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03.28
Thu
5.人間がこれから放射能と共に生きるという事を考えていかなければいけません  
    8/5橋爪文氏(文字起こし)
で、
最後に橋爪さんがお読みになった広島からのメッセージの全文です。

ーー


2011年4月11日

広島から
日本のみなさん、世界のみなさんへ
被爆者 橋爪 文 


私は広島の被爆者で、現在八十歳です。
二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起こり、続いて福島原発事故が発生したとき、
私は六十六年前の原爆被爆と、その前後の市民たちの暮らしについて執筆中でした。
大半を書き終えていた私は、福島原発事故を痛く重く心に抱き、
最終章は故郷広島の原爆の原点に立って書き終えたいと思いました。

夜遅く広島の地を踏んだとき、私は両肩に重い負荷を感じ、一瞬足が前に進みませんでした。
帰広する度に私は先ず平和公園の慰霊碑に足を運び、碑の中の親族、友人、知人、
そしてあの日、想像を絶する惨状の中で死んでいった人びとと対話するのが常でしたが、
今回は祈るというよりお願いをしました。
私に、いましばらくの間、健康を与えてください。
私に、ちからを与えてください。
私に、何ができるのか教え、導いてください。

私はあの日、爆心地から約一・五キロメートルの地で被爆し、瀕死の重傷を負いましたが、
三人の人に助けられ生きのびることができました。
焼け跡でのバラック生活の中で、高熱、鼻や歯ぐきからの出血、ひどい下痢、嘔吐、全身の紫斑、脱毛など、
急性の原爆症に苦しめられましたが、このときも奇跡的に生きのびることができました。
しかし、その後、現在に至るまで、次々とさまざまな病気に苦しめられ、
一日として健康体であった日はありません。

「原爆ぶらぶら病」

中でも特に辛かったのは、「原爆ぶらぶら病」でした。
症状は、耐え難いほどの倦怠感です。
私は医師に何度かお願いしました。
「先生、一日でも、一時間でもいいですから、爽やかで軽いからだにしてください」
でも、それは叶いませんでした。
私は夜寝るときに神に祈りました。
「明日の朝、目が覚めませんように」

それらはすべて放射線による内部被曝によって起こりました。
放射性物質を含んだ水、食物、空気などを体内に取り込むと、
その物質が体内で絶え間なく核分裂を起こして細胞を破壊していき、遺伝子を狂わせます。
それは死ぬまで続きます。
あの日、黒い雨に遭った人、救援や人を探しに市内に入った人たち、
また原爆だけではなく、核実験、原発事故の被曝者たちもみんな内部被曝者です。

内部被曝については、ずっと隠蔽されてきました。
今回の福島原発事故によって、やっと「内部被曝」という言葉が出てくるようになりましたが、
それがどういうものかについて詳しい説明はありません。
原発行政が進められなくなるからです。
原発がクリーンエネルギー、夢のエネルギーともてはやされた時期もありましたが、
チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の後、少し控えられていました。
それなのに近年、世界の多くの国が競って原発を造ろうとしています。
それを原発ルネッサンスなどと呼んでいますね。
この傾向を見て、私はあまり遠くない将来、必ず地球上のどこかで原発事故が起こる思って警告していました。

「原爆被爆国の日本が放射能発生加害国になっていって良いのでしょうか?」

それが現在、私の国で起こり、しかも毎秒高濃度の放射性物質を漏らしつづけています。
それを止める確固とした手立てもなく、危機的な状態が終わる見通しはたっていません。
国土の狭い、地震国の日本に五十基を超える原発。
しかも地震多発のプレートの上に、過疎地に集中して建てています。

今回の福島原発も第一原発には六号機まであり、それらは連鎖して危機に陥っています。
また、福島第二原発にも一号機から四号機まであり、それらもダメージを受けています。
東北の大地震のあと三月十五日には、静岡でも大きな地震が起きました。
東海、駿河湾の大地震は、今世紀前半に一〇〇%起こるといわれています。
しかも直下型。
その上には最大級の浜岡原発があります。
地震の多い日本海側にも原発銀座と呼ばれる福井県をはじめ、多くの原発があります。

日本のみなさん
原爆被爆国の日本が放射能発生加害国になっていって良いのでしょうか?
時間はありません。
現在稼働している原発を止めるように働きかけましょう。
世界の皆さん
加勢してください。
そして、地球上に新しい原発を造ることはもちろん、
いま稼働しているすべての原発を止め、廃炉にするように声を上げましょう。


「反原発に向けて立ち上がる」

私は被爆者として国の内外で反核を訴えてきました。
それは原爆・水爆だけではなく、原発が地球上の生命を滅ぼす日が来ることを恐れてのことです。
原発は正常に稼働しているときでさえ、常に微量の放射性物質を放出し、海、空、土を汚しています。
微量放射線の危険性についても隠蔽されています。

地球上に生を受けているのは人間だけではありません。
人間が自らの利得のために、他の生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか?
自然と調和して生きていく道を拓くのが、人間の英知ではないでしょうか?
また二十世紀から二十一世紀に生きる私たちは、長い人類史のほんの一刻を与えられているに過ぎません。
先達から引き継ぎ、未来へバトンタッチをする、ほんの一刻を預かっているだけではないでしょうか?

私たち原爆被爆者や、原発事故・核実験などによる被曝者が一生苦しんできたように、
福島原爆事故による被曝者たちが、これから苦しみつづけることになります。
避難所での厳しい生活にひたすら耐えている人びとの様子が毎日報道されます。
そんな中にあっても、無心な乳幼児、活力を失わない子どもたちの姿に、
私は心を打たれると同時に、そこに希望を見るのです。
放射能は、子どもたちに特に大きな被害を与えて、彼らの成長を妨げます。
それなのに、政府や電力会社はこの狭い地震国・日本にさらに十基以上を建て続けるというのです。

放射能に国境はありません。
未来を拓く子どもたちを救うためにも
世界中のみなさん  
共に手を取り合って、反原発に向けて立ち上がりましょう。






comment 2
03.28
Thu
2011年8月5日放送
音声はこちら


29:10

聞き手:あぁ…なるほど。
それで橋爪さんはですね、先程から何度か伺っておりますけど、
原爆を受けられて以後現在に至るまで、ご体調がいろいろ悪かったと。
具体的には、どういう体調ですか?

橋爪:
一番最初の、いま思うと原爆症ですけれども、
当時は原爆症なんていう言葉も知らなかったんですけど、
7日の朝ですね、6日に被曝して7日の早朝にひどい下痢をしました。
それからずーーーっと下痢は続きました。

そして、バラック生活で、
4本柱のところからややましなバラックを建ててそこに移った頃が、20日ぐらい…、
はっきり覚えていないんですけど、日にちはね。
そこに移ってから、あの、本当に、急性原爆症と今言われている症状になりました。
高熱が出て、それから全身が、だから熱のせいもあるんでしょう。
もうガタガタに崩れるような痛み方、骨がバラバラになるように。
それから鼻血ですね、歯茎からも、口から血が。
それと、全身に斑点、紫斑が出来ました。

そんなになったら大抵の方が亡くなっているのに、また私は不思議に生き延びたんですね。
いろいろ辛かったんですけれどもね、ずっと、本当に私が知ったのは、東京に来て、
あれは60過ぎてから原爆ぶらぶら病っていうんですね、
それは非常に倦怠感、
もう体が動こうと…気持ちがいくらあっても動かなくなる倦怠感があります。
それでも生活しなければいけない。
結婚すれば子育てもありますし、


聞き手:本当に極度の倦怠感とだるさですかね、それも。

橋爪:ええ。

聞き手:
そして焼け跡の広島には病院もまともには無かったでしょうし、
そのうちにアメリカの進駐軍が来て
ABCC原爆傷害調査委員会というふうな施設は作ったと伺っていますけれども、
そこへいらしたんですね。

橋爪:
行ったというかね、ジープが来て連れて行かれたんですけど、
わたしたちはABCCと言ってたんですけどね、
そこに被爆者を連れて行って、いろんな検査をしますね、放射能の人体に及ぼす影響を。
病気をみんな持っていますけれども、治療は一切しません。
私の時は、私は一回行って、人間扱いをされなかった、その時の扱いがね。
まるで品物みたいに扱われた時に、わたし…まだ10代の少女ですけど、
「私もあなたと同じ人間ですよ」と心の中で叫んでいたんです。
非常に大きな屈辱感を覚えました。

私たちはね、噂みたいですけど、
後になったらアメリカの指令があったって聞くんですけど、
被ばく者同士はあの時、「原爆の時の話をしてもいけない」というような雰囲気をつくられたんですね。
後で知ったらプレスコードをひいて報道陣も全部シャットアウトしましたよね。


聞き手:
今は被爆者手帳というのがあって、被爆者の方は医療費が免除されるとか出来ていますけれども、
当時は全くそれが無かったんですってね、
あの、…病院に行っても普通に料金を払われるとか、


橋爪:
全部自費ですから、みんなお医者さんに行ってもお金がかかるから、そのお金が無いから行けない。
で、被爆援護法が出来たのは12年後と言いますから、
その間にね、苦しくてお医者さんに行けなくて死んだ人が沢山いると思いますね。

聞き手:
そうですよね、その12年後じゃいくら何でも遅くて、
10年も経てばひどい被ばくの方は大体もう、亡くなられた方も多いですよね。

橋爪:
だから私の家族も父も、
父は外傷はなかったんですけれども、紫斑が出たり、悪性貧血、
いろんな、ま、大腸癌だったんですけど、最後。

聞き手:
そして今も、橋爪さんはこうして被爆体験をお話になっているんですけれど、
同時にいま新たに手記をですね、前のと合わせてお書きになっているようですね。

橋爪:
10年前にある出版社が私の体験記を本にして出したくださいました。
去年それが絶版になったんですね。
それを今度はね、ふくらませて書いているんですね。
もう大分書き進んで、もう終わりに近い頃に、今年、福島が起こったんですね。


聞き手:あ、福島の大地震に伴う原発の…、

橋爪:
ええ、原発。
起こりまして、
その後余震が東京毎日ありました、一日中。
それから計画停電で。
これは書ける状態じゃなかったのと、
やっぱり福島の事故というのは、私原発の、原爆だけじゃなくて原発という言葉、
核というものに、放射能の影響をずっと受けてきましたから、

一番怖いのは「近い将来、世界のどこかで原発事故が起きるだろうな」って、
ある程度確信みたいなものが私はあったんですね。
だからその原発を訴えて歩いていました。

ところが今までは、原爆の話しはみなさん真剣に聞いて下さるけど、
原発の事はやっぱり、あんまり、そんなに強い関心がなかったんですね。
でも私の中では「これがいつか起こる」と思って、
こんなにすぐ近くに、しかも日本で起きたという事に、大きな衝撃を受けましてね、
これは原稿を持って、やっぱり広島の原点に立って最終稿を書こうと思って、
すぐ広島に行きました。

最初は1週間かせいぜい2週間と思ったんですけど、
結果的に40日滞在することになったのは、
行ったら毎日インタビューがありました。
それでインタビューが私の場合全部フランスからでした。
フランスの新聞・ラジオ・テレビ・マガジン連日あって、

聞き手:
あ、フランスは原発の大国。
原発大国ですから、それで広島の被爆者の方のご意見を聞きたいということで、
体験記などをお書きになっている橋爪さんのところに取材に来たんですね。

橋爪:
はい。
で、10年前の本がね、フランスで一回出版された事があるんです。
それを読んで来た人が最初だと思いまけれども、
私は4~5年前からフランスに行って話す時に
原発立国だという事を行っているうちに分かってきましたから、
その原発立国のフランス人が、私のところに来たのはフランス人ばかりだったので、
これだけ関心を持つっていう事にね、私なりにある種の感動を覚えましたね。

フランス人の質問でね、一つだけあげるとしたら、
もう最後の最後の頃で、
「あなたは原爆と原発と同じものだと思いますか?」と聞きました。
だから「同じものです」と言いました。

でも原爆は戦争に兵器として人を殺すためにつくられたものです。
原発は平和利用、クリーンエネルギーとしてつくられた。全然違うじゃないですか。って言いました。

だから、つくる過程も同じですし、
それから核を燃やしてエネルギーを作る。同じだし、
放射能の被害があるというのも全く同じだから同じ事です。っていうことは、
その時にハッキリ言いましたね。


聞き手:
確かにこの原発・原爆。
かたや平和利用、かたや戦争のため。
これは全然違う、真反対とも言えますけれども、
「放射能」という意味では同じですね。

橋爪:
同じですね、全く。
原発を動かしている限り、廃棄物は常に出ますね、プルトニウムを含んで。
それがどんどん世界中に溜まって行って、それの、まだ処置の仕方も分かってませんね、世界のどの国もね。
今度は福島の原発で、あれだけのがれきが出来たじゃないですか。
あの、放射能を含んだね。
いまだにお水、海水、漏れて地上も汚してるし、
校庭の砂とかね、幼稚園の砂を削ったりすると、その砂の置き場もないわけですよ。
ほんと、私ね、どうするんだろう?と思ってね、
今、牛肉の問題ですけれども、遠いところ100kmも離れたところで、
やっぱりすごい量のね、放射能が牛の餌からも肉からも。
そんな事を思うとね、これは福島だけでも、日本だけでも、もう世界の問題ですから、
そこにこう、目を向けないと。
原子力はいったい現代の世界の未来のね、地球の問題です。
広くそこを見据えながら、だけど目の前の救援がありますね、救済。

人間が制御できないものにね、人間が手をつけたというところが誤りですけれども、
今はもうそれは、言ってもなっちゃったことは。
だからこれと、放射能と人間が、ま、人間はじめ生き物全てが、
どういうふうに共存していくかという事を、
人間がこれから放射能とともに生きるっていう事を考えていかなければいけませんね。

将来はもちろんですけれども、
先ず身近なところで次世代ですね、私たちの。
それに重いバトンをね、渡すことになってしまったっていうことが、
今ずーっと福島以来気持ちを重くしててね、書く方が進まないんですよね。

それから、原発の工場ですか、原発の施設。
そのものも、もう何年か経つと大きな廃棄物、核廃棄物に。
チェルノブイリみたいに石棺で覆っても、25年経ったらまたヒビが出てきて漏れてるっていうけど、
膨大なお金がかかるからもう一重にやる事が出来ないって言って、そんなのが…、
福島も最後は石棺にするって言っていますから、
もうセメントで埋めたからって言っても、中は燃え続けていますからね。


聞き手:閉じ込めるだけですね。

橋爪:
閉じ込めるだけですから。
いまだにチェルノブイリも25年経って、元に住民たちも戻れないし、
これはね、なにかじっとしていられない気持ちで、
広島からのメッセージみたいなものを書いたんですけど、
じゃ、それの一部を読ませていただきましょうか。
一番言いたいところなので。


地球上に生を受けているのは人間だけではありません。
人間が自らの利得のために、他の生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか。
自然と調和して生きていく道を開くのが、人間の英知ではないでしょうか。
また、20世紀から21世紀に生きるわたしたちは、
長い人類史のほんのひと時を与えられているにすぎません。
先達(せんだち)から引き継ぎ未来へバトンタッチをする、
ほんのひと時を預かっているだけではないでしょうか。


ほんの一部ですけれど。
これからの大きな課題ですね。


聞き手:
どうもありがとうございました。
これからもいろいろ、橋爪さん、ますます意気盛んにご活躍頂きたいと思いますけれども、
なによりもお体を大事にして下さいまして、
さらに私どもにメッセージを頂きたいと思っております。

橋爪:ありがとうございます。

聞き手:ありがとうございました。




ーーー



1.その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)

2.炎の下、黄金の世界。 その中で生きることも死ぬことも考えなかった 8/4橋爪文氏(文字起こし)

3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)

4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 
   8/5橋爪文氏(文字起こし)


5完.「あなたは原爆と原発は同じものだと思いますか?」「同じものです」と言いました。 
   8/5橋爪文氏(文字起こし)



橋爪文さん「広島からのメッセージ」2011



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comment 1
03.28
Thu
2011年8月5日放送
音声はこちら



聞き手:そしてその後ですね、外国へ毎年のようにお出かけになるようになるんですが、このきっかけは?

橋爪:
まだ帰って来ましたら、やっぱり主婦ですから、海外に行こうなんてチャンスもなかったです。
その2年後にまたまたチャンスが訪れて、
「シルバー英語研修でニュージーランドへ行きませんか?」っていうお誘いがあって、
すぐそれにまた応募して2週間ニュージーランドに行きました。
そこからが始まりですね、海外で話すようになったのは。


聞き手:それからでももう、17~8年経ちますよね。

橋爪:そうですね。
1年に多い時で3回。
たとえばヨーロッパに行くと、ヨーロッパは周りに国が沢山あって、
せっかく行ったんだからその近隣のところをまわろうと思って、
一回に3カ国ぐらい回りりますね、自分が歩いてユースホステルに泊りながら、リュック背負って。
そうすると1年に8カ国から9カ国歩く年がありましたね。

最初はニュージーランドのお友達が、私が書いたエッセーみたいなものを英訳して下さって、
それを、そうですね、A4に20枚ぐらいの英文なんですけど、
それを10部から20部コピーしてリュックに詰めて行くと結構重いんですね。
で、それを配って、向こうで日本人だっていう事が分かるから、
向こうの方って不思議に生まれたところを聞くんです。
「広島」って言いますと、みんなパッと顔が変わって、
もっと聞きたいけど私の英語が出来ないって事で、差し上げていたら、
あっという間にその20部は無くなりましたので、
帰って来てからハガキ大のブックレットを作りまして、それに刷って、
それからは100冊ぐらいは持って歩けますから、
そして自分で「海外反核平和ひとり行脚(あんぎゃ)」って自分の中で、
「種蒔きの旅」って言って、それをこう蒔きながら歩いて、
それが結構本当に種が育ってね、あちこちから今度は呼んで下さるようになりました。
「話して欲しいと」


聞き手:ご招待があるようになった。

橋爪:
招待といってもね、旅費は私が安いチケットを買って、
それから向こうの滞在費は向こうが持って下さいます。
フランスは、これは最近、5~6年前から呼んで下さるのはチケットも送って下さいます。

反応は大きいですね。
向こうの人達は、みんな良く原爆の事に関心を持っていて、勉強もしてたり、
いつも日本に帰ってきて思うんですけど、
日本人っていうのは広島・長崎知っていますね、原爆のこともね。
「知っているつもりで知らないのは日本だな」っと私は痛感しながらここ10数年海外を歩きました。

特にニュージーランドは反核の国で、
一応先進国ですけれども、原発も一基もありません。
それから人間らしい生活。
夜は暗いものですね、必要最低限の街灯もあります、家の中もありますけれども、
日本みたいにコンビニで四六時中やっている、そういうこともないです。
大体5時か5時半に閉まります。


聞き手:
エコライフというか、省エネの生活が、
市民、国民全体に浸み渡っているんですね。

橋爪:
そんなもんだと思った生き方をしていますから、
原発がなくても十分、誰も不満を持たないでやってきてますよね。
だからとても強く惹かれまして、
自然も美しいし、そういう生活をしてるせいか国民性も非常に温かい、優しいですね。

それと、ニュージーランドに常に毎年行くようになったのは、
今は広島・長崎って言っていますけれども、ヒロシマデ―って8月6日に毎年やっていて、
灯篭流しをやっている。
それを知ったので「えぇっ、こんなところで灯篭流し!?」って、こんな遠いところでと思って、
それに参加したことから、ニュージーランドへ毎年行きます。

で、その時、灯篭流しをするようになったきっかけのことをちょっと聞いたんですけれども、
広島を流れている太田川は太平洋に注いでいる。
クライストチャーチ、この間地震があったところですけど、
クライストチャーチを流れているエイボン川も太平洋に注ぐ。
同じ太平洋に注ぐ川を持つ私たちは広島と同じ思いで反核を訴えようという事が趣旨だって聞いたので、
それにひどく感動しましてね、行くようになりました。

そしてヒロシマデ―に私が行く事を知った友達がまたいろんな情報を教えてくれて、
世界のあちこちでヒロシマデ―ってやっているんですね、
それを今度尋ね歩こうかなと思って、
行ったところは一年に一回って限られているんですけど、
フィンランド、ヘルシンキに行きました。
それからスウェーデンの灯篭流し。
それからカナダの灯篭流し。
今は広島・長崎デーにいずれもなっていますけれど、
最初はヒロシマデ―でしたね、どこもね。


2100
聞き手:
そして、そうした灯篭流しもあって、それこそ北欧からカナダ、いろんな国へいらしてるんですけど、
そういったところで公演されたその反応をいくつか具体例を。

橋爪:
どこでも出る質問、それは大人も子供も同じで単純な事ですけど、
「アメリカ人を憎んでいますか?憎くないですか?」ということがほとんどのところで出ますね。

聞き手:それに対してどう答えられるんですか?

橋爪:
私は、「人間はね、憎みません」って。
たとえばアメリカ人でも、あなた達スウェーデン人、フランス人、日本人でも、
みんな人間は同じだから人間を憎む事はないんですけれども、
「アメリカが原爆を人間の上に落としたっていう事に対しては、私は許せません」って言いました。

そしたら、その同じ子がね、
私が「憎しみは人間に対してもたない」って言った時に、
「報復を考えた事がありますか?」って言いました。
だから、「憎しみとか報復があるところに平和は来ないでしょ」と答えました。

また、同じような質問をフランスの大人の方から、女性ですけど、
それはおととしの秋だったと思うんですけれども、
「あれから63年経ちますけれども、あなたは今もアメリカに謝罪してほしいですか?保証してほしいですか?」
っていう質問をもらったんです。
その時に私は、私たちね、被爆者に対してじゃなくて、
「原爆を人間に落としたという事は、人類史上始まって以来の最大の罪悪だ」って私は思いますから、
「全人類に対して謝罪するのがアメリカの良心じゃないんでしょうか」って答えたんですけれども、
そういう気持ちですから、憎むとか、許す許せないっていう事じゃないところにいるような気がしますね。


聞き手:
先ほどニュージーランドのお話をしていただきましたけれども、
このニュージーランドでは特別な出会いがあったようですね。

橋爪:
そうですね、最初にヒロシマデ―があるっていう事を知ったのがスコットランド。
エジンバラから2年経って、またシニア英会話で2週間行きましたね、それがクライストチャーチでした。
その時に学校に事務員の方が、日本人の事務員のがいらして、
その方がこちらにいらして、「一番感動した本なの」って日本語になっている短編小説を下さったんですね。
それを読んでビックリしたのが、
ヒロシマデ―の事が書いてあって、クライストチャーチでやっているというのでね、
どうしてもその作家に会いたくなりまして、エルシー・ロックっていう人なんですね。
彼女は、ヒロシマデ―を始めた発起人の中に1人なんですけれども、
是非会いたいということで行きましたら、
「あなたはね、話さなきゃいけない」
で、私が詩を書いている事を知っていましたから、
「書かなければいけない」
それは
原爆は広島だけの事ではない。日本だけの事でもない。
現在の世界と、またそれだけでもなく未来の地球のことでしょ。
で、私たちは被爆者のひとりずつの言葉を寄せ集めて、でしか知ることができません。
あなたは話さなきゃいけない。書かなきゃいけない。
その時の彼女の、小柄な方です、私と同じくらいの背丈で小柄な方ですけど、
目が本当にね、こう射るような目をして私をね、見てお話をなさったときに、

私は初めて、なんていうんですか自分の、言葉にすれば「使命感」でしょうか、
2年前にスコットランドで
「被ばくしちゃったってこういう事だったのか」と思ってそのままだったけれど、
「それを、私がしなきゃいけない事があったんだ」と思って、
「そのために、あるいは生かされているのかな」と思って、
その言葉がきっかけで、それからニュージーランドに行って、
日本に帰ると生活も忙しくて辛いですから、病気を持ってて、
で、また行って、彼女エルシー・ロックに会うとね、また励まされて、
会った時必ず最初に言う事は「書いてますか、話してますか」
別れる時に「書かなきゃいけません、話さなきゃいけません」それなんですね。
それで励まされて、ずっと。

私は家事に明け暮れていましたね。
そして私が詩を作り始めたのは、きっかけは
子どもたち、男の子3人が多分3歳6歳9歳だったと思うんですけど、
お医者さんから、あなたはね、「あと半年の命かもしれません」
「あと半年ですね」って言われた時に、
もう死ぬのは、何回か死に直面していますから、もう自然に受け入れる以外にないですから、

ただ子どもたちが幼いですから、
この子たちが母親がいなくて、父親が仕事人間だと、
とっても生きて行くのが辛くてさみしい思いをするだろうなと思って、
「何か残そう」と思って、
童謡をひとつ作れないかな、
その童謡を作って、彼らが苦しい時にその童謡を口ずさんで、
お母さんが「生きるのよ」って励ましてくれていると思ってくれればいいなと思って、詩を作りはじめて、
で、10年、この前のメッセージの詩を書いていたんですけど、家事の合間で。

10年経ったので、私も生きていたので、
一応子どもへのメッセージの詩をまとめようかなと思って、
まとめている、そういう作業をしている時に、ちょうど次男が16歳になっていました。
鎌倉に住んでいましたから、横須賀に米軍の基地ですね、
核搭載疑惑の潜水艦が入港するということで「反対の座り込みに行く」って言ったんですね、次男が。

もともと私たちは東京に住んでいたんですけど、
次男がずっと喘息持ちで、それで、気候温暖な鎌倉に行ったんですね。
で、「座り込みに行く」って言った時に、ずっと喘息が治らなかったんですね。
前の晩も発作を起こして寝ていませんので、
私が止めました、息子を。
「あなたが行って、おまわりさんに引きずり戻されて、また義憤を感じて行く。
それを繰り返しているうちに、あなたもうね、悪くいったら命が無くなるかもしれない。
今は、自分に出来ること。
たとえばおこずかいからちょっと募金をするとか、署名するとか、
後は健康になる事に専念したらどうかしら。
20年経って、あなたが26歳。
大人になってやはり反核とか平和をね、訴えるんだったら、お母さんは全力で応援するから」って言いました。

おとなしい子なんですけど、
鼻と鼻をくっつけるほどに私にこう迫ってきて、
両方の握り拳をぐっと握りしめて、
涙を手放しでボロボロ流しながら、
「お母さんは被爆者で平和を求めているのになにもしないじゃない。
家事が大変なのはわかるけれども、新聞の投書とか何か出来るでしょ」ってなじりました。

で、彼が寝た後で、「私になにが出来るのかな」って思っても、何も考え付かないんですね。
それで、やりかけていた10年間の子どもへのメッセージの詩をまとめるために、
鉛筆を持って紙に向かったら、
原爆の6日の夜、火の中で飯田さんと過ごした、火の粉を浴びながら。
あの夜の事が詩になって出てきました。

出来上がったのが明け方ですけど、
それを、息子のお弁当を作って入れてあげたんですね。

息子は学校から帰って、「お母さん、わかったよ」って言いましたけど、
非常に不思議なんですけど、それを書いた途端にね、
それまでずーーっと背中に重いものを背負って生きてきたんです。
それがフッと薄れてきました。

それからは、聞かれれば原爆の話を、自分からはすすんでしません。
聞かれれば話すようになりましたし、
原爆の詩も少しずつ書けるようになって、
さっき読んだ詩もそれから、書けるようになってから書いた詩ですね。



ーーーつづく
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03.28
Thu
「原爆体験を世界に」
橋爪 文(広島被爆者)2011年8月4日・5日放送 NHKラジオ深夜便

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2011年8月5日放送



聞き手:
橋爪さんは昨日、原爆の日の当日も大変だったけれども、実はその後の生活も大変だった。
その後の事をなかなか話す機会が無いんだとおっしゃってましたけれども、
少し今日は、その原爆後の日々のご生活をちょっとお話しいただけるでしょうか?

橋爪:
はい、
田舎の方に避難していく人はいらしたんですけど、
私たち何人かと家族と、それから近所の方が戻ってらして、
焼け跡にバラック、といっても焼け跡から4本の焼け残った柱を、棒を拾ってきて、
それをがれきに突っ込んで建てて、
その上に焼け残ったトタン。
一枚がたたみ一畳ぐらいのものを二枚乗せた、それだけのバラックなんです。
壁ももちろん無いですし、そして下はがれきですね。
そこに近所の方と私たち家族とで、13人が夜露をしのいだんですけど、
昼間は木陰も全然ないですし、本当に見渡す限りがれきの、赤茶けた野原で、
で、真夏ですから、こう、肌がじりじり焦げるんじゃないかと思うような強烈な太陽でした。

でも夕方日が落ちると急に寒くなって、
私たちはみんなすごい、13人が重傷を負っていましたので、
そのせいか、寒さもひとしお感じたのか、
夜、夜露に当たらないように、その2畳ぐらいのトタンの下に頭を入れて寝るんですけれども、
2畳ぐらいに13人ですから、真ん中の人はお団子になったみたいに手足を丸めて、
で、座った人は座ったまま、
外側の人は頭だけ入ればいいっていうふうに、みんなくっつきあって夜を過ごしたんですね。

何日間か過ごしましたけれど、
みんなあれから食べ物は何にも、ほとんど食べないんだから、
お腹が当然すいていると思います。
それでみんな重症を負っていますね。
でも、お腹がすいていることも、傷が痛いことも、辛いことも、
一言も、誰もそういう事を口にしなかったんです。

ただくっつきあって寝てて、隣の人が、体温がこう伝わってきますね、
そうすると、「ああ、この人は生きていて下さるんだ」と、
お互いにそれを感じながら、それで励まし合って、口にはしませんけれど、過ごしたんですね。


聞き手:その時は、あの、一番あの、お水なんかはどうなさったんですかね?

橋爪:
お水もね、その時はもう水を飲んだっていう記憶は特に。
みんな何を食べたか、なにを、お水を飲んだかって覚えてないんですけれども、
少し後は雨水をずっと。
雨水を飲んで草を食べて過ごしました。

あの…、その後いろんな病気をしました。
今も沢山の病気を持っていますけれど、
あの時草を食べて生きた事を思えば、これは贅沢でありがたいなと思いますし、
それから目が原爆白内障ではやくに手術しました。

で、目が見えるようになったらこんなに世界が変わったかと思う位に嬉しかったんですけど、
またすぐに視力が落ちて、
今片方の目に3重ぐらいずつレーザーで穴を開けて見えるようにしているんです。
ですから、目が非常に疲れやすいんですね。
でも私はこうして、あの時に目が見えなくなったと思ったのが見えるんだから、
「ああ感謝だな」と思って。
なんでもね、すぐ感謝、感謝だと思って、
辛いこともあの時の事を思えば遥かに今の方がね、
感謝しなければいけないと思いながら自分の中で生きていますね。


聞き手:
そして昨日のお話ですけれども、
あれだけ極限状態にあってもですね、人助けをなさる方、
飯田さんのお話をなさいましたけれども、本当に素晴らしいお方ですね。


橋爪:
飯田さんも16歳のね、昨日お話ししましたけれど16歳の少年で、
自分も重傷を負っていましたけれど、歩くことが彼は出来たんですね。
で、私のために火の中に、本当に一晩中火の中に残って、
そして一晩中おやかんに水を入れて死んでいく人達に一口ずつ水を与えて歩いていましたから、
ああいう中でね、そういう事をしている彼を見た時に、
本当に人間以上の神様みたいなものを感じました。
それもありましたし、バラックで身体をくっつけあってね、重症者達が。
何にも苦情を言わない。
隣の人の事を常に思って過ごした、ああいう人間の極限状態にあった時には
「人間って素晴らしいな」っていう事を、私はあの時に見た気がします。


聞き手:
あぁ…、極限状態にありますとね、
人間も恥知らずになって、「自分が自分が」というふうになるんじゃないかとも思いますけど、
その逆の人間像をご覧になったんですね。

橋爪:
いや、多分私はいろいろ思うんですけど、
私のまわり、私が知っている被爆者の方達が報復だとか憎しみなんか全然訴えないで、
そういう憎しみとか何とかね、考える余地が無いくらい、
なんか人のものを盗もうとか、盗むものもないんですよ勿論ね。
だけどもそういうのをもう通り越した極限状態というのがあったような気がするんですね。

ですからその後、私が生きてきた中で、ずーっとそれがね、根っこにあるような気がするんですね。
あの時見た人間の、「人間っていうのは素晴らしいんだ」っていうことが。
だからいろんな事があっても私は人間を信じたくなる方ですね。

海外に、いろんな国に行きましたけれど、
ニュージーランドで高校生、いろんな中高生と話した時に、
高校生が質問で、
「文は原爆によって哲学が変わりましたか?」と質問があって、
わっ!難しい質問がきてね、その時に私は、
「原爆で非常に悲惨で辛い思いしましたけど、
でもその中で、極限状態の人間の素晴らしさを見る事が出来ました」って言ったんですね。
いった後で手が沢山、質問の手が上がってますから、説明する時間がないから、
「難しいこと言っちゃったな」と思ってんですけど、
次の日に先生が感想文を持ってきて下さった中に、
彼の、高校生の手紙がありまして、

原爆の話はとっても心に衝撃を与えたし感動したけれども、
私が一番感動した事は、文がそんな中にあって人間の素晴らしさを見たっていう、
あの一言に非常に心を打たれて、
わたしもこれから文のように人間の素晴らしさを信じて生きていきます。
っていうのがあったので、
「あぁ、分かってくれたんだな」と思って私の方が感動しましたね。


聞き手:
今ニュージーランドのお話が出ましたけれども、
橋爪さんはもうすでに海外各国行ってらっしゃいますけども、
橋爪さんがそもそも海外にお出かけになる、海外とのご縁のきっかけはどういうところですか?


橋爪:
きっかけはね、大家族の中の主婦で、
日本の女性、主婦っていうのは古い美徳で育ちましたから、
忍従、家族に使えること、主人とかひたすらそういう生き方をしていました。

聞き手:
あ、そうしたら橋爪さんは、あの、被曝されていろいろ病気に悩まれたけれども、
その後結婚されてお子さんもお出来になったんですね。

橋爪:
30歳の時に、ま、一応いろんな病気があって、
病気のために東京に広島から移ったってお話ししましたね。
それで、通院しながら治療して、完全には治らないんですけれども、
一応、軽癒ということで30歳で結婚して30代で3人の男の子を授かりました。
それで厳しい生活でした。
昔の家族だから、どうしても主人を私が立てて家を守っていくという昔風の家庭でしたから、
自分の事なんか省みる時間もなくて、それがもう女性の生き方だと、
おばあちゃんとか母なんかを見ていて自分もそうしていたんですけど、

60歳になった時に長男が、長男が33歳の時の子どもですけど、
彼がふっと私と二人だけになった時に、
「お母さんの生き方をしてほしい、せめて5年でいいからお母さんの、自分のために生きて欲しいね」って、
ま、希望、そうしてほしいんですけど実際には不可能っていうことも
彼は分かりながらそういう事をふっと口に漏らしたんですね。
でも実際にはやっぱり毎日の忙しい生活でした。

だけど還暦ですから、60歳だから。
何か私も、子どもたちもある程度大きくなりましたから何かしたいなと思って、
むしろ勉強できない時代と環境にありましたから、勉強したい事がいっぱいあったので、
ちょうど放送大学が始まったころだったので、放送大学、家にいて勉強が出来ると思って、
それで取り寄せて、書類をみたんですけど、
「4万円のアンテナを建てないといけない」
その4万円が無かったんです、生活が苦しくて。
それと、1ヶ月に1回横浜まで出かけないといけない


聞き手:スクーリングっていうのがあるんですよね。

橋爪:
そうです、それも私は時間が無いっていうので諦めて、
そうすると、「何か一つに絞って出来る事をしようかな」って思って、英語を選んだんですね。
何故英語か?って言いますと、
やっぱり原爆が根底にあったんでしょうか、
世界の中、アフリカとか東南アジアとか中南米、
非常に虐げられて苦しい生活している人たちが大勢いますね。
で、その人たちと直に触れて人間って、人間の幸せって何か?っていう事をね、
こう、触れ合っていきたいという事をですね、
そのためには一人で飛行機に乗らなければいけないので、それで英語の勉強を選んだんですけれど、
で、お金も時間もないですから、NHKの朝6時の基礎英語ですか、あれのテキストを買って
それでそれも続かなくなって一時辞めたんですけど、
そうしたら歩いていけるところに英会話教室が出来たんですね。
ちょうど私は60歳になっていましたから、
60歳過ぎた人はシニア料金って安くなるって、半額だって。
それにも惹かれて歩いていけるし時間も。そこに行き始めました。
あの、スコットランド人でしてね、とってもいい先生で私は幸せだったんです。
先生が半年経ってスコットランドに帰る時に、
「文がスコットランドに行ったら英語が話せるようになるよ」って。
「ぼくは帰ったら推薦しておくから」って学校を紹介して帰って下さいました。


聞き手:それでスコットランドの学校へいらっしゃる事になったんですか?

橋爪:
はい。
ちょうどいろんな、そういうチャンスが来たんですね。

聞き手:そしてそのスコットランド、最初の海外体験はいかがでした?

橋爪:
とっても勉強に、いろんな点でね。
英語はどこへ行っても最低ですけれど、たとえば教科書があるんですけれど、それに絵が出てますね、
そうすると、その中で自分の言える事を話せる事を話す。
たとえば、赤い洋服を着ている人がいたら「レッド」だけでもいいんですよね。


聞き手:ああ、なるほど。そんなに文章をきちっとしなくても

橋爪:
そう。
でも、話せる人はもっと話してもいい。だから私がついていけたんですけど、
最年長者ですから、みんなに助けられてあったかくされて、
実は私は、詩を、短い詩を書いていたんですけど、
行く前に友達のご主人が英訳して下さって、
「これを持っていらっしゃい」っておっしゃったんですね。
それを持ってましたので、スコットランドで先生にそれを渡しました。
すると先生が被爆者がいるっていうことでビックリなさって、まず先生方、
日本語で言うと職員室ですか、そこでおっしゃって、それから生徒達に。


聞き手:そうしますと、その詩の内容は自分の被爆体験を書いてらしたんですね。

橋爪:そうです。

聞き手:
その詩は沢山、ここにコピーがありますけれども、
そのうちの短いのを一つご紹介いただけます?

橋爪:はい。恥ずかしいけれど、じゃあ短いの。


空の星を沈めた水槽の雨水で
わずかな食べ物を煮炊きした
星の光が痛いほど降る露天風呂で湯を浴びた
両手を思いっきり天に伸ばすと星の話が聞こえた
私は生きている
星がきらめいて答えた
お前は生きている
天の下の水槽の底にはミミズが住んでいた
ミミズと私は一緒に生きていた


聞き手:これはまさに、原爆のですね、バラックに住んでいらしたころのご体験ですね。

橋爪:
はい、
昔は五右衛門風呂って言って鉄の丸いね、お風呂を使ってまして、
で、鉄ですから焼け残っているんですね。
建物は全部焼けても。
そこに雨水が溜まります。
ま、火はがれきをちょっと掘ると火種はまだ残っていましたし、
火の焼け残りがあちこちにありましたからそれを拾ってきて、
お風呂をね、お湯を沸かして入ろうっていうことで、
でみんながそれに1人ずつ入って、
周りに何にもないんですけれども、やっぱりまだ10代の女の子ですから、
着ている物ってないんですよ、着の身着のままでね。
でもそれを、五右衛門風呂の陰でそっと脱いでね、お湯に入って、
全身にね、いま思うとですけれど、
全身傷だらけですよね。
だけれども、全然その傷の事なんか考えなくて、
それは本当に、「お風呂ってこんなにいいものか」っていう。
気持もね、穏やかになるし、体も休まるし、
本当に、本当の露天風呂です。
広島にまだ家が無いですから、明かりは全然なくて。
星空の下の、下は地上は闇ですから。


聞き手:その詩を英訳されたのを先生がご覧になって、随分ビックリされたんでしょうね。

橋爪:
ビックリなさったでしょうね。
皆さんビックリして、学生たちもね、
目の前に原爆の生き残りがいるっていう事に先ずショックを受けて、
そのショックが自分の目の前に今原爆が落ちたようなショックだったんですね。
それを私は見て、
私は「言葉が通じなくても、私がここに存在するだけでこれだけ訴える力があるんだな」
っていう事を感じましたね。

「生き残り」というのは、「あ、こういう事なのか」と思ったんですね。

原爆なんて事は遠いアジアの国の昔の事だと思っていたところに、
目の前に生き残りの人がいたのでショックを受けたんだと思いますよ。
14歳で被曝して、その時61歳でしたから。



ーーーつづく



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03.27
Wed
1.その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)
上記の続き。音声は↑にあります。



16:46~
橋爪:
で、地上にね、おり立ちましたら、
みんな、本当に亡霊のような姿の人達が茫然として、
「いったい何が起きたんでしょう、何が起きたんでしょう?」って
もう、その一言をみんな呟いて茫然としてらして、
中の何人かが、私を見て悲鳴をあげたんですね。

それは、私の肘をつたって流れる血が、ポトポトじゃなくて、
サラサラ、小川みたいに、血管が切れたんだと思いますよ。
そして、たちまち私の足元に血だまりが出来て、
それを見た同じ係りの友柳さんという女性なんですけれど、
彼女がすぐに私を抱きかかえるようにして、
20m位あるかしら、そこに日赤病院がありましたから、そこに運んで下さいました。

で、日赤病院に行きましたら、
外で作業していた人達ですよね、もう、みんな着ている物は焼けたでしょう。
皮膚が焼けただれて、皮膚が海草みたいに垂れ下がって、
手をみんな、胸の前にぶら下げて歩いているんですけれども、
手も顔もね、赤黒く焼けただれて、倍ぐらいに膨れ上がっているんです。
唇なんかも上下にね、こう、めくれ上がってね、・・・・
男性か女性かもわかりませんし、年齢も分かりませんし、
13~4歳位のね、私ぐらいの年齢の中学生が一番多かったかなって思うんですけれどもね、
そういう人たちが日赤に来ていましたけど、
ただ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)なんかは私は聞いていないんですよ、

 ※阿鼻叫喚(あびきょうかん)
  1 仏語。阿鼻地獄と叫喚地獄とを合わせた語。地獄のさまざまの責め苦にあって泣き叫ぶようすにいう。
  2 悲惨な状況に陥り、混乱して泣き叫ぶこと。「一瞬の事故で車中は―の巷(ちまた)と化す」



聞き手:ああ、そういう叫び声なんかなんにもない

橋爪:
なんにもない。
何にもなくて、ただね、茫然とした形で、ただ彷徨っている。
「助けて」もないし、「痛い」もないし、
なにも・・・声がなかったですね。
もう、通り越していたんだと思いますね。

それで私は、そういう人たちがどんどん増えてきますのでね、
それで、私は、きっと、怖ーい夢の中にいるんだと思いました。
現実だとは思えませんでした。

そう思いながら、また、こう、気を失っていったんですね。

友柳さんが、日赤病院の、今思うと、
昔の日赤病院です。今は建てなおしましたけれど、
そこの待合室で、床に横たえて下さって、
もう、その時には目を開ける力も口をきく力も失っていましたね。

ただ、耳だけが聞こえてきて、
友柳さんが、誰か男の方を連れてらして、
その方が、「これはひどい出血だから、眠らせると死にますよ」って、
また足早に、他にも患者、患者というかそういう瀕死の人がいるので、そっちにいらして、
その声と足音だけが、ずっと、耳に残っていますけれど。

その一言がなかったら、その時点で私は死んでいたんですよ。
というのは、とってもね、深ーい、気持ちの良い眠りに、スーッっと吸い込まれるんです。
そうすると、友柳さんがその方の一言があったものだから、
眠らさないように、名前を呼び続けて下さった。

で、また、スーっと深いところに吸い込まれていくと、また呼び戻される。
でも、それ、気持ちがいい眠りなんですよ。
だから、「もう、戻さないで、呼ばないで」って、心の中で思いながらもね、
どれぐらいの時間呼んで下さったんでしょうね、

聞き手:
その友柳さんはまさに命の恩人でいらっしゃるんですが、
その友柳さん自身も、その…、早くお亡くなりになったそうですね。

橋爪:ええ、次の年に原爆症で亡くなったそうですね。

聞き手:
その友柳さんはね、はい。
そうしたやはり被ばくの悲惨な状況の中でも、そうして助けて下さる方もいらしたわけですね。

橋爪:ええ
で、どれぐらい経ったのか、敵機が再来したということで、みんな地下室に逃げたんですね。
その時、友柳さんが私を引きずるように、もう私が自分で立つ力がないので、
引きずるようにして階段を下りて下さったのを、あの、覚えていますね。

で、地下室に大勢避難していて、

友柳さんの同僚も二人いらしたので、
耳が聞こえますので、耳元で
「何があったんでしょうね、いったいどうしたんでしょう?」って、
そういう事ばかり呟いていましたけれど、

しばらく経ったら、私もなんか、体の中にね、すこーしだけ力が湧いてきたような感じがあって、
本当に小さい声ですけれど、「いったい何があったんでしょう」って、つぶやいてたんですね。
それを聞いた時に、友柳さんは、私が死ななかったっていう事でね、
嬉しくて声を立ててお泣きになりましたね。

で、私が一応死ななかったっていう事に少し安心なさったんでしょう。
「私はこれから家に帰って母の安否を調べに帰るから、必ずここに戻ってくるから、動かないでね」って、
何回も私に言って、
その友達に、「これ、学生、子どもだから頼みます」って言って帰っていきましたけれど、

さっき、「何が起こったんでしょう」って小さい声で言ったら、その力で、また、すーっと力が抜けて、
「ありがとう」も言えなかったですね。
だから、彼女がうれし泣きのようにお泣きになった声と、去って行く足音が、やっぱり耳に残っていますね。

で、友柳さんがおうちにお帰りになった後で、日赤病院に火が回ってきて、
きな臭いにおいがしてきたんですね。
で、みんな逃げて行ったようです、
そうすると私のそばにいた友柳さんの友達二人が、
「この娘はどうしましょう、私たちもこんなに怪我しててね、連れて逃げることができないけれど、
でもあんなに友柳さんさんに頼まれたの」と困っていらして、
で、私はまたすこーし、体の中に力が湧いてきたようなので、
「私は動けませんので、どうかおいて逃げて下さい」って言いました。
彼女たちは「私たちもこんなに怪我してて連れていけなくて、ごめんなさい、ごめんなさい」って言いながら、
逃げて行きました。

で、地下室に私一人になったって、もう周りの気配でね、
そしてじっと横たわっていたら、
うっすらと目を開けることは出来たんです。

向こうの左の奥のところからちょっと明かりがして煙が入ってくる。
「ああ、あそこが出口なんだな」と思って見てましたら、
最初はこう、うっすらと白い煙で、だんだん濃くなって、
最後に入道雲みたいに黒い煙の勢いの塊りがどっと入ってきたんですね。
「それが私のところに来たら死ぬんだなあ」って思って、
ま、自然に死がやってきて連れていくっていうふうに、傷も痛くないですし、死ぬことも怖くないし、
非常に静かな気持ちでした。


聞き手:はぁ…14歳の少女でいらしたんですけれど、そういうお気持ちでしたか、はい。

橋爪:
そしたらその煙が私のところに来ました。
するとその煙の中にね、黒い袖が走って、
「まだ誰かいるか、早く逃げろー!」ってものすごく大きな声で叫んだんですね。
その声の勢いに押されるようにフワッっと立ち上がる事が出来て、
そして出口の方へ向かって歩いたんですけど、
その時私ね、鏡があって自分の姿を見ちゃったんですよね。

聞き手:あ…鏡があったんですか

橋爪:
最初はその煙の中からね、私の方へ近づいてくる、
すごい形相をして真っ青な顔で、痩せて、長い髪の毛を垂らしてるんですけど、
顔にべっとりと血が付いていて、その上に髪の毛を垂らして、おびえた目をしてね、
蒼白な顔で私の方へ近づいてくるので、
私はもう襲われると思ってね、怖いから両手で顔を覆いました。
すると襲ってこないんですね。
それで指の間からそーっと相手を見たら、向こうも怖そうに指の間から私を見ている。
自分ですっと近づいて見たら壁があって鏡がありました。
だからその時の姿を偶然見ちゃったんですけれど、


聞き手:ご自身の姿におびえるぐらいに悲惨なお姿だったんですね。

橋爪:
そうです。
で、表に階段を這って出たような気もするんですけれども助け出されたのか…
這って出たような記憶の方がするんです。
で、出てビックリしましたね。
今朝まであった町がもうすっかり消えているんですよ。
それで、目をパチパチしてもやっぱり消えているので、
私「まだ夢を見ているな」と思いましたね。


聞き手:明るいですよね、外は。

橋爪:
でもね、なんか夕暮れみたいな、こう 薄ぼんやりした色で町が本当に姿を消しちゃっているので、
…唖然としましたね。
それからもう夕方、時間も分かりませんけれども、
広島市内、平らになった広島のあちこちから火が燃えてきて、日赤病院はもちろん裏から、
建物は鉄筋で燃えなかったんですけれど、
中と裏にあった看護婦さんの宿舎かなんかが燃えたんだと思いますよ。
窓という窓から炎を噴き出して、すごい炎で。
で、その時、日赤病院で大勢の人が避難していましたけれど、
歩ける人はみな歩いていきましたし、兵隊さんなんかは担架で運ばれましたね。
で、私は動けないし、逃げる気持ちもありませんでしたら、
その時に飯田義昭(よしあき)さんっていう16歳の少年なんですけれど、

聞き手:二つ年上の方ですね。

橋爪:
そうです。
彼が額と胸に、彼も重傷を負っていたんですよ。
だけど、足はどうにか歩く事ができたのに、私のために火の中に残ってくれました。

聞き手:それは見知らぬ方だったんですね?

橋爪:
そうです、そうです。
そして日赤病院のお庭の前に植え込があって、
低い木が、今はソテツが、前からソテツもありましたけど、
その横の方に松の、ちっちゃい松の木があったと思うんです。
その陰に連れて行ってくれました。
と言いますのはね、日赤病院から噴き出す炎からね、雨のように火の粉が降ってくるんです。
それを避けるために木の陰に連れて行ってくれました。
で、そこで一晩彼と過ごしたんですけれどね、火の中で。

聞き手:ああ・・・その少年も非常に、その16歳の飯田さんも、非常のその御親切な方ですね。

橋爪:
彼がその火・・で、彼もね、
ま、私は、あの、もう生きることも死ぬことも考えていませんでしたから、
もう広島中が燃えて私たちの頭の上はすごい黄金の炎がすごい音を立てているんですよ。
市内が燃えるのもすごいね、轟みたい、地の、地鳴りみたいな大きな音で、
で、天、頭の上を走るね、炎もね、怖いような大きな音を立てます。
だけど金色の世界ですよ。黄金の世界、炎の下ですから。
その中で生きることも死ぬことも考えなかったけれども、多分彼もそうでしょう。
だから静かな、いずれもう死ぬでしょう、火の粉に包まれてね、
で、その時に彼が話しかけてきて、その時に名前をね、名乗って、
私の名前を聞いたから名前を知っているんですけれど、
彼はその朝妹さんと二人で家にいて、潰れた家の下敷きになって、
彼はどうにか這い出したんだそうです。
ところが妹さんが、声は聞こえるけれども深い、その崩れた家屋の下にいて、
いくら一生懸命やってもどうしても自分の力でどうする事も出来ない。
で、そのうち火が回ってきて、妹さんが
「熱い熱い、お兄さんの水かけて」って言うので、
当時防火用の水槽がありましたから、そこにもバケツが置いてあったので
その防火用水の水をバケツでくんで声のする方へザバザバかけてて、
そうするともう、足もとまで火が迫ってきて、
妹さんが「お兄さんありがとう」って、「早く逃げてちょうだい」って言ったそうです。
で、もうそこを離れる以外になかったんですよ。
そしてお母さんが主婦動員で働いている宇品ていう南に軍事工場があったんですけれども、
そこに行こうと思って川を歩いて渡って、
広島は川が多いですから、そして日赤病院の前を通りかかった時に、
自分も重傷を負っていますので、入ってきて私と会ったという事です。
だから妹さんの変わりに私を助けてくれたんですよ。

「君いくつ?」って最初聞かれた時に、
「14歳」って言ったら、その途端に黙ってしまいましたから。
黙ってこう、まだその時燃えていなかったんですけど、広島市が平らになっていますね、
それの遠いところをこう眺めてね、
妹さんの事を思ったんでしょうね。

その後私は眠くなりますし、で、眠ったんですね。
そして今度寒くて目が開いたら、頭の上の炎無くなっていて、広島市の火もだいぶこう下火になっていて、
で、傍に飯田さんがいないのでね、始めて怖さを覚えましたね、恐怖感を。
底から、地の底からわき上がるようにね、うめき声、
苦しいんでしょうね、うめき声が非常に怖かったです。
で、飯田さんをとにかく探そうと思って、座って、
立ち上がる力が無くて座って探してから、
日赤病院の中で裏の方は、まだ赤かったです、燃えていました。
だけど影絵のように人影がいて、彼だったんですけど。
それでヤカンにお水を入れて死んでいく人達に一口ずつあげてはまた、しゃがんであげてはまた立ちあがって、
っていう…だから一晩中死んでいく人にお水をあげて歩いていましたね。
彼がその炎の火の下でね、私に「趣味は?」って本当に静かな、
あの中でね、「趣味は?」なんて聞いて、私が「読書」って言ったら、
「僕は読書と音楽です」って「音楽は神の言葉です」って言ったんですよ。
で、それを私は彼が一口ずつね、死んでいく人にお水をあげている姿を見てね、
「ああ、神様はそこにいる」と思いましたね。

聞き手:飯田さん自身が神様に見えましたか。

橋爪:ええ、地上にいると思いました。天じゃなくて。

聞き手:その飯田さんは、今はどうなさっているんでしょうか?

橋爪:飯田さんは10年後に交通事故で亡くなったんですよ。
     (注:20年後・37歳で亡くなられたと本に書かれている)
聞き手:あぁ・・・・じゃあ、その原爆症ではなかったんですね。

橋爪:
はい。
ただ…あの…30歳過ぎてから結婚なさった、男の子が、坊やが一人あるんですけれども、
その坊やが赤ちゃんの時に亡くなっていますから、
家族には、その後奥さんともお会いしたんですけれども、
原爆の事をお話しにならなかったそうです。


聞き手:
…飯田さんは…ああ…
そういうわけで一命をとりとめられて今ここにいらっしゃる橋爪さんですけれど、
そのあと、その橋爪さんのご家族、
おうちの方へ帰られるというか、ご家族に会われるのはその当日じゃなくてその後ですか


翌日 8月7日

橋爪:
その日、その夜は火の中で飯田さんと過ごしましたよね。
で、次の日は火がだいぶおさまっていました。で、寒かったです、とても。
夜明けとともに飯田さんがお母さんがいるところ
宇品(うじな)って、一番南のところは
「もしかしたら焼けていないかもしれない。だから傷の手当てをしよう」って言って、
そっちに向かって歩きました。

途中まで行ったところで、御幸橋って言って一番南の橋なんですけれども、
そこのところに何軒か壊れているけれども焼けていない家があって、
その中の一軒に私の母の叔母の家があったので、ちょっとそこに行ってみようと思って、
飯田さんに橋のたもとで待っていただいて行ったんですね。

そしたら叔母がもうびっくりしまして、30分ぐらい前に私の父が行って、
家族はみんな怪我をしているけど一カ所に集めたけど、
私は文子っていうんですけど、「文子だけがどうしてもわからない」
で、今日は諦めてね、貯金局に行ったら似島(にのしま)っていってね、
瀬戸内海に綺麗な富士山みたいな島があるんです。
そこに運んだって言ってたけど、船で行かなければなりませんね。
「だから今日は無理だからまた日を改めてきます」って言って帰ったばっかりだっていうので、

聞き手:お父様がね、

橋爪:
私の父が。
それで「ああ、みんな生きているんだ」って思って、
とにかく母に会いたかったですね。

聞き手:あぁ、お家族の無事を知らされて、ん…

橋爪:
で、飯田さんに「これから帰ります」って言ったら。
「到底その体では無理だから」
南から北、広島市を縦断することになりますから、
「とにかく宇品に行って、治療をして、少しでも君が元気になったら必ず僕が連れて行ってあげるから」ってね、
説得して下さったんですけど、
もう母に会いたくて会いたくてね、
それを振り切って歩き出しました、北に向かって。

こう、「イチ・ニ」って、
自分の中で声掛けないと、止まったらそこでバタバタッ!と倒れるような歩き方でしたね。


聞き手:
そうしますと、原爆での焼け跡、
全滅になった広島市を南から北へほぼ縦断されたんですか?

橋爪:縦断したんですね。

聞き手:5~6kmはあるでしょうね。

橋爪:
そうかもしれませんね。
いろんな不思議な事がその間にもありましたけれどね、
水槽、一滴もお水が無くなった水槽の中へ白骨がいっぱいありましたしね、
立ったままの白骨とか、ま、寄りかかっていますけれども、
「なんで白骨が崩れないで立ってられるんだろう?」とかね、
不思議な事がいっぱいありました。


聞き手:
そうした広島の、被爆直後の広島の街を縦断されて、
そしてお母様に無事お会いになった時のお気持ち、喜びというのは

橋爪:
そうですね、わたしが飯田さんと別れて歩き始めて、何時間経っているのかわかりませんけれども、
その間に本当に生きて動くものを全然見ないんですね。
で、草もなにもないですから、風にそよぐものもないから、
本当に「死の街」でしたね。

で、それをずっと歩いて、北の方に「逓信局」(ていしんきょく)って、
私が最後に、就職することになっていた、L字型のユニークな建物なんです。
それが残ってた、見えたんです。

「ああ、私は帰ってくる事が出来た」

そこから、でも私が見えたところからそこまでも15分ぐらい健康体でもあるんですよ。
でもとにかく「帰ってきた」と思ってそっちに行って、
そのL字に沿って曲がったら向こうから3人の人がね、
こう、肩を寄せ合うっていうか、肩を組み合うみたいにしてね、よろよろ歩いてくるんですよ。

私またね、自分が夢を見ていると思いました。
朝から生きて動くものを見てませんので、
しかもそれが、人間が3人もね、生きて歩いているっていう事は夢だと思いました。

それが、本当に幸せだったんですけれど、
母と叔母と姉で、

聞き手:ああ…それは本当に偶然ですね。

橋爪:偶然なんです。

聞き手:
じゃあ、傷つかれた身でお母様に会われた時には、
本当に…なんとも言えないお気持ちだったでしょうね。

橋爪:
いえ、でもね、
いまのこんな状態ですよね、その時に感じるような感動とか喜びとかそういうものはね、
もう感じる、人間の、なんていうのかしら、喜怒哀楽を通り越したところにみんな居たんだと思いますよ。
私も、もうふらふらですよね、当然。
で、母も。
みんなね全身にガラスの破片とか、家が倒れた木の破片だとか、
母は腕からいっぱい木くずが、その後ね、何年も経っても出たから、
いっぱい怪我してるんですけど、致命傷みたいな傷以外は怪我と思わなかったんですよ。

で、母は腕が、左かな?右かしら、ぶらさがってましたね、ガクンと。

聞き手:あぁ…

橋爪:
それから叔母はね、電車に乗っていたらしいんですけど、頭をやられてね、
だからもう、頭がフワッとなって、
姉はお台所にいて被爆したので、顔にお鍋かなんかが当たったんでしょうね、棚にあったものが、
分からないですけど、
顔がこう、目のまわりが特に、顔がはれ上がって目が見えなくて、

叔母は頭がふらふらしているから、目の見えるね、母にみんなが寄りかかって歩いてたんです。

聞き手:
あぁ…、じゃあ、喜びとか悲しみを本当にまさに超越して、
もうしていらっしゃる世界ですね。
衰弱の極みと言いますか、あぁ・・・、
そしてあの、弟さんはお亡くなりになった

橋爪:
弟はね、小学校1年生だったんですね。
ちょうど夏休み中の登校日で学校に行ってたんですね。
で、鉄棒で遊んでいて後ろから光線を受けて。
だから前は綺麗なんですよ。
でも後ろはね、もう血も出ていないんですね。
真皮からがめくれている。
するめを焼く時にくるくるっと巻きますね。
ああいうふうに前に向かって皮膚が全部めくれて血も出ていませんでしたね。
そういう状態で次の日に避難先の戸坂小学校の校庭で弟は亡くなりました。



聞き手:
今いろいろ、橋爪さんに原爆当日、被爆当日のお話を伺いましたけれども、
こうした事を海外でもいろいろお話になっているんですね。

橋爪:
そうですね、海外では通訳の方が助けて下さるので、
そんなに私が話す時間がゆっくりないのと、
聞いて下さっている人たちの質問をいただきたいと思うので、
その時間も取りますので十分には話せませんけど、
本当は私は、その原爆のその日のこともですけれど、
その後、被曝後で焼け跡で生きた、みんな傷ついて病気をしながら、
そして何の援助もなかったですから、食べるものもないし、
みんな重症を負っていましたけれど、全部自然治癒です。
お医者さんに行った事は、みんな一度もない。
そしてお水は雨水ですね。
で、草を、焼け跡に草が生えるとその草を食べましたけれど、
草が生えるまではね、「何食べてきたのかしら?」って。
生前の時の母だとか、今生き残っているのは私と叔母ですけど、
話すんですけど何を食べたか分からない。

聞き手:
そのぐらいやはりあの、大変だったんですね。
そうした、被爆当日、原爆当日も大変でしたけれども、その後のご生活がいかに大変だったか、
そういった事をお話になる時間が海外でも、そして国内でもない。ということのようですが、
じゃあ、こうしたことも含めてですね、明日一つこの続きをよろしくお願いいたします。

橋爪:はい

聞き手:どうもありがとうございました。


ーーー8月5日放送に続く

「原爆体験を世界に」NHKラジオ深夜便橋爪文(広島被爆者)2011年8月4日放送 より文字起こし


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03.27
Wed
やはり原点はここにあると思いました。
東日本大震災の年の放送で、途中まで文字起こしをしていましたが、
とても優しく温かい橋爪さんの話声であっても、
あまりにも過酷な内容で、苦しくて書き出せずにいました。

わたしは、最近とても恐ろしいのです。
NHKの掘潤アナウンサーが退職。
テレビをつければ国民がバカになるようなバラエティー番組しか放送していない。
ラジオもたね蒔きジャーナルからはじまって、まともな事を言う番組がどんどん終わっていく。
きちんとした意見を言うとどんどん表メディアから抹殺される。
こうして少しずつ、もっともっと真実が隠されていく方向に進んで行く気がして怖いのです。

戦争の恐ろしさと、原爆の恐ろしさを
きちんと正面から見つめ、ちゃんと知らなければいけないと思い、
途中で止まっていた文字起こしをやり遂げる事にしました。


「原爆体験を世界に」">「原爆体験を世界に」
橋爪 文(広島被爆者)2011年8月4日・5日放送 NHKラジオ深夜便

110804-05_hashizumebun.jpg

橋爪文さんは旧制女学校3年生(14歳)のとき、勤労動員先の広島貯金局で原爆に遭いました。
爆心地から1.5キロメートル地点でした。
目もくらむせん光のあと、真っ暗闇にうずくまりました。
そして、頭からひどい出血があり、意識を失いました。
気が付いたら近くの日赤病院へ運ばれていました。
そのあとも橋爪さんは、おう吐、貧血など、いわゆる原爆症に悩まされ続けました。

1991年、還暦を迎えた橋爪さんは、若いころ、何一つ勉強ができなかった自分を顧みて、
海外を知りたいと、3か月のスコットランド英語留学を果たしました。
その後もヨーロッパ各地やニュージーランドなどを訪ねました。
 
ニュージーランドでは、著名な作家のエルシー・ロックさんから、
「あなたがたは原爆について書き、話さなければならない。
でないと人類史上もっとも重大なことが歴史の暗部に埋もれてしまう」と言われました。
以後、橋爪さんは、それまで語ることのなかった原爆体験を世界中で語り、
「平和の仲間」を広げ続けています。

番組では、原爆体験と被爆の恐ろしさや、
海外の人たちがどのように原爆の話を受け止めたかなどを、お話しいただきます。



2011年8月4日放送



聞き手:橋爪さんは長くこの原爆体験についてはお話しなさらなかったそうですね

橋爪:
はい、出来なかったんです。
あまりにも悲惨でね、やっぱり思いだしたくない、早く忘れてしまいたいって、
もうそれが、自分の本能みたいにね、「忘れたい忘れたい、思いだしたくない」って、
で、いくら話しても、あの事実は被ばく者の方がみなおっしゃるんですけれども、
「どんな言葉を尽くしても話せない」って、そういう思いもありますよね。
被ばく者でなければ分からないみたいな、それぐらい、あの、表現する言葉がないんですね。
話しても多分、他人には分かってもらえないっていう事と、
皆さん思いだしたくないんでしょうね、あまりにもひどい状態だったから。


聞き手:
その橋爪さんがですね、
1995年に手記を「少女14歳の原爆体験記」という本にまとめてらっしゃいますけれども、
このご本にはですね、
「私が体験記を書いたのは1995年、被爆50周年の時でした」と、この本にありますけれども、
原爆から50年経って、やっと、その、体験記を書こうという気になられたんですね。

橋爪:
友達に薦められて、「あ、書かなきゃいけないんだ」って思ったんですけれど、
私の友達でフリ-ライターの方がいらっしゃるんですね。
卯月文(うづきあや)さんっていう方が。
その方に、「あなた書かなきゃダメよ」って言われて、
本当に書きたくなかったんですけれど、しょっちゅうお電話を頂いて、
お尻ひっぱたかれるようにして書き始めたんですけれど、

苦しかったですね…、とっても苦しくって

結局、ま、どうにか書いたんですけど、
この本が完成するのがね、書き終えるのが先か、私の命がなくなるのが先かと、
それぐらい辛かったです、これを書くのは。
で、最後は5分ぐらい歩いたところにお医者さんがあって、点滴をしながら書いたんですよね。
でも、その5分が歩けなくって、
とにかく本を書かないと死んじゃいけないのかなぁ、
でもこれは書く前に私の方が先に命がなくなるかなと思う位に、
本当に辛かったですね。

聞き手:
はぁ…今もお体の具合が時々お悪いようでけれども、
ちょうど原爆から50年経って、この本をお書きになっているころ、やはりご体調が悪かったんですか、

橋爪:
ずっと良くないんですよ。
広島で被爆後、もう、いろんな病気をしましたから、
もう、広島中のお医者さんに母が・・・
もう、内科は当然ですけれど、あといろんなお医者さん、ほんと、皮膚科から耳鼻科まで、
全部のお医者さんを探して連れて行ってくれたんですけど、
結局原因も分からない、治療法もないという事で、

それで、逓信局(ていしんきょく)、電電公社に勤めましたので、逓信病院があるんですね。
広島に逓信病院がありますから、
そこの先生が、学会で東京に行ったら、
私の事をご近所にお住まいだったので「ふみちゃん、ふみちゃん」って、呼んで下さって、
「ふみちゃんと同じような病気の人がいたから、もう、頼んできたから即入院したら」っていうことで、
東京に来て、その病気のために東京に越してきたんです。

聞き手:
ああ、そうですか。
その後体調が悪い、いわゆる原爆症という事がありますけれども、その原爆症の一種と言いますか、

橋爪:
私はそう思っているんですけれど、結局病名がつかなくて、ま、全身病なんですけれど、
その時に、今研究されているような病気が一応「それかな」ってつけて、

聞き手:
いわゆる原爆症と、通俗的に言われますけれども、
本当に一番、原子爆弾、放射能で怖いのは、それが本当に放射能のせいなのかどうなのかっていうのは、
否定する人もいれば「そうかもしれない」と言う人もいて、
それが最終的に実証できない、こういうところが辛いところですよね。

橋爪:
そうですね、でも私たち被爆者は、原爆っていう事も知りませんでしたし、
ですから、放射能の事も知らなくて、
ただ、もうみんな、常に何か病気をしていましたね。

ただ食べて、その日その日、救援が全く無かったですから、当分、何カ月間か、
そうするとお水は雨水ですね。
食べ物は草が生えてきたら草。
最初は芽がポチッっと出ると、
そんな草を食べたってお腹の足しにならないので、10センチぐらいまでのびるのを待って、
それから根っこごと抜いて食べたり、
そんな状態で、身体が悪いですから、みんな。
がれきの上から、焼け後から柱を4本拾ってきて、その上に焼けたトタンを乗っけて、
そんな生活から始まりましたから、

ま、ラジオも新聞もないですから、
自分たちが、どうしてこんなになったのか、・・
ま、アメリカの爆弾が落ちたぐらいはみんな分かっていますよ、戦争していましたからね。

聞き手:
そうすると、実際に広島の方は、原子爆弾という事もお分かりにならないし、
ただ、もう、町が丸焼けに全壊するという形、
そしてその後の生活も大変だったという事ですけれども、
その後ですね、橋爪さんは、今日の番組のタイトルは「原爆を世界に」ということですけれども、
原爆の後、半世紀ぐらい経ってから、積極的に手記も書かれたんですけれども、
一方、海外の方々に原爆の話をされるようになったんですね。

橋爪:はい、

聞き手:
お体はお疲れになるんですけれども、ご体調は必ずしも良くないんだけれども、
でも積極的に海外へいらして、原爆のお話しをなさっているようですけれども、
もうすでに何カ国ぐらいいらしたんですか?

橋爪:
毎年行ってね、ちょっと体調がいい時には1年に3回ぐらい日本を出るんですね。
そして一回に、たいてい3カ国ですね。
3回出ると、9カ国ですか、一回に。
だから、8カ国か9カ国を毎年歩いたという事になりますね。

聞き手:
それをもう、10数年以上続けていらっしゃいますね、
そういう橋爪さんでいらっしゃいますけれども、
そうした世界の人々に原爆を話されたご体験ものちほど伺いたいのですが、
まずは橋爪さんのですね、原爆。
8月6日。
昭和20年、1945年8月6日の朝の、橋爪さんのご体験をお話しいただけますでしょうか。


8月6日 朝

橋爪:
私は14歳で、本当は昔の旧制女学校の最後の年になるんですけれど、
本当は勉強しなければいけなかったんですけれど、
当時は若い男の方はもちろん、中年の人まで、軍隊に、兵隊にとられて、
私たち学生だとか、それから主婦たちが、学徒動員とか主婦動員で、社会に出て働いていたんですね。
で、私はね、本当に幸運だったんですけれど、
殆どの方々が、建物疎開と言って、大きな建物の周りの民家をわざと壊して空き地にしていたんです。
あの、病院とか大学とか、観光地を、類焼を防ぐために。
その後片づけに学生のほとんどが行っていたんですね。

だけど、私は運が良かったのか、貯金局に行く事になって、勤労動員に。
で、貯金局に行っていました。

聞き手:そうするとその建物を壊す作業ではなくて屋内の作業に、

橋爪:そうなんです

聞き手:事務的な仕事をなさっていたんですね。

橋爪:そうですね、お手伝いですね、普通の正社員の。

聞き手:
その貯金局でのお仕事をなさっている最中に、もう、朝の8時過ぎですけれど、原爆、
その時はもうご出勤になっていたのですか?

橋爪:
ええ、私の家は広島市の北の方、お城の北の方です。
貯金局は南の方で、今の日赤病院の傍ですから、
そこは毎日歩いて通っていましたから、片道1時間ぐらい、私は割と歩くのが早かったんですけれど、
1時間ぐらいかかったと思いますね。
ですから、8時半が勤務が始まる時間だったかもしれませんけれど、
8時には大抵の人が行っていましたので、
8時に間に合うように行くという事は7時か7時前に出る。
で、その日は出ようとしたら、ちょっと、空襲警報のサイレンが鳴ったので、
一度家に戻って、また、解除になったので出ましたから、
着いたのが、8時5分か10分ぐらいじゃなかったかなと思います。

聞き手:そして、事務の机かなんかに向かわれていたんですかね、

橋爪:
それでね、前の日に小さいんですけどおみかんの缶詰の配給があったんです。
当時はそういうものは非常に貴重品でしたから、
みんなに配る数がないので、学徒の学生だけがいただいたんですね。
で、それを持って帰って、私の家では弟と妹が学童疎開していましたから、
「その時のお土産に持っていく」って、母が大事にしまいこんじゃって食べなかったんですけど、
で、そのお金をね、係長さんのところにお払いしに行ったんですね。
そうして、お金を、こう、差し出した途端です。

係長さんは大きな窓を背にして坐っていらして、
ですから、私は窓の方、係長さんに向かってそのお金を差し出したとたんに、
その大きな窓がね、本当に鮮烈な光を発しました、
異様に鮮烈でした。

で、一瞬それを見たんですけれども、
光線、それこそ光線
光線がね、七色でしたよ。
赤とかオレンジとか黄色、青だとかね、
七色の光線が、こう、沢山集まって、それがもっと、100も1000も集まったようなね、
だから、一本づつに私には見えたんです、線が。

で、それを見て、その瞬間に、わたしは
「太陽が目の前に落ちた」と思いましたね。
と同時に記憶を失っていました。


聞き手:
じゃ、気を失われて、閃光があった後、いわゆるピカドンと言われますけれども、
ピカッっと光った途端に、もう、気を失われたんですか。


橋爪:はい
そして気が付いたら、あの、広い部屋なんですよね、その事務室が。
広い部屋の真ん中に、こう、何本か柱がありました。
その柱の根元にしゃがんでいましたから、窓からそこまで飛ばされたんでしょうね。
で、多分、柱にぶつかって、そこに落ちたんだと思います。

聞き手:それで身体に痛みとか?

橋爪:
いえ、全然何も感じないで、ただ、真っ暗でね、
異常な静けさ、”しじま”って言うんでしょうか、それがたちこめていて、真っ暗だったから、
まず、「目が見えなくなった」と瞬間に思いましたけれど、
ただ当時、空襲になった時の姿勢の訓練を何時もしていました、防空演習の時に。
それが、人差し指と中指で目を、目玉が飛び出さないように目を押さえて、
鼓膜が破れないように親指で耳を押さえて、
あとは、お腹が裂けて腸が飛びださないように平らな所に腹ばう姿勢だったんですね。
で、私は目と耳は出来ましたけれど、腹ばう余地がない狭いところにしゃがんでいました。

しばらくすると、その、目と耳を押さえている私の右手の腕を、肘をつたって、
生温かーい、ねっとりしたものが流れてくるのでね、
当時、大阪、東京、横浜みんな油脂焼夷弾(ゆししょういだん)というのが、空襲を受けていましたから、
私は4階建ての3階で勤務していました。
で、4階に焼夷弾が落ちて、その油が滴り落ちてくるんだなぁと思っていました。
  (※油脂焼夷弾  ゼリー状にしたガソリンを主成分とする焼夷弾)

しばらくしたら、流れてくるのがドッと量が増えたので、そっと手を目の前に広げました。
するとあたりがうすぼんやりと、薄墨を流した位に見えるようになっていて、
で、手にべっとりと血が付いていました。

聞き手:やっぱり、血だったんですね…

橋爪:
そうです。
これ、目と耳を押さえている右手ですから、頭を怪我していると思って、
それで、自分の机を探して、救急袋を持っていましたから、
その中に三角巾とか、ちょっとしたものが入っていましたから、
なにか、布を当てようと思って立ちあがってビックリしたんですけれど、

私の全身はガラスの破片が突き刺さっているし、
部屋中は机もイスもガタガタになって・・もう・・でも、やっと自分の机を探して、
で、布を出して、タオルだったか三角巾だったか、覚えていないんですけれども、
傷らしいところ、右の耳の上ですけれど、そこに当てた時に、
誰か男の方がかすれた声で、「にげろーー!!」って。
で、その声がしたら、暗闇の中から同僚たちが一人立ち、二人立ちして、出口の方に向かって歩きました。

みんな、もう、茫然としていますしね、
で、私は、その柱のところにいましたけれど、出口から一番遠いところだったんですね。

そこに向かって出る時に、3階の窓のところに高圧電線が走っていましたけれど、
その電線が吹きちぎれて、部屋の中にぐるぐる巻きになって、天井まであるんです、床から。
出口はその向こうにありますから、

だから、最初、右手は血が出ているらしいところを抑えて、
左手で、そーっと、こうね、電線に感電しないかな?と思って触ったら、
当然しないですよ、吹き千切られているんだから。
で、感電しないので、それから、その電線をかき分けてかき分けて出たんですけれどもね、
誰も言葉もないし、友達の逃げる姿も、記憶にないですね。

で、その途中で、まだ部屋の中ですけれど、
電線に絡まって、男の人があおむけに倒れて亡くなってたんですよ。
見たところ、どこにも怪我していないようなんですけれど、
もう明らかに亡くなっているという事は、蒼白な顔で、
その時は、私の全身をね、こう、なんか、怖い思いが走ったんですけど、
それが、その日初めて目にした遺体でした。

あの、私が3階の部屋を出て、4階から下りてくる、殆どが女性なんですけど、
髪をこう、振り乱して、
着ている物もすすけてボロの様になって、
本当に亡霊のような人たちが、黙って4階から降りてきました。
で、私もその流れに入って、降りて、
階段を3,4段、4,5段降りたところかしら、4,5歳の女の子、
お掃除のおばさんの子どもだったんですけれども、かわいい,お人形さんみたいな、
その子が裸でね、階段に倒れているんです。
多分着ている物は爆風で飛ばされたんでしょう、裸で。
で、その子のお腹が裂けて、中からピンク色の、
子どもですから、ピンク色の綺麗な腸が、モコモコ、モコモコ湧き出ていて、
彼女はまだ生きていて、苦しそうに身もだえする
私が、ほんの一瞬立ち止まった目の前でね、彼女のお腹の大きさ位の量位の腸が出ましたね。

聞き手:あ・・・しかし、どうしてもあげようがなかったんですよね、

橋爪:
ええ
で、私よりも後から逃げた人、多分4階に居た人でしょう、その後で、私より後に降りていったら、
おかあさんがね、お掃除のおばさんですね、
その子を抱いて、腸が垂れ下がった子どもを抱いて、階段のところで
「誰かこの子を、誰かこの子を」ってね、
あの・・・言ってらしたって、
そういうのが、あの日、いろんな処であったでしょうね。

ーーつづく













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