追っかけている奴がいて、
さらにガサ入れまで今でもやっているんだという事に、
一種他人ごとながら「えェッ!」って思っていたんですけれど、
2~3カ月したら私の家に朝が来まして、
ピンポーンって言って、パッと目が覚めたんですけれども、
その後、出ないで「誰かな?」って思っていたら、ガタガタガタって、やるんですよね。
そこまでやるのは、近くに住んでいる息子が小学生に今度なる孫を連れてきた時に、
孫が「ジージ早く開けてよ」って、こうやるんですね。
もう、ピンポーンの次にガタガタっていたから、孫が来たなと思って開けたら、
バーッ!となんか令状みたいのを出して、
ドドドドッ!と7人ほど入ってきて、「あれやこれやですぐに来い」と。
こっちの部屋で嫁さんは寝てたんですけど、「どうしたんだ」って起きてきて、「あれやこれや」と言って、
嫁さんの部屋にも入ろうと思ったらしいんですけど、
「うちの旦那の容疑だったら私の部屋には入らんといて」いうて、
断固としてなんか、部屋には入らせないでですね、
ま、最もすぐビニールに、携帯とパソコンはその夜使ったまま、
夜中の12時ぐらいまで私は仕事をして、普段は夜ほったらかして寝ちゃうもんですから、
持って行ったものを見ても結果的にはパソコンと携帯と、それから私の部屋からチラシを何枚かと、
それから最近ちょっと企画をした、白い放射能に禁原発と入れたですね、
お金のかかったユニフォームを持って行かれまして、
それぐらいなんですけれども、
「そういうものに興味があるんだな」というような感じで、
それで北堺署の141号になりまして、10日20日とお世話になったんですけれども、
拘留の経験の時も延期の時ももう一回の時も、いちいち地検にきて、地方裁判所に行くんですけど、
その時の車がですね、運転している人が地検に入る時も裁判所に入る時も
ある時は曽根崎暑ですとか、ある時は天満署ですとか言うんですよ。
運転手の人が。
で、護送する車は北堺署なんですよ。
右と左に必ず付く、腰縄付けている人は北堺署なんですよ。
2回も3回もするもんですから、私も何の気なしに
「これどういうことなの?」と、
俺は管轄が、なんか話としては大阪駅の管轄は曽根崎暑だと。
曽根崎署に引っ張っていかれるのを、話しでは
大阪府課は全部部一緒なんで、空いているところに入れるんだという事で、
私は北堺署が空いていたから入れられたと、
ま、それはそれでいいわ。
だけど、なんで毎回天満署とか曽根崎署に人とかが運転手で、
わざわざ電車に乗って来るんですね。
で、また降ろしたら電車に乗って帰るんです。
「なんでそういうことするの?」って言ったら、
「いやいや、いろいろとね、天満署と話しながらやっているんだよ」
そういうような事をちらっと言ったんですよね。
で、この救援のセンターと、弁護士の救援センターがありますよね、機関関西救援センター。
非常によく連絡を取って、入ったその晩から弁護士さんに来ていただいて、
私初めてだったので大変助かってきてるんですけど、
何回目かの時にそういう話をしたら、
天満署では結局今回大阪での原発関係の取り締まり。
つまり公安が中心となった、原発関係の取り締まりの拠点になっているみたいだから、
多分、言ってみれば天満署が
原発における大阪関係の取り締まりみたいな拠点になって、
虎視眈々と獲物を、ターゲットを狙っていて、
たまたま曽根崎署管轄のあれであったと。
だけど引っ張ってきたら北堺暑だった。
しかしまぁ、基本となるキーステーションからは、
常にひとりが派遣されてくるというか、連絡取り合っているというのか、
どういうんでしょうかね、ま、そんな感じの構造があるって。
弁護士の先生もやっぱりそういう事じゃないかというようなお話でしたんで、
今回、この大阪におけるあれはどうやら北天満署とか公安三課でしたけれど、
そう言ったところが中心となって動いていると。
ま、それはそれで一つで、
私が入ったところは畳3枚のトイレ付で、ま、1DK、Dは無いんですね、1K。
ちょうど3人一緒で、私は63で、後は27と22の若者で、こんなふうな事を言っていました。
「これできたんだ」って言ってね、
要するに、麻薬ですよね。それとか脱法ハーブ。
中でも一番若い人が一番年季の入った人で、
シンナー、名前は言わないですからね、絶対に、これ撮っていますからね。
20なんですけれど、シンナーで少年院に行って、
出てきて監察中にタクシーの乗り逃げを何十回となくやって、
そのすべてアメ村とかの脱法ハーブを売っているところに買いに行って、
もともとお金がないんで、脱法ハーブの店についてちょっと運ちゃんに、
離れたところから来るもんですから、
「ちょっとここにいてハーブ買ってくるから待っといて」と言って降りると、
ほとんど例外なく下りてきたらタクシーはいなくなっちゃうらしいんです。
お金払ってないのに。
それに味占めて、常にやってて、
「自分は何十回と乗り逃げをやっているけど俺は一度も逮捕された事がないんだ」と言ってるんですよね。
最終的にはちょっと捕まってきて、
「おっちゃん、どういう事情で来たんや?」
「これこれこうで大阪駅でビラまいたら逮捕されちゃったんや」と
「いつのことや?」
「10月何日かで、それも覚えてないんや」って言ったら、そのお兄さんがこういう事を言うんですね。
10人ぐらいいろいろいるんですけど、出たり入ったりしている人たちが。
で、たばこ吸っている時に話しが出来てて、情報通なんですけど、
1ヵ月半前の事は私は全然覚えてないんですけど、
その常連のお兄さん達に言わせると、
「検察が1ヵ月半位の間で逮捕状を取って入ってくるというのは、相当慌てているよ」と。
「なんか非常に慌てているよ、おっちゃんの逮捕は」
「多分これは証拠不十分で不起訴だから、間違いないから。俺が保証するから」
もう、最初に言われましてね、
「なにいってんの、このガキは」って思ったんですけど、
キッチリ昨日。
昨日が最終日なんですよ、拘留期限の。
普通は午前中に来るらしいですよ、彼曰く。
「起訴の場合は午前中に来る」と。
「それも電話一本で来る」と。
「起訴された、何号起訴されたよー」で終わり。そこから拘留。
1ヵ月半とか2ヶ月とか、裁判までやられると。
ところが夕方まで来ないんですよ、私ね。
もうその時点で、
「おっちゃん、俺が言った通り、これはね、保釈される可能性100%だ。もう間違いない」
って言っているうちに、
「来なくてね、どうなってるのかな?」と思っていたら監守がきて、
「141号、持ち物持って出なさい」
そしたらそのお兄ちゃんが握手を求めてきてね、
「俺の言った通りやろう」
で、結論はですね、どうも1ヵ月半位私と年配の方も多いですけど、
私が10月17日と何べん言われても思い出さないんですよ。
「あんたは、なんか首からぶら下げていた」と。
「いや、そんな覚えはない」と。
「スピーカー持ってた」
「あ、それは持ってた。重そうだから俺が持ってたんや」と。
「一番先頭歩いてた」
「俺先頭歩いてた」
「それがリーダーなんだ」と言って、
「先頭を歩いてたからあなたが首謀者なんだと、あなたがリーダーなんだ」と、
全然ね、「何を言ってんだ?」と。
で、「ガンガンコンコースの中でデモってた」と、
「悪いけど私ね、スピーカーでしゃべるより地声でしゃべっている方が響いちゃうんで、
持ってたからといって、『スピーカー使ってた』って言わんといてくれる?」
というような話で、もうそんなに話す事がないんですよね。
そんな話の中でやってきまして、
毎日毎日何時間も天満署と曽根崎署から二人きて、取り調べという名のあれがあるんですけど、
しゃべる事がないんですよ。
私の事はもう、本人が覚えてないしね、事実かどうかも覚えてないし、
でも「言った」と。
「ビラまこうと思ったけれども出されて歩道に立っててまけなかったんだ」と
「まこうと思ったけれどもまけなかった」んです、それだけの話。
通り抜けたのも、俺の声は大きいからもしかしたら響いたかもしれないけど、
マイク使ったんじゃなくて、それより大きかったらご免やけど、
とにかく「通るな」っていうから「通せ」って言って通っただけやというような事だけの話で、
結局後は、下地さんもどうもそうだったらしいですけど、
あれやこれやの世間話ばっかりで、
結局話を最初にしてきたのは、さっき出てきましたけど、ある党派。
わたしはいわゆる全共闘世代ですからね。あの、こう、一番最後は出てきたら…。
ま、たとえばね、革共同革マル派、革共同中核派とかね、
向こうは下だけ言ってくる訳ですよ。
「それはね、正式に革共同革マル派って言うんだよ。
それは正式には革共同で、もともとの派閥はこうで、
この派閥はこっちの先生で、こっちの派閥はこうだって、
いや、俺らは学校に7年行ったけど、ずっと最初から最後までそればっかりだったから、
もうそれしか知らないぐらいだから、知ってるねん。聞いてくれる?」みたいな話で、
で、なんだかんだ言いながら、向こうもさるもので
「誰誰知ってるか?」「だれだれ知ってるか?」
「あんたの携帯にはこの名前があったけど、何で名前があるんだ?」とか、
チクチクと、刺してくる訳ですよね。
で、そういう事の中から、ちょっと今回これからの事に繋がるんですけれど、
だんだん最後の方になってきますとね、
「あなた中之島公会堂でしゃべってましたね」とかね、
「此花集会でもしゃべってましたね」とかね、
「春日集会でもしゃべってましたね」と、核心に迫ってくるんですね。
そうするとね、「なにがこいつ言いたいのかな?」と思いながらも、間違いなくしゃべっていましたよね。
で、…あの、なんて申しましょうか。
此花集会のいくつかの中では、
たとえば此花住民じゃないと入れないのにしゃべってたりする人がいたりするんですよね。
堂々と。
マイク持ってね。
中央公会堂なんかですと、広く大阪市民でしたからね、
春日中学なんていうのは、私は入ってないんですけど、
文字通り此花住民じゃないと入れない集会に、
何故かそのグランドの中に私のバイクが突っ込んで置いてあったりね。
その時はわざと私、嫌がらせじゃないんですけれど、停めさせてもらったんですけどね。
で、後から考えると、何で私の名前が特定できたのか?って言うと、
「あなたあちこちにみんなバイクで行って、ナンバープレートがあるじゃないか」と。
「一発でそんなん、住所氏名が分かる」というようなことと、
橋下さんというのは、弁護士やっているだけあって、
まぁ、ここまでかしこい人なのか知りませんけど、
如何にもオープンじゃないですか、あれ。
今日来ている我々の側といったらおかしいかもしれませんけれど、
そういうフリージャーナリストのカメラマンも許すし、
24時間全部撮ってますでしょ?
最初から最後まで。
「ネットで誰にでも見せる」って言ったら公明正大に見えるじゃないですか。
でも今回の事で見ると、あれ全部証拠固めになるんですね、あれ。
ばっちり。バッチリ証拠になって、
で、最後我々の仲間が不当に逮捕された、最後の此花説明会なんかでも撮られてますよね。
我々の側でも撮ってて、ついせんだての会議でも
「どこまで、ああいうビデオっていうのは味方になるのか味方にならないのか紙一重だな」
って言う話がありましたよね。
今回はつくづくやっぱりそれを感じましたね。
紙一重ですね、これね。
今日も映されていますけど、
今日の朝日新聞に出ていました。
「二人容疑不良で保釈したけど、当局はなおかつ任意で取り調べを続行する」って、
わざわざ脅して書いてありました。
こういうふうなことがプラスになるのかマイナスになるのかわかりませんけれども、
全てそういう事で証拠っていうのは、
どういうふうに我々にとっての証拠が無効に取っての証拠になるか?って言うのが
常に紙一重の状況出来ていますから、
今度の1月16日でも、
向こうにとっても一つの総決算でしょうし、
我々にとってみても、ま、とりあえず
向こうが設定した住民説明会というのは、一応予定としては最後ですから、
それなりに気合が入るかもしれませんけど、
ま、先生もおっしゃっていましたけど、
気合の入れ方というのがちょっと我々もあんまり同じパターンでやっていると、
同じ囲みの中というか、仕掛けの中に放り込まれて行っているような事もあり得るかなと
いうような事も考えますんで、
ま、ちょっといろいろと散文的なことで申し訳なかったんですけど、
非常に勉強させてもらいました。
それから、最後ですね、東京の方で支援に立ち上がってくれたところからの、
私は中に入っている時に情報を教えてもらったんですけれども、
私は嫁さんと、ま、働いていまして、
息子二人と娘とってみんな結婚して、それぞれ独立して孫もいるんですけど、
一切かかわりない形で私は一人で、おっさんの自由でやってきたんですけれど、
なんか、突然ですね、東京の集会に私の息子が名乗りをあげて、
「えらい迷惑かけていますが、実はあれはうちのおやじなんです」と、
なんか「名乗った人がいるよ」と言う事で、
「それがツイッターに出ているから見たら?」って言うんで
弁護士の先生がプリントアウトした奴を窓際にこう、貼りつけて、
私もあらためて、監視さんに老眼鏡を取ってきてもらって読んだら、
私の息子がなんか偉そうに書いているよね。
「このたび親父がお世話になります」って言って、(笑)
「二日後の拘留公判には母親と長男を行かせますんで、よろしくお願いします」っていうんで、
で、公判になったら本当に一番前に嫁さんと長男がおりましてね、
で、終わって私はすぐに出て行っちゃったんですけれども、
あとで聞いたらその弁護士先生にうちの嫁さんがですね、
「20日も拘留させるのはどういうこっちゃ」と、
「大阪駅でビラまいたぐらいで、2泊3日ぐらいなら本人のためにちょうどいいけど
20日もはおかしいだろう!」と、
「なんぼなんでもおかしい」と弁護士さんにガンガン言ったらしいんですよ。
弁護士さんもなんかその時の話では、
「確かに私もこういう事ばかりやっているんで、慣れ過ぎているかもしれない」
「本当は2日や3日で、もうこんなものは収まりさせなきゃあかんのに、確かにおっしゃる通りだ」と
で、今でも怒っていまして、
「お父さんどうすんの?」と。
「出てきたのは良いけど、こんなもんだまっとったらアカンよ」
逆になんか、ねじ巻かれるような状態で、
いや、そこまで私もファイトないんですけど、
そんなことで、こうやって権力というものはですね、自ら敵をつくっていくんだなぁと、
・・・・読んだらいいですか?
なんか息子の方がしっかりしているみたいなんで、
こっちを読んで終わりにしろということ何で(笑)じゃあ読ましてもらいます。
支援の皆様、また本日お集まりいただいたみなさま、
このような機会を頂き誠にありがとうございます。
心より感謝しております。
このたび父への突然の逮捕は、家族一同まことに驚き当惑しております。
父は私が幼い時から弱者の立場に立つ事を教え、
(いや、こんなん教えた事無いです)-笑ー
阪神大震災では当時父が勤めていた会社に休暇を申請し、
数週間にわたってボランティアを行ってきました。
(これは、阪神の事なんですけど、この時私はビルを解体する機械を売っている営業マンで、
阪神が担当だったんで、倒れたのを見て翌日に行きましたけど、「絶対にこれはモノが売れるぞ」と、
思って入ったんです)―笑―
その姿勢は60を過ぎた今も変わらず、
昨年の大震災では大阪から数回にわたり東北の現地を訪れ、ボランティア活動をし、
かたや和歌山の(那智の大災害の時ですけど)その時にも駆け付け援助活動を行ってまいりました。
父には私の息子を含め4人の孫がおり、もうすぐ5人目の孫が出産を控えております。
そのような父が、孫の世代を思い、安心できる社会を望んで必死に世間に呼び掛けていたところ、
突然逮捕されました。
12月9日の家宅捜索では、
一般家庭に7人もの警察官が踏み込んで写真を撮り、私物を押収しました。
これまで弱者を思い行動してきた父が、警察官の指示で腰に縄を巻かれて連行されました。
同じく60歳を過ぎた母が、事情をつかめず立ちすくんでおりました。
孫に囲まれて楽しいクリスマスを過ごす予定だった父は、プレゼントを買う事も出来ず、
今も見張られた生活をしているようです。
(留置されているという事ですね)
原発やがれき受け入れの様な、国民の健康に重大な影響があるかもしれない決定を下されるとき、
官邸前や、梅田の中心で、国民の必死の呼びかけが鳴り響かない社会は、むしろ不気味ではないでしょうか。
ごくごくありふれた私たち家族は、原発やがれき受け入れの複雑な論点を主張するすべはございませんが、
弱者の立場に立って実際に行動し、人に危害を与える事でもない父が、
自由に意見を主張できる社会こそ、民主主義であり、平和な社会だと痛感しております。
社会的には名もなき父ですが、家では大切に慕われている父であります。
(違います)―爆笑ー
見せしめとして逮捕した無名の国民にも、
その帰りを心配して待つ沢山の家族や友人がいます。
(これは本当にその通りです)
父の即時釈放を待ち望んでおります。
皆様のご支援誠にありがとうございます。
ー拍手ー
ちょっとこの、この息子は、東京電力じゃないんですけどね、
殆どそういう所に近いところの会社にいますんでね、
こんなこと言ったらヤバいんじゃないかって思うんですけどもね。
まぁ、あの、良くまとめてもらいましたんで、
どうもー拍手ー
質問
Q:検察の方の取り調べというのはどんな感じでしたか?
私の場合は刑事調べをそのまま要約するような形でしたね。
警察が毎日毎日来てまとめていくやつの、
そのレポートを、自分なりにちょっとまとめていくっていうか、確認するようなところです。
私の場合特に、振り切った形。
「あなたが入ろうとした時に、どういう恰好をしてきたか」とかね、
「手を広げてきたか」とか、「体がぶつかってきたんじゃないか」、「格闘したんじゃないか」とか、
そういうようなところを執拗に、ちょっとずつ言葉を変えて、しつこくしつこく。
だから、逆にそこで、ポイントが分かるんですね。
「ああ、ここが知りたいんだなぁ」って言う感じですね。
その時の私の警察官が中川さんっていう人なんですけど、
メガネが、ピキッ!って、こう光るんですね。
「きたな」っていう感じでね。
あの…非常に分かりやすい方でした。

私の取り調べも中川義雄でした。
善悪の善に英雄の雄と書いて義雄と読みます。
下地先生の釈放会見はこちら↓
不当逮捕で拘留20日間!下地先生釈放記者会見12/29(内容書き出し)
<1>ー支援者による説明ー下地准教授らの不当逮捕抗議記者会見 12/22(文字起こし)
<2>ー大学側は逮捕の3日前、すでに下地先生が逮捕されることを知っていたー
下地准教授らの不当逮捕抗議記者会見 12/22(文字起こし)
<3>ー「立派な独裁国家、警察国家ですよね、もう完全な」山本太郎・メディア質疑応答ー
下地准教授らの不当逮捕抗議記者会見 12/22(文字起こし)~テレビ局にお願いしよう~
<許されない!>下地先生不当逮捕
「駅での訴え 犯罪?」東京新聞こちら特報部12/21(書き出し)
●憲法学者の声明
JR大阪駅頭における宣伝活動に対する威力業務妨害罪等の適用に抗議する憲法研究者声明
●大学研究者が呼びかけ人の署名
放射能と有害物質を含む震災がれきの広域処理に反対する市民の逮捕は不当です。
下地真樹准教授らの即時釈放と謝罪を求めます。
●獄中からの下地先生の手紙
●その他、下地先生の抗議活動などへのリンクがあります
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皇太子さま、主演俳優と「レ・ミゼラブル」ご鑑賞
産経ニュース 2012.12.22 07:00 (1/4ページ)[皇室]
天皇陛下と皇太子さまは21日、皇居・宮殿で、
野田佳彦首相をはじめとする閣僚らとの午餐(昼食会)に臨まれた。
各大臣と副大臣、宮内庁幹部ら約50人が出席した。
招かれた大臣は19人で、全員が出席した。
午餐はこの時期恒例のものだが、今回は民主党が直前の衆院選で惨敗したため、
城島光力財務相、田中真紀子文科相ら、
バッジを失うことになった議員が多数出席するという異例の開催となった。
午餐に先立ち、陛下は今年の活動をねぎらった後、
「どうか健康を大切にされ、来年がよい年であることを願っております」と述べられた。
続いて飲み物を持ちながらの懇談となり、
陛下は野田首相と数分間話された後、落選した藤村修官房長官のもとへ。
「官房長官は忙しかったでしょうね」「健康を大事にしてください」などとねぎらわれた。
平野達男復興相とは、被災地のがれきに含まれる石綿(アスベスト)を話題に。
陛下は、石綿は放射能のように機械で測定できないことを挙げ、
「(処理は)なかなか難しいんじゃないですか」と話された。さらに、
「年をとってから携わった人が後悔しないよう、気をつけないといけませんね」と述べられた。
落選した閣僚らは、23日の天皇誕生日の「宴会の儀」にも招待されている。
ーーーー
他の記事も調べてみましたが、今のところ
この最後の下りの部分は産経新聞のみが書いています。
ひとつ前のブログがれき焼却灰にストロンチウム90での
毎日新聞の記事県は「安全性は評価しない」としている。の最後の一行に続いて、
この記事も、最後のくだりの部分に記者の思いが込められているのではないかとわたしは思いました。
産経新聞の中にでさえも、心ある記者の方は存在してたのだとあらためて思いました。
そうですよね、どこの社に勤めていようが、大きな夢を持って記者になったのでしょうから。
どこのメディアにも必ず、「このままじゃいけない、何とかしたい」と考えている方はいる筈です。
この短い一文の中に、私は各紙の記者が一生懸命頑張って下さっているのだと、そう信じます。
少しずつ少しずつ1行から変えていくことによって、いつか大きく変化できる事を願っています。
そして私たちはその一行に込められた思いを読みとる力を身につけていきたいと思っています。
<杉並区・東京8区>高円寺街頭演説後半・山本太郎さん(文字起こし)より
山本太郎さんの演説
「メディアの方々にも社内で闘っていただきたいんです。
新聞社の方にも闘っていただきたいんです。
その最後の1行だったり、何か我々に気付く事を与えるような
そんな1行を闘うところに闘志を燃やしていただけませんか?」
ーー
いままでの色々な場面でにおいて、陛下のお言葉の端々からは
放射能の問題、国民の外部被ばく、内部被ばくを非常に心配されていらっしゃること。
そして今回はがれきの広域処理にも心を痛められている事がうかがわれると思いました。
天皇陛下のお言葉 2012年3月11日より
「再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています」
ーーー
なのに!環境省よ何をしているの(╬◣д◢)
心を入れ替えろ!環境省!!
<税金返せ!>露骨すぎるがれき利権・復興予算から交付「受け入れなくても1団体平均40億円!」
現実から逃げない一歩 「げんしりょくはいりません」
この動画がHNKの番組の一部だという事をコメントで教えていただきました。
11月4日(日)16pm放送 NHK東日本大震災プロジェクト
未来への手紙 ~子どもたちが見た被災地~
これまでの放送 | 明日へ 支えあおう | 明日へ ―
http://www.nhk.or.jp/ashita/bangumi/archives/
探してみたら、他の部分の動画がありました。
タイヨウ君の野田総理への手紙の部分を書き出します。
そしてタイヨウ君の手紙はこんな人へ。
タイヨウ君ビデオレター:
野田総理へ、
放射能って何ですか?
内部被ばくって何ですか?
僕はあんまり意味が分かりません。
だけどとても怖いです。
これは原町から持ってきた服と運動着です。
着た時は、お母さんに洗ってもらってから着てました。
ナレーション:
南相馬市原町に住んでいたタイヨウ君。
震災後、福島市、会津若松市と避難先を転々。
今は相馬市で暮らしています。
現在タイヨウ君はこの家から原町の小学校に車で通っています。
ビデオレターにはこんなことも。
タイヨウ君ビデオレター:
これはランドセルです。ランドセルをずっとここのところ(玄関)に置いたままでした
放射能が怖かったからです。
Q:ビデオレターでさ、「ランドセルが怖かった」って言ってたけど、今はどぉ?
タイヨウ君:今?、今はもう全然大丈夫。
Q:おっ!すごいじゃん!!
タイヨウ君:ちょっとは…ダメなところもあるけど、でももう、あんまり怖くはない。
Q:本当?
タイヨウ君:うん。
Q:そっか、よかったなぁ、(笑)
タイヨウ君:野田総理って元気なの?だって、野田総理この前原発に入ったんでしょ?
Q:うん、
タイヨウ君:元気なの?
Q:どう思う?どうだと思う?
タイヨウ君:(首をかしげて)
でも、福島のお米を食べたから、大丈夫なんでしょ。
でも、僕は福島県産のもの?は、あんまり食べたくない。
だって、お母さんたちが「セシウムが多い」とかそんな事を言ってるから。
ナレーション:
「ランドセルは怖くなくなった」と言うタイヨウ君。
1年前のビデオにはこんなエピソードも。
ビデオレター
ここは前住んでいた原町のお家です。
いま、じいちゃんとばあちゃんが住んでいます。
うちのじいちゃんでーす。
タイヨウ君:今淋しくないですか?
おじいちゃん:さみしいわよ、おめぇらいないもの。
おばあちゃん:ばあちゃん、毎晩泣いてます。
ここは、僕が前暮らしていた部屋です。
今ここで泊ったりとかはしていません。
ナレーション:
原発事故から500日余り、タイヨウ君はこの家でまだ、1泊もしていません。
学校からいったんここにきて、両親の迎えを待つのです。
Q:この家に泊まるっていうのは出来ないの?
タイヨウ君:うん。だって、…わかんないから。
Q:わかんないっていうと?
タイヨウ君:ん?
Q:わかんないっていうと?
タイヨウ君:子どもが決める問題じゃないから。
ナレーション:おじいさんとおばあさんがこの家で暮らしています。
おばあちゃん:親たちもとまんねえもんな。
おじちゃん:放射能は怖いな。
おばあちゃん:こわいね。
おじいちゃん:なんか人生バラバラにされちちゃったな。人間が楽しみないもんなぁ。
Q:いやだなって思う事は?
タイヨウ君:
いやだなって思う事は、
前みたいに普通に暮らせない事とか、
おじいちゃんとかおばあちゃんと、みんなでご飯食べてた。
また、みんなで一緒になれたらって、
タイヨウ君ビデオレター:
野田総理へ、
いつになったら原発はなくなるんですか?
放射能はいつなくなるんですか?
野田総理にお願いがあります。
放射能から僕たちを助けて下さい。
Q:ビデオレターを作ってみてどうだった?
タイヨウ君:
うーん、なんだろう・・・
でも、ビデオレターやっても野田総理は別に見ないんだろうなって、
ん?
だから、ビデオレターやっても、「野田総理は何にもしてくれないんだな」って。
Emperor's Anti-Nuclear Speech
2012年3月11日〈東日本大震災追悼式〉

天皇陛下のお言葉
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いもかけない巨大地震と津波に襲われ、
ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。
その中には消防団員を始め、危険を顧みず、
人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、
危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。
再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、
多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。
このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、
未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。
この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、
また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。
外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で
互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。
世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。
国民皆が被災者に心をよせ、被災地の状況が改善されていくよう、
たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。
そして、この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、
防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、
御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。
青字はNHKニュースでカットされた部分
≫o(-0-o)スゥ・・・(o゚□゚)o≪≪≪締め切りまで、あと4日ですよーー!!
さんざん皆さんに
「パブリックコメント書いてーー!!」
「黙っているのは認めたことになっちゃうよ~!」
なんて叫んでいたくせに、
私はやっと今日、パブリックコメントを送付しました(*ノω<*) アチャー
時間稼ぎしたから、
田中俊一氏の事もついでに書きました。
いまね、田中氏の国会での所信を書き出していて、
彼の言葉に、この人には命は任せられないと確信したからなのです。
このまま規制委員長が田中俊一になってしまったら
日本は大変なことになてしまうと思っています。
福島県民の意見を聴く会も書き出し中です。
パブリックコメントになにを書いたらいいのか思いつかない方々へのヒントにもなればと思います。
締め切りまで、あと4日間しかありません。
今の時代に生きている私たちには
未来への責任があると思っています。
政府に原発NO!のパブリックコメントを提出しよう━━o(`・ω・´)○━━ッ!!
[拡散]「原発についてパブリックコメントを提出しよう!」(様式と提出先がすぐ分かるよ)
詳しくはこちらをクリック↓提出先と様式があります

ご自分の思っている事を書いてもいいし
書かなくてもいいし
「意見及びその理由」なんか
「原発は怖い」
「未来に負の遺産を残したくない」
「命が大事だから」
とか・・・
その一言だけでもいいと思います。
名前と住所電話番号は必須ですが
そこは責任を持つという意味でも書くべきだとは思います。
何にもアクションしないことは、
認めているとみなされます。
そう、再稼働も原発も核兵器も。
私は認めたくありません!
あなただけではなく、同居しているご家族、親戚、信頼できる友達。
そこの範囲まで広げられたら、大きな声になるかもしれません。
未来のためにლ (。◕ˇε ˇ◕。ლ)
官邸前にはどのくらいのに人々が集まるのか?と思っていました。
IWJの岩上さんが取材して下さいました。
大勢の人々が7月27日金曜日も官邸前で声をあげていました。
最初と最後の部分の動画を載せます。一部書き出しました。
7/27官邸前抗議 中継中ですIWJ
7/27官邸前抗議20:00終了までIWJ
09:08

わたしはおおい町に3回行きました。
大飯原発再稼働阻止の集会に3回、大飯に行っています。おおい町に。
完全にアウェイでした。
「お前たち何をしに来た」
「このまま原発を再稼働させたら、私たちは穏やかに、また前のように暮らせるんだ」
そういう人もありましたが、
少人数ではありましたが、一生けん命反対しているお坊さんや海女さんや商売をしている方達に会いました。
その人と私はメールを交わしています。
その方達と最近交わしたメールです。
今月の25日、
あの再稼働を行った大飯原発のあるおおい町長が、敦賀市長を連れて、
敦賀には敦賀原発があります。
敦賀原発のある敦賀市長を連れ、
高浜原発のある高浜町長を連れ、
美浜原発のある美浜町長を連れ、
そして、この霞が関の経産省前にやってきた。
そして経産省大臣の枝野に面会をしたそうです。
なにをしに来たと思いますか?みなさん。
そのおおい町の町長が、みんなを引き連れて経産大臣にお願いした事を聴いてビックリです。
「大飯原発だけではなく、自分たちのところの原発も動かして下さい」とお願いに来た。
さらに、
「核サイクルのそちらの方もよろしくね」とお願いに来たそうですよ。
皆さんと、それから聞こえないでしょうか、福井県の人達はどう思いますか?
あなた方の住んでいる福井県の長たちが、こんな体たらくでいいんでしょうか?
もう、日本人の生活のためとかそういうことは全然関係ないんです。
夏場の電力不足だと言っていた関西電力の社長が、
おととい「出来れば美浜原発など古いものは建て直したい」って言ったんですよね、みなさん。
テレ朝の報道ステーションで言っていました。
つまり、何の反省もない、それどころか、
福井県って日本一平和な県だって自慢しているんですよ。
原発が18基もあるから平和なんですか?
原発が18基あるから日本一幸せなんですか?
この言葉の裏返しをいえば、
原発がなかったら福井県は日本一不幸な県なんですか?
これだけ言われて福井県の人は悔しくないですか?
私は福井県の人達を信じている。
声を出せないだけです。
「もし、大飯が先だったら、伊方が先に爆発したら、
お前たち福島県の人間も原発再稼働反対だって言えるのか?」ってわたしは言われました。
「大飯原発反対は福島の二の舞をされて欲しくないのでお願いに来ました」って言ったらば、
「あの福島の原発は東芝と日立製だ。沸騰水型やから、だから爆発したんや~。
大飯原発のように三菱製で加圧式だったらば爆発せんかったんや~」って言われました。
私はその話を、あの福一に入っている作業員の人達と、
福島県のジャーナリストと、
原発の事をよく分かっている人たちの前で、
「大飯でこう言われました」って言ったら、
みんな、大失笑でした。
つまり、大飯のひとくくりの人はそんなふうに教わっているんです。
あの福一の方が、あちらの方が、原発としては性能が良かった。
そんな事はみんな、原発の反対運動をしている人はみんな分かっている。
大飯の人達が関心を持たないだけなんです。
みなさん、それから

ー警察が大きな音で話だすー
これに手官邸前の行動は終了させていただきます
警察官に問う
憲法第15条第2条を
「国家公務員は国民すべてに奉仕せよ」
お前たちはどこを向いているんだー!!
みなさん関心を持ちましょう。
福井の人を私たちで守りましょう。
終わります。
14:50

警察の方は余計なことはしないで下さい。すぐに終わります。
最後に、今福田さんから話がありましたように、
「原発の型が違うから大丈夫だ」というのは、いつも支配者が言うやり方ですね。
ソ連の事故が起きた時は、
「日本の原発は型が違うから大丈夫だ」って言ったんです。
これは日本の人達が言った常套文句です。
今韓国の大統領は、原発輸出を一生懸命進めていますが、
「日本の原発とは型が違うから大丈夫だ」と言っている通り、
あちこちで「型が違うから大丈夫だ」と。
事実は同じ人間が造った原発だと、こういう点を述べたいと思います。
15:45

今まで原子力を学んできた人は、廃炉に向けてその知識を生かして下さい。
そして、いま、福井県立大学では原子力関係の受験者が少なくなったといいますけれども、
これからますます原子力の勉強をして、
廃炉にもっていくにはどうすれば被ばく者を作らなくて済むかを、
ちゃーんと勉強して、そして皆さんで廃炉にもっていきましょう!
みなさん、政府の言う事に騙されてはいけません。
理屈じゃなく、肌で、心で、「なにが本当か」を感じて下さい。
福島を忘れないでください。
再稼働反対!
人事に反対!
18:52
すみませんちょっとお話伺ってもいいですか?IWJの岩上です
柳田
趣旨はね規制委員会人事に異議ありという事で、
原子力ムラで全部固めちゃったからね。
あれを3人が原子力ムラだから、3人が中心で後の二人は実質影響を受けているから、
その人事に反対という事を院内集会だけども、しれているんで、
最終行動で示そうという第一歩なんです。
全編の動画が出ました。
福島県の健康アドバイザー山下俊一氏について語っている部分を書き出します。
59:40
井戸川:
しかし、やはり前例に学ぶべきであってですね、
私たちはこれから福島の原発事故を、
どういうふうに受けて、どういうふうにしていくかという事が非常に大切だと考えております。
何を学んだのか?と。
どういうふうに反省したのか?と。
どういう行動をしてどうしたかっていう事がこれからちゃんとやっていかないとですね、
何事もなかったようにするということは、決してあってはならないと思うんですね。
そうしたらば、なんで私たちが避難をしなければならなかったか、という事が、無になってしまうという事に繋がります。
そこで残念な話があるんですが、
とある大学の教授さんがですね、
「にこにこ笑っている人は放射能の影響は受けません」っていう言葉がですね、
ま、皆さんもご存じだと思いますけれども、
これがですね、まことしやかに県内では、説明して歩いている人がいるんですね。
平野:
本当に説明して歩いている人が講演とか、
井戸川:
いやもう、説明会、当初の説明会で
「100ミリシーベルト以上の被曝した方はいません」とかですね、
「100ミリシーベルトで発症した事例がありません」とかですね、
そのあとに「にこにこ笑っている人は放射能の影響は受けません」というようなことをですね、
県内では語られていること自体が、わたくしはあってはならないと、
非常に、不見識な、しかもプロの方がですよ。
そういうふうな事を語るということは大変おかしな話だなということで、
わたしはもう福島県の恥だと思っています。
福島県にそういう方が、もう居てもらっては困りますね、県内には。
もっとやっぱり、こういう事がある訳ですなんで学んでいただかないと。
かえっておかしなことをですね、県民に植え付てしまったんではないかなと、
そんなふうに思っております。
若い人は大変だけど、年寄りは30年、
発症するまで、当初はですね、30年かかるって言われたんですよ。
で、若い人はすぐだからっていうことですけれど、
今は、「若い子どもは代謝が早いから、すぐ、出ていくのが早いんだ」って
これもまた、まことしやかに話しているんですけれど、めちゃくちゃ
平野:あ、体の代謝が活発だから、放射性物質も出ていくんだと?
井戸川:子どもは出ていくんだと。
サイコ:それは私が聞いてきた話とま逆の
井戸川:
ま、そういうことをこの方はしゃべっているのかもしれませんけどね、
後は、県外の大学病院に「県民の健康検査をするな」と言う事も文書で出しているんですね。
「検査をするな」
わたくしも、何大学かには検査のお願いをしましたけれど、実際断られました。
「できません」って。
平野:これは何の?
井戸川:
これは「検査をしないように」という文書ですね。
これが出されているんです。
このようなことがですね、新聞テレビでは取り上げていただけません。
今日はですね、こういう事を取りあげていただいて本当にうれしいと思います。
平野:
自覚症状等が出現しない限り、追加検査が必要ないことをご理解いただき、
十分にご説明いただきたく存じます。

サイコ:言ってることがよく分からないですね
平野:これ、自覚症状が出た時には・・・
井戸川:もう、・・・もう・・
平野:ごめんなさい、ちょっと今、ちょっと笑って…失笑っていうんですか、こういうのが。
井戸川:
うん・・・これがですね、
地位のある方が文書を出してですね、各大学に出してたんですよ。
平野:
これは福島県立医学大学放射線医学県民健康管理センター長・・・・山下さん。
井戸川:うーん・・・
船橋:これは山下教授、これはまさに圧力と感じられて
井戸川:この方は長崎の方なんですよ。
だから福島県民は、こういう事をされててですね、本当に怒らなければ、怒りを持ってですね、
出て、帰ってもらいたいと思いますよね。
平野:
先程テレビとかでは流れないとおっしゃいましたけれども、
本当に、やはりこういうものは、ユーストリームだから、
井戸川:みなさん今まで見たことはないと思いますけど、
平野:
そうですね。ネットでこう、回ってきたのを見て、
申し訳ないんですけれども、正直、すごいバカみたいですけれども、
「なに?そんな事があるのか!ムカッ」とした後に、
いやでも待てよ、そういうふうなねつ造なんじゃないか?
っていう、そういう気持ちをこう、行ったり来たりしながら、
で、それをリツイート、あるいは誰かに教えると、
「そういうふうな不安をあおるな」みたいなのが知らない人からきて
それでシュンとなってやめてしまう。
もう今日の話からすると本当にバカみたいって、浅くてお恥ずかしい話なんですけれども、
そんなようなものでしか見ない
井戸川:
そうですね、
あの、県民の健康調査を一手に引き受けられている方ですね。
じゃあ今まで何人ぐらい、その放射線の健康チェックをされたか?というと、
3万人台何ですね。
福島県民は200万人弱おりますので、その中の3万人。
で、「2年に1回やればいい」とかですね、
そんな事、チェルノブイリではしょっちゅうやらなければならないんですよ。
だけど年に2回やればいいとかですね、
「甲状腺の異常が見つかったけれど、それは全部良性だ」とかですね、
そういうふうに発信されていますよね。
平野:双葉町は何人ぐらい、いまのところ
井戸川:ちょっと数字は忘れましたけれど、当初、ひどい子どもさんもいましたよね、
平野:あ、そうですか・・・
井戸川:
それもみんな、彼の言葉に変わると
「異常がない」という事に繋がっていくんで、
わたしも心から異常がない事を願っていますけれど、これから発症することのないことを祈っています。
サイコ:
データを1桁間違えていたという訂正なんかも出回っていましたよね。
その1桁ってすごいよねっていうようなのをネットで見ましたけど。
1:06:43までーー
ーーー今までの書き出し
「管理区域に普通に生活させる日本」7/8
双葉町井戸川克隆町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(内容書き出し)
「原発誘致自治体の自業自得論」7/8
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
「1号機爆発その時」7/8 双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
ーーー
2011年
福島市の広報紙「市政だより」4/21に疑問がいっぱいです
福島県のアドバイザー山下俊一氏はどこまで子ども100ミリシーベルトで頑張り抜けるか・・・・
2012年
甲状腺検査3765人のうち、1117人+26人にしこり。新聞記事検証
子どもの甲状腺「おおむね良好」方法説明に親は不信5/18
県立医大の山下俊一副学長らの文書も親の不信感を募らせた。
1月16日付で日本甲状腺学会の会員にこう要請した。
2次検査の対象にならない子どもの保護者からの問い合わせや相談には
「次回の検査を受けるまでの間に自覚症状が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、
十分にご説明いただきたく存じます」
「大人よりも子どもの方が被ばくに強い」と、信じられない・・・福島民報5/20
これまでの「常識」とは何か。
それはまず、子どもの方が被ばく影響が大きい(だろう)という考え方である。
子どもたちは大人よりもセシウムに強いことも分かりました。
傷ついた遺伝子の修復能力も尿中の排泄能力も、身体の組織別の半減期も、
数段成人より能力が高いのです
もとより子どもたちはがんになりにくい。
活性酸素を無化する力も免疫機能も、大人より高いことは容易に想像がつく筈である。
双葉町 避難と1号機爆発の瞬間
2012年7月8日音声のみ
「1号機爆発その時」7/8 双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声)
平野:はい。
あのー、実際に避難をされて、かなり遠くに避難されたという事なんですけれど、
実際に非難され…ちょっと基本的なことからお伺いするんですけれども、
双葉町のみなさんは何時ぐらいに、その、事故の大きさに気づかれて
避難を何時頃されて今はどういうふうになってるんでしょうか?
井戸川:
最初は地震でですね、家の中の物が倒れたりして住める状態じゃありませんでしたので、
公民館等に避難をして一夜を過ごすという事でしたけれども、
その夜中ですね2キロという避難指示が福島県の方から出まして、それから、
平野:その時は2キロ
井戸川:ええ、
で、国からは3キロという連絡が来ましたけれど、
もう・・これはですね、あとから聞いた事なんですけれど、
原発の近くにいる住民が夕方、
「11日の夕方、東電の社員がうちの近くで放射能の測定をしていた」ということだったんですね。
だから、夕方にはそういうような恐れがあったことを、我々には知らされないままきてしまったと、
そんなふうに思ってですね、伝達の仕方は非常にまずかったと思います。
平野:で、実際に避難をされてどのくらいの
サイコ:
埼玉のスーパーアリーナに町ごと移動したんだという話ですよね、
あれ、すごく衝撃的
井戸川:
これはですね、あの、
町ごと全部ではないんですね。
なぜそうなったか?っていうと、
通信回線が、もう本当に携帯電話も繋がらない、電話の数もない中でですね、十分な伝達ができませんでした。
したがって、えー、町ごとではなくて、伝達できる人たちに伝えて、
その人たちの中から、埼玉に移動することに同意された方のみですね、
12日には川俣町というところに避難しました。
約3500人ぐらい避難しましたけれども、
その後ですね、3号機の爆発の状況を見て
遠くへ行かなくてはいけないなと、本当に危険なことが起きているなということで、
スーパーアリーナの方にコンタクトを取って、許可を頂きましてですね、
あのー、何とも、全員を連れていきたかった思いはあるんですが、できなかったんですね。
船橋:
もう本当に原発がある、福島第一がある町なので、
本当に爆発の音も聞こえるくらいの距離に住まわれている方
サイコ:4号機と5号機が双葉町
井戸川:
5号機と6号機ですね。
12日は朝から、5時44分に政府から避難指示が出ましたので、
これを災害対策本部で共用してですね、
朝方、川俣町の方に町長さんの方に電話して、避難の了解を取り付けてですね、
そのあと防災行政無線で町民に伝達をして、川俣町に避難するように指示をいたしました。
その時は避難の交通の手段もありませんので、自家用車でですね、
とにかく逃げていただきたいという事で避難を呼び掛けた訳ですけれども、
残念なのは困難事態になった町民も多くいました。
わたくしはまだまだ双葉町におりましたので、
1号炉の爆発の音は聞こえるところにおりました。
そして間もなくですね、
音がした後に空から放射能を含んだゴミがですね、降りてきまして、
ま、あの瞬間は、警察官もおりました。
自衛隊もおりました。
また、多くの町民もまだおりましたので、
やはりみんな「これで終わりかな」と思ったと言うんですね。
わたくしもそう思いましたけれども、
異様な、こう・・・みんながシーンと静まり返った瞬間というのがありましたね。
非常に、こう、音を聞いた瞬間で、もう間に合わなかった。
避難がですね、全員避難が間に合わなかったという。
その後にゴミが降って来た時にはまたさらにですね
「もう終わりかな」という思いがしました。
平野:
じゃ、もう・・その、爆発という物がどういう物なのかというのはもちろん分かった上で、
その瞬間を迎えてしまったという事なんですね。
井戸川:そうですね。
もう、忘れていませんか?より
1号機爆発 3月12日 午後3時半過ぎ
3号機爆発 3月14日 午前11時1分
「管理区域に普通に生活させる日本」7/8
双葉町井戸川克隆町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(内容書き出し)
「原発誘致自治体の自業自得論」7/8
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
「ニコニコ笑っている人は放射能の影響は受けません」7/8
双葉町井戸川町長NO NUKES 2012(動画・内容書き出し)
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督
「原発誘致自治体の自業自得論」双葉町井戸川町長NO NUKES 2012(音声)
NO NUKES 2012 7月8日
船橋:
そこで、僕が根底にあったのはですね、僕は東京に住んでいるんですけれども、
えーー、よく言われるんですが、自業自得論っていうんですけれども、
それはですね、双葉町大熊町、福島第一原発が立地している二つの町は、
えー、交付金にジャバジャバ浸かってですね、潤ってきたと。ね?
で、原発を選んだのはそれぞれの町の事情だったんだと、
で、今原発事故でこういう災難にあってしまったということで、
「それは自業自得なんじゃないか?」という論理があったんですね。
で、正直僕も「そういう事があるんじゃないか」という疑問があったんです。
なので、埼玉に避難されてきて、で、通いながらその問いに答えですが、
今日は僕よりも当事者の町長からお話を聞いたらいいと思うんですけれども、
それがやはり全国レベルでみなさんが気になされていることではないかな?と僕は理解しているので、
ちょっと、前提としてはなさせていただいたんですけれども。
平野:
それじゃあ、町長、あの、今回ステージ上でもおっしゃられていましたけれども、
いま、町長をとりまく環境や、あるいはメッセージであるとかお願いしたいんですけれども、
井戸川:
はい。
あの~、大変厳しい環境に一日の中で、やはり限られて時間内で行動せざるを得ないわけですので、
町民からもですね「顔を出さない」とおしかりを受けております。
しかし、その、わたくしの思いながら、残念だと思いながらも、やはり町長としての仕事というのも大事ですので、
対外的な仕事に入りますと、それもこなさなければならない中でですね、
両立ができない所も非常に残念だと思います。
一番残念なのはですね、事故を受けて一切我々ですね、
我々が今、全ての住民の要求要望に聞くようになっているわけですね。
出来るわけないんですね、避難して、何にも役場の形もなくなったうえで、全ての要求を聞くわけにはいきません。
そんなことの中でもどかしさを抱えながらもですね、あのー、毎日ここまで過ごしてまいりました。
ま、今船橋さんが言われたように、最初はですね、当該分かったというのはですね、
事故の当事者である方が、もっと積極的に我々をフォローしていただくのかなという期待もありました。
しかし事故の責任者がいない中で、被害者だけが今我々のようにしているんですけれども、
本当にその事故を償わなければならない人が、今、見えない状態にいるんですね。
したがって、住民の方も多くの悩みを訴えていても、いっこうに解決しないというような事でしてね、
ま、いま、立場的には非常に厳しいところにあります。
また、一方全国のみなさんの中で、
「お前たちが原発を誘致しなければ、こんなに放射能で我々も苦しむことがなかった」と言われて
わたくしも責められます。
確かに立地として、あのー、認めた訳ですので、それは否定できるものではないというふうに思っております。
ただ,ここまでの間ですね、その、このようなことが起きないように、起こさないようにという事を、
東京電力並びに国にはお願いをしてまいりました。
その時にかえってくる言葉は
「絶対に起きない。起こさない」という言葉でしたので、
我々は国策である原子力発電所を全面的に信頼しておりました。
それだけにやはり、今回起きた事故についてはですね、
言いようのない、こう・・・なんていうか、ま、いろいろな感情がありますね。
そこで、原子力発電所がもたらすメリットとデメリット。
メリットは確かに今まで受けてきましたけれども、
そのデメリットとしては、恩恵を受けた物は全て形にしました。
建物とか道路とか形にしましたけれど、
それを全て置いてですね、今は何にもない状態で、避難生活をしているわけですね。
したがって、あのー、ま、いろんな形で、もっともっと我々を見ていただいて、
そして良い悪いの判断をしていただければありがたいなぁというふうに思っています。
平野:はい。
あのー、実際に避難をされて、かなり遠くに避難されたという事なんですけれど、
実際に非難され…ちょっと基本的なことからお伺いするんですけれども、
双葉町のみなさんは何時ぐらいに、その、事故の大きさに気づかれて
避難を何時頃されて今はどういうふうになってるんでしょうか?
ーーーつづく
「管理区域に普通に生活させる日本」7/8
双葉町井戸川克隆町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(内容書き出し)
「1号機爆発その時」7/8
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
「ニコニコ笑っている人は放射能の影響は受けません」7/8
双葉町井戸川町長NO NUKES 2012(動画・内容書き出し)
その内容を音声でとっておきましたので内容を書き出します。
一部分Youtubeがありましたので添付します。
見ていなかった方のもどのような様子でお話をされていたのかが分かりやすいと思います。
文字起こしはこの動画の前の部分から終わった後、数分間の部分です。
双葉町長 井戸川克隆町長・舩橋淳監督 NO NUKES 2012
2012年7月8日 幕張
舩橋淳監督
ドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて(英語タイトル 『Nuclear Nation』)」。
終わりの見えない避難生活を続けている双葉町の人々を描いたドキュメンタリー映画。
映画『Nuclear Nation – ニュークリア・ネイション』公式サイト
司会 平野友康さん (デジタルステージ)

井戸川:
実は今日持ってきた資料というのは、管理区域という言葉は我々は知っております。
しかし全国の方は原発に携わっていない方はほとんど知らないことだと思いますけれども、
放射能の濃度によって管理区域が設定されておりました。
B区域C区域D区域という事をですね。
A区域はここでみなさんといるような環境です。
しかし、B区域と言うともう、放射能が完全にある区域ですね。
その中に入るためのいわゆる服装というのはこういう感じで、
この服装がないと入ることができませんでした。
それからC区域というのは4万ベクレルから40万ベクレルの間がC区域という事で、
C区域の入る服装はマスクを完全にしないと入れません。
ーー注意※このC区域全面マスクに関しては間違いがあるようです。正しくはーー
C区域 ・・ 汚染が強いため、服はそのエリア内だけで使用する(そこから外に放射性物質が出て行くことを防ぐ)。
マスクなどは必要ない。
D区域 ・・ 全面マスクが必要。場合によっては(ぬれる場所では)アノラック(レインコートみたいなもの)も。
(東日本女子駅伝参加者は、全面マスクの着用を!!より、部分転記)

こういうふうな状況で入らないといけません。
さらにD区域というのは、
これは放射能の最高に濃いところは空気ボンベをしょわないと入れません。
こういうような状況で管理されてきたんですね。
さらにその管理の中で、管理区域の中では、
飲食も喫煙もしてはいけません。
10時間以上その管理区域の中にいてはいけません。
あるいは18歳未満は管理区域には入ってはいけませんという、
こういう管理の中でやってきたんですね。
しかし残念ながらこの基準が今、無視されております。
どうして・・・・
原発によって、多くの県民が今困っているのにもかかわらず、
このような基準を、国はですね採用しないのか、
非常にわたくしは怒りを覚えております。
平野:
あの、今の管理区域に相当するところが福島県で言うとどれ位なのか?って言う地図が実はあるんです。
みなさん多分ご存じない方はビックリすると思うんです。
サイコ:10時間以上いちゃいけない、ごはん食べちゃいけないっていうのに相当する。
平野:
はい、こちらが福島県の地図なんですけれども、
この青い部分と黄色い部分。よっていくと放射能マークにこの図ではなっているんですけれども、

これらがすべて今ご覧いただいたマスクであったり、
あるいは酸素ボンベをしょわなくてはいけない。
青い部分が酸素ボンベで、
あとは黄色いところが
全て防護服を着て、
つまり18歳未満はいちゃいけない。
ご飯を食べてはいけない。という場所がこれだけあると。
サイコ:10時間以上いちゃいけない。
平野:ですが、ここでは普通に生活をしているという事なんですね。
井戸川:はい、
ここがですね、このためにですね、わたくしはいろいろと調べました。
そしたらですね、チェルノブイリでは5年間かけてですね、このような基準を作りました。

これは、5年というのは非常に痛ましい子どもたちの姿ですね。
ここにもいくらか用意しましたけれども、子どもたちのこのような痛ましい姿があって初めて、
(奇形や様々な病気の子どもの写真)
このチャルノブイリの基準ができたんです。
したがって、あってはならないことを起きないようにするのが、
日本が今回の取り組みが必要であろうと、わたくしは常に訴えておりますが、
なかなかマスメディアには載りません。
もう何回となくこの事は訴えておりますが、
本当に知るべき真実がですね、知らされないのが非常にわたくしは悲しいと思っております。
平野:
あのー、すみません、
これはチェルノブイリの時にこういうふうに、今ご覧いただいているような写真。
子ども達が、奇形の子どもたちが生まれてしまったから作られた基準ということなんですよね。
井戸川:そうです。はい、そのとおりです。
平野:それが、
そういうふうなことで作られた基準なのにもかかわらず、
参考にされていないというのが正しいのか、
現在この経験に基づくその避難基準というのは日本は満たされていない。
つまりこれは数年後とかに同じ事を繰り返す可能性が高いということになる訳ですよね。
井戸川:
高いかどうかは分かりませんけれども、要するに違いはハッキリここに出てくる訳ですね。
だからこういう事があってはいけないんではないかと私は訴えておりますけれども、
なかなかこれが政府の方では、さらに今度わたくしの方に持ってきたのは、
「100ミリシーベルトでも前例がない」という話が出てきております。
これはとんでもない話でしてね、前例があったら大変なことですので、
もう、なぜ・・だけど、おそらくこういう実績があったにもかかわらずですね、
100ミリという数字も、大変こう、国民として、・・・
わたしは野田総理に尋ねました。
「国民と思っていますか?」って。
そしたら総理は「大事な国民です」って答えてくれましたけれども、
大事な国民が放射能があるところで暮らすべきなんでしょうか?
これは是非全国のみなさんにこの実態を知っていただきたいと思います。
わたくしはあってはならないことだと思います。
大事な国民であればなお、この福島の区分は止めてですね、
「チェルノブイリの区分」を、福島の・・ここ、字を変えて「福島の区分」とするべきだとわたくしは考えています。
子どもたちがかわいそうです。
若い、子どもを持つ若い親がですね、可哀想だと思います。
船橋;
はい、ちょっと1個だけ整理しておきますとね、
これですね、町長が示していただいた、比較表なんですけれども、
避難基準で、チェルノブイリの時にはチェルノブイリ法というのが事故から5年後
ーーーYoutubeここから
船橋:
チェルノブイリ事故の時は、チェルノブイリ法というのが事故から5年後、1991年に制定されたんですけれども、
平野:事故から5年後
船橋:
5年かかっているんです。国際的なプレッシャーがいろいろあってようやく旧ソ連政府が認めたんですですけれども、
義務として非難しなさいというのが
5ミリシーベルト以上ですね。5ミリシーベルト以上は移住の義務なんですね。
もう出ていかなければならない。
で、ICRPが定めている年間被ばくの限度量1ミリシーベルトというのがあるんですけれども、
それは国際的なプレッシャーの成果なんですけれども、それも認めましょうと。
つまり、5までは無いんだけれども、1以上だよというのは(1ミリシーベルト~5ミリシーベルト)
避難の権利がある。
移住の権利と言って、1~5は権利を認める。
つまり、政府が「移住するなら費用は持つよ」というんですね。
で、今、福島はどうなっているのか?って考えると、
20ですね、20ミリシーベルトが避難指示解除区域
つまり「除染して下がったら住んで下さい」というところが20未満なんです。つまり、
平野:事故から1年ちょっとの今でも、そういうふになっているという、
井戸川:そうですね。
平野:
ちなみにこれは5年後に、言い方はあれですけど、
しぶしぶチェルノブイリ法の場合だと5ミリ以上は義務だというふうになったわけですよね。
井戸川・船橋:そうです
平野:
そうすると、
やむを得ずと言いますか、義務にせざるを得なかった。5年後の段階で。
ここはすごいポイントだなというように思うんですけれども。
船橋:
そうですね、最初はやはり、旧ソ連政府は半径30キロ圏内だったんですね、
で、5年間そのままだったんですかれども、
えー、ま、日本は20キロだったんで、それでも旧ソ連の方がいいじゃないかっていう話はあるんですが、
それは横に置くとしても、
やっぱり最初は放射能に対する知識がなくて、ぐるっと30キロの円を書いて「逃げろ」だったんですけれど、
ただ、いざ線量を測ってみると、風向きとか地形とかいろいろとあって、
「分布が均一じゃない」という事で、「線量による避難基準」を設けたんですね。
それが5年かかって、5ミリシーベルト以上となったんですね。
だからつまり、日本政府は「チェルノブイリから何も学んでいない」
平野:
旧ソ連が「5ミリ以上は義務にしなくてはいけない」と身を持って知ったという事が、
今回全く生かされていないということな訳ですよね、この図から読みとれる物としては。
船橋:
さらに言った話なんですけれども、
町長、これ、細野大臣は「知っています」って言ったんですよね?
井戸川:
はい。
わたくしの前で、わたくしがこれを大臣に示しましたら、
「よく分かっています」という答えをされました。
船橋:
ということは、知ってても。だということですよね。
知ってて「20以下は住みなさい」っていう事なんですよ。
井戸川:はい。
船橋:ということはどういう事なんですか?
井戸川:
その後ですね、細野大臣に尋ねました。
「だったらば、我々に5年間の苦労をさせないで、こういう経験をさせないで、
このままこちらに持ってきたらいかがですか」という事を言ったらば、
答がありませんでした。
平野:んー、「チェルノブイリの基準を持ってきたらどうだ?」って言っているんですね
井戸川:言いました。
そうです。
「我々をそんなに苦しめないで、こちらに持ってきたらどうですか」って言ったら、
答えませんでしたね。
平野:
これ、町長としてはどうして答えてくれないと思われましたか?
ちょっと、その・・なんていうんでしょう、理解ができないんですけれども、今。
井戸川:
あのー、答えない理由はですね、
その後の政府からの文書には
100ミリシーベルトの正当性をですね、ICRPの勧告なりなんなりを出してきてですね、
わたくしを説得しようとしていますけれども、
これを見てからですね、「100ミリとか20ミリが安心だ」とかというわけにはいきませんので、
もうそんなのは理由になりませんね。
やっぱりこういう(チェルノブイリで)苦労されたことをですね
福島県内は相当汚れさせられてしまったんですよ。
だからやっぱり今回の国会事故調にもあるように、
さらにこれも人災だと思うんですね。
人災を重ねることなくですね、
もう、ちょっと思いきった政策に出るべきだと、私は政府には呼び掛けていきたいと思いますけれども。
全国の原発を立地されているみなさんも、
こういう実態は知らないんではないだろうかと。
我々が交付金で頂いた物を、全て置いてですね、
放射能から逃れて今避難生活をしているわけですよ。
だから、安全がいかに大事かということですね、
安全は譲るものではない。譲れるものではない。というふうに、
皆さんにはよく知っていただきたいと思います。
船橋:
あの、細野大臣がですね、クローズアップ現代だと思うんですけれども、
一回失言しましたよね。
「福島の方には被ばくしていただく」って言っちゃったんですね。
謙譲語の使い方が大分間違えているんですけれども、
あのーー、あ、尊敬語か。
で、そこの根底にあるのはですね、
やはり、文科省が20ミリシーベルトにこだわった時期が2011年5月ごろにあったんですけれども、
その時にやっぱり官僚が口を滑らせて、
「いや、学校を閉めるわけにはいかないから」って言っちゃったんですよね。
「命が大事じゃないですか」って、福島の親御さんが一生懸命言ったら、
どんどん突き詰めて、突き詰めていくと、
「いや、だってそんなに厳しくしたら学校を閉めなきゃいけないでしょ」ってなってきた
いや・・・w
平野:かなりバランスがおかしい話になっちゃっているわけですね。
船橋:
そうなんですよ、そうなんですよ。
文科省は、学校を閉めることの方が命を守ることよりも大事なんだなと、一大事なんですよね。
っていう話になっちゃっているんですけれど、
要するに社会の混乱をきたしてしまうから、
大量にい福島県から避難するという事をおこすのは、得策ではないという考え方がどっかにあります。
ーーYoutubeここまでーー
その根底にあるのは、一部の方に犠牲になっていただくと、いうのが・・絶対に口が裂けても言えませんよ。
誰かがちょっと間違えて言っちゃいましたけれど、
口が裂けても誰も言いませんけれど、
沖縄も福島も同じ論理で、一部の方の犠牲を強いるシステムなんですね。
井戸川:
あの、ちょっとね、このシーベルトの感覚と先ほどのC区域との相関をちょっとご絶命させていただきますけれども、
4万から40万ベクレルのエリアっていうのは、
2から0.15ぐらいでしょうか0.2ぐらいですかね、
0.2から2位までのマイクロシーベルト/hのところはC区域になるという事で、
マスクを付けないとですね、いちゃいけない地域になる。という事で以前は言われて、その通り東京電力は思って作業員を守ってきたんですけれど、
今回は作業どころじゃなくてですね、とんでもない地域がいっぱい発生してきたと。
これはお金の問題じゃなくて、人命、いわゆる日本国民を尊重する、
人命を尊重する義務が政府にはあると思うんですよね。
隠蔽するんじゃなくて、もっともっとオープンな形で、
さらに人災を重ねることなくですね、
ここは思いきって県民の健康を尊重してですね、
無駄な費用がかかろうがなんだろうが、こういう状況に福島県土はなってしまったんですよ。
これは認めるべきだと思うし、
これを全然認めないで何時まで頑張れるかというのはもう時間の問題だと思うんですね。
ここまで皆さんに分かってもらえるようになってくれば、もう時間の問題になってきていると思うんですよ。
平野:
この黄色いところが全て全部C区域で、
18歳未満が入ってはいけない。
そして10時間以上いてはいけないと基準ではされている。
これちょっと、中継見ている方で誤解されている方がいたみたいなんですけれども、
「こんなに管理区域があるのか!」っておっしゃっている方が結構多いんですけれども、
そうじゃないんですよね、
これは管理区域にしなくてはいけない線量がある地域がこれだけあるという事で、
管理区域にもされていない。
普通にみなさん住まわれているということなので、
ちょっと、さらに驚かれる方もいるかとも思うんですけれどもそういうことになっています。
井戸川:はい。
これは私が作ったんじゃなくて、いわゆる政府発表のデータを置き換えただけですので、
全然手を加えた物ではありません。
ーーー
細野豪志大臣クローズアップ現代生出演6/18(細野大臣と国谷さんの部分すべて文字起こし)
細野:
はい、
あのーー、特に浪江町の方々のことがですね、わたし頭から離れないんですよ。
あの時、えーー、10km。
そして20kmという避難のですね、判断をしたわけですけれども、政府は。
その時にきちっと方角を示すべきだったのが、示されなかったと。
あのー、
「そこで沢山被ばくをしていただいたという状況ではない」ということはですね、
後ほど確認が出来ましたが、
えーー、それを経験したみなさんの思いというのは、
本当に我々はですね、忘れてはならないと思ってます。
「圏内の歌」七尾旅人・大友良英・坂本龍一・ユザーン(動画・書き出し)
7/8幕張NO NUKES 2012
「圏内の歌」
離れられない 小さな町
私たちが育った この町
どろんこで 遊んだあと
覗き込んだ水辺に写る月
激しい雨 屋根を濡らす
放射能が 雨どいをつたって
庭を濡らす 靴を濡らす あの子の野球ボールを濡らした
子どもたちだけでも どこか遠くへ
何年も、何年も
おばあちゃんに 聞かされた寝物語
ここら辺の 子どもたちは みんな知っている優しいお話し
子どもたちだけでも どこか遠くへ 逃がしたい
離れられない 愛する町
生きてくこと決めたこの町
まるでなにもなかったように
微笑み交わす 桜の下
子どもたちだけでも どこか遠くへ
逃がしたい
どこか遠くへ 逃がしたい
離れられない 小さな町
離れられない 小さな町
離れられない 小さな町
離れられない 小さな町
「原発誘致自治体の自業自得論」7/8
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
「1号機爆発その時」7/8
双葉町井戸川町長・舩橋淳監督NO NUKES 2012(音声・内容書き出し)
「ニコニコ笑っている人は放射能の影響は受けません」7/8
双葉町井戸川町長NO NUKES 2012(動画・内容書き出し)
ーーー追記ーー
Googleの地図と番組内の黄色と青の点がある地図を並べてみました。

大きさがちょっと違うけれど、猪苗代湖あたりを基準にしてどのへんか大体分かると思います。
ーーー
2011年7月19日 福島市民の政府交渉↓
あまりにひどい!福島市民に対する政府の対応。(7/19政府交渉内容書き出し)
Q1:
福島県民も、他の日本国民と同じく、等しく、無用の被ばくをせずに生活できる権利があるでしょ?
いかがですか?
A原子力災害現地対策本部室長 佐藤暁:
あの、政府としてですね、その、出来る限り被ばくを少なくしていくという取り組みはしております。
Q1:つまり・・ないということですか?権利はあるでしょ?
A原子力災害現地対策本部室長 佐藤暁:
権利があるかないかは私には分かりません
A原子力災害現地対策本部室長 佐藤暁:
避難されるのは自己の判断に基づき、していただいて結構だと思いますが、
国としては、安全な地域については避難を強制することなくとどまっていただくことをで政策としてやっております
ゆっくりゆっくり
さがってくださーい
ちょっと押さないでください、押さないで
危ないから本当に、押さないでー
下がって下さい、危険です、下がって下さい
下がって下さい通行できません
下がって下さい。
ちょっとメディアの人、一回落ち着いて!
メディアの人達ここ開けて下さいよ。
40:47
岩上:
マスコミが殺到してもう大変です。
マスコミの異常ぶり、もう見て下さい。
全くもう、押す押す
坂本龍一さん
「僕は原発反対、再稼働反対です」

坂本龍一:
えー、こんばんは。
原発反対です。
再稼働反対です。
そこまでそこまで、そこでせきとめて
ごめん
坂本:あの・・・みんな、落ち着いて下さい
望遠で取ればいいじゃん

坂本:落ち着きましょう
坂本:あのー、
やめて
強引すぎるだろ、いい加減にしろよ本当に
やめようや
変なことしないでよ本当に
坂本さんがきてしゃべってるんだから!
だまっとけや!
どこの関係者?
お前ら全部獲られてるんだからどこの放送なんだよ。
坂本:えっと、ぼくも ずっとこの間ニューヨークにいてここに来れなかったんですけれどもネットも見て、
大飯原発前での抗議もずっと見ていましたし、
あの再稼働反対のシュプレヒコールを聞いていて、
気持ちとしては「身体はそこに居ないけど心は君たちと一緒だよ」というつもりで拝聴しました。

そして今回やっと官邸前に来れました。
えー、別にミュージシャンだろうとかそんな事じゃなくて本当に
これは一般市民が40年ぶりに日本人が声をあげている活動をしていて、
一人の日本人として僕も参加したいと思って、きました。
みんなで諦めずに声をあげましょう。

それで、
なんか僕が再稼働容認派だなんて言われているらしいんですけどww
それは、僕が言った意味は
1基や2基ぐらい再稼働されてもへこたれないで、
長い戦いなんだから、じっくりと腹を据えてやっていこうと、
そういう気持ちで言ったのであります。
誤解しないようにして下さい。
ありがとうございます
通路をあけてください
通路をあけて下さーい

再稼働反対!
坂本:いつも、見てますよ。
岩上:ありがとうございます。
坂本:あの、岩上ジャーナルのおかげで、沢山の人がちゃんとした情報をね、知ることができて
岩上:
ありがとうございます
あの、教授、IWJってインデペンデントウエブジャーナルです。
岩上ジャーナルじゃなくて
坂本;はい、はい。ありがとうございます、これからもがんばって下さい。
岩上:
こちらこそ
せひ近いうちに話聞かせてさせて下さい。お電話さし上げます。
どうもありがとうございました。

岩上:
坂本さんから「いつも見ています」という声を頂いて、
はい、お疲れ様でした

坂本:ありがとうございました
岩上:
今日最大の発見は坂本龍一が再稼働を容認していないという事
千葉:ほんとですねー
警察の方が「再稼働反対」と
小声で呟きながらデモの後片付けをしていました
22:58

田中康夫
先週に続いて国民の一人として参加をしている田中康夫です。
前回、この集会が終わった後、
私が帰る時に1人の警察官の方がセフティーコーンを片付けながら
小さな声で「再稼働反対」と。
わたくしと目があったら、彼ははにかんでいました。
そして私の事務所のスタッフも、おそらく別の警察官の方が、同じように小さな声で
再稼働反対と話していました。
党派性を越えてイデオロギーを超えて
家族を愛し隣人を愛し、そして郷土を愛し日本を愛する一人の人間として、

私たちは再稼働反対、その一点に於いて
これからもたゆまず、諦めず、ひるまず屈せず逃げず一緒に歩んでまいりましょう。
よろしくお願いをいたします。
日本テレビの報道局社会部のデスクの木下黄太さんに続く
日本テレビの元報道局ディレクターが日テレに抗議を言って辞表を出しました。
木下黄太さんについては以前下記のブログで紹介させていただきました。
大手テレビ局を飛び出した報道社会部デスク「震災直後の報道の現場・現在の状況」
木下黄太氏9/9(動画・内容書き出し)
続・大手テレビ局を飛び出した報道社会部デスク「今の状況を国民みんなが等しく知るために」
木下黄太氏9/9(動画・内容書き出し)
日本テレビは震災後殆ど私は見ていません。
「日テレ元報道局ディレクターが抗議の辞任」という週刊ポストの記事を
「平和ボケの産物の大友涼介です」というブログで、書き出しをして下さっています。
その方が書き出して下さった内容をこちらでもぜひ紹介させていただきたいと思います。
転記ここからーーー
「テレビの原発報道は酷過ぎる」
日テレ元報道局ディレクターが抗議の辞任~週刊ポスト2012/06/
2012-05-21 12:58:48NEW !
テーマ:原発・東電
<書き起こし開始→
震災以降、視聴者が抱いたテレビ報道への不信感を、一番肌身で感じていたのは当事者であるテレビマンたちだった。
この3月に日本テレビを退社した元エースディレクターが告白する。
■酷い番組を酷いと言えない。それでジャーナリズムですか?
テレビ各局が震災後1年の特番を放送した3月11日の翌日、
日本テレビ解説委員だった水島宏明氏(54)は周囲に辞意を伝え、古巣を後にした。
同氏は『NNNドキュメント』ディレクターとして「ネットカフェ難民」シリーズなどを制作し、
芸術選奨・文部科学大臣賞などを受賞。
『ズームイン!!SUPER』にはニュース解説委員として出演していた。
現在は法政大学社会学部教授となった水島氏が、
「報道現場が良くなる一助になれば」と退社の経験を初めて明かした。
きっかけは、原発報道です。
報道局の幹部が突然、「今後はドキュメント番組も基本的に震災と原発のみでいく」と宣言しました。
もちろん、あれだけの大災害ですから報じるのは当然ですが、それだけだと報道の多様性がなくなってしまいます。
私のライフワークである貧困問題は「そんな暇ネタはボツだ」という扱いを受けました。
しかも、NNNドキュメントの企画会議では、
「うちは読売グループだから、原発問題では読売新聞の社論を超えることはするな」と通達された。
そんなことを言われたのは初めてでした。
先年3月28日に日テレの氏家(齋一郎)会長が他界しましたが、グループ内で影響力を誇る人物がなくなったことで、
読売の日テレに対する影響力がどうなるかわからないという配慮から、そうした発言が出たのかもしれません。
これは日テレに限らず、今のテレビ局全体の問題だと思いますが、
プロデューサーやデスクの幹部・中堅社員が、
あらかじめ報道内容のディテールまで会議で決める傾向が強まっています。
現場に出る若手社員や下請けの派遣社員は、その指示に従った取材しか許されない。
でも、我々は社員である前にジャーナリストですから、
本来は自分の目で現場を見た上で、自ら報道すべきことを判断すべきです。
震災以降、現場軽視をますます痛感し、私は会社を辞める決意を固めました。
震災1周年の日、私は各局の特番を総長から深夜までザッピングして見ていましたが、
正直、日テレが一番酷いと感じた。
被災地と直接関係のないタレントの歌を流し、キャスターは被災地を訪れて「復興」を強調するものの、
そこには報道の基本である視聴者の教訓になる情報がない。
取材も表面的で、被災地者のリアリティが伝わってきませんでした。
そのことをみんな感じていたのに、
放送後の報道局会議では、幹部の「良かった」という声に押され、誰も何も言えなかった。
最後の出勤日となった3月30日、私は報道フロアに集まった同僚に対し、
「酷い番組を酷いと言えない。それではジャーナリズムとは言えない。事実を伝える仕事なのに。
もっと議論して、言いたいことを言い合おうよ」と話しました。
幹部が同席していたため、その場はシーンと静まり返っていましたが、
後で何人かが「僕もそう思ってました」と寄ってきた。「じゃあ言えよ」って。(笑)
■なぜすぐ爆発映像を流さなかったか
水島氏は、現在のテレビジャーナリズムの構造的な問題点を指摘する。
この間の震災・原発報道を通じて露わになったのは、自らの在り様を検証できないテレビ局の体質です。
日テレ系列の福島中央テレビは震災翌日、
福島第一原発1号機の水素爆発の瞬間をメディアで唯一、撮影して速報しました。
ところが、その映像が日テレの全国ネットで流れたのは1時間後のことです。
報道局の幹部が専門家などの確認が取れるまで映像を控えると決めたからです。
状況が確認できないまま映像を流せば、国民の不安を煽って後で責任を問われるという状況になりかねない
というわけです。
しかし、影響がどこまで及ぶか分からないからこそ、
本来なら「確認は取れていませんが、爆発のように見える現象が起きました」と言ってすぐ映像を流すべきでした。
実際、あれを見て避難を始めた人もいて、国民の映像にかかわる映像でした。
私自身、福島中央テレビの人間から「すぐに放映しなかったのはおかしい」と責められました。
しかし、その経緯は未だに社内で検証されていません。
その後も、本社や記者クラブ詰めの記者の多くは、原発事故で信頼を失った後でさえ、
国や東電など「権威」の言うことを机に座ってメモするだけでした。
発表内容をそのまま報じるものの、実際の現場に行って、
たとえば本当に除染の効果が得られたかどうかを確かめるようなことはほとんどしません。
カネと時間と労力がかかるので、楽な方に流れてしまうのです。
本当に独自性のあるネタを報じれば、
かつてのテレ朝系『ニュースステーション』の「ダイオキシン問題(※注1)」のような問題を生みかねないと、
先んじた報道を避ける傾向があります。
(※注1 テレビ朝日系『ニュースステーション』が
99年2月に埼玉県所沢市産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたと報道したことを契機として、
同市産の野菜価格が急落。同市の農家側が損害賠償などを求めて起訴し、
テレビ朝日は謝罪した上、1000万円を支払うことで和解が成立した)
ワイドショーの現場では、報道局が撮ってきた映像を使い回し、
短時間だけ現地に入るレポーターが番組名のついたマイクを使うなど、見せ掛けだけの独自性で勝負している。
テレビ報道が「権威」から離れる道もあるはずです。
たとえば霞が関の官僚たちを、匿名を許さず「原子力安全・保安院○○課長補佐○歳」というように実名にして、
何を言ってどう行動したか詳しく伝えるだけでも、責任を追及する報道に変わるはずです。
事実、すでに地方局ではやっていることなのに、キー局は変わろうとしない。
私はこの現状を変えるため、何色にも染まっていない学生に、本来のジャーナリズムを教えていく道を選びました。
←書き起こし終了>
ーーー転記ここまで
現場にいて、このようなお考えで、天下の日本テレビを退職されることには、
計り知れない勇気が必要だったことだと思います。
水島宏明さんのその勇気と決断にとても感謝の気持ちでいっぱいです。
ジャーナリズムとして真実を報じることにかけて下さる方々は沢山いらっしゃいます。
そして、このように公表して下さる姿勢は今の私にはとても心強く思えます。
ジャーナリストの方々の中に一人一人、真実を求めて行動していかれる方が増えていくことによって、
もしかしたら今の日本の状況が少しでもよりよい方へと舵を切れるようになるのではないかと、
私は、この記事を読んで思いました。
私自身も、正直、最近疲れてきています。
あまりにも常に、見張らなければならないことが多すぎて・・・
福島第一原発の現状はどうなのか
国民の健康被害と避難の問題
勝手に突っ走る再稼働問題
瓦礫問題
食品の汚染問題
汚泥や焼却灰、水も海も・・なにもかも
地震が起きれば原発を心配し、
竜巻でも原発を心配し、
台風でも4号機に不安になり、
注意を払わなければならないことが多すぎるのに、
どこかに注目している間に別の問題が勝手に進行している。
原子力を推進している人は脂ぎった顔をして、疲れを知らないモンスターに見えます。
いつだって、出来る限りアンテナを広げていなければと思いながら、負けないぞって自分に言い聞かせています。
だから、私にとってこの記事はとても嬉しい記事でした。
ありがとうございます。
水野
今日のお話しは
「福島原発の真実 最高幹部の独白」このタイトルのご本が今出ております。
近藤さ~ん、今日はこの本をお書きになったフリージャーナリストの今西憲之がこのスタジオにお越しでございます。
今西さんこんばんは
今西:どーもこんばんは、まいどです。
水野:
その「まいどです」っていう感じと、東電の最高幹部のものすごい貴重な証言をとってきたという、
この事実の雰囲気が全然合わないんですけどw
もっと重苦しい人が来はるのかとばっかり思っていました。
そうやって人の懐にポーンと飛び込むところがこのすごい本に繋がっているのかもしれません。
近藤さん、3.11以降、本当に地震の直後、津波が来る前からですね、
ずーーっと、一人の東電の最高幹部がメモを、原発野中の現場で書き残していた。
そのメモとともに、その時何を感じていたか、何がそこで行われていたのかというのを、
貴重な証言としてこの幹部がしゃべっているんです。
で、これがどのくらいの幹部かと言いますと、近藤さ~ん、
細野原発担当大臣としゃべっているぐらいの幹部ですよね。
今西:
当時は全体会議というのを常にやってましてですね、
福島第一原発とかの偉い人というのは、
まァまァ偉い結構上から何番目とかいう人は結構そこに行ってはりましたんでね、
水野:だから相当偉い人ですわ。
今西:まァまァま、一言で言えば偉い人です。
水野:その人のお名前を出す事はできないんですよね、
今西:そうですね、ちょっと、今言うたらえらい怒られますさかい。
続きを読むに

古舘伊知郎:
さて、続いてはですね、「原発再稼働わたしはこう思う」
これをやるんですけれども、今日でこのコーナーはひとつ区切りとします。
今日の最後のお一人の方、聞いていただきます。
ーCM-

今までですね、お一人ずつ13人の方に再稼働に付いてお考えを聞いてまいりました。
「再稼働をするべきだ」
「いや、再稼働をするべきじゃない」
なるべく交互に一人ずつお話しを聞くようにしてまいりました。
かなり、テレビをご覧のみなさま方から、お叱りを頂きました。
「いろんな意見を同時に出せ」というご意見も沢山いただきました。
それから
「視界であるお前は何故ここで自分の意見を一言も言わないで、黙ってコマーシャルにいくんだ」というのも
随分いただきました。
何回かここで言わせていただいたんですけれども、
とにかく一人ずつお考えを聞いて、あとはテレビをご覧のみなさま方がどう感じるかに、
そこに集中したいという趣旨で、ですね、
あえて私は意見を言わないで参りました。
今日最後のお一人、14人目はこの方です。
20120419 原発再稼働わたしはこう思う... 投稿者 PMG5
エコノミストの浜矩子さんに聞く
「原発再稼働わたしはこう思う」
ー原発再稼働については?

浜矩子:
反対です。
福島の時に非常にはっきりわかった事は、
いかに我々は技術をまともに制御できる力を、まだ蓄えていないかということ。
この一連の展開を見ていると非常に「魔法使いの弟子」という言葉を思い出しますけど、
ディズニー映画でご覧になったりしているかもしれないんですけど、
「魔法使いの弟子」って、要するに、
おまじないをかける事は出来るんだけど、そのまじないを止める事が出来ないという、
その、未熟者だからね。
我々はこの原子力というものとの関わりでは、
まだまだ「魔法使いの弟子」であって、本当の魔法使いにはなっていないんだから、
その魔法を使ってはいけないという事なんじゃないかと思いますね。
浜氏は原発を動かさないと日本の経済が成り立たないという考え方を厳しく批判する。
いくら原発をフル稼働させたって、
やっぱりシャッター通りはシャッター通りのまんまじゃないですか。
で、地方の疲弊は進む万まですよね。
この際、逆を向いて歩こうというのでですね、
今までやってきた事と、言わば正反対の方向に今いくと、成長戦略ではないのかと。
原発をあれだけの規模でフル稼働させなければ維持できないような経済活動の水準というものが、
そもそも高すぎる、大きすぎる、膨張しすぎだというふうに考えて、そこを下げてくるという、
その意味、「そのためのいいきっかけになる」というような事で考えればいいんじゃないかと思うんですよね。
ーこれからの日本について
私はやっぱり、日本の現状とこれからについて、
ちょっと「老いらく国家」というイメージを持っております。
「老いらく」というのは要するに「老いは楽だ」「老いは楽し」ということですね。
ゆっくりのんびりと生きるためにはですね、どんな感じのエネルギー政策が必要なのか、
「今まで」は終わった事なんですから、
「これから」をどうするかという事とのかかわりで、
政治政策、経営のあらゆる側面について、
新しいビジョンを描いていくと、そういう姿勢が必要だと思うんですよね。
そっちの方が面白いですよね。

これだけの成熟度と、規模を果たした、達成した経済を回している日本がですね、
もう断固原発には依存しないというような方向を打ち出したならば、
そしたら、もしかするとですよ、世の中を地球的に変える事が出来るかもしれないと思うんですよね。
原発問題に対してだって、
ま、このどういう哲学と、どういう心意気というか、気構えを持って日本が望むのかていう事をはっきり示していく。
福島のあの大惨事を体験したという事もあり、
そして被爆国でもあるというような観点から、
日本はこの問題についてこのようなスタンスで行くという事を示していく、
これはまぁ言ってみれば、日本のグローバルなレベルでの社会的責任だと思うんですよね。
勇気を出して書き出します
ーーー
野口健さんに聞く
「原発再稼働わたしはこう思う」
シリーズ「原発再稼働わたしはこう思う」
今日は登山家の野口健さんにお話しを伺いました。

ボカァね、今の段階で原発をチョイスするっていう事は反対じゃなくて。
おそらくね、原発再稼働しなくてもこの夏は乗り越えられる、とボクは思うんです。
でもその、乗り越えてても、本当に乗り越えてはいないと思うんですよ。
使ってなかった火力を大量にバンバン燃やしてね、
海外からエネルギーを大量に依存して、
で、海外からエネルギーを大量に依存するってのは、これは弱点ですからね!
登山家として世界を股にかけて活動する野口氏。
当面火力発電が増えてしまう事へのリスク、温暖化への影響が心配だと話す
ボクなんかね、長年、たとえばヒマラヤなんかの氷河が温暖化によって融解していくというのを
長年いろんな現場に行って調べてきて、
ですから、原発の代わりに火力を増やしていくっていうのは僕は違うと思っていて、
思った時に、要は温暖化という事プラス
自分の国でね、独自にエネルギーを確保できるって言うのは何か?って言う事ですよね。
たとえば、この地熱にね、大きくシフトするにしても、
実際に発電できるまでに約15年から20年前後かかるといわれているんですよね。
ですから、そ、そういう意味でボクはね
あのー、再稼働には、あのー、反対じゃないっていうのは
次のエネルギーに移行するためにもね、ある程度時間が必要ですから、
とはいっても
「じゃあ事故が起きたらいろいろ汚染するんじゃないか」と、
あとはゴミの問題です。
核の廃棄物ですよね。
だから社会全体が、じゃ、どういうチョイスをするのかというね、
全てが正しいチョイスっていうのはないので。
今すぐ原発を全部なくすのかって、
なんないですよね。
ただ、社会としてこんだけ、1億数1千万人いるね、この社会は明日にも動いていかなきゃいけないし、
ですから、非常にこの原発の事故の怖さを知りつつも、
でも原発に頼っていかなきゃいけないと、
やっぱりね、日本人が腹をくくってないんですよ。
あの、で、あとね、
もっとものを深く追求してこなかったと思います。
たとえば鳩山由紀夫さんのマイナス25%。
みんな飛びついたじゃないですか。
でもね、僕はあれビックリしたんです。
マイナス25%っていうのはどういう事か?
「あそこで原発を増やすっていう事なんだ!」って。
そしたら、多くの人がそれを知らなかったって言うんですよね、ね。
やっぱしね、あのぉ~、どっかで他人事なんですよ。
じゃあ、電気代が一斉に上がっていく。
じゃあ。工場を閉めます。となった時に、
じゃあ、自分の工場、自分が勤めている工場を閉めるとなっても、
それでも脱原発といいますか?っていうことなんですよ。
ボクはこの社会はそういう腹をくくれないと思ってますね。
だから、脱原発と今はね、多くの人が言ってますけど
それは長続きしないんじゃないかなって思います。
本当に事故があってね、これをきっかけに
ボクらは、どういう社会がボク等にとって幸せなのか?っていう事を、考える大きな
ある意味チャンスだと思います。
ですから、原発の事故っていうのは大変不幸なことですけど、
不幸な事を不幸として終わらせちゃいけないんですよ。
ーーーーー
日本が若干火力を増やしたくらいでどんだけ温暖化になるのかʅ( ~⊖◝)ʃ大差ないよね。
この人は色々と勉強して知っているかのようだけど、
原発の本当の姿を分かっていてこの発言だとしたら、
知らないで言っている人に比べて恐ろしさが倍増です。
これ、何とか話法かな?
書き出していて、本当に気持ちが悪くなっちゃった。
なぜ気持ちが悪くなったかっていうと、
結果に行きつく前の思考の段階では私と同じ意見なのに、
出てくる答えがま逆だから・・・
気持ちが悪い。こっちの頭が変になってくる気分ww
たとえば、
原発再稼働がなくてもこの夏乗り切れる→
バンバン火力燃やしてエネルギーを他国に依存するのは弱点→温暖化になるから原発だ!
(温暖化も困るけど原発は地球を簡単にに滅ぼす。だから無くすべき優先順位は原発が先)
日本独自でエネルギーを確保する→地熱には時間がかかるから原発だ!
(自然エネルギーに力を入れればもっと早く解決できる、それまで火力も仕方ない)
事故の汚染問題・核のゴミ問題→正しいチョイスは無い→だから原発は無くならない!
(解決策が見付けられない問題。せめてこれ以上汚染とゴミを増やしてはいけない)
事故の怖さを知る→原発に頼るしかない!
(知ったからこそ、原発は動かしちゃいけない)
日本人は物事を深く考えてこなかった→
電気値上がりで工場閉める時に脱原発って言えないだろ?→腹くくれないだろ?
(これは脅し)
今脱原発って言っている人たち→長続きしないよ!
(もっともっと脱原発の人がこれから増えてくる!)
最後の言葉
「どういう社会がボク等にとって幸せなのか?っていう事を、考える大きなある意味チャンスだと思います。
ですから、原発の事故っていうのは大変不幸なことですけど、不幸な事を不幸として終わらせちゃいけない」
これも、ごもっともだと思う。私もそう思う。
だけど、彼の結論はわたしとは違うんだろうという事は容易に想像がつきます。
誰かもこんな話し方してましたよね、誰だっけ?比べようと思ったけれど、
気持ちが悪くなったので、もうやめにします。
追記ーー
なるほど♡→ܫ←♡

分かりやす過ぎるww
続きを読むに

「原発再稼働わたしはこう思う」2012年4月11日
20120411 原発再稼働わたしはこう思う 吉岡忍さん 投稿者 PMG5
原発の再稼働について様々な方からお話しを伺っています
「原発再稼働わたしはこう思う」今日はノンフィクション作家の吉岡忍さんです
再稼働は全く反対ですね。
日本の54基ある今の原発全体をどうするのかっていう工程表が出ていない訳ですよね。
言わば何にもゴールが決まっていない所で再稼働が始まると、
結局なし崩し的にこのまま行ってしまうという可能性の方が遥かに高いと思う
吉岡氏は事故から1年経った今でも、定期的に福島を訪れては取材を続けている
原発ってどういうものかって一言で言ってしまうと、
「非人道的な技術」だと。

もちろん事故が起きた時に、今回見えたようにですね、被害は広ーい範囲にわたるし、
原発が出来る時の、造られている時の、地域に、地元に行ってみるとね、
たとえば電力会社がそこに入ってきて、説得に来たりするんです、ね。
そうするとコミュニティーが分裂するわけですよね、対立すしはじめる、
コミュニティーが完全に壊れていく。
科学者や、専門家、研究者の間にも
電力会社からお金をもらおうというような”たかり構造”が出てくる。
政治家にも出てくる。
最終的にはね、使用済み核燃料というものが、地層に埋めたとしても10万年ですよね。
そうすると、今の我々の良心だとか倫理だとかっていうものも当然行き届かない。
「もうどうでもいいや」って言う事になっちゃうわけですよね。
そういう意味でも「非人道的」だと思うんですね。
原発は本当に今の広域の発電と送電をやっていますから、
そこに背を向けるのはなかなかん難しいです。
だけど、自分たちで出来る小規模な電力、
あるいは、地域だけに電力を賄うようなものというものは十分考えられるんですよね。
実際に、こう、小規模でもやってみせるという事を、民間の側でやってみせないと。
で、そういう実績を重ねていかないと、
ずーーっと大きな資本を持った、大きな電力会社が政府とくっついて何かをすると、
内部が全然明らかにならない”ブラックボックス”が出来てくるという仕組みが
永遠と続いてしまうんじゃないかなというふうに思います。
去年の3.11の意味というものを、
今の政府、それから電力会社も、あるいは産業界の一部もですね、
きちんと考えていないんじゃないかなと、
「たまたまちょっと大きめの事故がありました」
それでなんとか、そこを・・傷が治れば、
また同じ路線で、日本も世界も行けますよ、というふに考えているんだと思うんですよ。
本来であれば、政治家って言うのは、
「社会とか世界の在り方というものを根本から考える」そういう哲学というものを持たなくちゃいけないんですよね。
そういう意味では、「政治的」な想像力、あるいは「技術的」な想像力
それから「産業的」な想像力というものを失った人たちが今の中心にいる、
今の社会の中心にいるっていう事を、これは残念に思いますね。
ーーー
自分たちで小規模な電力を発電する事が出来たら、
現在ある電力会社から電気を買わないで済む。
吉岡さんの話を聞いて、自分で何とかしたいなって本当に思いました。
みんなが既存の電力会社から電気を買わなくなれば、
まともな世の中になれるかもしれない・・・
自家用発電が欲しいな~
一軒家じゃないから、せめてベランダ用の発電装置でも、やっぱり欲しいなって思っちゃったw
効率のよい、手軽な太陽光発電とか風力発電をメーカーが開発して
テレビを購入するぐらいの価格で買う事が出来たら、わたしはとっても嬉しい(。◡ .◕)♡
なんか・・・当日にテレビで見ていましたが(。◔‸◔。)??って感じだったので・・・書かなかったけれど、
この人が今まで放送された「原発再稼働わたしはこう思う」でブログに載せていない唯一の人です。
一人だけ残しておくのも気がひけたので書き出しました。
森永卓郎に聞く
「原発再稼働わたしはこう思う」
20120320森永卓郎「安全を確認して再稼動... 投稿者 bakaTepco13
「原発再稼働わたしはこう思う」
2回目の今日はエコノミストの森永卓郎さんです
わたしは中長期的には全て廃炉にするべきだと思っているんですけれども、
当面については原発は出来るだけ早く安全性を確認したうえで、再稼働するべきだと思っています
エコノミストの森永卓郎氏は「一刻も早く再稼働すべきだ」という
その理由は・・・
いま、原発が停止しているっていう状態の中で火力発電をしている訳ですね。
そうすると、これ、コストが二重にかかってしまっているわけです。
で、このコスト負担っていうのがどれだけあるかっていうと、
昨年のエネルギー経済研究所の調査でも、ま、三兆円以上。
えーー、家庭用の電気代を18パーセントも上げるっていう影響を及ぼすんですね。

再稼働をしてコストを抑えて、
で、そのコストを抑える中でわたしは
本当に危険な順番から廃炉にするための費用っていうのを捻出すべきだと思うんですね。
いまのですね、この状況っていうのは国民にとって何ら幸福をもたらしていないんだと思うんですね。
で、実は、このぅ、原発を停止する事によって、もう一つ不安がですね。
この夏の電力不足がどれだけの影響を与えるのかっていう点なんです。
いまだに起こっているんですけれども、
東京の地下鉄は照明を落としているんですよ。
視覚障害のある人にとって、駅の照明を落とされるっていう事は
もう、恐怖以外の何ものでもないと言っているんですね。
エスカレーターもたとえばお年寄りとか妊婦は下りが怖いんですよ。
だから、それを止めちゃう、「いいじゃないか」
わたしはよくないと思うんです。
あの、常に弱い人にしわ寄せがいく。
わたしは消費税の議論を一時棚上げにしてでも良いから、
この夏の電気をどうするんですか?っていうのをきちんと話し合うっていうのが、
これは政治の責任だと思いますけどね。
政府に対しての大胆な提案
今すぐ、国会と中央官庁は
えー、福島県に移転するべきだと思っています。
福島で国会をやる、あるいは中央官庁の事務をやるということが、
最大の責任の果たし方だと思いますし、、
これをやればですね、世界から今日本が受けている風評被害も大きく減じる事が出来るわけですよ。
「あっ、福島は安全なんだ」って世界が見てくれるわけです。

そういう、なんていうのかな、
きちんとした反省と覚悟がないっていうのが、
この原発問題っていうのを混迷させる大きな原因になっているんだと思いますよ。
ーーーー
国会と官庁を福島に移すという意見は悪くないと思うけれど、
その理由が
「あっ、福島は安全なんだ」って世界が見てくれる。
というところがちょっと・・・アレʅ(◔౪◔)ʃ?って感じです。
そんなことしたぐらいで「福島は安全だ」と思うほど世界は甘くなく、
風評被害を無くすために移るんだとしたら、日本がいま以上にバカにされるだけのような気がします。
ごめんなさい、わたしこの人のことあんまり好きじゃないです(◞‸◟ㆀ)
賛成派の言葉の中に答えを見つけられるかも・・・
北海道大学奈良林直教授
「いま一年を経て、地震・津波・放射能に続き再び4つ目の危機がわたしは訪れるというふうに思います」
自民党・安部元総理
「原子力の分野においても、本当に安全なものにしていこうという精神スピリットを持って未来を切り開いていくべき」
日本総合研究所寺島実郎
「三菱重工・日立・東芝に蓄積している技術っていうものをどうするっていうふうに配慮しないとね」
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自民党の町村信孝元官房長官に聞く
「原発再稼働わたしはこう思う」
今日は元内閣官房長官の自民党・町村信孝衆議院議員です。

わたしたちも原発の安全性というのを、やっぱり過度に信用し過ぎていたという反省をしっかりした上でですね、
やっぱりまず政府がね、はっきりとした考え方を示す事。
地元の方々の了解を得たうえで、そして順次再稼働を決めていくという事しかないとわたくしは思います。
通産省出身で原発を推進してきた自民党町村信孝元官房長官。
”自前”のエネルギーとして、原発の電力は必要だと訴える。

雇用が今ね、海外にどんどん逃げていってしまう。
日本の経済を考えた時に、そして我々の日々の生活の安定という事を考えた時に
やっぱり自前のエネルギー、そこには再生エネルギーもあるだろうし、
また、原発というものがその中にも一定の割合があるんだろうと思います。
わたくしは出来るだけ「自前」のエネルギーというものが、どこまで調達できるかという事が実は大切であって、
我々が原発政策を進めてきたのは、
やはり第一次、第二次石油ショック時のですね、あの経済社会の混乱。
トイレットペーパー事件(※下記参照)なんていうのは、もう、忘れてる方もいらっしゃるようですが、
ああいう事態を起こさないためにも、やっぱり自前のエネルギーを持つという基本的な部分は、
やはり忘れてはいけないところだと思います。
技術開発はこれから進みますから、
太陽光にしても風力にしても、もっと効率よく発電が出来るとかですね、開発を進めていくという事によって、
原発のウエートというものは当然下げる事が出来るんだろうと。
ビジョンは今、自民党も現状、持っていませんから、
方向感覚は、みんな大体共有しているとおもいます。
ー原発の「安全」について
僕らはね、あまりにも100パーセント安全だっていう事をですね、強調し過ぎていたのかもしれない。
でも、考えてみると世の中100%っていう事は、この社会にはあり得ない。
ただそれを極限まで小さくしていく努力をするという事なんじゃないでしょうかね。
自動車だって、毎年数千人の方が亡くなる。
でもみなさん自動車を使い続ける。
原発と自動車を同列に論ずるつもりはないが、
結果として見ればそういう問題と共通するものがあるんだと。
しっかりとした安全基準、
そしてさらに想定を上回るような事態が起きた時の国の規制の在り方、
電力会社の対応の在り方というものを、やっぱり、新たに決めていくということですよね。
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オイルショック・トイレットペーパー事件ー情報の裏にある真実
武田邦彦氏講演会in小田原・後半質疑応答 8月 23日(内容書き出し)
武田邦彦氏
まず、石油は無くならないんですよ
1970年に、石油の寿命は40年って言ってたんですよね。40年
ぼくはトイレットペーパーなんかを買いあさってね、
ちゃんと石油メディアの計画通り1バレル2ドルがちゃんと30ドルにあがって作戦成功したんですよ
それから、もう、40年経ってるんですよ
「命はほんとうに輝いている」菊地洋一氏
菊池洋一氏
私が原子力の世界に足を踏み入れたのは、その平和利用という言葉にだまされてです ね、
ちょうど第1次オイルショックの頃ですね。
日本は本当に石油がこなくなるというので、
トイレットペーパー騒動という言葉をみんなも記憶しておられると 思いますけれども、
建材は市場からみんな姿を消してですね、実際無くなったわけじゃないのです。
僕も後で分かったのですけれども、みんな売り惜しみして、
ピータイルとかそういう建材はしまっておいただけなんですけども、とにかくオイルショックというのが起きました。
小出裕章氏講演会@台東2011/8/27(内容殆ど書き出しました)
小出裕章氏
オイルショックというのがありました
2回ありましたけれども、それでも石油は30年位はあると、言い続けてきたんですね
10年経っても20年経っても、それはその後も変わりません
ずーっと石油は30年という時代が続く
1990年になったら、次は何て言いだしたかというと
石油は45年あると言いだした・・・・・・
1990年から、この時代(あと石油は50年ある)が50年続くと。いうのが私の予言です。
北海道大学奈良林直教授、自民党・安部元総理に続き、書き出しました。
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原発再稼働わたしはこう思う
今日は日本総合研究所、理事長の寺島実郎さんです
二度と福島のような事故が起こらないのかという事が非常に重要でね
たとえば、全電源がですね津波で断ち切られるなんていう事が起こってもね、
たとえば原子炉の構造上再開しても、ああいう事態にならないっていう事が保証されるのかとかね、
徹底して納得いくストーリーをね、
やはり政治家がですね、責任を持って自分の言葉で国民に説明し尽くすというのがね、
まず再開に向けての最も重要なポイントだろうと思いますね。
今月ワシントンへ行った寺島氏。
世界の原子力における日本の立場の違いを実感したという。
この5年位の間に、ニッポンのね、世界の原子力における立ち位置っていうのがですね、
まず大きく変わってきているっていう事に、日本人は気がつかなきゃいけないですね。
つまりね、30年間、スリーマイルの事故が起こってから、
アメリカは一発もですね、原子力発電所を国内に造らないうちに、
商業用の原子炉という分野においてはですね、
ニッポンが世界の原子力産業の中核的なところに立ってしまっているんですね。
マーケットとしてね、アメリカの原発を買うっていう、
受け身の立場で持って原子力にかかわったというイメージが大きいんですけど、
この5年間の間にですね、立ち位置が逆転してですね、
ニッポンそのものがね、責任を持ってね、世界の原子力産業というものを
今後どうしていくっていう立場に立ってしまっているんですね。
で、そういうなかで、
三菱重工・日立・東芝って言ったら、日本のインダストリー(産業)の中核でしょ、
で、そこに蓄積している技術っていうものをどうするっていうふうに配慮しないとね、
ただ観念論としてね、脱原発の方がね、あの、安全なんじゃないかとか、
あるいはその、再生可能エネルギー、自然エネルギーの方が人間社会にとっていいんじゃないかという、
そのボンヤリとした認識でね、

近隣の中国がね、80基、8000万KWの原子力発電を2030年までに実現するなんていう状況下で、
ニッポンが国際社会の中でね、原子力の平和利用だとか核の廃絶を叫んでもですね、
素人しかいないような国がね、国際社会の中で発言力を持つとは思わない方がいい

ヒロシマ・ナガサキを受けた国として、
非核に徹してね、原爆を持つなどという誘惑を絶って、
平和利用における原子力の技術基盤をしっかりと持ちこたえてですね、
ようするに専門性の高い技術者をね、蓄積して、
世界に原子力っていう事だけに関してだけは、
ニッポンの発言力と信頼できるですね、技術基盤というものを持っているというのがね、
これから非核政策を展開していく上に於いても重要なんじゃないかと、
つまり国際関係の中で、
我々が今、どういうね、原子力に対する選択肢を取るべきなのかっていう事を熟慮するのもね、
今日本にとってはとっても大事なことだと思いますよ。
寺島 実郎(てらしま じつろう、1947年8月11日 - )北海道雨竜郡沼田町出身
日本の評論家。多摩大学学長(2009年 - )
三井物産戦略研究所会長
財団法人日本総合研究所理事長
新潟県知事泉田裕彦後援会会長を兼任
財団法人日本総合研究所
研究所概要
設立年月日 昭和45年(1970年) 8月31日
基金 2億5百万円
主務官庁 内閣府・経済産業省
所在地 東京都港区赤坂4丁目8番20号
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「原発再稼働わたしはこう思う」という趣旨に関して
この寺島実郎という人が言っている事は、
「東芝・三菱・日立に技術者を残しておくことがとても大事」
その事だけ・・・
そして冒頭に、
「全電源が津波で断ち切られる事が起こっても、ああいう事態にならないっていう事が保証される」
とおっしゃっていますが、保証できる筈がありません。
そんな事、素人の私の頭で考えても分かるのに、
この偉いおじさまには理解が出来ていないのでしょうか?
とっても不思議です。
反省どころか荒々しい原子力を謙虚な気持ちで制御するとうそぶいている。
想定外の地震や津波でも耐え得るという事が証明されているというが、どこで証明されたんだろうか?
そして、アジアの国々に原子力を売り込む熱意を見せる。
原発がなければ年金ももらえなくなると国民を脅す。電気料金が上がると、かる~い言い方で脅す。
原発があっても、年金も医療も介護もいつだって真っ先に削ってきたのは自民党。
この事故で委縮することなく知恵と技術で克服していくとも言いきる。
ならばその知恵と技術で、放射能汚染を無毒化し、福島第一原発を完全に収束させてもらいたいものだと
わたしは思う。
安倍晋三元総理に聞く
「原発再稼働 わたしはこう思う」2012年4月5日
安倍晋三元総理に聞く「原発再稼働... 投稿者 sievert311
シリーズ「原発再稼働 わたしはこう思う」
このシリーズではこれまでに10人の方々に賛成反対相互の意見を交互にお伝えしてきたんですけれども、
今日は賛成している自民党の「原発再稼働わたしはこう思う」安倍晋三大臣です。
えーっと、わたくしはですね、賛成とか、反対とかいう事ではなくて
再稼働が必要であると考えています。
想定を上回る 地震や津波にも耐え得る という事が証明され、
そして政府はそれを説明していく中に於いて、
再稼働を していく という事になると思います。

長期的にですね、何が起こるかという事を、今すぐに断定することはできません。
ーなぜ再稼働が「必要」なのか?
原子力発電を止めて、えー、ガス、石油に頼りますと、1年間で3兆円のコスト増につながり
それは企業にとってですね、えー、電力料金として、2割高に、なってしまうと。
そうなると、海外に出ていくという、経営者は判断をしなければならない。

当然それは雇用にも響いてきますし、あるいはまた、えー、経済成長にも大きな打撃を与える
ま、日本が、あー、資源がない中において、安定的に発展していく、経済成長をした結果、
いまの社会保障、の制度を 積み上げる 事が出来たんですね
経済成長なしには、現在の水準の年金や医療や介護、これはムリですから。
えー、それを作り上げていく上においては、安定的な安いエネルギーが
大きく貢献をしてきたことは 事実です。
えー、ですから、
エネルギー政策として原子力政策を推進してきた事は これは間違いがなかったと思います。

ニッポンはですね、原子力発電、ま、原子力の平和利用については
世界で最高水準の技術力を、え、技術力を 持っています。
インドや、あるいはベトナムやASEANの国々は原子力発電所をつくりたいと思っています。

また中国も 原子力発電所をこれから増やしていきたいと思っているんですね。
そのなかで、やはり、日本の技術というのは 大きな力 なんですね、その力を持っている。
これを わたしはですね、みすみす捨てるべきではないだろうと思います。

ま、原子力という巨大なエネルギー
そして時には荒々しいエネルギーを制御すると、いう
このことに対するですね、それがいかに大変なことであるかという、
ま、謙虚な、あ、気持ちと緊張感を 失っていた結果だろうと、
え、これは、我々反省しなければいけない点だろうと、え、思います。
我々は非常に、えー、過酷な、事故、を、経験しましたが、
しかしそこで委縮することなくですね、
わたしたちの知恵と技術でそれを克服していこう。
それは当然、えー、たとえば、再生可能エネルギーの分野でもそうなんですが、
原子力の分野においてもですね、
本当に安全なものにしていこうと いうやはり、精神、スピリットを持って
え、未来を切り開いていくべきだと、え、思います。
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たねまきジャーナル4/5よりより
小出裕章氏のことば
これまでの法律の枠組みというものを、政治家の人達がつくったのですね。
そして原子力を進めるという事でやってきました。
自民党がもともとは作ったし、
民主党もそれを引き継いで原子力を推進するという事でここまできたわけですが、
その結果事故が起きているのですね、
大変な被災な被害が現実的に進行している訳で、
いったいその責任は誰にあるのかと、わたしはいつも考えます。
え、私自身もこんな事故を防げなかったことの責任があると自覚していますけれども、
私以上に責任が重いのはこれまで原子力を進めてきた人たち、
政治の世界の人達もそうだろうと 思います。
その人たちが、「自分の責任をほとんど自覚していない」という事が私にとっては驚きです。
これまでのやり方ではダメだったという事をどうして気がつかないのでしょうか。
本当にいつまでたっても政治というのはダメなんだなと思ってしまいました。
一応この方の再稼働に関してのご意見も残しておきます。
北海道大学 奈良林直教授に聞く 2012年4月2日
「原発再稼働 わたしはこう考える」
今日は東芝で原子炉の安全技術を研究し、
現在は北海道大学の教授の奈良林直さんです。
わたしはですね、ある条件を付けての賛成です。
原子力発電所の安全性を高めてしっかりと原子力発電所を使っていくと、
そこへは妥協を許さない安全性への取り組み、これをちゃんと仕組みとして作らなければいけない。
現在は原子力安全保安院の意見聴取会の委員を務めている奈良林氏。
事故後原発の安全性に向け、様々な提言をしている。

いま一年を経て、再び(地震・津波・放射能に続き)
4つ目の危機がわたしは訪れるというふうに思いますね。
日本の、その、大きな国としての停電が起きるリスク。
病院からは生命維持装置も含めて、電気が無くなってしまいますから、
非常電源もある時間しか持ちません。
それから都市機能が失われますね。
一般の方々は、また津波が来ると、福島と同じ過酷事故、メルトダウンが起きてしまうと、
そういうふうに思われていると思うんですね。
ですから「再稼働なんてとんでもない」と。
電力会社がちゃんと、ドアのシールドだとかを、分厚い鋼鉄製のドアを沢山付けています。
非常に大きなですね、ガスタービン電源、こう言ったものを核電力会社が設置しています。
で、津波がきても大丈夫なように高台に設置(※)しているんですね。
ですから、一番だいじなところの対策は今とられているんで、
それ(対策を)をしっかり取ったという発電所から順番に再稼働していくという事になると思います。
政府が分かりやすく、
「福島の事故が原因がこうでした」と、
「これこれしかじかでこうなりました」と、
それから「この原因に対して対策を講じます」と、
「こういう対策を全部で30項目立てました」と、
原因と対策をしっかりと国民に分かりやすく説明する、その努力をしなければいけないんです。
奈良林氏は原発がなければ今後日本のエネルギー政策はますます苦しくなっていくと指摘する。
この間、サウジアラビアに行ってきたんですが、
サウジアラビアは間もなく原油の輸入国になります。2030年代に。
で、彼らは今、日本の3倍の、一人当たり3倍の石油を使っているんですね。
このまま行くと2030年にはもう石油が輸出できなくなってしまう。
それで、「原子力を教えて下さい」っていうんで、
この間、原子力をサウジアラビアに行って教えてきました。

チェルノブイリ事故後、
ウクライナはモラトリアムと言って原子力発電所を全部止めました。
ま、当然だと思います。
今の日本の状況と非常によく似ています。
ところがですね、経済が非常に停滞してですね、もう、失業する人が多くなって、
そうしてもう人が、食べるか死ぬか生きるか、そういう状況に追い込まれて、
「これは原子力発電所を再稼働するしかない」と、もう、そういうふうな雰囲気にまで行っちゃって、
そして再起動しているんです。
ウクライナからですね、もっといっぱい多くの事を学ばなければいけないと思います。
ええ、日本の26年先が今あるんですね。
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※崖の前に非常用発電機を設置している大飯原発です。
[再稼働]大飯原発視察その1「視察の現場・電力不足の根拠・二次評価って?」
古賀茂明氏3/20報道ステーション(動画・内容書き出し)
原子炉から離れた高台に非常用の発電機が設置されている。
その後ろには・・・崖
佐藤:これだけの勾配っていうのはちょっと・・
古賀:これね、何でこんなところに置くんだろうね?
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日本の26年先を見て、わたしもチャルノブイリから学んでほしいです。
子どもたちを、早く避難させてください。
で・・・結局、一番最初に奈良林さんが言っている「ある条件」って何だったんだろう(。◔‸◔。)??
崖の手前に非常用発電機を置くことと、鉄板のドアをつくる事かな(。◔‸◔。)??
あ、あと、政府が「安全だ」っていう事d(◕‿-。) ネ❤
追記ーーーー
コメントを頂いて思い出しました。塩と比べた教授だったんだ!
奈良林教授は過去このようにテレビでコメントしています。
「プルトニウムの毒性は塩と変わらない」(内容書き出し)
北海道大学原子炉工学 奈良林直教授
東芝時代に原子炉の安全性を研究。内閣府原子力安全委員の専門委員を務める。
いま、塩をですね
塩を200グラム採ると成人男性は、これは致死量というんですが半分の方が亡くなる
200グラムの塩。
ところがプルトニウム239の経口致死量、飲み込んだ場合は
これは32グラムです
ですから、毒性というのは、つまり、飲み込んだ場合は塩とそんなに大差ないんです
だから、肺に飲み込んだ場合の致死量は約10ミリグラム
これは大体青酸カリ、ちょっと怖い物質になってしまいますけど(笑)
このくらいの毒性です
むしろ食中毒のボツリヌス菌とかそういった毒その方がはるかに
あの、危険性が高い
それからダイオキシンもありますけれどもそういったものはさらに危険ですね
ですから、プルトニウムを粉末にしてわざわざ飲み込まなければ、肺に入れなければですね
あと、紙一枚で止まる物質ですから
それはそれでちゃんと、プルトニウムを使った燃料を扱うところは
しっかりしたそういう施設で作っていますので、それは大丈夫です