自主避難で東電に賠償命令 京都地裁、ADR提示上回る
2016年2月19日 中日新聞朝刊
東京電力福島第一原発事故の影響で、福島県から京都市内に自主避難した40代の夫婦と子どもが、仕事を失った上、精神疾患を発症したとして、東電に計約1億8千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、京都地裁は18日、夫婦への計約3千万円の支払いを命じた。
原告側の代理人によると、自主避難者に対する東電の賠償責任が認められた判決は初めてとみられる。
認容額は原子力損害賠償紛争解決センターの裁判外紛争解決手続き(ADR)で提示されていた約1100万円を上回った。原告側は「ADRでの提示額に納得いかなくとも諦める必要はないと判決が先鞭(せんべん)をつけた」と評価した。
判決によると、夫は会社を経営していたが、2011年3月の原発事故を機に自主避難を開始。避難後に不眠症やうつ病になり、同5月ごろ、就労不能状態になった。
三木昌之裁判長は判決理由で「夫が発症した不眠症とうつ病は、原発事故が主な原因の一つ」と認定。夫婦がそれぞれ求めていた就労不能による損害についても事故との因果関係を認めた。その上で、夫婦の休業に伴う損害計約2100万円や自主避難に伴う費用などを賠償すべきだとした。
転居や移動の費用、賃料なども一部を認容したが、避難前に住んでいた地域の放射線量などを基に、自主避難を続ける合理性があった時期は12年8月末までとし、以降の分は退けた。
慰謝料の額は「住み慣れた福島県から地縁のない土地への転居を余儀なくされ、安定した生活が失われた」として、夫は100万円、妻は70万円と判断。子どもは事故後、東電が既に支払った分以上の支払いを認めなかった。
判決後、原告は弁護士を通じて「当面の生活はできてほっとしたが、将来の生活の見通しは付かない」と心境を明らかにした。
福島県によると、昨年10月末時点で、避難区域外から県内外への自主避難者は推計で約7000世帯、約18000人。文部科学省によると、ADRは昨年末までに約18000件が申し立てられ、既に約13000件が和解した。
◆判決精査し対応
<東京電力の話> 今後は判決内容を精査し引き続き真摯(しんし)に対応していく。
◆指針超えに意義
<立命館大法科大学院の吉村良一教授(環境法)の話> 原発事故の避難者に対し、東京電力はこれまで原子力損害賠償紛争審査会の中間指針で定められた金額しか賠償をしない姿勢を取ってきており、今回の判決が指針の範囲を超えて賠償を認めたことは大きな意義がある。
交流ですとか、子供達の遊びとかが中心で、そういうようなことをやっております。
登壇されている皆さんとも、先ほど発言した皆さんとも4年半以上のお付き合いになっていまして、隣の部屋で今子供たちが遊んでいるんですけれども、前はまだ赤ちゃんで避難所のホテルで、ベットの上で、まだ乳児で転がっていたような子供たちが、幼稚園、小学校というふうに成長してきています。
そういう姿を見ていると、本当に避難生活というものの厳しさですとか、それから子供たちが今度抱えています将来へのいろいろな様々な課題。
健康問題ですとか、現在の避難生活がどういうふうに続いていくのかというのが、そのようなことを今回のディスカッションの中でもお話ししていけたらなと思いますのでよろしくお願いいたします。
それでは最初に、先ほどの避難者の皆様の発言をお聞きしまして、現在避難者の方々が置かれている状況についてざっともう一度概要をお話ししていただければと思います。
現在避難者がおかれている状況
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=1m49s
私は福島県のいわき市から避難してきております。
区域外避難ということになります。
先ほどまで多くの方々のお話を伺いました。
それぞれ皆さん、かなり様々な苦労をされていまして、やはり共通しているところもありますね。
私なんかですと車の事故がありました。
最初の1年半は母子避難だったものですから、その間避難先と働いていたいわき市とで往復を週末にして、仕事で戻るということをやっていたんですけど、その中で人生初の事故を。
それ以降もうないので、本当にその時だけなんです。
本当に危険な状況になって、家を追い出されて、
追い出されてということですと、家を汚されてということですね。
住める状況じゃなくなったので、泣く泣く出るしかなく、
そんなプレッシャーの中で先が見えない避難生活を続けていて、
お金も余計にかかっている状態なのに、仕事は続けるしかないような状況で往復しているので、非常に神経をすり減らしまして、そんな状態の中で私も事故を起こしたと思っているんですけれども、
別に車の事故だけじゃなく、やはり非常にこの不安定な状況の中でなんとか避難生活を続けるしかないという、そういうプレッシャーに常に避難者は晒されています。
そしてこのような、特に避難の指示が出なかったところの避難の問題というのは、
あまりというかほとんど、マスコミで正しくそのままの声としてなかなかでないものですから、
なかなか知ってもらえる機会がありませんで、
こんな所に来ていただいて直接お話を聞いてもらえるというのは、本当に私たちとしてはありがたいです。
是非、ここで話を聞いたことを広く伝えていただきたいというふうに考えています。
この避難住宅、私たちはそろそろ5年ということになりますけれども、
生半可な気持ちで避難しているわけではないんですね。
戻った方も、お話がありましたが、安心だと思って帰った方なんてまずいないんですよね。
私の周りには全然いないです。
いろいろな事情があって、親の調子が悪くなって戻らざるを得ないとか、泣く泣く戻っている方が多いわけです。
やはりそのような状況の中で打ち切りということは、私たちも長いこと政府に対して要求とかやってきましたけれども、打ち切っていいような話は一切していないのにこのようなことになってしまって、非常に困惑しております。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=5m30s
ありがとうございました。
様々な場所の避難者の方たちの相談活動をされていらっしゃいますが、
現在、実感としてどういう相談が多いんでしょうか?
やっぱり住宅についての不安というのがすごく多いですね。
ですからそういうものは、基本的には運動でなんとか伝えていけるような形で、それでこういう集会に結び付けたりとか、そういうふうな形でできるということで運動。
あと、現実的には来年(2016年)の2月に、例えば宮城の方が出なければいけないという話がありましたが、
そういうような話を含めて、その辺も含めてサポートしていくというような所を、交渉したりですね。
個別の交渉も進めていくことも必要だなというふうには思っています。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=6m34s
ありがとうございます。
それでは山形県に避難されている方にお聞きしたいと思います。
先ほどのご発言の中でいろいろ山形県に避難の状況のことがありましたが、
また東京都状況がいろいろと違うと思うんですけれども、
ちょっとその辺をご説明頂けますでしょうか?
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=6m59s
山形はまず、福島の横ですぐ近かったんですけど、「こんなに雪が降るのか」とびっくりするほど知らなかった。
スキー場ぐらいかなと思っていたんですね。
スキー場に行っていたのもあるんですけど、まさか街にこんなに雪が降るとは思いませんでした。
ダンプカーで除雪をして、排雪作業までします。
民家の方たちは一家に一台除雪機を持っています。
それがないと家が潰れます。
一生懸命雪をかいて、両脇が人間よりも高くなります。
車一台見えません。
車がひょこっと出てきても、本当にわからないぐらいの、だからこんなに道路が広いんだなというのをその時にわかったんです。
冬がこんなに厳しい、マイナス10度になるんですけど、
マイナス10度を経験したことがないので、ここは北海道じゃないかなって。
そんな対応を避難してすぐ5月6月7月、夏の時に考えるわけがないんですね。
「なんとかしてくれるかな」という、ちょっとした甘えもあったんですけど、
雪の対策というものをその時せまられました。
長靴を買わなくてはいけない。
雪がぐちゃぐちゃになるので、普通の靴では歩けません。
長靴を履かないと滑ってしまってハネが上がったり、下は凍るんですけど上には雪が毎日のように20cmぐらい積もります。
その上をツルッ!
私は何回も最初尻餅をつきました。
子供をおんぶして駐車場まで行くんですけれども、本当にこれは「危ない」と思いました。
雪に慣れていない人は米沢の生活は本当に危険です。
障害者になった方も、実は他県からいらっしゃった方で聞いたことがあります。
滑って足を骨折したまま障害者になったという、避難者じゃないんですけど、それほど雪国というところはちょっと心得なきゃいけない。
窓も凍って開きません。
お風呂なんかも通常の倍ぐらい焚かないと、うちの方は住宅雇用促進で古いところなんですけど、カンカンカンカンって、回さないといけません。
40分間でようやく。
シャワーは付いていないところです。
1箇所だけシャワーの付いている設備も雇用促進にはあるんですけど、入居後住み替えが認められないので、妊娠中私は5階にいたんですね。
3人目を産んだんですけど、その時に5階から、毎日のように子供を保育園に送って買い物をして往復毎日していたら出血しました。
出血したのでこれはどうしようと相談しました。
そしたら「診断書がないと住み替えはできない」と言われました。
山川弁護士にお願いをして県の方に抗議をしていただきまして、すぐに「下の階に」というふうにおっしゃっていただけて、本当にあの時は助かったんですけど、お腹の子も助かったということで本当に、あの時は本当に助けていただきました。
住み替えの方も柔軟にしていただけなかったので、いまだに5階に住んでいる方は5階です。
出て行っている方は、2階3階、後から避難してきた方は2階3階と下の方の階で、最初に避難を決めた方は5階から埋めていったので、5階から下の階に下ろしてもらえないんですけど、それはできません。
1階は除雪機が入るので、毎日のように。
重機が入ります。
そうすると雪を押し付けていくので1階はすごく湿ってカビが生えます。
押入れが落ちているところもあります。
1階は危ないです。
2階に住みたいんですけど、2階は今度は寒さで、下からの冷気で寝られませんので3階にしました。
3階でなんとなく、引越しを終えた途端に今度早産になってしまって、入院を迫られました。
入院をしてようやく、1ヶ月ぐらいで、3.11に生まれてしまいました。
3番目は3月11日に生まれて、来年(2016年)の3月で2歳になります。
今日は子供3人なので、ちょっと主人は仕事で都合がつかなかったので、私一人だったものですから、
子供達は保育園と学童と、後上は部活ということでみんな出ていますので、今日は時間どうりに戻らせていただくというのがありまして3時には帰らないといけないんですけど。
とにかく山形の冬というのはもう比較にならないぐらい、北海道と思っていただいていいぐらいかもしれません。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=11m23s
ありがとうございます。
山形県に避難している人たちと交流させていただいている私たちの方にも、
「何を支援して欲しいですか?」と言ったら、
家族全員分の長靴の費用、長靴そのもの現物とか、1シーズンに何回か買いかえないと、毎日長靴で学校に行ったりするので、そういう費用もかさんだり。
それからさっきおっしゃっていた除雪の費用ですとか、そういった福島では必要のなかった費用が非常にかかっている。
また岩手県の方は、山形もとても自然豊かなところなんですが、雇用促進住宅が建っているところが、駅が、駅というか市内でもかなりあちこちに分散していますよね。
しかも駅から遠くて、本当にバスもないような、1時間に1本ぐらいしかないようなところにも建っているので、
最初の頃は本当に皆さん、生活するのだけでも大変だったというような状況があると思います。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=12m35s
では、先ほどのお話の続きといいますか、
何か言い足りなかったこととか。
じゃあ、無償の住宅についてなぜ必要かということを先ほどもちょっと話してくださっていましたけれども、
東京都内の避難者たちの声というか、皆さんでよくお話されていると思いますが、
やっぱり住宅問題は避難者の中で切実な問題として普段語っていらっしゃいますか?
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=13m9s
はい、そうですね。
住宅って、生活、生きていく上で、ってすごく大げさっぽいかもしれないんですけど、生活していく上で家がどこに住むかとか、いつまで住めるかとか、あんまり多分、普段は考えないことが多いと思うんです。
ここの家に住もうと、例えば実家があったら実家に住んでいるとか、ここに住もうと思って、そこに住んだらずっとそこに住み続けるとかというのがあると思うんですけど、一応、応急仮設扱い状態みたいな形になるんですが、都営住宅とか雇用促進住宅とか、あと国家公務員宿舎と、都内だとあと一般の賃貸物件。
金額がいくらまでと決まっている、7万でしたっけ。
決まっていると思うんですけれども、一般の賃貸物件と種類はあるんですけれども、そこに期限が毎年区切られるような形で、延長というふうになっていて、毎年更新で、来年住めるのかどうかわからないという状況が、この4年ないし5年続いているというのが今の現状になっています。
で、そこに住み続けられるかどうかがわかるのが、だいたい今ぐらいの時期ですね。
「来年度4月以降も大丈夫ですよ」っていう連絡がくるのは年が押し迫った11月とか12月とか1月ぐらいに「来年度も延長されます」という発表があるので、「来年どこに住んでいるんだろう?」っていう不安は、ずーっとここの、震災以降こちらの方に避難してきてからはある状況なので、そういうのは話すことは多いです。
特に年月が経ってきて、子供が大きくなって、うちの子はまだ5歳なので保育園に通っているんですけれども、中には小学校に入学されたりとか、もっと大きいお子さんだと中学生になってしまったお子さんなんかもいらっしゃるので、学校に入ってくると状況が変わってきていて。
幼稚園とか保育園って、休ませることも簡単、簡単っていうか、親の都合で休ませることとか、転園するとかいうのも、ま、多少小さいので柔軟に行けるかなと思うんですけれども、小学校というふうになってくると、子供たちのコミニュティもすごく強くなってくるので、そこを離れたくないっていうふうに望む、親よりも子供が多いというのが現状です。
やっぱりそこに住めるのか住めないのか。
居られるのか居られないのかというのは、子供にとってもすごく気持ち的な不安というのか、負担で、
「僕たちはいつまでここに居れるんだろう」
「どっか行かなくちゃいけないの?」というのを子供に言われるという母親の気持ち。
でも、なんて答えていいのかわからない。
というか、答えられない。
というお母さんもいて、そういうのはよく話し合ったりしています。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=16m27s
さんも上のお子さんがちょっと大きいと思うんですけれど、その辺の入学とか進学とかにあわせて、子供たちの避難生活、住宅問題をどのように感じますか?
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=16m44s
子供の進学の時の住宅が不安定だという問題は非常に大きいです。
やはり進学するにあたり受験するという場合ですと、どこの学校に行くのかということと、どこに住むのかというのは直結していますから、そうするとこの家に来年居られないかもしれないという状況で学校を、正直選べないに近いですが、それでも選ぶしかないので、その受験の状況にもよりますけど、例えば地元枠があるような公立学校なんかですと、それが使えるか使えないかというのはその時になって問い合わせないとわからないという。
去年実際にそういう学校に確認をしたところ、「あなたのところがその地元枠にあたるのかどうかはその時になってみないとわからない」というふうに言われまして、例えば地元枠を使うんだとしたら、出ちゃったら退学になるような学校もありますし、本当に子供たちが勉強するモチベーションという上で、単純に頑張れば入れるだけじゃな区て、でも家はどうなるの?というところを子供の方が気にしなければならないというのは、非常に子供にとってハンデになります。
その問題は非常に大きいです。
長期で家が確保されていればこんなことは起きないです。
今回は打ち切られてしまっているのでもっと深刻な状況です。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=18m26s
ありがとうございます、
その辺りのことも含めてお話しいただきます。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=18m30s
今、長期というような話があったんですが、長期無償の住宅が必要だと。
特に原発事故の特性というかそういうふうな事例だとですね。
で、広域に避難していると。
もともと避難住宅の仕組みも1年ごとに更新させられて、居られるのか居られないのか不安だというお話しもあったようにですね、もともと建設型の仮設住宅をベースにして運用をしているといのがやっぱり最大の問題だと思っています。
皆さんのお手元に去年の調査結果報告書といって去年の2014とまとめた資料の中に13ページを見ていただきますと、一番上のところに住宅の種類ごとに延長を希望するのかしないのかというのがあります。
これを見ていると、建設型仮設住宅の方は50%ぐらい希望しないというふうになっていて、他の住宅みなしのほうはですね、住宅の設備が雇用促進住宅のように問題がある住宅もあるんですが、一応形上ちゃんと基礎があったりとか壁があったり、それなりに壁があったりということがあって、延長を希望する人が多いわけですね。
ですから、建設型仮設というのはだいたい2年ぐらいで壊すことを予定してつくられていますので、それを1年ごとに延長していくという仕組みになっていて、それで仮設住宅が運営されていて、それがみなし仮設に適用すると、運用するという形で今になっているんです。
逆に言うとみなし仮設独自の運用基準ですね、行政の方の判断で長期にするということも実はできるんです。
だからそれをやっていないというのが今の現状で、そういう点が問題だというふうに言えると思います。
ですからみなし仮設の方が、今広域で避難している人はほとんどそういう状態ですから、それにあった形の運用基準を作って、そして今言ったようなニーズの合う中で打ち切りというのは撤回されていくべきだろうというふうに思っているわけです。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=20m35s
では、3人の避難者の皆さんに、ちょっとざっくりとしたご質問なんですが、
例えば、福島の支援策はなぜダメなのか?というようなところですとか、
あと皆さんが考えていらっしゃるこの国の責任。
原発事故を含めて、避難者の方に対しての国の責任ということで強く感じることがありましたら、ご発言いただけたらなと思うんですが。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=21m14s
かなり色々あると思うんですが、やはりまず最初の出発点として、私たちはもともと自立した生活をしていまして、それができなくなってしまったのは、原発事故で家を含め家の中も、先ほど家そのものが汚染されて外も中もないというお話しがありましたけど、私の家も今に至ってはあんまり違いはないですね。
木造でそんなに古い家ではないんですけれども、事故当初は多少違いがあったけれども今は(外と中の差は)ほとんどない。
で、そういうふうに中も外もないという状況で、止むに止まれず避難の選択をしたわけです。
事故がなければ避難なんてする必要はなかったので、やはりそれに伴って家を自力で確保してくださいというのは、非常にひどいやり方だというふうに思います。
国策で運営されて進められてきた原子力ですから、そこは国にもしっかりと対応していただきたい。
もちろんこれは東電が対応してももちろんいい訳ですけれど、国にはしっかりと対応していただきたいと思っています。
それは無償の住宅を提供し続けるということですね。
この避難できるかできないかが、経済力がある人は避難がなんとか可能で、経済力がない人は帰ってくるなんていう、そういう不平等なことは絶対にやってはいけないと思っています。
それから避難者はほとんどが避難を続けたいと思っていますので、それの意に反して打ち切って帰すというのは本当にひどい話だというふうに思います。
ーー:福島からの支援って何かされているんですか?
福島県が入っている新たな支援策というのは、避難先での公営住宅に入りやすくする。
公営住宅って大抵の場合倍率が高いので、その倍率を下げるということとか、
それから所得次第では家賃の一部補助。
それも2年限定という形だそうですが、それも予定ということで、
ただ福島県の話を直接聞きますと、もうなんか「災害基本法では現行の避難住宅はもう限界だから新しい支援策を用意しました」みたいなことの言われ方をされるんですけれども、限界な訳ではないのでそのままやればいいことなんですが、そうしてその新しい支援策というのは、なんか「先のことを頑張って公表しているんです」って言うんです。
「1年半後の先の話をわざわざ頑張って用意してるんです」と言われるんですけれども、本当にこれでは漏れるところも非常に多い上にやはり不安定であることには違いないし、あと、結局出なきゃならないんです。
「新たに公営住宅に入れ」ということなので、居続ける訳じゃなくて、「今のところは出てどこか公営住宅に入れ」という話なので、そこを支援しましょうという話なので、これは全然。
結局子供は天候を伴いますし、そもそも入れるかどうかもわからないという状況で。
全く不安定なところに更に負担が上乗せされるだけ、こういう状況です。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=25m7s
知りませんでした。
今山形の米沢市ではお隣福島との友好関係があるために誘致というか戻ってきてくださいということを全面的に打ち出してこなかったんですけど、今は「戻りたい方は是非戻ってください」という方に、山形県ではそのようになってきています、そういえば。
そういう記事が出ていました、この前。
それは避難先の方達のご厚意ではあるんでしょうけれども、それは地元に溶け込んでいきたい方にはそれでいいかもしれないんですけど、避難というのを続けていくにあたり、やっぱり住宅問題。
住宅がなくなってしまうことの不安というのは、子供がいる家庭では一番だと思うんですね。
学校の進路もありますし、子供を抱えて母子でなおかつ家賃まで発生して。
今まで実家に入ればお金がかかることはなかったであろういろんなお金を払いながら、避難生活をしてきている上に、勝手に向こうで「避難していいよ」というokを出してきたくせに、今度は「帰りなさい」と勝手にまた期限を区切ってくるというのは、いったい何を考えているのか?という。
何を証拠に「戻っていいよ」という、全然出てない、100人も甲状腺癌の子が出ているという話もあるのに、安心して帰れるわけがなくて。
アドバイザーだって市によっていろんな変な人がいましたけれども、暗示をかけるような、催眠をかけるような、「大丈夫だよ」って。
そこに安心して暮らしている農家の方達とか、販売をしていた方たちは、「大丈夫だ」というふうなことで売ってしまうという状況にしている、それを食べれてしまうという状況にしているというところに、戻らざるを得ない人もいます。
住まざるを得ないと言いますけれども、そういうので喧嘩をするわけではないんですけど、別に福島に住んでいる方との仲たがいとかそういうのは全然話がすり替えになってしまうんですけれども、現実問題、もう福島の中で仲たがいというのはあるわけですよね、避難者と地元の方との。
そういうのもありますし、理解をお互いに、逃げている人っていうのはどうして逃げているのか?というのを地元に残っている方にも理解していただければ。
「もう逃げてる必要はないべ」などというそういうのではなくて、理由があって逃げているんだから、その支援の継続というのも必要だというのが、みなさんの気持ちの理解で持っていただきたいと思いますけど。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=28m2s
ほぼお二人が政策等をお話しされているので、個人的な私の意見で述べさせていただきたいんですけれども、とっても個人的なのでokなのかどうかわからない話なのですが。
あのー、多分、東京オリンピックもあるし、海外に向けてもあるし、「もう日本は大丈夫なんだよ、福島は大丈夫なんだよ」っていうのをアピールしたいんだろうなっていうのが、私の個人的な意見です。
「もう大丈夫だよ」って言って、今回の住宅提供の打ち切りなんかも、避難区域外の人たちに対しての打ち切りですよね。
打ち切りが29年の3月っていうことなので、今避難区域とされているところの人たちはまた別途という話になっているんですね。
で、区域外の人と言いますけど、大体がほとんどもう区域を外されているので、大体が区域外になっています。
で、区域外の人に対しては「もう、自分が好きで逃げているだけでしょ、だからあとは勝手にやってね」っていうようなことを言いたいんだろうな、と。
これも個人的な意見です。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=29m19s
避難区域がどんどんまた解除されてきて、今まで区域だったと指定されていたところも新たに「帰っていいよ」ということになっていっていますので、その方たちも避難先に残りたかったら残っていいけど、いわゆる自主避難というか、区域外になっていくわけですよね。
それがどんどんと今進められていると思います。
区域外の方達の住宅については今追い出しに向けた動きだとか、そういうことを聞くこともあるんですけれども、
その辺のところいかがでしょうか?
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=30m1s
まず、「災害救助法だと限界です」といって福島の方が今打ち切ろうとしているんですけど、でもさっき言ったように区域内の人についてはまだ順次ということで全然打ち切りという話にはなっていないのですから、だから災害救助法に限界があるわけではない。
現実に岩手の方では災害公営住宅の建設が進んでいなくて仮設にいなければいけない。
むしろいなければいけない人というのが多数いるというような状況ですから、建設関係ですね。
ですからそういう意味では災害救助法に限界があるんではなく、やっぱりなんらかの政策的な意図があって今打ち切ろうとしていると。
で、今個人的見解というふうに言ってらしたけど、そういうふうな意図を含めていろんなことがあるのかなというふうに思うんですが。
「追い出しへの準備」というふうな言葉もありますが、現実問題追い出すというふうなことになっていった場合どうなるのかというと、まず、今のみなし仮設住宅の使用許可という形で許可を得て、そこで仮設住宅ということで無償の提供を受けているわけですね。
で、許可の期限がいつということになっていて、その期限が切れるとその許可がなくなるというような状態になります。
その許可がなくなるということはそこに住む根拠がなくなるという扱いになるわけですね、法律上の。
だからそれで「出て行きなさい」というふうになるわけです。
で、根拠がないという状況の中で出ていかなければどうなるのか?というと、
一つには裁判を起こされる可能性があるというところになってきます。
そういうリスクを抱えてくるというふうになります。
あとは裁判を起こされる過程の中で、家賃相当額を払えというふうな部分というものも民事訴訟という形で出てくるのかなというふうに思います。
こっちから最初に、あれですね、打ち切りが断行されてしまったと。
撤回できれば一番いいわけですが、撤回が間に合わなくてですね、打ち切りだと。
一つはそこで裁判を起こすかどうかという、無理やり追い出すことをやるかどうかというのが、政府やこの場合東京だと東京都、山形だと山形県。
そういうところがそういう形をやるのかどうかということが一つ大きな問題としてあるわけですね。
ですけれど、それなりにみんな事情を抱えている中でですね、それなりにニーズがあって、それをどこまでやるのかというところ。
それはむしろ政治的な問題というふうになってくるのかなというふうに思います。
当然それであと、家賃が発生するというような、家賃相当額を払えという話も当然どこかで出てくる可能性はあるわけです。
ですからそういう部分で今後、打ち切りを撤回させるということとともに、打ち切りの撤回が間に合わなかった場合に無償の住宅を維持してもらうというところも含めて「無理やり追い出すようなことはしない」ということをやっぱり求めていく必要があるのかなというふうに思います。
ですからそういうところが結構ですね、この問題、運動をどういうふうに展開していくのかというところがあるわけですが、そういうところを考えてやっていかなければいけない。
ですからやっぱりリスクは当然ある。
その中でですけど、やっぱりでも、そこまでやるか?と。
避難所の時は無理やり追い出すような形で避難所を閉鎖するというところでですね、東京災害ネットで交渉した時にですね、やはりいわき市の避難所をいわき市の方でその避難所を維持すると。
皆さんがきちっと出て行けるまで維持するというようなことはありました。
あと東京でも避難所で次に行くところが決まっていないという状況でいろいろトラブルが発生して、東京都もある程度反省して対応をしたという経緯があります。
ですからそういう部分を含めて、東京都や山形県と交渉していくということも大事なのかなというふうに思います。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=34m18s
では最後のご質問。
皆さんからのご意見をいただきたいんですが、今日このような集会で、住宅問題が中心でしたけれども、様々な避難者の方が抱えていらっしゃる問題について皆さんからの発言もありましたけれども、ここの会場にいらっしゃっている市民の皆さんも含めて、社会に対して具体的にどういうことをこれから支援していったらいいんだろう、って思っていらっしゃる方もいると思いますので、皆さんがこれから、自分たちをどういうふうに支援して欲しいというふうに思っているかというところ。
別に署名してください、協力してくださいと、そういうことだけでなくていいと思うんですけれども、それぞれご発言いただけたらと思います。
どんなことでも結構ですので。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=35m16s
その前に一点、追い出しに向けての動きみたいなことがあります。
都営住宅の中なんかですと、申し込みの書類がきて、そして「これに申し込みなさい」とは書いてないんですけれども、いかにもなんか申し込まなきゃいけないのかなふうの感じで掲示がなされていて、あとそれから、私が今入っているところは区域外ばかりで、皆さん危機感が強い場所にいるんですけれども、むしろ区域内の方が多くて、そのままとりあえず今は関係なくても打ち切りになってもすでに出た賠償金でなんとか動ける区域内の方が多いところなんかで意図的にこういう説明会なんかを開いていてという、そういう問題もあります。
そういうふうな形でプレッシャーを感じます、住んでいる上でですね。
それで支援、
私としてはですね、とにかく、避難を続けたい避難者が追い出されてしまうかもしれないということをなんとか広めていただきたいというのがあります。
そして、皆さんが何か集まりをやるような時に読んでいただければ「このような状況になっています」というようなことを私は出て行って話すのはこの会の代表の役目として当たり前だと思っておりますので、是非そういう機会がありましたら、ご紹介いただきたいと思っています。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=37m17s
今ちょっと思っているのは、うちに3人子供がいる中で1番目なんですけど福島市の籍のままなんです。下の二人は米沢市に保育所の関係とか出産の関係で移してありますけど、上の子だけ支援策で1万円、住んでいなくても市民であれば1万円くれるというのがきました。
主人が「あとの二人はどうなるんだ?」と問い合わせたら、住民票登録なんだよね、って。
ええーって。
そんなことしてちょと、戻って来いっていうことだよね、って。
なにやってるの?避難している子供にくれないで、なんだそりゃ。
じゃ、全員住民票を移している人に通知こないじゃないね、っていう話をしながら、
こんなことしやがってというのが最近思ったことです。
支援して欲しいことは、
現状、こうやって避難生活を自力でしている人たちが、まだまだたくさんいて、しかも大多数が子供がいて、子供のことを思って逃げています。
帰った時の今後の子供の生活はどうなるのか?
給食だって地元のものを使ってますし、牛乳だって飲まないといけなくなります。
うちの子は牛乳は飲ませていないんですけど、
なんかもう本当に子供のためじゃなくて、地域のための運営をしているようなところがあって、本当に戻りたくないんです。
戻らざるを得ないという方もいますけど、そういう方がいろいろいて、福島が二分割されてしまっているという状況があって、それを誰がしたのかということですね。
東電がしたことを国がちゃんと責任を問わなくて、私達みたいなどっちつかずの人たちがまだまだ大勢いて、そういう人たちを、まだまだ支援が必要だということを皆さんでもっと周りの方に伝えていただきたいです。
もう本当に困っている人がたくさんいるっていうことが。
普通に生活をしてますけど、やってられないんですもの、生活を普通にしていないと。
生活はいっぱいいっぱいなんですけど、「避難者です」なんてもう言えないので、そういう人たちは普通の生活をして、黙っているということを皆さんももっと周りの方に言っていただいて応援していただければと思います。
お願いします。
ーー:ありがとうございます。
福島県から避難している方、あるいは福島県から福島県外に避難している方は、まだそれぞれ4万人以上なので10万人近くいらっしゃるんですね。
そういう状況を皆さんもご理解いただければと思います。
https://youtu.be/3bO90q2G5VE?t=40m15s
支援していただきたいことというのは、今来ていただいている皆様にもそうですし、一番は国とか福島県に対して、”避難する権利”をきちんと与えて欲しい、私達に。
線量とか、何キロとかそういうのではなくて、福島県民、もしかしたら隣の茨城だったり宮城だったり近隣の県の方もそうかもしれませんけれども、都内の方も避難している人はいるという話は聞くので、「あぶない」と思って「避難したい」と思った人には、”避難する権利”というものをきちんと与えて欲しい。
何をするしないとかお金が欲しいとかではなくて、避難していると「避難者」っていつまでも言われるんですよ。
なんかすごく後ろめたいというか、なんていうんでしょう、はい。
なので、避難を安心して、なんの後ろめたい気持ちも持たずにできる、”避難する権利”というものを、福島県に今残っている人にも、もしかしたら「避難してもいいんだよ」と言ってくれたら避難したい人もたくさんいるかもしれません。
「今はもう避難することはないからね」って言われているのが県内の人にはほとんどなので、そういうことが言えないから、言い出せないから、できないから、いろんな理由があって避難できない人ももちろんいます。
避難している人は避難しているということを隠さないといけない生活をしている人もたくさんいます。
なので、きちんと避難したいと思う人がいるのであれば”避難する権利”というものを与えてほしい。
そしてこうやって、ここにお集まりいただいている方々で、都内の方でも関心を持ってきていただいている方がほとんどだと思うんですけれども、今私が住んでいる都営住宅では、ご一緒の方もいらっしゃるのでよくご存知の方もいらっしゃると思うんですが、「避難者の自転車置き場」って書いてあります。
よく話すとびっくりされます。
「避難者の自転車置き場」
あと、集会とかいろんなものに出ても「避難者はこうだから」「避難者はああだから」
私は去年も今年も中の、自治会の中の方達に「避難者だろうが永住者だろうが関係ないから、避難者でもやらなきゃいけないのよ」と言われることがすごく多いので、役員をやっています。
子供と二人で生活をしていて子供を連れて行かなければいけない集会なんかに対しても「子供なんか連れてきて」と言われたりもします。
そういう…ご理解いただけない方ももちろんいるのもわかっているんですけれども、
少しでもこうやって関心を持っていただける、今日来ていただけている方々には、お友達の方々にお互いに住んでいる方だったりお近くの方に「こういう人たちって実はいるんだよ」って話したり、「こういうふうにしている人たちっているんだよ」と言って一人二人につなげていただきたいと思いますし、一番の希望は”避難する権利”をきちんと与えて欲しくて寄り添って欲しい、それが私の希望です。
原発事故5年 問われる住民帰還と復興の加速
2016年1月2日 4時04分 NHK
東京電力福島第一原子力発電所の事故からことし3月で5年となりますが、福島県では今も10万人余りが避難を続けています。ことしは、春に3つの市町村が避難指示の解除を目指していて、国や地元の自治体が放射線や生活環境への不安をどう解消し、住民の帰還や復興を加速させるのかが問われる年になります。
原発事故の影響で、福島県では今も9つの市町村に国の避難指示が出され、避難者の数は県内が5万7000人余り、県外が4万3000人余りで、合わせて10万1450人となっています。
避難指示の解除は、去年9月、役場とすべての住民が避難した自治体として初めて、楢葉町で実現したのに続いて、ことし春には、南相馬市と川俣町、葛尾村の3つの市町村で一部地域の解除を目指しています。
しかし、楢葉町に戻った住民は全体の5%ほどで、避難指示が解除されたあとも放射線による被ばくや、仕事や医療などの生活環境への不安が、住民の帰還の妨げとなることが明らかになってきています。
このほか福島県内では、除染で出た大量の廃棄物を保管する中間貯蔵施設の用地の確保が進まず、地権者2300人余りのうち、契約できたのが22人にとどまるなど、多くの課題が山積みとなっています。
震災と原発事故から5年となることしは、国や地元の自治体が、放射線の不安の解消や廃棄物の処理をどう進め、住民の帰還と復興を加速させるのかが問われる年になります。
自主避難者の声 文字起こしブログ
Aさん「カエルの卵みたいなのがうじゃうじゃありました」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Bさん「戻りたくないのに『戻れ』というのはちょっと」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Cさん「安全かどうかは国や東電が決める話じゃない」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Dさん「 皆さんは帰れますか?」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Eさん「都営住宅の無償提供が打ち切られます」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Fさん「どうしてあなたはそんなにサイレントなの?」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
Gさん「2週間1回主人に1万円を渡すのが精一杯です」〜自主避難の現状〜東京電力福島第一原発事故避難者の声
https://youtu.be/1NnPsOTgrXM?t=1h4m59s
南相馬市・江口副市長:
繰り返しになりますけれども、我々のほうで今日はどうしても話があったのは、安心がどうしても必要である。
住民に直面する市の●。
それは市ではどうしても及ばない安心について規制委員会の姿勢というのにはものすごく大きいところがあって、
そこに先ほど言われた規制を超えた部分の配慮とは別に●として、
国の安心な基準というのをやっぱり明確に示してほしいなというのが我々の願いです。
これは先ほどもありましたけれども、繰り返しになりますけれども。
20ミリという基準もあります。
避難指示の区域が基本的に20mSvでになっていますので、いま。
避難指示等の判断基準が。
で、長期的には1ミリっていうのもあるんですけど、その間についてはこれはなかなかどこが安心というのはできないから、現場現場で個人個人で判断してもらうしかないというところだったと思うんですけれども、これが本当に個人の自由だとか市サイドから
規制委・田中委員長:

いや、それはないし、事故が起きた時の避難の基準ではありますけど、参考レベルっていうのは。
そこは正確に理解していただきたいなと思いますけど。
防災指針でいう20ミリっていうのは、1週間で20ミリっていうのはOIL 2っていうレベルであって、あの、ま、それを我々が介在するっていうんですけれども、だからそこはね、正確に理解していただきたいなとおもいます。
南相馬市・江口副市長:
防災指針というよりも、今現在行われている避難指示区域の解除については、年間20ミリというところを基準にしていますよね。
規制委・田中委員長:

基準値がいくらかだとか。
参考レベルっていうのは先ほどから2回ほど説明したけど、そういうことはありませんよ、ということですよ。
「20ミリ以下になった時に初めてどのレベルで避難を…あの、帰ってくるかどうかは、みんなで関係者で、住民の方を中心によく相談して決めてください!」って言っているんです。
だから、「いや、私は3ミリでも、5ミリでも帰るよ」という人もいるし、「やだ1ミリじゃないと帰らないよ」だっているでしょ。
だからそこはどういう風に。
「じゃあ、帰れる人から帰りましょうか」とかね、そういうことだってあるわけですよ。
だからそこのところはちゃんと正確に理解しないと、自治体のリーダーシップ、これ、多分できないと思いますよ。
南相馬市・桜井市長:

あの、私は国のみなさんができないことまでやってきました、正直言って。
住民との向かい合いで、「警戒区域を解除しますよ」という時には国の人間は一切入れずに私が住民との間で「解除しますよ」と。
その理由については産業も含めて復旧することが前提だからということで、一箇所に700人ぐらいずつもの住民に来てもらって、集まってもらって、それを4箇所で、ある意味叱責だらけの中でそういう説明をしてきました。
でも国が今回の解除にあたって、「避難指示を解除する理由は20ミリ」って言うんですよ。
そしたらもう「何言ってるんだ」って。
今、多分後問題になるだろうことを例示すれば、「労災認定を年5ミリで出たじゃないか」
これに対して我々、「20ミリで避難解除だなんて言うのか」こういう問題は必ず出てくるんですよ。
だからこそ、我々としては「どこまでであればみなさん大丈夫なんですよ」って言いたいわけですよ。
南相馬市・江口副市長:
それは、国ができないことを自治体にやりなさいっていうのは、それは無理ですよ。
規制委・田中委員長:
そんなこと言ってないで、あのー、申し訳ないけど市長が言っているのはある意味わかりますけど、あなた(副市長)がおっしゃっていることについてはちょっと違うと思います。
南相馬市・江口副市長:
私が申し上げているのは、
規制委・田中委員長:
あの、若いのでどうぞ勉強してください。
南相馬市・江口副市長:
いや、そこを「自治体で判断してくださいね」というのは、どう勉強しても判断でき
規制委・田中委員長:
(副市長の発言を遮って)桜井市長の言っている意味はよくわかります。
必ずそういう問題が出てくると私も理解しています。
南相馬市・桜井市長:
だからもう出ているんですよね。
実際にもう、今でも避難解除についての懇談会とか各地域ごとにやっているし、例示しましたように、学校の保護者会レベルでも「みなさんの不安ってなんなんですか?」と。
で、「学校を再開したいんですけどどうですか?」とか、結構相談しているんですよね。
その際に必ずそれが出てくると思うんです。
規制委・田中委員長:
そういうことを踏まえて、いわゆる相談員制度を活用して、いたってそういうことを丁寧に対応していただくようにということなんで。
「これは国がどうこうしたからって解決する問題じゃない」っていうのを十分に議論した上でそういう風になっていますんで、そこのところは是非ご理解いただいて、それをうまく活用していただきたいと思います。
南相馬市・桜井市長:
一応理解できないわけじゃないんですが、「市長が本当に責任取れるのか」最後はこうですよ。
規制委・田中委員長:
いや、それは同じことを私もなんども言われていますので、あのー。
南相馬市・桜井市長:

ですよね。
やっぱり我々としてやっぱり国が例えば当時100ミリ、20ミリとか、ま、基準は1ミリとかっていう、実際には説明できないことの連続の中で住民に説明せざるを得ない状況に追い込まれていて、「除染もじゃあ、1ミリ以下にするんだろ」というふうにお叱りを受けるわけですよ。
規制委・田中委員長:

あのー、そういった線量の基準については我が国は遅れていて混乱しています。
法的にも遅れています。
だからそれについては我々も一つの主張がありますので、今後長期的に議論をして、きちっと国際的なレベルをスタンダードに考えていきたいと思います。
これがね、最大の混乱の原因かもしれないというのもつくづく感じてますので、それはそういうことで。
ただここですぐにそれを、答えを出すっていうのは私の一存で答えを出すわけにはいきませんので、それを是非ご了承いただきたいと思います。
あの、もう時間なので。
南相馬市・桜井市長:
食物について言えば、当時500ベクレルの暫定基準出したりとか、その後100にしたりとかという中で、最初にですね、国民がそういう問題について理解されていれば、「ま、大丈夫なんだろう」と理解できたと思うんです。
ところが最初高いレべルから500に下げて暫定だよ、実際は100なんだというふうになるわけでしょ。だから現場で説明できないし。
空間線量について言えば、「20ミリまでは暮らしてもいいんだよ」と言われていて、急にお母さんがたがわーって言ったら、「1ミリ以下を目指します」みたいな形だから、現場では大混乱するわけですよ。
規制委・田中委員長:
ま、そうですよね。
南相馬市・桜井市長:
だから、本来はこれは全体的な、原子力推進であれば、同時に原子力に対する理解が共通の中でなければいけないですね。
規制委・田中委員長:
ま、そうですね。
南相馬市・桜井市長:
それから安全であったり、クリーンだと言って、テレビで脅しまくってきたから
規制委・田中委員長:
わたしはそのことについてはいろいろここで申し上げるつもりはありませんけれども、そのいろんな混乱の原因について、いろんな基準が場当たり的に変化したことについてはわたしも当時の現場にいましたから、非常に怒りを持って国に対しても申し上げました。
「なんで100bq/kgに下げたんだ、500bq/kgで良かったじゃないか」田中原子力規制委員長vs桜井南相馬市長(文字起こし)
あまりにもど素人であまりにも配慮がなさすぎることについて、その気持ちは皆さんと変わらないですけれども、いま規制委員長としてなにができるのか?ということで、今日はお話をしていますので。
あの、いろいろお話を伺いましたし、本音もずいぶんお伺いしましたから、それは肝に銘じてやっていきたいと思います。
南相馬市・桜井市長:
本当にお忙しいときにこれだけの時間を取っていただきまして、田中委員長にも率直にお話を伺いまして、御礼を本当に申し上げます。
ありがとうございました。
今後我々としてはこの問題に、原子力災害に向き合っていかなければならないという現実がありますから、是非我々市民全体の不安とかいうものを前提にして、頭に本当に入れていただいて、いろんな規制委員会の仕事に励んでいきたいなと、これから
規制委・田中委員長:
わかりました、はい。
どうもありがとうございました。
避難区域解除・年間20ミリシーベルト基準〜南相馬市 毎日新聞&東京新聞の記事より
<子ども被災者支援法基本方針改定>竹下亘 復興大臣「あ??…?ちと私は細かいことはわかりません」7/10(文字起こし)
(年間20mSv以下の地域)自主避難の人もそうでない人も原則として帰っていただきたい。
ーーー
江口副市長のおっしゃっていることは何も間違っていないと私は思うのだけど…
「自治体のリーダーシップはできない」とか、「若いんだから勉強しろ」という発言がどこから来るのか、私には理解できない。
また、「桜井市長の言ってることはわかる」のならば、江口副市長の言っていることも本当ならわかるはずじゃないのかな?
この会談を聞いていると、当たり前のことだけど「帰還するにあたって安全です」と言える数値は無いようだ。
「これは国がどうこうしたからって解決する問題じゃない」から
「20ミリ以下のどのレベルで帰還するかは、自治体と住民で決めてください!」と田中委員長は言っている。
安全な基準なんか無いんだから決められない。
住民が帰ってこなきゃ困るんだから自治体で勝手に決めろ。
それができないならリーダーになれない。
逆ギレかな??
なんていうかな…こんなこと言ったら不謹慎かもしれないけど、田中委員長の「どうしようもないんだ」という気持ちもわからなくもない。(1000ミリとかは極端すぎるけど)
桜井市長もものすごく頑張っている。
けど、もともと根本のところで無理があるから、こんなふうにどうしようもなく苦しくなるんだろう。
原子力発電所の事故というのは人間の生活と共存できないということをまざまざと感じさせられる会談だった。
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(年間20mSv以下の地域)
自主避難の人もそうでない人も原則として帰っていただきたい。
復興庁は10日、「子ども被災者支援法」の基本方針改定案を公表した。改定案には、支援対象地域の線量は「発災時と比べ大幅に低減し、避難する状況にない」と明記。今回に限っては支援対象地域の変更は実施しないものの、今後、縮小または撤廃することが適当であるとしている。子ども被災者支援法の基本方針は、2013年10月に閣議決定されてから初の改定となる。
詳細はこちら ↓
福島「避難する状況にない」〜子ども被災者支援法基本方針改定へ
2015年7月10日
復興庁 竹下亘 復興大臣

子ども被災者支援法に基づく基本方針の改定案を取りまとめましたので、公表をするとともにパブリックコメントを行います。
えー、今回の、おー、改定の趣旨は、
現在、えー、線量が発生時と比べて大幅に低下しているなど、
おー、支援対象地域から避難する状況ではなくなっているということを踏まえまして、
被災者が自ら、あ、住居を定め、安心して生活ができるように定住の支援に重点を置く方針を明らかにするものでございます。
え、一番のミソといいますか、えー、は、支援対象区域については、被災者がどこに定住するか新たに判断するためには、一定の期間を要することから、当面縮小、または、あー、撤廃はしないと、いうことにしたという点でございます。
えーー、かいたいにつきましては、7月17日金曜日東京、18日土曜日に福島で、それぞれ説明会の開催を行う予定でございます。
1:05
記者:
この法律の趣旨から考えると、だいたいの政策というのは、「避難を選んでも支援する」ということなので。(住宅支援を)国が本体やるべきことなのじゃないかという指摘もあると思うんですが。

竹下:
あのー、基本的には福島が、様々なことを決めていただきまして、
えー我々支援していくという、うー、”構図”になっております。
それから、あの〜〜ぉ、お……、住宅、それから避難、の、時期等については、
やっぱり基本的に帰っていただきたいと、オーー、これは福島の強い思いでありまして、
え、そのことを、お、期日を示すことによって、あのーー、促進をしたいと思いがあると思います。
これはあの、おーーーー、自主避難の人もそうでない人もに対しても全く同じ思いで、原則として帰っていただきたい。
で、帰らない人には帰らない人の、への対応を考えるというのが、福島県の立場、というか、
これまでわれわ、我々が聞いておるお話でありまして、
我々としても「それはそれでいいだろう」と。
帰りたい人には帰ってもらうと。
帰らない人には、帰りたくないと、いう、ことをぉー、決めてもらうと、いうことになるんじゃないかなと思いますが。
記者:今回、線量が発災時と比べて大幅に低減し、
竹下:そう!
記者:避難する状況にはない。
竹下:そう!
記者:「避難する状況にはない線量」を教えていただけますか?

竹下:あ??…?ちと私は細かいことはわかりません。
司会:あ、細かいことは後で、事務方からご説明させていただきます。
※オススメ↓鳩が豆鉄砲の竹下大臣はここから ご覧ください
https://youtu.be/ivDJxkN7JOA?t=2m28s
記者:
下がっていることは認識しているんですけれども、
どこから避難せずにすむ線量なのか?国としてどうお考えなのか教えてください。
竹下:
福島県に180万人の方が生活してらっしゃるんです。
そのことは、福島県としては一番重く考えていると思います。
そして、大事なことは放射線量がを、下がっていく。
あるいは、除染によってさらに下げていく。
さらには帰りやすい、いー、生活インフラを含めた環境を整備するといったようなこと。
我々は、あのーー、福島県が、いろいろ悩んだ末に、えーーえーーー、「2年間で帰還しよう」おー、準備区域とか居住制限区域は、帰還する方向にでいこうという決断をされた以上、我々としてはそれができるように復興庁として最大の努力をしていくと。
帰りやすい環境を作っていく。
線量をさらに下げていくといったような作業を続けていくことが我々の仕事だと、こう思っております。
記者:
子供被災者支援法の趣旨は、どのような選択をしても支援するというのが趣旨なので、
例えば福島県が出した住宅支援策以上のことを国がやっても全く問題がない。
もしくはそういう責任があると思いますけれども、それについて大臣はどうお考えでしょうか?
竹下:
あの、自主避難の方に焦点を当ててお話になっておりますが、
福島県が一番悩んでおりますのはそうじゃないんですよ。
そりゃもちろん自主避難の方についても悩んでいますけれども、
おー、本当に強制避難をさせられている方々、あーについてどうするか、というのが最大の悩みであります。
その上で、えーーー、その強制避難であるか自主避難であるかということを問わずに支援をしていくと、
帰りたい方には帰るための支援をしていくと。
帰りたく”ない”方には、帰りたく”ない”という選択をしていただいて支援をしていくということになっていくんだろうと思います。
強制では、いずれもありません。
(ここで竹下退場)
5;07
記者;
対象地域の確認なんですけれども、これ、前回の基本方針の時は、33市町村ということでされてたんですが、それは変わる?
佐藤紀明参事官

法制斑 佐藤紀明参事官:
変わらないです。
区域も変わらないです。
一緒です。
記者:「避難解除されているところは入っていない」という認識
法制斑 佐藤紀明参事官:はい。抜いております。それは変わりません。
記者:
一方で、これに基づいて公営住宅の入居円滑政策が前回盛り込まれていたと思うんですが、
これは前回発表した時は対象は33市町村、でそれは確か、解除されたところも対象になっているんですが。
法制斑 佐藤紀明参事官:
その後、国交相の方で、え、こちらの基本方針ではなくて、公営住宅の入居の円滑化の方の政策においては、少しずつ向こうは広げているといった状況です。
いま広野町なんかも、あの、対象にはなっています。
公営住宅の優先入居の政策の方はですね。
記者:そうすると、進退処置って一体なんなんだ?っていうことになる
法制斑 佐藤紀明参事官:
20mSvを下回るけれども、一定の基準以上のところということで、33市町村というのを、あの、前回の基本方針の中で決めたところでして。
その時も申し上げたんですけれども、支援対象地域と、それから準支援対象地域相まって、必要な人に必要な政策を届けていきたい、という方向は一切変わっていません。
ので、支援対象地域と準支援対象地域合わせて政策をやっていく、という構図です。
記者:支援対象地域に基づく対策って、何があるんですか?
法制斑 佐藤紀明参事官:
支援対象地域に基づくといいますか、支援対象地域の人が対象になっているものは、全部で120ぐらいあります。
そこで、支援対象地域というのは、その120ぐらいの政策が、あの、全て適用になっている、という地域です。
例えば広野町なんかですと、母子避難者の高速道路無料化みたいなものは行っておりません。
記者;
支援対象地域について、「20mSvよりも低く一定の線量よりも高い」とおっしゃった、一定の線量について、もう一回ちょっと整理していただけますか?
法制斑 佐藤紀明参事官:
考え方は全然変わっておりませんで、今回の方針でも書いておりますが、
発災時に20mSvの避難指示が出たところと、連続しながら相当な線量が広がっているところ。
で、それに対し社会的な。
具体的にはですね、本文の2ページから3ページにかけて記載しておりますけれども、
あの、地域の、
20mSvは下回っておりますけれども、あの、20mSvに達する恐れのある地域。
連続しながら相当な線量が広がっている地域。
で、そこの地域の社会的、経済的体制も踏まえて、え…支援対象地域というものを決めました。
この考え方は、前回のものとなんら変わっておりません。
記者:https://youtu.be/ivDJxkN7JOA?t=8m20s
法制斑 佐藤紀明参事官:
まとめます。
いま、政策一覧でまとめているものがあります。
それの今回の基本方針に沿った形でもう一度まとめ直す、というイメージです、はい。
記者:略 この書き方が、それぞれ個別に対応していきますよ、という書き方なんですね。略
やることを限定しているような感じに受け取れるんですが、
法制斑 佐藤紀明参事官:
やることを限定しているといったことはございません。
関心が高いだろうということを、書いてあるだけです。
記者:
住宅の確保の代替策について、国の方で厳しい意見を受けてやるという考えはないんですか?
福島県がいまのところやるということで、中身はよくわかりませんけれども、国の方でしょ、これ。
支援法としては、国がやるという責務を定めた法律ですよね、これ。
それについて国の方としてやるという考えはないんですか?
法制斑 佐藤紀明参事官:
いまは、福島県がその支援策を考えておりまして、それについてどういう支援が国としてできるのか、
今後福島県とよく話していくということを考えております。
いろんな政策。
例えば福島県からの、この災害救助法から移行する支援策。
それから、公営住宅の入居の円滑化措置。
それから地方創生の関連政策。
そういったものが相まっていく、ということと認識しております。
記者:それはだから、首都圏の避難者とかは?
法制斑 佐藤紀明参事官:
首都圏の避難者についても、あの、直接地方創生で使えるもはないとしても、
たとえば、あの、福島県からの支援措置、新たな支援措置。
あの、仮設の終了に伴う支援措置ですね、そういったもの。
あるいは公営住宅の入居の円滑化、そういったものがあてはまるかと思っております。
復興庁 福島県内外部被曝線量推計の地図
多分、この地図だって過小評価だと思うけれど、
とにかく色が付いているところは年間1mSv以上の外部被曝地域

1〜7mSv/年 判別しにくい青3色
7〜9mSv/年 薄い水色
9〜20mSv/年 緑
20mSv/年以上 黄色、オレンジ、赤
しかしこの話を聞くと、国と福島県は「黄色オレンジ赤を除く地域の人は帰ってくれ」ということのようだ
楢葉町避難解除へ:副経産相「安心は心の問題」
毎日新聞 2015年07月06日 22時24分(最終更新 07月07日 09時14分)
福島県楢葉町議会の全員協議会で「避難指示解除の環境は整った」と語る政府原子力災害現地対策本部の高木陽介本部長=楢葉町で2015年6月17日、栗田慎一撮影
帰れぬ避難解除地区 分断された生活圏
政府の原子力災害現地対策本部(本部長・高木陽介副経済産業相)は6日、東京電力福島第1原発事故(2011年3月)で全町避難となった福島県楢葉町に、避難指示を9月5日午前0時に解除すると伝達した。
町民の間には水道水源のダム湖に高濃度の放射性セシウムが沈殿したまま解除されることへの不安が強いが、高木氏は伝達後の記者会見で「安心は心の問題だと思う」と述べ、町民の間に不信感が高まっている。
政府は先月、「8月のお盆前」の解除方針を示していたが、町議会や町民から「生活環境の整備が不十分」との反発が強く、無料バスの運行本数拡大など「追加支援策」の準備を理由に約1カ月間遅らせた。
避難指示の解除は昨年4月の田村市都路(みやこじ)地区、同10月の川内村東部に続き3例目で、全町村避難の県内7町村では初。
政府は楢葉町を双葉郡復興の拠点と位置づけ、残る自治体の避難指示解除を急ぐ。
一方、会見で水道水源を巡る町民の不安について質問された高木氏は、水道水の放射性セシウムは検出限界値未満であることなどを指摘し「放射線の考え方は人それぞれ異なる。安心と思うかは心の問題だと思う」と述べた。
この発言に町民は反発を強めている。帰還に向け住宅再建を終えた60代男性は「帰る気持ちがうせる発言だ。住民の自己責任だと言うつもりだろうか」と批判した。50代女性も「古里に戻りたいという気持ちを理解できるのなら、あんな発言は出てこない」と話した。【栗田慎一】
◇安全への不信、帰郷の壁
「やっぱり政府は信用できない」。楢葉町から避難し、小学3年の一人息子と実家のある東京都武蔵野市で避難生活を送る遠藤昇さん(43)がため息をついた。
町民の安全・安心を求める声に、政府が耳を傾けていないと思うからだ。
震災直後、妻克子さん(40)は仕事の都合で単身、福島県いわき市にとどまった。
一方、楢葉町内の「道の駅」で調理師として働いていた昇さんは、幼稚園児だった長男昇汰君(9)の健康を考え「父子避難」を決めた。
昇汰君は今、避難先の学校が楽しくて仕方ない。
仲の良い友達がたくさんできて「武蔵野の学校を転校したくない」と言う。
震災から4年以上たち、避難生活が日常生活に変わりつつある。
一方で、「古里に帰って家族で暮らしたい」との思いは日に日に強まる。6月下旬に政府が東京で開いた解除に向けた住民懇談会に昇汰君を連れて参加したのは、息子にも楢葉の現状を知ってもらい、帰郷への思いを忘れないでほしいとの願いからだった。
しかし、政府の対応には違和感を覚える。
水道水源のダムの底には1キロ当たり1万ベクレル超の放射性セシウムが沈殿しているとされる。
昇さんは訴える。「政府に水道に使う上水は安全だと言われても安心できますか。子を持つ僕らの世代が戻らないと、古里は復興しない。だからこそ、戻りたいし、政府には安全な環境を全力で整えてほしい」【栗田慎一】
<それでも安全です>楢葉町木戸ダムの底にはセシウムが1万5000ベクレル/kg
そして、高木本部長は、実際に浄水場で処理された水を飲んで安全性をアピールしていました。
楢葉に帰っても 日常戻るのか 国、夏にも避難指示解除
2015年7月5日
東京電力福島第一原発事故ですべての町民が避難を強いられている福島県楢葉町で、国は避難指示を今夏にも解除する方針を示している。理由は「生活できる環境は整った」という。だが、町の現状を見る限り、暮らしに欠かせない水や田畑の汚染、買い物や通院の不便など、住民が納得して町に帰ろうと思える状態になったのか、疑問が残る。 (大野孝志、山川剛史)
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あれ?
2015年3月8日 NO NUKES DAY 松本春野さん
よろしくお願いします。
ちょと鎌仲さんの後で、あの、違った視点、違った解釈の話をさせていただくので、
ちょっとみなさんに受け入れて頂けるか少し不安ですが。
あのー、今まであのー、登壇者さんたちが、原発についての問題点というのは本当にたくさん語ってくださったので、ここではわたしは、
わたしは絵本作家なんですけれども、2011年に震災が起きて、夏から取材を続けて2冊の絵本を出しています。
「ふくしまからきた子」という絵本で、2012年2月に1冊目を出しました。
それは福島県から広島に母子避難した子供を書きました。
そして、今年(2015年)の2月にその続編「ふくしまからきた子 そつぎょう」という、
今度は広島から福島に戻ってくるという、主人公が戻ってくるという話を書きました。
その中で、取材の中で私が感じたこと、見てきたことを話させていただきたいと思います。
たびたび、福島県の学校で子どもたちと一緒に給食を食べたり、休み時間は一輪車や逆上がりをしたり、いきいきした子どもたちと接してきました。
3.11からもうすぐ4年。
福島を訪れるたび、目の前の子どもたちを一番に考え、見えない放射能について学び、測り、慎重な対策を重ね、暮らしを立て直してきた大人たちの姿に福島県の中でたくさん心を打たれてきました。
そして、その背中を見て立派に成長してきた子どもたちをこの目でしっかり見てきました。
私が取材してきた福島県に暮らす人々は、精神も状況も2011年のままではありません。
あるお母さんの言葉が印象的でした。
「福島県民とわかると、悲しい顔をしている方が喜ばれるんです」
たしかにつらいことはたくさんあったし、いまだに続く困難もあります。
けれども、あの震災から、必死で学び、考え、測り、対策し続ける日々の中、
「一歩ずつ前に進むたびに彼女たちは歓声を上げ、手を叩いて喜び合ってきた」ということをたくさん語ってくれました。
また、「同じように脱原発を望んでいるのに、放射能のこと以上に県外の反原発運動の動きに心折られることが多い」という言葉もたくさんもらいました。
東京に住む私はその言葉を重く受け止めています。
放射能と向き合うことを強いられた福島の人たちは、私達よりはるかに放射能について知っています。
膨大なデータを持っています。
国で出してきたデータを、自分たちの暮らしを守るため、再チェックする機能も充実させてきました。
小さい子どもを預かる保育園のチェックなどは、びっくりするくらい細かい注意を払っています。
地道に確実に集められたデータと実践の積み重ねから、
福島で暮らすこと、福島のものを食べることを、自主的に選択している人々がたくさんいることを、
もっと知ってもらいたいし、応援してもらいたいと、取材すればするほど思うようになりました。
しょうがなく住んでいるのではなく、選択して住んでいる人々が大勢います。
それは、自主避難の生活を選んだ人たちと同じで、また、私が東京で生まれ育ち、今も東京に暮らし続けている選択と変わりません。
お互いに尊重されなくてはならない生き方の選択なのです。
私達は、もっと、福島に暮らす人々の声から学ぶべきなのではないのでしょうか。
ある被災地の小学校の校長先生がおっしゃった言葉をご紹介します。
「物の支援も保養の支援もお金の支援もたくさんいただき、本当に感謝しています。
けれども、私たちののぞむ一番の支援は、子どもたちに会いに来ていただく支援です」と。
福島県への子どもの支援で、県外からのメジャーなものが保養です、先ほどお話がありましたが。
けれども、保養は、参加できない子どもはいつまでも参加できないままという現実が有ります。
障害がある子ども、アレルギーがある子ども、低年齢だと親が働いていて、同伴できない子ども。
また、保養の声がかかるたび「福島で暮らすことを否定されている気持ちになる」という親御さんも多数聞きました。
3.11から4年経とうとしている今、今度は私達が、福島へ出向き、現地の暮らしを知る中で、福島の方たちが困っていることを補う、そんな支援の段階に来ているのかもしれないと思っています。
原発が憎い気持ちは変わりません。
見えない放射能が引き起こす人間関係の分断、補償の難しさ、風評被害、処理や対策へ気が遠くなるほどの手間と費用がかかることを4年経っても痛感するからです。
多くの家族がいまだ分断されています。
生活が戻らないままです。
差別に苦しんでいます。
処理の仕方もわからない核廃棄物は貯まる一方です。
すぐには、難しいのかもしれませんが、原発に頼らない電力にシフトしていってほしいという思いは、取材をしていく中では募る一方でした。
福島県に暮らす人々の生活の改善を応援し、共に喜び、一緒に進んでいく脱原発運動がひろがっていったら、と心から願っています。
私自身、自分の言葉で、絵本で、声を上げていくことをやめないでいきたいです。
ありがとうございました。
1冊目
原発事故をきっかけに母の実家、広島市にひっこしてきたまや。原発と、私たちの未来をかんがえる絵本。
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(いわさきちひろさんの息子と孫娘)
脱被曝から卒業したようです。
なにがあったのか?
最初の絵本「ふくしまからきた子 (えほんのぼうけん)」のカスタマーレビューを読むとその理由が少し見えてくるような気がします。
何となくムカッ腹が立つのは私の心が曲がっているからか, 2012/6/4
投稿者 しまようこ (福島県) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: ふくしまからきた子 (えほんのぼうけん) (大型本)
福島在住。小学生の子供もいます。
本屋で立ち読みしました。
うまく言えないのですが、この絵本を読んで、福島県の子供達がかわいそうだね、とか話し合われるのかと思うとなんかイヤ。
何でこんな題名なのかな?
42 人中、35人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
短絡的, 2014/2/25
投稿者 イチジクニンジン (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: ふくしまからきた子 (えほんのぼうけん) (大型本)
広島=福島=かわいそう→原発をなくそう という感情的な短絡思考を感じました。
原子爆弾を投下された被害と今回の原子力発電所の事故による放射能の拡散やそれによる被害の問題は異なります。
また、福島といってもかなり広いのであって、被害の程度は地域によっていろいろです。
さらに、原発をなくせばそれで済むのか?というのはエネルギー政策に関する複雑な議論の必要な問題で、簡単に断じることはできません。
「どうしたらいいのか?」と問う子どもに対して「総理大臣じゃないからどうしようもない」みたいな答え方をする大人もどうなんでしょう?
そういうことを言う大人はもちろん普通に沢山いるとは思うんですが、わざわざ絵本に記すほどの教育的な言葉でもないし、市井の人々の示唆に富んだ鋭い一言ってわけでもないですよね・・・。
たいじゅ君はこの一言から総理大臣になろうと考えるわけで、絵本の筋の中では重要な発言なんですが・・・民主主義を教えるのにもやや不適切な表現なのではと思え、ちょっと残念です。
子どもに読ませるには少し教育的配慮に欠けているように思います。
参考文献が武田邦彦氏、、というのも、眉唾なものを信じて疑わない、いい加減な大人が作った本なのだということを表していますね。
自分の子に理科や社会を得意になってもらいたければ、読ませない方がいいかと思います。
逆に、単純な反原発活動家とか、革マル中核派とか、そっち系のジャーナリストにでもになってもらいたいのなら、まあいいんじゃないでしょうか。。
子どもに偏った思想を植えつけようとする意図を持った絵本だと感じました。
24 人中、20人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
精一杯彼女(松本春野さん)に好意的に考えてみれば、
きっと、他にも直接いろいろなことがあったのでしょう。
避難できない人の方が多い。
(松本春野さんの言葉を借りれば避難できないのじゃなく”自らしない”らしが)
汚染地域で生活するしかない人のことを思うと、避難しましょうという声を上げ続けることのエネルギーは相当なものだろう。
今の日本の状態から言えば、「住んでいても大丈夫」という方がとても簡単だ。
被曝、避難、甲状腺に関することについては思いもかけない反応がどっと押し寄せてくる。
脅されたのかもしれないし、恐かったのかもしれない。
だから「そつぎょう」を書かなければいけなかった。
そんなふうに私は彼女の本心に思いを巡らしてみるけれど、
どっちにしても松本春野さんは
被曝による子どもの健康被害を直視することから逃げて
体制派の方に見事に寝返ったヒトで間違いない
松本春野さんの直前に登壇した鎌仲ひとみさんのスピーチと比べてみましょう。
真実を語る人は意見をコロコロ変えません。ブレません。
20150308 NO NUKES DAY 鎌仲ひとみ監督
みなさんこんにちは、映画監督の鎌中です。
菅(かん)さん、浜岡原発を止めてくださってありがとうございます。
今度は全原発を「廃炉」にしていきたいと思っております。
昨日から渋谷にありますシアターイメージフォーラムで私がこの間「東日本震災」というふうにマスコミは呼んでいますけれども、私は「原発震災」と言いたいと思っているこの災害から、この4ん年間ずっと作ってきた「小き声のカノン」昨日から劇場公開が始まりました。
先ほどから「原発反対」そして「原発をゼロにしろ」って言う声がここにこだましています。
私は昨日、福島に行ってまいりました。
福島の劇場と東京の劇場で同時公開になっているんですけれども、福島の劇場は満杯でした。
東京の劇場はガラガラでした。
皆さんで埋めていただきたいと思っていますが。
「なぜ東京で埋まらないのか?」福島の皆さんに問いかけました。
福島の方たちは、被爆の現実を生きています。
3つの原発がメルトダウンし、
2つが爆発し、
そこから出てきた膨大な放射性物質が、今も福島の中に、
もうあちこちにホットスポットを作っています。
私の映画の中に出てくる汚染地図によれば、158万人以上の人たちが、本来住んではいけない放射線管理区域と同レベルの被曝を今も受けながら4年経ちました。
その中に、子供たちもいるんです。
そんなことをやっておきながら、この日本政府は今まで「1mSv以上被爆してはいけない」と言っていたのに、「なぁになぁに20mSvまでは大丈夫だから」と20mSvまで上げてしまいました。
そんなの安全なわけないんです。
4年間被曝したら20mSv×4で80mSvですよ。
被曝はお正月が来たからといってリセットしてゼロにはならないんです。
ね。
だから「4年経ったから大丈夫」とか、
今日も内堀福島県知事がテレビやラジオに出て「復興しておりますよ」と。
「福島の生産物を食べてください」
「観光に来てください」と言っていました。
私はもしそれが十分に低いレベルであれば喜んで食べますし、福島が復興することを願っていますが、
「その前にやるべきことがある」と思うんです。
それは今被曝し続けている子供達をきちんと被曝防護し、
117人もの甲状腺癌が出ている子供達のきちんとした医療保障をですね、
医療保障というか、ま、医療保障はされているんです、18歳以下は無料なので。
だからと言って、じゃあ18歳以上になって発症したらどうするんですか?
子供達が被曝から守られているという現実は福島の中にはありません。
で、お母さんが子供を連れて避難したら
おじいちゃんおばあちゃん、そして夫は福島に残されています。
家族一緒に暮らしたいけれども、それを許す補償は東京電力も政府もやる気がないんです。
でも、福島の人たちはそのことを声に出すのが怖いんですね。
「どうして声に出さないんですか?」と私が問いかけると、
「怖い」と。
そういう小さな声すら出すのが怖いんです。
なぜならそんな空気がどこにも無いからなんです。
とても異常な状態が当たり前のように続いています。
常識がひっくり返っていると思います。
ここにいらしている方たちの思い「原発を止めなければいけない」
なぜなら、もう本当に取り返しのつかないことが起きるし、もうすでに起きたんです。
答えが無いんです。
福島に住み続けようとしたら被曝は必至なんですよ。
だけど福島に住みたいわけです。
でもそれと同じことがチェルノブイリベラルーシでおきました。
私の「ちいさき声のカノン」は、ベラルーシでお母さんたちがこの25年間、時間差がある原発事故の後、どうやって子供たちを守ったか?そしてどれが成功体験なのか?という事をつぶさに報告しています。
みなさん「保養」という言葉を知っていますか?
子供達の被曝は「保養」によって軽減するんです。
避難できなくても、せめて福島にいる36万人、北関東にいる100万人近くの被曝を受けている子供達を保養させる取り組みが必要なんです。
子供被災者支援法に予算をゼロにしてきた現政権がようやく3億6000万つけました。
福島の子供達一人一人に配るとたったの1000円なんです。
たったの1000円なんです!
それなのに海外に行って沢山、何千億円もばら撒き、余計なことをいっぱいやっています。
オリンピック。
ポイティブでいいね。
だけど、福島の人たちが救われていないのに、そこにお金を使っていいのか?と思いませんか?
使うべきところが間違っているんです。
「子供を守れ」という言葉をみなさんが叫ぶなら、
「子供達がいかに守られていないか」ということをリアルに知っていただきたいと思ってこの映画を作りました。
だからぜひ見に来ていただきたいんですね。
優しいやさしい映画です。
誰にもわかるように私が全力を込めて作った映画を皆さんにぜひ見ていただきたいです。
お待ちしております。
ありがとうございました。
2冊目
母子避難した広島から福島に戻ってくる話
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この本には西田敏行のメッセージが書いてある帯が付いています。

「 ふくしまからきた子は 避難先の ひろしまから
胸いっぱいに 希望や 喜びや 友達や 家族や 幸せを感じながら 福島に帰ります。
不安や 絶望や 悲しみや 憎しみや 孤独から
”そつぎょう”するためにー」
西田敏行すごいですね。
ゾッとしました。
今現在やむなく避難している人々は、これを見てどう感じるでしょうか?
まるで、避難していることがいけないことのようです。
まだ、福島第一原子力発電所から放射性物質がで続けている今、
避難先から帰ることの方が”不安”ではないか、と私は思うのだけど。
いわさきちひろさんが生きていたら息子や孫の変化をどう思ったでしょう?
今現在も汚染されているのは事実だし、今後もいつ何が起こってもおかしくない状況です。
子供達が避難先から戻るのは、福島第一原子力発電所の各号機からの溶け落ちた燃料取り出しが完了してからの方ががいいのではないか、と私は思います。
<福島第一原発>
危険注意!!「30カ所のモニタリングポストが一斉に不具合」
〜2号機の温度急上昇も温度計の故障!?
<福島第一原発2号機>「温度急上昇について」東京電力記者会見4/9(文字起こし)
水道水
<それでも安全です>楢葉町木戸ダムの底にはセシウムが1万5000ベクレル/kg
2015年1月
今現在も常時福島第一原子力発電所から放出され続けているセシウムの量1/29東京電力公表
東京電力が2015年1月末に発表したセシウムのみの試算です。
今現在も毎日毎日
1920万ベクレル/日〜2160万ベクレル/日
福島第一原子力発電所から空気中に放出されています
続きを読むに 超ロングインタビュー
松本春野さんが大手メディアを使って長々と言い訳している様子↓
続きを読む
あったかい気持ちのおすそ分け♪
心温まる出来事
松本市長記者会見2014年5月26日

06:05~

それからもうひとつは、ここにお見せして、展示、展示と表現していいのかな、ありますけれども、
実はこれは先日、アメリカのボストンに在住のビル・バークさんという方が送ってこられまして、

お手紙が入ってますけれども、
専門家の訳詞ですけれども、その中の一部ですね。
この人は日本にもたびたび来ていらっしゃる方のようで、
「松本にも伺った事がある」と書いてありますから、おいでいただいたことがあるんですけれども、
「今回“まつもと子ども留学基金”に関する記事を拝見し、」
この「記事を拝見」は何処であったのかは分からないのですけれども、
「記事を拝見し」これはみなさんのが向こうへ行ったのか、
あるいはまた、私自身が英国のデザイナーの方が世界に発信するためのにちょっと私はインタビューを受けていたので、
そういうのが流れたのかわかりませんけれども、これは「記事を拝見」ですからね。
そして、「何かのお役に立ちたいと思った」と。
「福島を離れ、松本市の学校に通っている8人のお子さんに、
マサチューセッツ州ボストンよりほんの心ばかりの品を送らせていただきますので、どうかお受け取りください」
という事で、
皆さんの方の記事でいろいろと書いて下さって大変感謝申し上げますが、
こういうものを含めてですね、まさにビックリしましたけれども、
ボストンからこれが来て、袋の中にはですね、

これは、ペンシルセットですね。こういうものであるとかですね、
それからこれがブックライトですから、机の上で本を読むときに使える。
それからこれがメモ帳ですね、それからこういうものも、
それぞれにこんなものも入れてくれたり、

やはり世界の方々にはこういう方がいらっしゃって、
そして福島に対しては関心があるんだと思うんですけど、
こういう取り組みに対して賛同していただいていて、「できる事があれば」という事で、
子どもたちにこれを届けたいと思いますが、
きっと彼らも親元を離れてさびしい思いをしているけれども、
世界からもこうやって、アメリカからもこうやって応援してくれているという事で、
きっと喜ぶだろうと、
励まされるだろうと思うものですから、
これはまた後日お渡ししたいと思っています。
これは本当にみなさんのおかげで、報道してもらったおかげと。
もっとまた、日本の方々もですね、これから
また、募金の方も私の方にきていますけれども、
それなりの額の募金で植木理事長も大変喜んでいるという状態でございます。
ま、これからも引き続いてお世話になるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
~9:57
15:12~質疑応答

市民タイムス:
子ども留学のプレゼントの件についてもう少し詳しくお聞きしたいんですけれども、
ビル・バークさんという方はどういった方で、
松本にも来たことがあると言われているんですけれども、
市長との面識というのはあるんですか?
菅谷市長:
ないですね。
この手紙だけしか入っていないんですよね。
住所も入ってないです。
だから返事もできないんですよね。
だもんですから、隠してないで。
これが箱に入ってきて送られてきたんですね。
市民タイムス:何者か?っていうのは。
菅谷市長:わからないですよ。
市民タイムス:何個きたか?とか
菅谷市長:これだけですね。8人分。
市民タイムス:8人分。
菅谷市長:
ええ、向こうも分かっていますよ。
だから、どこかの新聞を読んでいるのかな、と思いますよ。
で、日本人の友達もいるんですよね、この方。
ま、この方自身があまりオープンにして欲しくはないという気持ちがあるのかもわからんけど、
とにかく、あれですよ。
ビル・バーグで自分のサインも入っているんですけれども、
ビルさんは、BILL バークはBURKEですね。
普通はここ、ビル・バークさん(名前の上)に住所が入る訳ですよね。

でも何もないものですから、僕もお礼しようにもちょっと。
秘書課の職員にも言ったんだけども、
でもね、書いてあるんですね。
「また松本市に、次にまた来るのを楽しみにしていますよ」と書いて下さっていますから、
きっとこっちに寄ってくれるのかもしれないね。
市民タイムス:子どもたちには届けるということで、
菅谷市長:
ええ。
ですから僕も早速、理事長さんに持っていってもらうか、ま、ちょっとそれは考えます。
市民タイムス:
バックが実はレアもので、
日本ではレアもので流行っているとか、そういうのが分かる人がいないかな。
菅谷市長:それはあれだね、
市民タイムス:女の子なら知っているかもしれない
菅谷市長:
それは近藤記者のあれかもしれない。後で見てみてください。
でも嬉しいことですよね。
こういう事がやっぱり海外でもサポートしてもらえるという一つの流れが出来てくれば、
これまた皆さんがこうやって書いていただけると、またくるかもしれませんし。
良いことは広がって欲しいし、悪いことは広がらないようにと思っております。
そして市民タイムスの記事
平成26年5月27日火曜日
「四賀留学」米国からも善意
震災避難の子どもに文具
東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故の影響から子どもを守るため、
松本市四賀地区に福島県の小中学生を受け入れている「まつもと子ども留学」の活動に共感した
米国ボストンの住民から、留学中の子どもたちへのプレゼントが松本市に届いた。
ビル・パークと名乗る人物の手紙が添えられ、
「多くの未知の事柄に取り組むお子さんのために役に立ちたい」との思いがつづられていた。
プレゼントは23日夕方に郵送で市役所に届いた。
日本では売られていない人気ブランドのペンやメモ帳、手提げ袋など5点で
現在四賀に留学している子ども8人全員分が入っていた。
手紙には、まつもと子ども留学の記事を読んで活動を知ったことや、
松本に何度か訪れた事があることなどが書かれており、
こども留学の活動を支援する松本市の菅谷昭市長に対する感謝と敬意のメッセージも添えられていた。
26日の定例記者会見で菅谷市長は「嬉しいこと」と感謝し、
「海外のみなさんにもサポートしてもらうという一つの流れが出来れば」と期待した。
プレゼントは27日に子どもたちに届ける。
(田子元気)
そして、プレゼントは子どもたちのところへ
「まつもと子ども留学」の日常を綴るブログまつもと子ども留学の日々より
"米国ボストン在住のビル・バーク" さんから、寮の子どもたちにプレゼントが届きました!
植木理事長から手渡された箱の中身を我先にとのぞき込む子どもたち。バッグを手にするなり、きらきらした歓声を上げます。
人数分のバックは、ジャンケンにて争奪戦です。キャーとよろこびの声を上げる子もあり。ギャーと悲鳴を上げる子もあり(笑)。中身の文房具は、米国にしか売っていない人気ブランドのものだそう。かわいらしいバッグは、
「お弁当箱入れとして使う!」
プレゼントは、23日の午後5時ごろに松本市役所に届きました。菅谷市長宛で、送り主であるビル・バークさんの名前のほかには詳しい連絡先は載っていませんでした。
海外の皆様からもあたたかく見守っていただいている子どもたち。ビルさん、ありがとうございました!
菅谷松本市長が
「彼らも親元を離れてさびしい思いをしているけれども、世界からもこうやって、アメリカからもこうやって応援してくれているという事で、きっと喜ぶだろう」
とおっしゃっていましたが、本当に、心温まる嬉しいニュースです。
「まつもと子ども留学」への支援などの方法はこちらにありますのでどうぞ♪
放射性物質を東京電力福島第一原子力発電所が人災でばらまいたのは事実で、
そのせいで私たちは被ばくをして、鼻血を出し、体調不良になっている。
私たちはお互いに「放射能の事は言わないようにしよう」などという無駄な気苦労をするのではなく、
ま正面から訴えてきちんと賠償してもらえるという当り前の権利を持っているのだ。
1年間という期限が、とても気になる判決だけど、
泣き寝入りばかりしなくていいんだよ、って大きな声で叫びたい。
だから、勇気をもらって立ち上がろう!
京都に自主避難、東電に賠償金仮払い命令
(京都府)

東京電力福島第一原発の事故で福島県内から京都市内に家族5人で避難した男性が賠償金の仮払いを求めていたことについて、京都地裁が東電に対し月額40万円の支払いを命じたことがわかりました。

命令書などによりますと男性は原発事故の後、妻と子供の家族5人で京都市内に自主避難し
去年5月、東電に対し1億3000万円の賠償を求め提訴しました。
男性は事故の影響でPTSDになり、家に閉じこもって仕事ができなくなったと主張し、生活を維持するため賠償金の一部を先に支払うよう求めていました。

京都地裁は男性側の主張を認め、月額40万円の支払いを東電に命じました。
裁判所が避難者への仮払いを命じたのは初めてで、
男性の代理人は「経済的な理由で裁判を断念している避難者の力になる決定だ」と評価しています。

[ 5/26 18:28 読売テレビ]
自主避難に初の賠償仮払い命令 京都地裁、東電に
京都新聞 2014年5月26日
福島第1原発事故で福島県内から京都市内へ自主避難し、東京電力に損害賠償を求めて京都地裁へ提訴した40代男性が賠償金の仮払いを申し立てた仮処分の決定で、京都地裁(佐藤明裁判長)が東電に月額40万円の支払いを命じたことが25日、分かった。決定は20日付。東電によると、原発事故賠償で裁判所が避難者への仮払いを命じる仮処分決定を出すのは全国初。
男性の代理人の井戸謙一弁護士は
「長い裁判を見据えると、生活維持のために不満でも低い賠償額をのまざるを得ない避難者は多いはず。こうした決定があれば、納得のいく解決を裁判で探れる」と評価した。
決定では「男性の休業損害は事故と因果関係がある」と認定した。
東電は、文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会の指針で損害項目に就労不能損害が挙がっておらず「因果関係なし」と主張したが、佐藤裁判長は同指針の「個別具体的な事情に応じて因果関係を認め得る」との基本姿勢に触れ、「自主避難の損害と事故の因果関係は事案ごとに判断すべき」と指摘した。
その上で、避難前は会社経営していた男性にとって少なくとも約1200万円の休業損害が「原子力損害」に当たると算出した。事故が原因で精神疾患になったとする男性の主張を認め、男性と子育て中の30代の妻は無職無収入で就労が難しいことから今年5月から1年間、月額40万円を支払う必要性を認めた。
申立書などによると、男性は妻と幼児ら3人の5人家族で福島県の避難指示区域外から避難し、昨年5月に約1億3千万円の損害賠償を求め提訴。同12月、「仮払いがないと生活を維持できない」として仮処分を申し立てた。東電は答弁書で「自主避難者への公平な基準で賠償済み」などとして却下を求めていた。
井戸弁護士によると、男性の妻は「ほっとしている。ただ、1年先からの生活には不安が残る」と話したという。東京電力は「個別事案の対応に関する詳細は回答を差し控える。決定内容を精査し、真摯(しんし)に対応する」とコメントした。
【 2014年05月26日 08時26分 】
自主避難:東電に賠償仮払い命令 全国初の仮処分決定
毎日新聞 2014年05月26日 13時02分
◇京都地裁「5月から1年間、月額40万円支払い」命令
東京電力福島第1原発事故で福島県内から京都市内に自主避難し、東電に損害賠償を求めて京都地裁に提訴していた40代の男性について、京都地裁(佐藤明裁判長)が東電に対し月額40万円の賠償金の支払いを命じる仮処分決定を出したことが26日、分かった。決定は20日付。東電によると、原発事故賠償に関して裁判所が避難者への仮払いを命じる仮処分決定を出すのは全国初という。
男性の代理人によると、男性は昨年5月、事故による避難が原因で精神疾患を患い働けなくなったなどとして東電に約1億3000万円の損害賠償を求めて提訴。「仮払いがないと生活が維持できない」などとし、昨年12月に仮払いを申し立てていた。東電は自主避難者に対し、生活費の増加や精神的苦痛に対して賠償金を一定程度支払っており、男性の家族5人は計約300万円を受け取ったが、「賠償は底をつきかけている」としていた。
東電側は、国の原子力損害賠償紛争審査会の指針で、賠償対象となる損害項目の中に「就労不能」が挙げられていないことから、「(損害と事故との)因果関係はない」と主張していた。しかし、地裁は、精神疾患の男性と子育て中の妻の就労は難しいと判断。佐藤裁判長は「自主避難の損害と事故の因果関係は事案ごとに判断すべき」と指摘し、今年5月から1年間、月額40万円を支払うよう命じた。
代理人は「申し立てが認められたことを評価する。裁判が長引くと生活が立ちゆかず低い賠償金でも受け入れざるを得ない場合も多い。仮払いによってしっかりと訴訟を継続することができ、たとえ1年間でも意味は大きい」と評価した。【村田拓也】
井戸謙一弁護士
原発と国「もと裁判官に聞く司法の限界」井戸謙一氏
たねまきジャーナル1/25(内容書き出し・参考あり)
たねまきJ「伊達市2人20ミリシーベルト超え・井戸謙一氏VS小出氏」
小出裕章氏(内容書き出し・参考あり)1/25
"菅原文太 日本人の底力" 其の一
「日本の裁判"制度"というか、裁判"官"のあり方というか、 もうひとつ言えば"裁判"のあり方」
6/30井戸謙一(文字起こし)
"菅原文太 日本人の底力" 其の二の1
「緩んでしまったニッポン人」7/7井戸謙一(文字起こし)
"菅原文太 日本人の底力" 其の二の2
「日本だけ、報道していないんです」(文字起こし)
福島県田村郡三春町→東京都西東京市
文字起こし部分のYoutube→http://youtu.be/AbaJONx91WQ?t=17m33s
今日は住宅の問題という事で、一つ最初に申し上げたいのは、
私たちは震災の被災者ではなくて原発の被害者なんだという事を基本に。
そして私は一人娘とともに東京に避難しておりますけれども、母子避難をしています。
母子で避難することのメリット・デメリットを沢山感じている、この避難生活の中で、
母親としての気持ちをいま、伝えていきたいと思っています。
最初にですね、今ご紹介いただきました私が住んでいる三春町というのは、
ホームページによりますと非常に線量が低いんですけれども、
3月に自宅に帰った時には線量計で0.4マイクロシーベルト/時。
まだそのような線量があるところが三春でもあります。
三春のホットスポットの様な地域でございます。
そこから今母子避難をしておりますけれども、
この状況で住宅が打ち切られた時に帰れるのでしょうか?
現実的にそう言った事を考えると、本当に恐ろしい気持ちでいます。
私は福島県でJASの認定を受けながら有機栽培の農家をしておりました。
黒毛和牛を飼育して、その堆肥などで化学肥料に頼らない農業を、
自分でインターネットでお客さんに、全国の宅配をしながら事業をしていました。
私の一人娘は当時まだ幼稚園でしたけれども、
私の仕事場が娘の遊びのフィールドであり、
子どもは牛舎に座って牛のお腹をブラシでとかしたり、
虫を見つけてきては私に見せたり、
おやつもコンビニで買ったお菓子ではなくて、
もぎたてのトマトや、もぎたてのキュウリを自分で採ってきて、それをムシャムシャ食べるような、
そんなのどかな生活をしていました。
けれども今母子避難で二重生活のために私はいま大学の非常勤の事務職の仕事をしています。
子どもは学童に通ってカギっ子になりました。
暗い道を、冬になると真っ暗な道を一人でとぼとぼと、今住んでいる雇用促進住宅に帰ってくるような、
全く全く、生活が一変したんですね。
良かれと思って避難をしましたけれども、
そういった苦悩を子どもは小さい身体の中にかかえて、いま震災3年目を迎えているところであります。
いま小学校4年生の私の娘は、小学校を3回転校しました。
そして、そんな中で非常にうれしいことがありまして、
学校でお友達が出来て、土曜日になると友達と待ち合わせして遊ぶようになったんですね。
避難してきて、いろんな心労を強いてきましたけれども、
母親にとってこれほどうれしいことはありません。
そして、そういった生活を今させていただける、
こういった支援の枠組みの中で暮らさせていただいている事は、大変ありがたいことでありますけれども、
実は平成25年の10月にですね、私の住んでいる雇用促進住宅で
避難者のためにこのような手紙がポストインされました。

この内容は、ホームページなど、雇用促進を見ていただくと出ているのかもしれませんけれども、
一言でいうと、支援住宅の打ち切りを勧告するお手紙です。
私は福島県から自主避難という事で、
この避難打ち切りの対象外になり、27年の3月まで延長可という適用の中に今おりますけれども、
ここで打ち切られたのは、被災3県、それから宮城県や栃木県からの、
被災3県以外からの自主避難者は26年3月31日をもって打ち切りますという書類でした。
そういう事で今年の3月31日に打ち切られた方が現実にいるという事ですね。
で、私は被災3県の自主避難であるという事で、27年3月まで延長されていますけれども、
自主避難であることには変わりがない。
「次は我が身だ」と言う思いで25年の12月にこの書類を受け取った思いがあります。
そうやってどんどん住宅の支援が、徐々に徐々に打ち切られようとしていますが、
私たち住んでいるもの自身も、
先程、どの法律の中で住宅が適用されているのかという説明がありましたけれども、
私自身雇用促進住宅がどういう支援でどういう法律の枠組みの中で適用されてそこに住んでいるのかが、
全く分からないで今の住宅に住んでいるんですね。
それで枠組みが本当に明確化できていない中で打ち切りがどんどん進んでいるという事でありますので、
こういった災害対策法の法律の枠組みを超えた形で新しい枠組みをつくって、
その中で住宅の延長をしていただけたらと思っています。
子どもは成長するんですね。
当時1年生だった子どもも今4年生になりました。
その子どもがまだ学校の途中でまた転校させられるのか、また生活の拠点が全くなくなってしまった。
しかも0.4マイクロシーベルトもある自宅、福島の三春に帰って、
そこでまた生活を続けていけるのか?という事を考えますと、
母親としては本当に不安な気持ちでいっぱいです。
避難を継続したい人、また子どもを持っている人は子どもの成長の分岐点に合わせた形でも、
いろんな枠組みの中で、支援被災住宅の無償の提供が継続される事、
またそれがきちんと整えられた形で、私たちが不満を持つことなく継続の延長をしていただける事を切に願っています。
それがどんな枠組みの中で、どんなふうに国や東京電力に訴えていけるかというのが、全く私たちは分かりません。
どうぞ皆様のお知恵、弁護士の方、それから国会議員の方、
皆さんのお知恵を是非是非拝借して共に支援を広げていく、また延長していくことをお願いしたいと思います。
ありがとうございました。
原発事故による栃木県内への避難者アンケート報告 12/15宇都宮大学(動画・内容書き出し)
(一部抜粋)
住居に関しましても、仮設住宅の延長期間につきまして、
86%の方、去年も85%だったんですけれども、必要な支援というふうに評価しております。
いくつか声をご紹介いたしますけれども、・借り上げ住宅の長期化を望みます。
・このままだと帰りたくないのに戻らなければならなくなります。
・その先延長になるのか早めに知らせていただかないと、今後の計画ができません。
という声もあります。
この件につきまして、昨年も類似した声がありました。
ちょっと状況を調べましたが、今年4月に厚生労働省に延長可能な通知がきていまして、
避難元の要請のある避難先で延長が可能になっていたんですけれども、
山形、秋田、新潟ではすでに公表されており、栃木県ではまだという事なので、
確認しましたけれども、県の内部ではすでに延長が決まっているということで、
今月中に通知を、福島県からいらっしゃっている方は27年3月31日まで、
宮城、岩手県からは4年まで延長は決定しており、今月中に行こう調査を行うとホームページで公開予定です。
とりあえず27年3月までは延長が決まっています。
ただ、転居につきまして、こちらも昨年に引き続き7割の方々が民間借り上げの転居を望んでいらっしゃいます。
具体的な理由としては3年がたって家族が増えたり、状況が変わってきたり、いろいろあります。
この件に関しては今まで栃木県では前例がなく、原則的に難しいと伺っています。
ハードルが高いと聞き受けましたけれども、
「相談に応じない訳ではない」というふうに伺いました。
是非ハードルをもう少し低くしていただければと思います。自由記述より:借り上げ住宅の転居について
・避難してきて3年がたって、結婚して子どもが出来て部屋狭く休める場所がないです。
もう一度借り上げ住宅をやって住み替えがしたいです(20代女性)
・借り上げ住宅の転居を1,2回は認めてほしい
(仕事・学校等や借り上げ場所の人間関係などという意見で)
情報が少ないので、教えてもらえるとありがたいです(30代女性)
・福島市内は避難区域になっていないのにいまだに線量が高く、除染も進んでいない状態です。
子どもの健康を思い自主避難しましたが、知人も居なく不安な日を送っています。
主人も宇都宮に来て仕事につき除染が終わるまで福島には帰れないので、
別の借り上げ住宅への転居を強く希望します(30代女性)
・上記にもありますが、現在住んでいる借り上げから別の借り上げへの転居を認めてほしいです。
(ここに住む事に決めた時は短期間でアパートを探したり、2重生活だったが、
現在は家族7人で住んでいるためとても狭い)いろいろ状況も変わっているため(40代女性)
・借り上げ住宅を使用して延長は大変うれしいのですが、当初は思うようなところがなく
(ペットもいたことから妥協があった)
最近は親も89歳になり、足が弱り、段差やお風呂の古さで困っています。
他のところへ移してはもらえないのでしょうか?(50代女性)
・これほど長期化するとは想定できず、まず避難(その時は家は無かったため)と考え、
現在1DKに入居している。
しかし、これを先2年、3年と長期に考えないといけなくなってきているのが現状。
住み替えを考えているが、栃木県生活部消防防災課では、それを認めず、やりきれなさを感じています。
実際家賃は月/1000円の上限だけであるのに、本当に情けないです(60代女性)
2014/03/01
会津地方へ県内避難されている母親の証言(ビデオ)
1:36:05 http://youtu.be/x4n14TcK79U?t=1h36m05s
私は避難区域ではない、中通りから会津若松に避難しています。
県外避難者と違って、県内の自主避難者は避難当初から借り上げ住宅に入居する事ができません。
福島県では、自主避難といえば県内避難ではないものとされて、
私の様な県内避難者の存在を見ながらも見て見ぬふりを続けています。
私は夫を中通りに残して、遠い県外に避難する事が出来なくて、
夫が職場に通える距離にある会津若松市に避難する事しかできませんでした。
それで、避難元の中通りにある家のローンを払って、避難先の家賃を払って、
避難先から職場までの交通費を払って、
で、避難先で家具や家電を買いそろえて、
こっちに家を払って、何の支援もない中、貯金を取り崩しながら生活をしてきました。
でも、そういう生活を長く続ける事が出来ないので、
同じ県内避難者の仲間と一緒に行政に訴えるという事も続けてきました。
それでやっとおととしの11月に
県内避難者の住んでいる物件も借り上げ住宅として認めるというふうにやっと発表があったんですけれども、
それにはすごく沢山の制限がありました。
子どもがいない世帯とか、市内から市内の線量が低い地域に避難した人や、
これからアパートを借りたいって言う人は、対象外というふうになっています。
それですでにアパートを借りて住んでいる人も、
家賃が6万円を超える物件に住んでいる人は借り上げ住宅としては認めないという発表でした。
で、6万円以内の物件に借り換えますということも、
6万円以上の物件に住んでいて、1000円だったら、その1000円を差額で払うというのも認められませんでした。
なので、県内自主避難者の中には、これから子どもを持ちたいという大人だけの方とか、
そういう避難の問題から遠くには行けなくて、
でも少しでも線量が低い地域に避難したいっていう、市内から市内へ避難したいっていう人もいます。
それでアパートが借りられなくて、今は実家に間借りをしているけれども、
借り上げ住宅に移れるようになったらアパートを借りたいって言っている人もいます。
でもそういう人は対象外になってしまったので、
県内自主避難者の多くは自宅のローンを抱えて、避難先の家賃を払って、交通費を払って、
という生活を今も続けています。
この状態が続いているんですけど、
子どもたちへの放射能の影響が不安で、少しでも線量の低い地域で生活をさせてあげたいという思いで、
皆さん避難生活を続けています。
それなのに「自主避難者は勝手に避難した」って言われて、何の権利もない。
中通りの生活は普通に戻っているって言いますけれども、
屋内遊び場が増えて室内で砂遊びをすることや、
運動会は午前中で引き揚げて外でお弁当を食べることもできない事は、
「普通だ」っていうふうに言えるのかな?って思います。
自主避難している家族の多くは、残る家族は忘れると思って、
家族が同じ方向を向けないまま避難生活を続けています。
そんな中で避難を続ける母親とか家族が、
残っている人々にどれだけ負い目を感じているかという事を知ってほしいです。
どこの家族も離れて暮らす経済的負担とか精神的負担はすごく大きくて、
国や東電は被害者全員に同じ事をして欲しいし、
自分の生活を奪われた人々にも同じ賠償を払って欲しいなと思っています。
土地を綺麗にする事が出来ないなら、せめて分断された人々をひとつに戻してほしいなって思います。
そして、この話を聞いているみなさんには、
原発事故によってこういう生活をさせられている人々が沢山いる事を
ひとりでも多くの人に伝えてほしいし、
それは福島の事だけじゃなくて、明日の自分になるかもしれないという事を
一人一人に考えてもらいたいなって思っています。
福島県内自主避難者は推定で500世帯(2012年1月)と言われているが、
福島県もその実態を把握していない。
住宅借り上げ補助金は…
・4人以下の世帯には最大月6万円を支給。
・5人以上の世帯には最大月9万円を支給。
しかし、現在の家賃が6万円、または9万円以上の時には、一切支給なし。
補助が受けられない世帯
・同一市内の引っ越しをした世帯
・耐震性のない家屋に住んでいる世帯
・18歳以下の子どもがいない世帯
・2012年11月1日以降に住み替えをした世帯
県内自主避難連絡回には34世帯が加わっているが、
家賃補助を受けられたのは13世帯にとどまる。
残り21世帯は家賃補償対象に認められなかった。
続きを読む
2014/03/01
鏡石町から北海道へ家族で自主避難されているホンダジュンコさんからお話を伺います

1:56:35 http://youtu.be/x4n14TcK79U?t=1h56m35s
私は福島県の中通り鏡石町から北海道札幌市に家族で自主避難しました。
私が避難を決断したのは娘の身体に異変が起きたからでした。
福島で原発事故が起き、その直後の4月から学校へ行き出した、
当時中学3年生の娘の顔じゅうに、今まで見たこともない様な赤い発疹が出て、
さらにとびひの様になり、
母親の私は驚いて病院へ連れていきました。
医師からこれは「とびひではない」と診断され、
後になってチャルノブイリの症例で、皮膚が弱い人に虫刺されのような症状が出ていたと尻愕然としました。
学校に電話をかけて
「放射能の被害が心配だから、地産地消の給食と屋外での活動を止めて欲しい」とお願いしましたが、
校長先生から「国が安全だと言っているので全く問題がありません」と説明されました。
「アトピーという理由ならば」と何とか了解をもらうのが精いっぱいでした。
そのような環境に子どもを置いておくわけにはいかないと判断し、
娘の健康被害を恐れ、事故から3か月後の6月に夫と娘が先に、
私は経営していた美容室の自宅兼店舗を閉め、支店へ御客様を1ヶ月で引き継ぎ、
7月に札幌へと移りました。
愛する故郷。
15年かけて人をにぎわせてきた美容室。
お客様、スタッフ、親友。
そして両親と●の別れ。
「考えたら避難なんかできない。何も考えず娘の将来だけを考えよう」と自分に言い聞かせました。
住み慣れた自宅の整理をたったひとりで行いながら、子どもたちが小さい頃に撮ったアルバムの写真を眺め、
「どうしてこんなことになってしまったのかな」と虚しさでいっぱいになりました。
生まれて初めて訪れた北海道の暮らしは、思っていた以上に辛く厳しい現実がありました。
夫は数カ月後に仕事が決まったものの、給料は月10万ほど。
私は一人で一から美容室を始めましたが、当然はじめは赤字からのスタートです。
美容室をオープンして1週間目に疲労が重なり全身が硬直して動けなくなり、丸1日寝込み自身を消失しました。
専門学校に通っていた息子の学費が払えなくなり、中途で学校を辞めてもらいました。
受験生だった娘は高校受験を控えての転校。
どんなにか心細かったでしょう。
私たち家族はお互いに涙を見せないように、毎日隠れて泣いていました。
右も左も分からない札幌での生活は、家族が協力しなければとてもやっていけない。
慣れない環境で180度変化した生活に、精神的にも肉体的にもギリギリの状態でした。
自主避難のため東電からの補償は無く、
激減した収入、貯金を切り崩しての生活、
持ってきた車を手放し、生命保険を解約して、
最低限の生活を維持するためにほとんどの財産を捨てました。
避難してから1年後には残してきた支店もローンの残した●も手放しました。
福島に残るスタッフや近所の人との関係もぎくしゃくしていき、
友人や両親と簡単に会う事も出来ない
放射能への考え方からお互いの心に溝を作ってしまいました。
私が避難した事に対し地元では
「経営がうまくいっていなかったから避難したんだろう」と噂になっていると聞きショックでした。
あまりの辛さに東電に電話して泣きながら怒鳴り散らしたことも何度かありましたが、
電話の後には相手を傷つけてしまった罪悪感に落ち込みました。
札幌では、今動かなければ国や東電に原発事故の被害をもみ消されてしまうという思いもあり、
やったこともないラジオやテレビ取材を受け、避難体験を話すイベントなど
自分がやれる事は全て受けました。
デモも行きました。
東電への訴訟や原発告訴へも加わりました。
生活もままならない中、●がこえていました。
何故私たちはこんな思いをしなければならなかったのかと、
怒りと悲しみで苦しくて毎日毎日眠れない夜が続きました。
笑っていないと今にも崩れていきそうで、
人の前では笑って、心の中では泣いていました。
避難してから2年半が過ぎ、なんとか生活も落ち着き、やっと心から少し笑えるようにもなってきましたが、
それでも福島の時の様に安定した生活を取り戻すことはもう無理だと思います。
私には国や東電に対する強い不信感があります。
子どもの甲状腺検査にしても国の対応があまりにも遅いため、自費で検査をしましたが、
1年前に検査した時よりも甲状腺ののう胞が増えていたこともあり、
医師は「大丈夫」と言いますが、私はまったく安心できません。
最近では避難した当初の話を聞いてくれた札幌の人達も、
メディアで報道されないためか、「もう原発は落ち着いた」と思っている人
「そんな暗い話はもう3年も経つし聞きたくない」という、言えない雰囲気が漂ってきました。
私は本当の被害はこれから出てくるのではないかと危惧しています。
母子避難者である友人の中には、私の知り合いの中だけで4人も離婚した人がいます。
やはり放射能に関する考え方の違いで、ずっと家族がぶつかってきた結果選択せざるを得なかったのでしょうが、
どれだけの苦しみをみんなが味わってきたのだろうと想像します。
しかし、私はもう泣かないと決めました。
悲しみや怒りの感情は自分自身の細胞を傷つけ、
負の感情は大切な家族や周りの人をも傷つけてしまいます。
何のために避難したのか?
わが子を守るために避難したのだから、病気になったのでは意味がない。
泣いて暮らす事よりも動く事が大事。
笑って動くしかない。と、苦しみぬいた時間から答えをもらいました。
私が強くなれたのは、ある意味この体験があったからだと思います。
だからといって、私たちの平穏な生活を奪い、原発事故の被害を隠蔽し、
子どもたちを被ばくさせ続ける国や東電を許すことはできません。
人として間違った道を歩む国と東電に対して、
私たちは大人が言わなくて誰が言うのでしょうか。
(。・∀・ ハ)'`゚チ'`゚チ゚。゚
・・・と思って内容チェック!

「自主避難して正解」
原発災害「復興」の影 肯定求める親の判断 古里を離れて心に負担
福島民友 2014年1月3日
「周りからは『大変ね』って、数え切れないぐらい言われる。
母子避難という“ブランド”を背負っているような感じ」
長女(9)と長男(7)を連れて福島市から兵庫県西宮市に避難する赤間美沙子(35)は、
自らに向けられる、周囲の同情的な目に戸惑いを感じている。
「こっちは前向きなつもりなのに」

期限ぎりぎりに転居
2012(平成24)年秋、
12月で県外避難者のための住宅借り上げの新規受け付けが終わると聞いて、急に不安になった。
18歳以下の県民を対象とした甲状腺検査で、
子どもらの甲状腺に「嚢胞」などのしこりが見つかったと話題になったのもこのころだ。
検査した機関は原発事故との関連を否定したが
「うちの子は何もないとは言い切れない。後悔したくなかった」
期限ギリギリに、神戸市の知人に紹介してもらった西宮市のアパートの借り上げ手続きを済ませ、暮らし始めた。
避難してから、放射線について調べ「やはり福島は危険だった」と思った。
今は子どもらが砂遊びをしていても安心していられる。
福島市に残る夫(37)には負担を掛けているが、やはり避難して良かったと思っている。
昨年年の瀬に、福島市に一時帰宅。
正月は夫と過ごした。
福島の母親仲間とは、放射線に関する話題はあえて避けて、子どもの話に終始した。
「サッカーやってるけど元気すぎて困ってる」
相馬市から滋賀県栗東市に避難する元設備業佐藤勝十志(52)は11年11月に相馬の知人らと京都で再会した。
長女が卒業した中学校の吹奏楽部が音楽祭に特別出演した。
子どもらの前では「いつ帰ってくるの」などと当たり障りのないやりとりだったが、
トイレや廊下で保護者と二人きりになった時、何人きら言われた。
「今度、何かあったら子どもを避難させたい。預かってくれないか」
もう仕事ないよ
佐藤は「人前では言えなかったんだな」と思った。
「相馬は市民が一丸となって復興に進んでいるというのが建前。避難したいと言えない雰囲気があるのでは」
と推測した。
「裏切り者」「もう仕事はないよ」
相馬に一時的に戻ると、同業者からは厳しい言葉を投げ付けられる。
しかし、佐藤は意に介さない。
「仕事もいいが、家族に健康被害が出たらどうするんだ」
国による避難指示のなかった地域から、他県や会津地域に避難したのは3万人程度とみられている。
賠償などがある避難指示区域からの避難者と比べ、
経営苦などが目立つとされるが、当人たちは
「避難して良かった」「(地元に)残っていたら大変だった」と肯定的だ。
福島大行政政策学類准教授の丹波史紀(40)社会福祉論は
「自主避難者は職場や古里を捨てたのではという後ろめたさを感じている人が多く、
避難が正しかったと思いたい気持ちが強い。
地元で健康被害などがあれば、避難が正当化されるという考えもみられる」と指摘し、
「自主避難者に『避難は悪いことではない』『間違ってない』と言ってあげるなどの支えが必要だ」と話す。
自主避難者は、避難による人間関係の変化や、支援制度の変遷などを経て、事故後3度目の正月を迎えている。
避難者の現在の思い、境遇を追う。
ーーー
「自主避難者は職場や古里を捨てたのではという後ろめたさを感じている人が多く」
「避難が正しかったと思いたい気持ちが強い」
「自主避難者に『避難は悪いことではない』『間違ってない』と言ってあげるなどの支えが必要だ」
・・・のくだりで
ん??
ー追記ー
なんか、疑問に思ったので福島大行政政策学類丹波史紀准教授っていう方はどのようなお考えの方なのか?
と思って調べ中

丹波 史紀(たんば ふみのり)
現在は、同大学行政政策学類准教授、
うつくしまふくしま未来支援センター地域復興支援担当マネージャーを兼務する。
2013年12月31日放送
文字起こし部分のYoutube→http://youtu.be/7VFvwsdci5U?t=39m47s
水野:佐藤さんはおいくつでいらっしゃいますか?
佐藤:今36歳です。
水野:36歳、働き盛りやんねぇ。
佐藤:そうです。
水野:福島県のいわき市から逃げてきていらっしゃる。原発から何キロの地点ですか?
佐藤:約30km、圏内に入っています。
水野:
大変な思いでこっちへいらしたと思うんですけど、
今自立の話が出てましたよね。
仕事はしなきゃいけないわけだけど、こっちではどうなんですか?
佐藤:
いやぁ、もう最初は身寄りもなく、友達も家族もいないで、
命からがら逃げ出してきたという、
言い方は悪いですけど、「とりあえず生きているという事が一番大事だ」と思ったので、
遠い大阪、一番市営住宅とかも500棟の仮設住宅があるということもあったので、
そういう情報があって、今回こういうふうにお世話になっている訳なんですけれども、
水野:縁もないけれどもとにかく生きることを選ぼうと思って大阪に逃げてらしたんだ。
佐藤:はい。
近藤:そうですか、人間関係があったとかいうんじゃなくて。
佐藤:なかったです。
近藤:情報で
佐藤:そうです。
近藤:そうですか、大阪は少しは慣れたですか?
佐藤:
もう3年位、2年10カ月位になるんですけれども、ようやく文化に慣れようかと、
言葉使いの方面とかも。
水野:
でも、最初大阪でものすごく心ない発言に囲まれたりしたご経験があるって聞きましたけど。
どんな事を言われました?
佐藤:え…ま、「放射能を持ってくるな」とか、
水野:「放射能を持ってくるな」と。
佐藤:それは冗談だとは思いますけれども、
近藤:でも分かんないよね、大阪人がどこまでそう思って言っているのかなんてね。
佐藤:車なんかもいわきナンバーでこっちへ来たので、
近藤:いわきナンバー、話題になるよね。
佐藤:
そうですね。
最初は自分もホームシックになっていた時期があったので、
半年ぐらい車もずっと駐車場に、今借りている市営住宅の近くに停めている状態で、
ほとんど乗らなかったのもあるんですけど、
気付いたら鍵をあけられていたり、
また盗まれていたり、
傷つけられたりはしました。
水野:
いわきナンバーに対する物だったかどうかはわかりませんけれども、その恐れはありますよね。
そう感じられたでしょうね?この状況であればね。
佐藤:苦しかったですね。
近藤:なんか逆に心が温まったとか、なんかそういうのはないんですか?
佐藤:
やっぱり大阪の方がきさくで明るくって、話しかけてくれるんですよね。
そういうところはすごく助かりました。
水野:具体的に仕事はどうですか?
佐藤:仕事もおかげさまで今順調で、
水野:ちゃんと、なんていうのかな・・・どうやって仕事を見つけはったんですか?
佐藤:
最初は、そりゃあもう苦労しました。
西成区に住んでいるんですけど、そこから自転車で大体20分ぐらいかけて職業安定所の方へ行くんですけど、
阿倍野区っていうところまで行くんですね。西成区は。
それで、最初は分からなくて、
あいりん地区(路上生活者が数多く居住)というのも最初は分からなかったんですけれども、
そこを通っていったんですね。
で、何回も通っているうちになんか行列が並んでいたんですね。僕も仕事探しているとか分からなくて、
僕も職業安定所の方に行こうという事で、ちょっと並んだことも一回ありました。
で、まあ、最初はやっぱり面接を受けても落っこったりとか、
働いても、ちょっとブラックの企業に入ったりとか、
水野:
あ、そうか。
そういうところを、なんらかの公が仕事を紹介するっていう形は無いんですね。
斡旋するような形って。
佐藤:
それでですね、何回か受けてて、
社会福祉協議会の方々、西成区の方が、今働いている会社の紹介という形で、やってくれたんです。
水野:社会福祉協議会がやってくれたんだ。
近藤:
逃げてきてね、職業安定所でもなんでも、もうちょっとなんかこう、
特に気を使って、いろいろ情報を与えてくれるという事はないんですか?
佐藤:
ありました。
被災者就職情報というのはまた別で、「被災者の方を優先的に就職させますよ」っていうのはありました。
それで何回か、大阪市のジョブアタック企業とかフェニックス事業というのがあったんで、
それは全部大阪府と大阪市がやっている事業があって、支援してくれたんです。
古部:大阪府にはあるんですよ、被災者向け就労支援事業っていうのが。
近藤:そういうのがあるわけ。
西内:あるんだけれども、私なんかしまなもんですけれども
水野:
西内としゆきさんが今日3人目として来てくださっています。
西内さんはいま65歳
西内:
地域地域によってそういうふうにやっているところとやっていない所があるんですよ、
関西でも
水野:西内さんは今滋賀県に避難していらっしゃるんですよね。
西内:住宅もやっぱりそういう事なんですよ。
水野:滋賀県と大阪市だったらだいぶ違ったりするんですか?
西内:そうですね、ええ。
水野:避難した先によって大分違ってきている。
近藤:自治体の取り組み方でしょ。
西内:
そうそう。
例えば住宅の問題も担当者で全部決めちゃうのか、
そうじゃなくて市全体として、こういうふうに市民を受け入れるとか、
避難者をですね。
そういうふうにもう少し自治体で考えて欲しいよと私の考えなんですけど、
どうしてもやっぱり担当者レベルでやっちゃうという事があるんですよね。
ですからこういうふうにいま古部さんが言ったような事の情報が違うんですよ。
本来は国がやっぱり4月に出しているし、
福島県も5月に「受け入れて下さいよ」というのを出しているんだけど、
まだ今になったって決まって無いところもあるし、
京都みたく4月にもう4年に延びましたよというところもあるし、
大阪だと10月に受け入れを決めたんですよね。
ところがまだまだ決まってないというところがあるんですよ。
それは何故か?って言うと、各隣の自治体の様子を見て決めようというのがあるんですよね。
近藤:それは結局担当者のやる気があるかないかですよね。
水野:地域の話じゃなくて本来国がちゃんと決めることですよね。
西内:
そういう事じゃなくて、やっぱり国がきちっとそういう事をしてかないところがね、
これわかるんですけど、やっぱり、
通常の災害は1年なんですよ、住宅。
だから通常の災害という扱いをすると、そういう様なことになっちゃうから、
担当者もやっぱりこういう判断が出来ないという事なんです。
水野:
他の通常の災害だったら1年でいろんな事が直っていくかもしれませんけれど、
原発はもう、とんでもない時間が必要な訳ですよね。
西内:
ご存じの住宅は住宅法で決まっていて、定年で安くその人に住宅を斡旋するよという事だから、
そういうふうに地域に住宅の根拠者がいっぱいいるわけですよ。
だからそれと避難者とのかかわりをどういうふうにするかっていう事なんですよ。
水野:
だから原発災害にはね、どうするか?っていう法律を、もうちゃんと新しくしておかなきゃあかん時期でしょう。
だって、もうすぐ3年ですよ。
ね、そこんところはみなさん
西内:
減免でやってる自治体もあるし、
そうでは無くて規則を改正してやっているところと、やっぱりそこが違うんです。
だからそういうふうに減免でやると国からの交付税の恩恵を受けないよと、そういう事になっちゃうんですね。
水野:
はぁ~~、いや、だけど国がもっと踏み込んで、そこは決めて。
あるいは国会でちゃんとした法律をつくって、っていう事無しにここまで来ちゃってる事ですよね。
皆さんのしわ寄せになっているんですよね。
古部:そうですね、支援法もあんまり動いてないですしね。
近藤:そうそう、お金の流れ自体がいい加減になっているからね、今。
48:22~http://youtu.be/7VFvwsdci5U?t=48m22s
水野:復興予算ね、これについてはおっしゃりたい事が皆さんのありだともいますけれど、どうですか?
西内:
復興予算についてもですね、がれきを受け入れなくてもこの事業に交付されているんですね。
それで、当初はあのがれきを受け入れる筈だったんだけど
もがれきの量が当初より見込みが少なかったよということなんですけれども、
こういう事で最初に約束をしていたからという事で、復興予算が出ているんですよね。
水野:いろんな自治体にね。
西内:はい。
ですからここら辺でも、関西でも堺市なんかはそういう形で、
「クリーンセンターをつくるよ」という事での交付が出されてるんですよね。
ですからそういうふに、たとえばうちの方も、南相馬
水野:南相馬から避難してらっしゃるんですよね。
西内:
実は私がいた時には290億の予算なんですよ。
ところが24年度の最終予算で1100億なんですよ。
ところが、実質使ったのは350億なんですよ。
あとは使いきれないんですよね。
水野:1100億円交付されているのに、
西内:いえ、予算のところで
水野:あ、予算の規模が1100億円。なのに300-
西内:億ぐらいしか使ってないんですよね。
水野:あとの700億ぐらいは使えてない
西内:使いきれないんですよ。
水野:どうしてですか?
西内:
それは、やはり、人がいない、人材がいないということなんですね。
あとそれだけもう、やっぱり予算が国からはこれだけ使いなさいってくるんだけども使いきれないんですよ。
それは何故かって言ったら、一番の問題はがれきなんですね。
がれきの仮置き場ができない。
中間処理の置き場が出来ないから仮置き場が出来なくて結果的に除染が遅れているよと。
あとは、防災体制とかそういう物の防災工事だとか候補地の除染だとか、
そういうのを含めて全くなされてないということなんですね。
近藤:どうすれば一番、今の手立てとして一番いいと思いますか?
西内:
これはもう大変難しいと思いますよね。
やっぱりね、僕はうちの方だって、かなりの職員が辞めているんですよ。
水野:南相馬の市役所にもともと西内さんはお勤めでいらして、
西内:だから辞めてるからね。
水野:辞めてるというのはもうそこには住めないからですか?
西内:
それもあるし、耐えきれなくて、
自分の家族の問題だとか仕事の問題とか、いろいろなタイミングがあって、
苦痛になったりして職員が辞めたり、そういう状況ですね。
それで全国からやっぱり、うちの方でもね、50人近くの職員が来ていただいて援助してもらっているんだけれども、
なかなかやっぱり、ね、ご存じの通りなかなか行ってすぐ馴染んで仕事ができるか?
というとやっぱりなかなか出来ないし、
いろいろな問題がありまして、
そんな関係で仕事が進まない、復興が進まない、現実に復旧が進まない、そういう状況dえすね。
水野:
西内さんがお住まいだったのは南相馬市で、原発から23km
はぁーー、23kmって、相当放射線量が高い場所なんですか?
西内:
高いですね。でも、結局モニタリングポストでやっている地点の数値と我が家の数値。
特にうちの中の数値と全然違うんですよ。
数字がね。
水野:1m離れるだけで全然違いますよね。
西内:
だから、通常は1mの高さと地表の高さと両方やるんですけど、
通常出しているのは1mの高さなんですよね。
水野:
でも子どもさんなんて、もっともっと身長が低いやないですか。
地表にはもっともっと放射性物質が溜まってしまっていますよね。
古部:空中よりもね地上の方が高いわけで
水野:高いけれども数値が表に出てこない。出てくる数値は、
古部:地上1mなんですよ。
水野:
あれ、実際に住むとなったら、
そんな地表1mというのは現実の数値じゃないというのは分かっていく訳ですけど。
古部:みんなガイガーカウンターを普通に持ってますからね。
水野:みなさん個人でもたざるを得ないんですね。
西内:ガラスバッチをみんな持っているんですよね。
古部:
ガラスバッチっていうのは首から子どもがさげて、
どれ位被ばくしていくかを測るっていう、ネックレスみたいなやつがあるんですね。
それは福島の一部の子どもは持たされていて、背の高いところの子どもが持たされていて、
回収されて数値は教えてもらえない。
水野:教えてもらえないんですか!?
古部:教えてもらえない
水野:何でそんな…教えてもらえないんですか?
古部:
だから、お母さんたちはすごくそのガラスバッチを持ちながら生活を、
子どもを育てなきゃいけない事が不安で、
それでいてもたってもいられなくて、県外に避難してきたり、
水野:こりゃあ、これはもう、どんな不安かと思いますよ。
西内:
私も今年4回ほど我が家に帰っているのね。そうしますとやはりね、
そこまでやっぱりこの放射線に対して敏感になると、とっても住めないですよね。
水野:住めないでしょう。
西内:
放射線に対してはしゃべらない。
何のあれもしない。
通常の生活をしなくちゃという事でなってるのね。
水野:
つまり、「もう放射能が怖い」という事を言うと、
そこの地元の和を逆に乱してしまう様な、おかしな話ですけどね。
みんな気にしないでですか、忘れるようなふりをするしか生きられない土地だっていう事ですよね。
西内:だから静かに生活をするしかないよ、それしかないと思いますね、見てると。
水野:
でも、そういう事でしゃべれなかったら、
もう本当にストレスがどんどん溜まって行きますやん。
最近鬱の方が増えてるっておっしゃったでしょ?
西内:
だから私も行くと、自分の居た職場にも行くのね、そうすると、先生がいて、
僕は主任っていうんだけども主任先生っていうんだけども、
実は保養プロジェクトとかいろんなのがあるんだよ。
水野:
保養というのは2~3日でもいいから放射線を出すそばにいない所に離れて、
例えば大阪に冬休みとか夏休みとかね、
もう2~3日でいいから外に出たいと、その為の自由ですね、保養。
西内:ところがそれでも行ける人と行けない人がいるんですよ。
水野:どういう意味ですか?
西内:行ける家族と行けない家族
水野:行ける家族と行けない家族。
西内:うん、
古部:
というのはそれは国のシステムで保養で子どもを外に出している訳ではなくて、
NPOやボランティア団体や企業のプログラムで応募した人だけが
水野:
民間で、もう、ほんまにあれはそれこそ費用を集めるのにね、どんだけ大変か。
やってはる人関西にもいますよ、いろんなTシャツとか売って、カンパしてっていう事で、みんなお金をためて。
でも聞いたところ、やっぱり2~3日福島から出てきてもらう、
あるいは放射性物質のいっぱいある地域から出てきてもらうのにものすごくお金がかかる。
古部:かかるんですよね。
水野:こっちのホテル代とか、キャンプ場だってかかるんですよ。
西内:それが子どもたちに格差が出るんですよ、行ける人と。
水野:
国がちゃんとやってくれたらみんな一緒に行けるけど、
国がやってくれないから限られた人しか、そういう保養ということで外に出て行く機会が得られない。
格差が出ちゃうんだ。
西内:
「あの人は沖縄とか長崎に行ってきたよ」と、
「僕は全然行けないよ」と。
そういうふうに格差が出てくるんですね。
だから、行くんだったらみんな一緒に、学校全体が、
たとえば3週間夏休みに蔵王に行くとか、新潟の方に行くとか、そういうので
水野:せめてね。
西内:
せめて。
だけど、10人や20人で沖縄に行ったって、なんにもならないんですよね。
水野:
となるとね、これ、国がちゃんと、
「子どもが今住んでいる地域は子どもにとって危ないんだ」という前提に立たないと予算が付けませんよね。
ということでしょ?
「安全です」「大丈夫です」と言っている限りは、外へ逃げる必要がないという考え方じゃないですか。
古部:でも法律ができたんですよね、子ども被災者支援法。
水野:
支援法というのが出来ました。
けど、その事が具体的にそういう子どもたちを外に逃がすという事に繋がっているか?というと、
繋がっていないでしょ?今。
古部:
結局は個人の努力を強いられるような状態ですよね。
佐藤さんのような人でも、なんかこう、「子どもじゃないじゃないか」とかね、
「独身でしょ」とか、言われる人もいるんですけど、
でも、独身の人はこれから子どもを産むわけですから、大事にしなくちゃいけないですよね。
つづくーー
<チェルノブイリ事故27年の体験>
保養所に行きビックリした200人の官僚たちは日本に戻ってきて何か言ったのか?
12/4鎌仲ひとみさん(文字起こし)
こういう保養施設が50か所以上ベラルーシにあって、
毎年4万5000人の子どもたちが最低24日以上の保養を無料で受けています。
3歳から18歳まで無料です。
で、この持っているカルテに、何をしなさい、あれをしなさいというプログラムが書いてあって、
ひとりひとり自分のプログラムを持ってここで過ごして、
そして健康を維持するっていう事を国家予算でやっているんですね。
<子どもたちの保養>
補助金をどんどん打ち切っていくので私たちが横に繋がってやっていくことも非常に厳しい
12/4神田香織さん(文字起こし)
私もベラルーシに取材に行ったこともございますし、
いま鎌仲さんがおっしゃったように、一番必要なのは子供達の保養なんですね。
年間最低24日。
でも、日本は何でそれをまねしてくれないのか?
非常に憤りを持っております。
そして補助金をどんどん打ち切っていきますので、
私たちが横に繋がってやっていくことも非常に厳しくなっていくんですね。
そしてご存じのように、除染というのはウソですからね。
本当にそこいら中にあちこち移っているだけですので、
そこに住んでいる人達は体調が悪くなっていくのは当然なんです。
ですから私はとにかく、鎌仲さんがおっしゃったように、
なんとしても子どもたちを保養に出すと
空気のきれいなところ、西日本、九州とか、
そういう事を何とか全力でやっていくように政府に大きく訴えるべきだと思っています。
4<放射能による病気の予防>
「まず子供たちを保養に出すべきじゃないですか?」12/9野呂美加さん(文字起こし)
厚生省の人が行って、みんな聞いてきています。
子どもたちを保養に出している話も全部聞いてきています。
今年の7月に100人単位で行って聞いてきているんです。
この発表を聞いて、みんな「おおぉぉぉぉ!!」ってどよめいたんですよ、みんな。
事故から2年半も経って。
だけども、福島県から子どもを出さない。
予算を付けない。
ひとり子供が1ヶ月保養するのに約10万円。
私も計算してみました。
北海道でも保養をやってみましたが、
そうすると、10人の子どもを1ヶ月保養させると100万円。
人件費と食費を入れて。
大変なことを27年間ベラルーシの子どもたちに政府がやってきたという事です。
ね、独裁政権と言いながら。
100人保養させるなら1000万ですよ。
1000人保養させたら1億。
いま除染にどれだけのお金をかけていますか?
まず子供たちを保養に出すべきじゃないですか?
学校ごとに。
そういう事が出来ていない。
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2013年12月31日放送
文字起こし部分Youtube→http://youtu.be/7VFvwsdci5U?t=22m00s
水野:
皆さんからメールファックス頂いているんですけれども、
福島県伊達市からメールを頂きました。
「求めていたのに行われなかった事、それは除染です」福島からいただきました。
市の方からお知らせがきまして、
「放射線量を測り除染しますよ」と言われたんです。
ところが来てみたら、なにをしてくれたか?
実際は家のまわりを測るだけで土を削ったり、高圧で洗浄機を使ったり、等といった事はなく、
えっ?しないの?
土も削らない、高圧洗浄機も使わない。
なにをしたかと言ったら、市の職員の人が言いました。
「基準より低いので大丈夫です」
近藤:
水野さん、あれだよね、
福島をテーマに「求めてる・求めてない」ってやったら1年中やれるんじゃないですか。
水野:1年中やらなければいけない位の話
近藤:すごい話。除染だけでもね。
水野:
本来は年間1ミリシーベルトの被ばく以内にすべて収めなきゃいけないはずなんだけど、
とんでもない、もっともっと高い。
20ミリシーベルトなんていう数値を出してきて、皆さんがそこに住んでいる。
残っている方もこんなふうに苦労して、ずっと被ばくに恐れていらっしゃるし、
その一方で、「いや、もうここにはいられない」ということで故郷を捨てざるを得なかった方々。
今日は3人来ていただきました。
ここからの特集コーナーは
「将来が全く見えない県外避難者問題」と題してお送りいたします。
3人のお客様をご紹介したいと思います。
まずは古部真由美(ふるべ・まゆみ)さんでございます。
こんにちは。
古部:こんにちは、どうぞよろしくお願いいたします。
水野:
「まるっと西日本」という組織の代表を今していらっしゃるんですけど、
これはどんな組織と思ったらいいんですか?
古部:
「まるっと西日本」は震災と原発事故で県外に避難してきた人たちを情報で支援するボランティア団体なんですね。
私たちは、もちろん関西の人達も入っておられるんですけれども、
避難者、それから支援者と一緒に県外避難者を行政や自治体、支援団体と一緒にこの問題に取り組んで行き、
末永く支援を続けるというボランティアの会です。
水野:
あ、そうなんだ。
こういうふうに聞くと古部さんは支援している方かと思うんですけど、
実は逃げてらした方でもあるわけですよね。
古部:はい、そうです。
水野:
みんなと繋がるお世話もされながらご自分も避難をなさっている。
なんかもともと大阪の方やったって聞いたんですけど、
古部:
そうなんです。
私は大阪生まれで大阪育ちなので。
とは言え、10年間向こうに住んだのでー。
水野:結婚で行きはったんですか?
古部:そうなんです。
水野:行きはったのが茨城県のつくば市ですね、今日も震度5弱の茨城沖の地震があって、
古部:本当に地震が多い
水野:それから東海村もありますよね、茨城県はね、そうした状況で。
古部:そうですね、県内に原発があるっていう、
水野:原発を抱えて、そしてこの頃茨城は地震が多い。
古部:
本当に多いんですよ、もともと多い。
常に毎月一回、もともと揺れるようなところなんです。
水野:
そうだったんですか。
そういう茨城県のつくばに結婚して移ってはった。
で、今回3.11を機に大阪に、
古部:避難してきたんですけれど、
水野:
あのね、ものすごい怒られるかもしれないけど、
「茨城で、なんで原発事故の事で避難せなあかんのですか?」って、みんな聞きません?
古部:みんな聞きます。
水野:
ね。
近藤勝重さん、3.11の福島の原発事故から、今度の3月でもう3年になろうということなんですけど、
いまだに故郷からね、出ていかなければならない状態の人が10数万人いらっしゃる状況で、
今年も年の瀬を迎えている訳ですね。
古部真由美さんは大阪の方だったけれども結婚なさって茨城県つくば市にいらした。
すごく失礼な質問かもしれませんけれども、
「なんで茨城から原発の事で逃げて来なあきませんの?」といいました。
近藤:それは知りたいね。
水野:そこは、私だけじゃなくてね。
近藤:つくばから。
水野:つくばからです。つくばは大勢の人がまだ、
古部:残ってますね。
水野:なんとも感じず残ってらっしゃるのではないかと思うんですが、どうですか。
古部:
もし、これが仮に福井県の原発が爆発したとします。
福井県だと、京都とか滋賀を想像されると思うんですね、関西の人は。
もし大阪に原発があって、爆発したら、奈良の人って逃げると思いません?
水野:確かに!その土地感はよく分かります。
古部:
もし大阪に原発があって爆発したら、多分奈良の人とか京都の人は風下の人は逃げると思います。
風が下りてきたら。
で、それと同じように福島県の真下にあるのが茨城県なんですね。
水野:
ごめんなさい私ね、
「福島県は東北」ってわかるんです。
で、「茨城は関東」でしょ。
別のチームと思ってますねん。
くっついているんですね?
古部:くっついてます。
水野:そうか、「大阪と奈良の関係」あるいは「大阪と兵庫の関係」って言われたら、そら逃げるわな。
古部:だって、電車で1時間の距離とかですよ。
近藤:その、感覚的で距離感以外に、要するに逃げなくちゃいけない必然があったわけでしょ?
古部:
そうです。
私は最初「大丈夫です」っていうキャンペーンっていうか、
「安全です」「大丈夫です」「落ち着いて下さい」というテレビ放送があったんですけれども、
本当に大丈夫かどうかは、私自身も防災の仕事をしていたので、当時は。
だから危機感というのは自分で感じるか感じないかの問題で、
誰かが「大丈夫」といっても自分で危機を感じたら、前もって準備しないといけないと思ったので、
まず逃げてから考えようと思ったんです。
で、ちょっと不安に感じたのは、まず食料が無かったですね、町の中に。
電気が落ちて、街全体がゴーストタウン化して真っ暗だった。
空港も天井が落ちて閉鎖されたりとか、
もちろんテレビの津波の映像もすごく不安で怖い映像だったんですけれども、
私がいた町も職場の壁が壊れたり、ちょっと悲惨な状態でしたね。
水野:防災の研究所の職員だったんですね。
古部:
でやっぱり、その後逃げてからいろんな事が分かって、
1ヶ月以内にいろんなニュースが入ってくるんですけれども、
私がいたつくば市のほうれん草はすみやかに、震災があって1ヶ月以内に、
研究所がいっぱいあるのでいろんな調べ方があると思うんですけれども、すぐに出荷停止になったんですね。
水野:ほうれん草が出荷停止になったんだ。
古部:
そのニュースが全国ニュースに溢れだして、
市の職員の人が水道水から放射性物質が検出されたので、ペットボトルを配り歩いたりとか、
なんか信じられない世界が突然
水野:水道も、水道の水も安心できないっていうー。
古部:
もしね、水道をひねってそこから「放射性物質が出ます」って言われたら、どうします?だって。
ドキドキしますよ、お風呂とか、本当に怖いです。
水野:お風呂入れますか~?お子さん小さいんでしょ?
古部:
そうですね、
ペットボトルだって、地震の直後からスーパーから消えるんですよ。
みんな欲しいから。
水野:みんなそりゃもう、欲しいものね。
近藤:
そういう危機感を抱いて家族に相談しますよね。
どうだったんですか?
古部:
私は職業柄も、夫に「逃げます」って言ったら夫も、
うちは子どもが一人なんですね。
なかなか生まれなかったたった一人の子どもなので、
夫も科学者なので、理系の仕事なので、
「ふわふわふわ・ポチョンと落ちてきたらもう終わりだよね」って言って、
「そやな、もう逃げようか」といって、夫も関西生まれなので、
「逃げてから考えよう」という事で家族で行いったん逃げて、
その後はまた、仕事があるので戻っていったんですけど、
水野:あ、そうか、夫は帰りはったんや。
古部:仕事があるからね
水野:仕事やからね。
古部:
やっぱり、もう3年目ですけど、
3年経ってみて久しぶりに自治体のウエブサイトとかを見ると、
ホールボディカウンターで内部被ばくの検査もやってて、
甲状腺の検査もやってて、
それが茨城県つくば市というところなんですね。
水野:ホントすみません、全然わかってないです、私。
古部:そしたら、私の親戚から「旦那さんの元に帰りなさいよ」と言われるんですけど、
水野:やっぱり、親戚はどんな感じですか?
古部:やっぱり関西の人なので良く知らないし、茨城県の事なんてニュースに載らないから、
水野:帰ったらいいやん、べつにそんな
古部:
「なにしてんの?」とか言われますよね。
「なんでこんなとこにいてんの?」とかね。
水野:
理解してないんでしょうね、状況を、住んでないと。
「なんでこんなとこにおるの?旦那さんおっぽらかして」
近藤:それは関西の声ですね。
古部:
そうです。
それは、関西の親戚とか周囲の人にはいつもそう言われます。
だからもう自分でも言わなくなってる。
言っても私みたいに関西弁をしゃべれる人間が10年ぶりに関西に帰ってきても、
そんな事は全然、それほど故郷を失っている訳ではないし、言葉の壁も感じないし、
でも本当に、福島や宮城や岩手からきている人も関西にはいっぱいいるんですね。
その人達は「いつ帰れるか分からない」
その人達は、私よりも何倍も苦しいですね。
水野:
古部さんは「ちょっと帰りぃや、茨城へ」ってまわりに言われてね、
心ないというか理解ない声に押されて帰りますわね。
帰ると、茨城、つくばの状況は、それはどうなんですか?
迎えてくれはるんですか?
古部:
…いろいろですよね。
価値観がみんな同じじゃないから、
水野:いわゆる放射S燃料に関する考え方とか、
古部:価値観やその数値も識者がいろんな事を言うので、
水野:「大丈夫だ」という人もいますからね。
古部:
「大丈夫」で不安を抱えている人もいる。
でも、本当にこの震災の捉え方は人それぞれで違うし、持っている情報も違います。
水野:もう全然違う捉え方をしている人からは、古部さん関西にきてる事をどう見られているんですか?
古部:
どうなんでしょうね。
私は大したことはないと思います、
でも、福島や宮城や岩手からきている人は関西の人から
私は実はそのボランティア活動の中で住宅支援の調査を今回やったんですね。
それによると、ほとんどじゃないんですよ。
避難している人の半分の人が公営住宅の入居を保障で支援されているんですね。
これが関西の自治体が行っている事なんですけれど、
でも国は今年(2013)の春に通達を出して、5年間、恒久仮設と同じように
東日本の被災地と同じように5年間の公営住宅の入居を許可してくれているんですけれども、
要望を出してくれているんですね。
それによると、まず国が通達を出し、被災3県、茨城県もさらに通達を出し、
県外に散らばった自分のところの県民を広く受け入れて下さい。
その財源は交付金や災害救助法にのっとって受け入れた自治体が負担する訳ではなくて、
国や地元の自治体に請求するような、
そういう災害救助法という法律があって、それを使ってくださいというふうに。
水野:
一応法律でなんとか支援しようというのはあるんですね。
それはどうなんですか?十分上手くいっているんですか?
古部:
それでもやっぱり、先ほど私が話した様な、こちらの自治体にしてみれば、
「なんで茨城県?」っていう人もいたりとか、「復興したでしょう」って。
水野:「もう復興したでしょう」って。
古部:っていう自治体の担当者の方もおられます。
水野:担当者も言いますか、そういうことを。
古部でも、もし関心を持っていなければ、分からない事ですよね。
近藤:
うーーん、今ね、3年に入って、
とにかくこういう事ってここまで風化してしまうかな、なんていう実感ってあります?
古部:なんか、風化はとにかく早いですね。
近藤:
たとえばいろいろと言っていた言葉がもうまるで忘れられてしまったとか、
そういうのはありますか?
古部:
風化は、・・やっぱり遠いですよね。
東日本、東北が関西と。
東京に会議に行ったりすると、もっとリアルな感じなんですよ。
水野:
そうか、関西の人の方が理解が進んでいないというか分かっていない人が多い。
友達がいないんですよ、東北に行ったことがないんですよ、多くの方が。
私も今回の震災以降はね、取材で何回も行かせてもらっていますけれども、
なかなかそれまで、いわゆる遊びに行ったっていう経験はあんまりないんですよ。
古部:私も修学旅行で一回行ったきりですから。
水野:ねー、友達がいないとかね。そういう意味での、
古部:風化は距離感もありますし、
近藤:
距離感とか、いっとき「絆」とかいろんな事を言いましたよね。
いまでもおっしゃる方はおっしゃるんだけど。
「絆」なんて言うのは本当にあれは日々の積み重ねの中でやらないと
「絆」なんかなかなか生まれるもんじゃないわけで。
もう今「絆」って、どうなっているんですかね?
言葉自体がもう力がないわけですか?
古部:
もし、本当に「絆」があれば、
国が4年恒久仮設として県外避難者の住宅支援として公営住宅の入居を4年延長します、4年間やります
そしたらやっぱり、今回被災しなかった関西の自治体で、しかも財源はある。
だったら、ここは「絆」を発揮するかなと、
水野:
関西の自治体がお金を出さなくったって、国から出るようになっているんだから、
あとは「やる気」ですよね。
そこがだけど、もうすでに薄くなっていると。
古部:
それは、この前調査した時に思ったのは、
それは被災した人は自分で言いにくいんですよ、やっぱり。
もうこんなに、2年半住まわせてもらった。
だから「早く自立しなさい」というふうに言われると、
自治体の人がヒアリングとかを行って、
「頑張って下さいね」「自立して下さいね」
もちろん自立しようと、みんな働いているんです。
今日お隣にいる佐藤さんも一生懸命福島からやってきて、働いてはるんですけど、
でも「いつか帰りたい」と思っていて、「帰れない」今は帰れない。
でも、関西で頑張って働いている人もいて、
まだまだ関西の人が応援する方法はある筈だなと思います。
水野:
ある筈ですね、ハッキリありますね、今伺っていてもね。
具体的にありますよね。
じゃあお隣にいらっしゃいます佐藤かなめさんに伺いたいと思います。
つづくーー
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菅谷昭松本市長

そこで今日は過日報道も、していただいた社もありますけれども、
福島からの子どもたち、いわゆる「まつもと子ども留学事業」という事に関しての、
行政としての協力という事でこれからお話したいと思っております。
福島の原発事故以降、これで約1000日経過している訳ですけれども、
私はチェルノブイリで医療支援をしていたという事で、
実際に現地でこういう活動をしていた人間というのは、日本でも世界でも誰もいない訳ですから、
実際に汚染地の村々を往診したりという事で、
状況が分かった上で、原発事故以降かなり早い段階から様々な事を一貫して申し上げてきております。
たとえば事故が起こった当初から言えば、
「この避難区域が狭すぎる、もっと広げるべきだ」とか、「50kmまでやる」とか、
あるいはまた「これからホットスポットが出てきますよ」とか、
あるいはまた「内部被ばくの問題がこれから」という事を申し上げてきました。
で、こういう事は多くの方は誰も知らなかった訳ですから、私は言われる。
「菅谷さんが言われることによって、初めてホットスポットとか内部被ばくというのが分かった」
って言われたけど、
これは、私自身が経験があるからそれを基に言わせてもらっているんであります。
あるいはまた早い段階で、
「安定ヨウ素剤を飲ませた方がいいですよ」っていうことも私は申し上げております。
これは汚染の状況に関わらず、被ばくという可能性があれば、子どもたちには、
子どもたちというか、若い年齢層ですね、含めて。
これを飲ませるのはもう、ごく一般的なことなんですけれども、
残念ながら日本の場合はこれを、
基本的には政府の指示待ちの結果として「飲ませなかった」という事があるわけですが、
皆さんご承知の通り今、放射性ヨウ素が結構放出されたという事を、
今の段階で分かってきたわけですよね。
だからその時はもう…、これは初期段階処置をしなければいけないのに、
これは大きなミスであったなと。
もちろん甲状腺んがどういう状況か?という事はみなさんご承知のとおり、
実際に出始めているという事で。
これもその度に増えていると。
ただこれも、わたしは本当に・・・被ばくの影響なのかどうかというのは、これはまだ何とも言えないという、
ま、福島の方は「関係ない」というけれども、
これは、「関係あるない」じゃなくて「分からない」と、原因は。
という事の方がベターであるというのはずっと申し上げています。
これは経過を追っているうちにいすれ結果が出るでしょうけど、
ただまぁ、具体的には甲状腺がんが出てきていると、疑いも結構あるという事であります。
ですから今日本では、ヨウ素は飲ませた方が良かったんではないかという声が出ている訳です。
みなさんの新聞なんかでは書いているところもあるんですよね。
でもこういう事はもう、今言っても遅いわけですよね。
それからまた私は、「除染というものを過大評価してはいけませんよ」ということで、
ずーっと言っています。
今私が言っているのは、全国の講演とか、あるいはまた、さまざまな取材とか、
それから皆さんの新聞の中でも取材を受けて言っていますし、
それから拙い本の中にも私はハッキリ書いている訳ですね。
そういう中で今の「除染の問題は過大評価してはいけませんよ」と。
ですからそれに相当のお金がつぎ込まれているわけで、
これはいずれ税金が、とても東電じゃ無理だと思うから、
税金がこれから国民負担になるんでしょうけれど、
それですから、高度に汚染された地域での除染というのは限界があるから、
そういうところは残念だけども、本当に残念だけども、帰還するというのは難しいと思う。
ですが、政府の方針というのは、もう全てを除染して、
そして「そこに住んでいる人達を帰還させたい」という事を言ってたでしょ。
これはみなさんよく分かっている。
ところがここにきて政府が大方針、方針を転換しましたでしょ。
だから、高度の汚染のところは除染してもとても難しいという事で、帰還を断念したじゃないですか。
こんなに大きな、やっぱり、国の方針を変えている事に対して、
皆さんはあんまり書いてくれないけれども、
私はもう当初から「無理ですよ」とずっと言っていて、その通りに動いたじゃないですか。
あるいはまた、汚染されたがれきの問題にしたって、国は全然決められなかった。
私は大変残念だけども、高度に汚染されたところに、1カ所に集中させるような方向に持っていかないと、
大変難しいですよ、という事を申し上げていたところ、
ここにきて国はいよいよ、高度の汚染の地域のところの土地を国で買うという事を出したじゃないですか。
これはみんな私が言っている事を後追いしている訳ですよね。
だからやっぱりそういう意味でいきますと、
私自身経験した事をやっぱり言わせてもらっている事がみんな当たっている訳ですよね。
そういう意味で言いますと、私が当初から言ってきたのは低線量被ばくの問題。
「特に子どもとか、あるいは妊産婦は長期にわたる被ばくによって、
特に内部被ばく、あるいは外部被ばくによって、今後健康被害を含めて起こるから、
命を守るためには国策として、集団的にどこかに子どもたちは移住したらどうですか」
という事をずーっと申し上げてきました。
でもまだこの問題は国が耳を傾けておられないと、
しかし、被ばくは毎日起こっている訳ですね。
こういう状況というのは何とかしなければならない。
「誰かが何かしなければいけない」というふうに私は思いました。
まさに私がチェルノブイリに飛び込んだという、あの時の気持ちと変わらないわけですよね。
「何かしなきゃいけない」と。
で、ずーっと考えておりましたが、国が動かない状況であるならばということで、
たとえば私自身が松本市という自治体として何かできないかという事で、
福祉委員会、あるいは教育委員会、教育委員長さんともいろいろご相談してですね、
話を進めていきました。
その一方で今松本に移住されている福島の方々とか、
あるいはまた現在福島で放射能から子どもを守るという、そういうグループのみなさんが、
いろいろ、福島の方々の中でですね、
「子どもは何とか移住出来れば」というお考えの方々があるということで、
私がこういうふに言っていますから、彼らが私の方に来まして、
「松本市でなんとかできませんでしょうか」という、
本当にこれも涙を流して依頼された経過もあります。
そうなりますと私としても、
「これは何とかしなければいけない」と、ますますその思いが強くなりまして、
これも全て、今チェルノブイリの子どもたちが、
低濃度汚染地に住んでいる子どもたちが健康被害が出ている訳です、現実に。
その子どもたちは、今年は事故後27年経っているんですよね。
でもその子どもたちは10歳、あるいは15歳未満という、
まさに事故の後で生まれた子どもたちが、
今低濃度の汚染地に住んでいて、
そして免疫機能が落ちていて、
上気道感染とか、あるいは非常に疲れ安やるいとか、気力がないとか、
また、ベビーに対しては低体重出生児が増えているとか、
あるいはまた先天異常のような状況があるとか、
こういう事が現実にいま、まだ、27年経っても起こっているんです。
だからこういう事を考えると、
「ふくしまでは絶対にこういう事を起こしちゃいけない」という思いが、私には非常に強い。
ということで、こういう事を経験しているものですから、なんとかしたいという事がありましてですね、
今回本当に向こうから子どもさんがくるということがあれば、
松本市としては協力していく方向で動きたいという段取りで進めてきたわけでございます。
で、実は先日、福島に今お住まいで、
「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の世話人をされている方と
対談をして取材を受けたんですけど、
その方に、「今福島のお子さんたちはどんな状況ですか?」という事をお聞きして、
その彼の話の中に、これも先日新聞等にありましたように、
この前から福島のお子さんたちは、被ばくじゃないんですけれども、
「今外に出ないようにしているために肥満傾向にある」という事を言っていましたね。
それから、「運動能力が非常に落ちている」という事を言っていました。
走ったり、跳びはねたりとか、あるいは投げるとか、
そういうのはやっぱり能力が落ちていて、
特にですね、これは僕もビックリしたんですけど、
小学校に入学するような子どもさん達が今非常につまづきやすい、転びやすい
それから片足で靴下はくような姿勢に耐えられないと。
これはまさに大人のロコモティブシンドローム(locomotive syndrome)症候群ですよね、運動器症候群ですね。
だからこれが結局、彼等はお家にずっといて、
子どもたちは運動も、筋力も落ちちゃっているんですね。
こんな事っていうのはもう、異常ですよね。
それからまた、お家にいる事によって彼等は、
お家の中でゲームをしたりだとか、やっているから、
外のいろんな事に全然興味とか関心が低下しちゃっている。
だから無感動とか無気力になってきている。
こういう状況を耳にしますと、
これは被ばくじゃないですけれども、
しかし間接的に被ばくを恐れて、そして家庭の中にいる。
こういう子どもたちが将来どういう事になると思います?みなさん、いったい。
記者だったら分かるでしょ?
精神面においたって、大変だっていうことを。
現実的に健康な子どもたちがこういうふうに将来10年20年後に一体どうなるんでしょうか?って。
そういう事を含めればこれはなんとかしなきゃいけない。
あるいはまた、彼からの話では、
保育園の園児が、
普通の場合は園舎がコンクリートになっているからこの中にいる限りにおいては被ばくは非常に少ないと。
ところが、これが8月になるとボーンと上がるんだそうですね、個人の被爆線量が。
それを先生方は調べて折れ線グラフをつくったんです。
ボーンと上がる。
なぜか?
夏休みなんですよね。
夏休みになると子どもたちは、今度は保育園じゃなくてお家からあちこち遊ぶわけですよね。
ご承知のとおり、野や山に行くというのは、ああいう所は汚染されている訳ですよね。
今はみなさんご承知の通りに、除染というのはどこか?と言ったら、
ただ、学校の近くとか家のまわり、住宅で、
野山とかああいう所はやってないじゃないですか。
ところが子どもたちは夏になれば遊びに行く訳ですよ。
あきらかにそういうサイエンティフィックに8月にボーンと上がるっていうのは、
多分そういうことじゃないですか。って言ったけれども、
「それは確かにそうだね」
だからこういう事実があるわけですよ。
だからますます、これはもう早い段階でなんとかしなくちゃいけないんじゃないかなという事で、
松本市としてやる事は、集団の移住の場合には、
一つは教育の問題ですよね。
小学生中学生、教育環境をどうするかという事。
もうひとつは、生活面、特に住居の問題をどうするかという事。
で、こういう問題に対して、複数回町内で検討する、協議する組織をつくりまして、
そしてこれまで検討してまいりまして、
そういう中で候補地として今お願いしているのは、四賀地域でございます。
四賀地域のみなさんも、
一番僕が思うのは、今回の場合には地域のみなさんのご協力がなくては出来ない事でありますので、
そういう意味でもって●ったところ、地域のみなさん、みなさんというのもおかしいけれども、
現段階ではそういう町会さんとか、あるいはまた社協のような団体とか、
あるいはそれに類するようなみなさんにもお話しして、
もちろん学校もそうですけれども、
いま、ご協力いただける方向にございますので、
それではいよいよ、子どもの、ま、「留学」という表現になっておりますけれども、
スタートをする形で、いま、福島の方々もNPOを立ち上げますので、
来年の4月からを目指していきたいという事になっております。
これは日本ではどこもやっておりません。
初めての試みなんです。
で、こういう試みによって、私は「松本モデル」というものをつくりまして
これが全国に広がって欲しいなという事を思っております。
まさに国難であります。
日本の子どもたちを、特にふくしま関連の子どもたちを、
みんなでもって、やっぱり命を守ってあげるというのは、
これは国民の義務で、大人の義務なんですね。
ですから。
そう思っていても具体的にどうしたらいいのか分からなかったけれども、
今回松本が一つのモデルとして、成功事例としていけば、ですね、
私は全国の本当に心あるみなさんが、
「是非ともふくしまの子どもたちを守ろう」という動きになって、
なおかつこういう様ないろんな地域への留学が進めばいいなと思っていますし。
また、こういう事によって、
「原発事故による光と影」という事があるんです。
影はもう明らかに原発事故によっていろんな事がありますが、
光というのは、今みたいな、
今度は福島の子どもたちと各地域の子どもたちの交流が始まるんですよね。
それがお互いに支え合うという事で。
わたしは、チェルノブイリに行った時に、むこうの子どもたちを、日本の全国に、
いろいろ彼らがダンスをしたりできるものですから、民族舞踊で。
で、私は連れてまわったんですよね。
そして日本の子どもたちとチェルノブイリの子どもたちの交流をさせた訳です。
その時は日本の子どもたちは、ある意味で友情という立場でもって
「チェルノブイリの子どもたちを支えよう」とやってくれた。
どうでしょう?
今は同じ立場になっていますよね。
日本のたとえば福島の子どもたちとチェルノブイリの人達は。
だからピアカウンセリングになっちゃうんですね、お互いに。
日本は汚染されてしまった。
そこに住んでいる子どもたち。
だからこういう問題を含めて私はお互いにやっぱり、日本の国内でいいから、
沢山の子どもたちがいて、そしてそれが深い交流をする事によって、
今度は受け入れるところの子どもたちも、「ああ、福島の子どもたちは大変なんだね」という、
そういう思いになれるというのはとても大事なことだと思うし、
お互いにいい経験になるし、
現段階では、その各地域の子どもさん達が福島には行けないけれども、
いつかは福島の町が除染して綺麗になった時には、福島に訪れる。
それはその時は大人になるかもしれない。
しかしそういうものもですね、私は日本全体としてつくっていかなければならないと思う。
21世紀を背負う子どもたちに対して、
そういう国が大きな政策を打つべきだというふうに私は思っているのです。
今回こういう形でですね、まさに子供だけが留学するという、
昔で言えば、戦争中のいわゆる集団疎開という形になるわけですけれども、

ちょっと余談ですけれども、
今年 王選手、まさにソフトバンクの会長さんをやっている、
王さんにもこの話をですね、
「僕は今進めておりますけれども、なかなか福島のお父さんお母さんたちが
『子どもと離れて暮らすのは辛い』ということで、なかなか難しいんですよね」って雑談しました時に、
王さんは、
「いや、これはとても大事なことで、
むしろこれは、子どもたちを自立させるためにはとてもいいきっかけじゃないですか」
という事を言われまして、
その時に王選手は私よりは二つ三つ上ですけれども
「僕らも昔はみんな疎開したじゃないですか」と、
「まさにこれは国難の状況であって、子どもたちを守るためにもこういう事は大変いいことじゃないですか」
という事はお話しされましたけれど。
わたしは、王選手は、王さんは、「子どもを自立させるためにもいい」
ある意味で、王氏が言いたかったのは、
「ちょっと今日本では子どもに対して過保護な状況にある」という、
「子どもを自立させるためだったらこういうことも決して悪くない」という事を言われたんだと思うんですけど。
ま、いずれにしましてもこういう状況にありますものですから、
いよいよ福島からのお子さんたちをですね、受け入れるような形で、
松本市民のみなさんも、是非とも分かって頂いて、
「松本モデル」に協力していただければ大変ありがたいなと思っております。
一番は、地域のみなさんに是非ともご協力をお願いしたいというのが私の思いであります。
以上であります。
質疑応答
ーー
この会見を受けて記事にしたのは産経新聞のみ?
福島の子供たちに長期「留学」を 長野・松本のNPOが受け入れ計画
産経ニュース 2013.12.17 09:10
長野県松本市のNPO法人「まつもと子ども留学基金」が、福島県の小中学生が安心して生活し勉強できる場所をつくろうと、子どもたちが親元を離れ松本市で寮生活をしながら地元の公立学校に通う計画を進めている。受け入れ先の小中学校を紹介するなど松本市も協力。同市によると、東京電力福島第1原発事故の後、放射線への不安から親子で避難するケースは多いが、子どもだけが移住するのを支援するのは珍しい。
同市の菅谷昭市長は、チェルノブイリ原発事故で医師として現地で支援に携わった経験があり、低線量地域の健康への影響は未解明な面が多いとしている。
計画では松本市にスタッフが常駐する寮を設け子どもたちを共同生活させる。対象は小学3年から中学3年までで、寮費は月約3万円。家賃や光熱費はNPOが負担し、NPOの運営は助成金や募金で賄う。来年4月から実施予定で、数人の希望者がいるという。
ーーー
↓まつもと子ども留学の詳しい情報はこちら
まつもと子ども留学ホームページ
応援メッセージ
漫画家 ちばてつや さん editor post on 10月 29th, 2013
ボクは「ハリスの旋風」や「おれは鉄兵」という作品で、
粗野だけれど天然、健康的な、いわゆる野生児をたくさん描いてきました。
それは日本の子どもたちが、日々受験勉強や習い事、ゲーム遊びに追われ、
太陽のもとで外遊びもろくにしない、モヤシのように弱々しいまま、大人になってゆく姿に、
警鐘を鳴らしたかったからなのです。
小学校、中学校時代に、自然あふれる素晴らしい環境の中で、身体全体を使ってのびのびと生活する、 ただそれだけで他人の苦しみや痛みがわかる、大きな人間、豊かな人生を送る基礎を育むだろう、と確信します。
ボクはこの留学事業を、心から応援します。
2011年3月2日
松本市長菅谷昭氏の定例記者会見とNHKプロジェクトX挑戦者たち~
2013年
<仙台高裁の判決から今日までのこと>
原発事故の最大の犠牲者はまず子供であり、将来に渡りこれからもずっと子どもです
12/4柳原敏夫弁護士(動画&文字起こし)
菅谷市長のコメントあり
![]() 【送料無料】原発事故と甲状腺がん [ 菅谷昭 ] |
2014年5月29日追記
❤福島県の小中学生を受け入れている「まつもと子ども留学」へボストンからのプレゼント♪
5/26菅谷松本市長会見(文字起こし)他
―こども・被災者支援法の行方― より

大山香さん
郡山市出身。「とちぎ暮らし応援会」の訪問支援員、「栃木避難者母の会」代表。宇都宮市在住。
(音声)
2013年12月15日
宇都宮市 宇都宮大学峰キャンパス大学会館2階 多目的ホール
わたしは「栃木避難者母の会」の大山と申しますが、
はじめは去年の6月から訪問支援という事で被災者のお宅をまわらせていただきまして
いろいろな避難者の声を聞かせていただきました。
私は富岡町出身となっていたんですけれども、福島市の方から自主避難で来ております。
ですので、双葉郡の方で起こした今回の事故の問題と
自主避難の問題という部分では身近な問題で考えられるというポジションにおります。
そこで、訪問支援だけですと、どうしてもその時だけのこと、
また横同士の連帯と言いますか、そういったことも必要性を感じておりまして、
「母の会」っていうのを今年に立ち上げた次第です。
問題状況という事で先程いろいろなアンケートの報告があったんですけれども、
私自身が率直に感じて印象に残ったところが
那須塩原の方の「観光業務に従事しているので仕事が大変になりますのであまり騒がないで欲しい」と。
だけれどもその方自身は「不安が消えることがない」って。
ここの部分が私はちょっと心に残りました。
この放射能の問題というのはものすごく難しくって、
私もそうだったんですけれども、福島から自主避難するっていう事は、
あの・・・町とか行政の方が「騒がないように」と言いますか、「問題ない」というようなバイアスが、
バイアスと言いますか雰囲気でしたので、
でも自分でいろいろとネットとかを自分で見ますと、「ちょっと待てよ」っていう感じになって、
実際に、「自主避難」っていう選択はものすごく本当に大きな決断が必要なわけでして、
だけれども、「命に、やはり関係する部分なので、大騒ぎせずにはいられない」っていう部分もありますし、
知らない人には知りたいっていう、素朴な、私も母親ですので人の子ですし思いもありますので、
ま、こういう部分もすごく難しいんではないかなと思いまして。
それで私もいろいろな避難者の方のお話を伺いますと、
今回のこの問題というのは、もともと原発事故で起きた問題ではあるんですけれども、
実はこの避難の問題。
もしかしたら今回の被災者支援法とは軸がちょっとそれてしまうかもしれないんですが、
とてつもない大きな問題だと思っているんですね、私は。
それはいろいろな方のお話を聞かせていただくと、
本当に、同苦…同じ苦しみですね、
同じ気持ちを分かち合う、共有する、共感するだけではやはり解決してあげられない問題がありまして、
そこで本当にそういう方の気持ちに、本当になにか力になれないかって思うと。
本当にいろいろな事を私も、
なんで今まで立地地域のそばに住んでいて、本当に原発が近くにあってなんにも考えないできて、
そういったところからいろいろ私なりに深く悩みいろいろな問題を探るように。
もう今まではなんかどこか、政治も任せていた部分ですか、なにか信じていた部分といいますか、
そういった部分があったんですけれど、
なんかそういうものが、ちょっと崩壊してしまったっていいますか。
それでとても自分で本を読んだりしていると、やはりまぁ、
私も、この前学者の方とか専門家の方が言っていたのは、
「科学の失敗」ということもおっしゃっていまして、
あと「政治の失敗」だとか、「マスコミの失敗」だとかいろいろあると思うんですが、
いろいろな問題が、実は考えていると含まれているような感じがします。
それで私が苦しめられたのは、要するに「自分の本当の気持ちが言えない」というところで一番苦しみました。
「放射能が怖い」という事は当たり前の事なんですけれども、
「こういう事がやはり世間に向かって言えない」というところで、
もう本当に誤解されるかもしれないけれども、
「幼稚園でお世話になった近所の人達とか周りの人達を置いて自分しか逃げられない」っていうのが、
これがものすごく。
「どう思われるか」っていうこともそうだったんですけれども、
あの・・・、
なんか私だけが、・・・なんかおかしいのかな?って、私だけが変なのかな?っていう感じで避難してきて、
本当に孤立、孤独感でいっぱいでした。
それで、あの・・・はじめて訪問支援をさせてもらった時には、
強制避難の人の気持ちに寄り添うように、
自主避難の形、自主避難の方には、もう、もうとても私の心は見せられない。
なんていうんですか、自分の気持ちを隠して訪問支援をしていたというのが現実でした。
ところが避難者の声を聞くと、みーんな一緒なんですね。
「みーんな一緒」っていう事を感じた、気付いたんです。
で、「あ、本当に一緒なんだ、深い心の部分で一緒なんだ」と思った時に…何かものすごく、
こういうふうに一緒なんだ。って、
心の底から話していいんだ。
認めてもらえるんだ。
共有してもらえるんだ。っていう、
本当のことを言う場のありがたさ、
聞いてくれる人がいるありがたさ、
それに支えられたこの1年だったように思います。
続きを読む
「子どもの安全な場所での教育を求める ふくしま集団疎開裁判 記者会見」より
文字おこし部分のYoutube→http://youtu.be/3qYP47HRpfo?t=1h37m55s
福島で生まれ育ち、二人の娘さんと末に小学生の息子さんをお持ちのお母さんのお話
音声のみ
私は生まれてから福島で育ち、東日本大震災の時も、原発事故があった時も福島に住んでいました。
今年の夏に子どもと私の体調不良のため山梨に避難・移住をする事になりました。
これから移住までの経緯と移住後の変化を話させていただきます。
大震災の時、ライフラインは断絶しており、
食料や雑貨等の調達で、いつもは車で行くお店まで家族で歩いて行き、何時間も並んでの買い物でした。
そんな中、原発の事故の報道がありました。
私と子どもは異臭と息苦しさで、呼吸をするのがとても辛かったのを今でも覚えています。
連日のテレビの報道で国や専門家の方達の
「心配はない」
「直ちに身体に与える影響はない」の言葉に、不安はあったものの真に受け、
地元の野菜や水道水を飲んでいました。
子どもは学校での外での活動は制限され、外で遊ぶこともできず、つらい毎日を送っていました。
それからは日々の生活に追われ、仕事も忙しかったため、
放射能や被爆に関してはあまり調べることもなく月日が流れ、
事故から1年後に福島健康管理調査の甲状腺エコー検査がありました。
結果が届き、対象だった子ども二人とも「A2、のう胞あり」の判定で、
「2年後の検査まで再検査の必要無し」
とてもショックでした。
画像もなければどういう状態なのかもわからない、ただの紙切れだけ
不信感でいっぱいでした。
その時避難することも考えましたが、自主避難となるためなんの保証もなく、
母子家庭で実家にいた私は、外に出て子どもを養っていく勇気もお金もなく断念しました。
甲状腺の検査も個人で受けようと思っていましたが、
「地元で診てくれる病院がない」と聞いていたので、
不安を抱えたまま、時間だけが過ぎていきました。
そして今年に入り、「これから先何があるか分からない」と思い、
子どもを生命保険に加入させようとして、甲状腺エコーの検査結果を告知すると、
後日、「癌に関する特約は一切付加できない」との結果。
再審査をしてもらい加入は出来たものの、
「保険会社がそのような結果を出すという事はそれだけリスクが大きいと判断したからだ」と思い、
悩み、苦しみ、
そのことがきっかけとなり、放射能や被爆に対しての情報を集めるようになりました。
その後、甲状腺エコーをしてくれる病院が見つかり、検査をしてもらうと、
県民健康管理調査の検査対象外だった娘と私も、全員にのう胞があり、
半年ごとの検査を勧められました。
市や県がやっているホールボディカウンターは信用できず、NPOでの検査を受けました。
昨年秋には全員下限値以下だったのが、半年後の検査で子ども二人はセシウム137を検出。
私はどうしていいのか分からず、毎日隠れて泣いていました。
そしてその頃から、私は原因不明の空咳が出るようになり、
病院へ行くと「同じ症状の人がとても増えている」とのこと。
私は保養などで県外に出ると症状が治まっていたので、
「放射能の影響ではないでしょうか?」と尋ねると、
「そういう報告はきていないのでわからない」とのことでした。
小学生の息子は、足の裏の骨の痛みを訴えるようになり、
周りの方に聞くと、年齢を問わず大人も子供も足の裏の骨の痛みを訴えていた方が多かったのです。
そのような状態でも避難先で生活ができるか?
子どもが学校等に慣れるか?という不安が大きく、避難する決断ができずにいましたが、
ある方から「そんな事より命の方が大切でしょ」と言われ決断。
避難・移住先を探し始めました。
行政での受け入れは昨年末でほとんど打ち切りになっており、
受け入れの団体を頼るしか方法は見当たらず、
「東京より先」と思っていたので山梨に避難することに決まりました。
避難までの間私たち家族はみるみるうちに体調が悪くなり、
私は仕事で線量の高い地区を数カ月歩いていたため、空咳がひどくなり、
夜中に窒息しそうになったことも何度かありました。
そして足の裏の骨の痛みから始まり、腕、足の骨まで痛むようになり、
空気に触れる腕や足はチクチクと針を刺したような痛がゆさ、
1年以上続いていた喉のつまりと痰がからんでいる状態は次第に悪化していきました。
突然の身体のだるさで、車の中で動けなくなったこともありました。
腕の骨の痛みも激痛で、戸の開閉も出来ないほどの苦しみでした。
とても恐ろしくなり、その地区を歩くのをやめると、
間もなく骨の痛みは無くなりました。
そして小学生の息子は、朝起きると吐き気・頭痛が続き、
病院へ行くと血尿が出ていて、
アレルギーもいままであったアレルギーの3倍程の種類に増えており、
「体調不良の原因はアレルギーからかも」という診断。
しかし薬を飲んでも吐き気・頭痛はよくならず、下痢をすることもあり、
私も同じく吐き気・頭痛・下痢が続くようになりました。
他の病院を受診しても「心因性によるもの」と言われたり、原因はよく分からず、
その時点で息子の血圧は82の50と低下していました。
息子の体調は次第に悪くなり、目の下のクマはだんだん広がっていき、
移住までの3週間はほとんど学校には行けない状態でした。
家の外の空間線量は0.8マイクロシーベルト
敷地内は1.5~2マイクロシーベルト
家の中でも0.3~0.5という、そのような中で生活をしていました。
子どもの甲状腺の事や、高線量の通学路を歩かせることへの不安を
学校の校長先生に相談したことがありましたが、
「年間5ミリシーベルトでも大丈夫だと思っています。そんなのを気にしてたらどこにも住めない。
気にする方が病気になる」等など、信じられない返答でした。
独自で学校の線量を調べた時、
学校の敷地内には1.5マイクロシーベルト前後のところがあちこちにありました。
でも学校はその線量を発表していません。
その後2年ぶりのプール再開。
「入れない児童は病院の診断書を出すように」と、今までにない承諾書の内容に言葉が出ませんでした。
娘はもともとあった原因不明の皮膚疾患が悪化し、今までにないひどさでした。
息子は自分の体調不良を異常だと感じ、
「今までこんなことなかったのにどうして?」と、布団の中で泣いてしまうこともありました。
そして移住後一週間は、
私も子どもも吐き気・頭痛・下痢・身体のだるさ、喉のつまりと痰がとてもひどく辛かったのですが、
それが二日に一度、三日に一度と間隔が延びていき、
息子の目の下のクマはだんだん薄くなっていくのが分かりました。
それから間もなく、東京の病院へ子どもと甲状腺の検査に行き、後日結果を聞いて驚きました。
全員福島での検査結果と全く違っていたのです。
そして息子の血尿も続いており、
「血液検査の結果も気になるので専門の病院で診てもらうように」との事で、移住先の病院で診てもらうと、
「自律神経が悪い」との診断。
しかし息子の症状や自分の体調不良を、どう考えても診断結果が腑に落ちず、
病院不信に陥り、病院に行くことをやめました。
移住も一カ月ほど過ぎると、子どもも私も体調はすっかりよくなり、
息子は元気に学校に通えるようになりました。
体調不良などはたまにあるものの、福島で起きていた異常な症状は全く無くなりました。
自分たちの体調が改善された時に初めて、
「恐ろしいところにいたんだ」と、放射能の怖さを思い知りました。
移住後二度ほど帰省をしましたが、やはり体調が悪くなります。
そして今福島に残っている方達には、私と同じ症状で苦しんでいる方が増えています。
亡くなる方も増えています。
白血病になってしまった子、鼻血が出るようになった子、
甲状腺がんのお子さんも増えています。
甲状腺がんのお子さんもお母さんも、とても苦しんでいます。
「子どもだけは」と思う方も多いですが、親が元気でなければ子どもを育てることができません。
一日でも早く高線量の地から、大人も子供も避難させてほしいと願います。
私も含め、避難された方の多くは「もっと早く避難していれば」と後悔の念にかられています。
「子どもを守りきることができなかった」と、
これ以上そのような思いになる方を増やしてほしくないのです。
国や東電には真実を明らかにして、
すべきことはしっかりと責任をとって欲しいと思っています。
そして私たちは震災での心の傷が癒えぬ間に、
放射能による二重三重の苦しみを負わされているという事をもっともっと知っていくべきだと思っています。
以上です、ありがとうございます。
質問
Q:甲状腺の結果が違う結果が出たという事ですが、どこが違っていたんですか?
A:
福島の甲状腺エコー検査の時は、息子はのう胞が二つという事でした。
個人の病院で調べてもらった時ものう胞が二つという事だったんですが、
こちらに来て東京の病院で診てもらいましたら、
のう胞ばかりではなくしこりもあり、甲状腺腺腫様腺腫という病名と、リンパ節腫大というのもありまして、
その数も10個以上あるような状態でした。
川根眞也(内部被ばくを考える市民研究会代表)

この間福島のお医者さんから聞いたんですけれども、
福島県の健康管理調査検討委員会がやっている甲状腺の検査というのは、
甲状腺がんのスクリーニングしかしていません。
甲状腺の機能低下症、亢進症、一切、触診すらしていない。
甲状腺がんの数を出すための検査なんです。
だから甲状腺機能がおかしくなっていても、それが表記にならないし記録に残らないし、
当然患者である子どもたちにも伝えられないというのが、今の福島県のやっている事です。
Q:山梨に自主避難されたのは何時ですか?
A:今年の7月です。
続きを読む
文字起こし部分のYoutube→http://youtu.be/fGjtI6yXo10?t=13m34s
「原発が爆発したって言っているよ」っていう話を、
「え?何それ?」って言って、
でも、その時もまだ停電をしていたので、いまテレビも見れない、ラジオもないので買えないし、
ホームセンターも、もう店も全部閉まっていたので買い物もできず、
車のエンジンをかけながらラジオを聞いたりもするんですけれど、
普段ラジオなんか聞かないので全然わからなくて、
分からない、何を言っているのかも聞き取れなくて、
でも、「60km以上離れていると思うから、大丈夫だと思うよ」って主人が言ったんです、
もうなんとはなしにね。
「そっか…」って、でもその時は余震がすごくて、そっちの方が怖かったですね、
で、余震が怖いから外出はなるべく控えていたんですが、
ほとんど食べるものがなかったので、スーパーがやっているかいないのか、
主人の自転車でウロウロまわりながら、
「あそこのコンビニでなんかちょっと買わせてもらえたから」って言ってお菓子を買ってきてもらったり、
あとは石油ストーブを長男が借りてきてくれたので、
それで冷蔵庫の冷凍ご飯を使っておじやをつくったりしました。
その時は、なんとなく放射能の事はここらへんにはあるんだけれども、全然無知で、
元々が原発という部分「怖いな」とは思っていたけれどもそこから勉強しようとは思っていなかったので、
全くこう、考えていなかったですね。
とにかく「怖いから家の中にみんなでいよう」みたいな感じでしたね。
それで、停電が解除されて、
長男も主人も仕事に行くようになって、
で、インターネットとかも見れるようになって、
そしたらね、携帯にチェーンメールがきたんです。チェーンメールっていうんですかね、
それがね、3人の友達から、それぞれみんなママさんなんですけど、同じメールがきたんですね。
ちょっと読みますね。
県立医大の放射線科の医師宮崎先生からのメールです。
これは「知り合いの看護婦さんが送ってくれました」という事で転送してくれたんですけど、
貴重な情報と思い、皆さんに転送します。
宮崎先生から。
これは3月22日のメールです。
この1週間は大学で生活していたようなものです。
最初は災害による患者さんの対応に始まり、後半は放射能との闘いでした。
特に、極めて少ない放射能が子どもに与える影響をどう判断するか?について、
(現状のレベルでは大人には何も影響しません。飲料水も含めて)
水曜日から金曜日まで、沢山の人が頭を振り絞って考えた現時点での結論は、
「少なくても、福島県中通りでは逃げなくてもいい」
「ヨード剤の服用も必要無い」です。
これはわたくし個人の見解では無く、福島医大や長崎大のスタッフ全体の総意です。
まだ公にはなっていませんが、
ただ、爆発や新たな放射能漏れがあれば話は別ですから注意は必要です。
爆発した場合は家の中にいる事で劇的に放射能を下げる事が出来ます。
その時はまたアドバイスできる時間はあると思うので、
(爆発の可能性は限りなく低いとも考えられています)
また子どもについては長期間国による健康保養が必要と考えています。
すでに働きかけが始まっています。
今はむしろ希望を持って仕事をしていますよ。
なんせ、子どもたちを守るための仕事をしていますからね。
「全ての事件が収まったのに、20年後には子どもがいなかった」なんて言うのは願い下げです。
このメールは必要であれば各者に転送してもらって、というよりは転送をお願いします。
以上です。
というメールが3つ届いたんです。
で、私はこれちょっと思い返している時に
「ああ、こういう文章だったんだな」というふうにあらためて思ったんですけど、
その時はね、正直、安心しちゃいました。
「あ、迷ってたけど、やっぱり避難止めよう」って、私は思ったんですよ。
だから、このメールを見ても避難した知り合いはいるし、
それは人それぞれの考えだから、
ま、私はこれで安心する材料にしちゃったんですよね。
「じゃあ、いいか」って思いました。
その時テレビがつき初めて、
番組がなんか、あんまりなかったんですけど、下にこう、放射線量が出るんですね。
福島市は確か20前半。
21とか2とか。
で(マイクロシーベルト)って書いてあって、ダントツで周りよりも高くて、
私は伊達市なんですけど、もう橋を渡るとすぐに福島市の場所にいたので、
ニュースを見る時には福島市の事をよく気にしていて、
伊達市の方はもっと別の中心で少し低かったんですよね。
でも全然その数字の感覚も分からないし、
「何だろうね、この20ってね?」って、主人とね、
「いやだね、ちょっと高いね、なんだろうね」という感覚でしたね。
で、山下俊一さんの放送もケーブルテレビで、
伊達市にいらっしゃった時のお話の模様があったんですけれども、
それを一生懸命かじるように見ていて、
またね、なんか面白可笑しく話されるんですね。
なんかこう、「もう大変だよね~ぇ。わかるよ、わかるよぉ~。」みたいな、
見た後に、「なんかあの人いい人だね」みたいな、なんかそういう、
後からすると「あれは騙されちゃうよね」っていう感じでした、本当にもう。
で、どこかに「安心したい」
「誰か私に安心する情報を頂戴」って、どこか思っていて、
「もう、この不安から逃げたい!」みたいな。
でも、「福島、この生活は離せない」っていう心境でずっといたので、
やっぱりね、パソコンもできたし、インターネットからいろんな情報も、
怖い情報もね、取る事は出来たんだけれども、
どーしてもやっぱりね、怖い情報だけに浸ることはできなかったですね、やっぱり。
「あの人はこういうふうに言っているけれども、この人はこういうふうに言ってるよ」みたいな感じでしたね。
ずーっとインターネットは見ていましたね。
テレビも同じような番組しかやらなかったし、
それで4月になって、福島市の息子が行っている幼稚園が新聞に載ってしまって、
それは3.8マイクロシーベルト以上の、そういう施設の一覧表があったんですね。
それにそこの幼稚園があって、親から電話がきて「あんた大丈夫なの?」っていわれて。
「えっ?!」
そこから、積算量、放射能の積算量を「ヤバいかも」って考えだして、
最初の20とかあった、だんだん数値とかいろんなものを勉強して、
「これ、ヤバい」って思うようになって、
4月から母子避難を考えるようになりました。
だけどやっぱり「一時避難しかしない」というつもりでいたので、
移住とかは全く考えられなくて、
新潟の宿泊施設に友達と行ったんですけど、
5月、1ヶ月いたんですけど、
もうちょっと長く居たかったんだけど、子どもがおかしくなったっていうか、
精神的になんか、ちょっとおかしくなって、
避難所、みたいな、そこの宿泊施設は100世帯以上の避難者がきていたんですね。
母子避難から、家が流されてしまった家族ごときている方もいらっしゃって、
だんだん、こう、密閉されたという中でね、100世帯の方がいるというのは、本当に息がつまるというか、
その宿泊施設の方も、新潟県の方もすごく良くはしてくれたんですけど、
あの…おかしくなってくるというか、
喧嘩とか、ぶつかったりとかね、避難者同士がぶつかったり、もめごとを起こしたり、
あと小さな子どもがいっぱいいるから、伝染病みたいなものも流行ったりとか、
あと、普通にお客さんで来る宿泊施設の方とのトラブルとか、苦情とかがあったりとか、
ま、いろいろあって、
私もちょっと追い込まれてしまって、お家に戻ったんです。
それが6月です。
6月に戻ってから、急に3人とも咳がひどくなりました。
もともと次男はぜんそく持ちだったので、
「梅雨に入ったし、新潟と伊達市では気候が違うから急に変わってぜんそくが出たんだな」と思っていたら、
3男4男も咳をし出して、
「あれ?風邪かな?」とか。
で、3人とも連れて小児科に行ったら、
その時に私も空咳が出始めていて、「何だろう?」って思っていたら、
喘息は喘息なんだけど、「3男も4男も喘息だ」って言われて、
「3人とも喘息だ」って、そんなこと初めて言われて、「えぇっ!?」って。
それで二男は点滴をするほどひどくて、喘息の治療薬をした方が良いと言われて、
で、その時はね、もともとすごく人気のあるお医者さんだったんですけど、
もう、座るところがないぐらいの患者数だったし、車で待っている人もいたし、
みんなほとんどが呼吸器系の患者に見えたんですよ。
なんか、吸引するのがみんなしているような感じで、
だから「ちょっとどうなの?」って思って、
「私も咳が止まらないです」って先生に言って、
どんどんひどくなるので同じ小児科で診てもらったんですけど、
「マイコプラズマかな?」とか言って、
でも結局そうではなくて、薬で収まったんですが、
なんかやっぱりその時ちょっと怖くてね、
怖かったですね。
戻ってきてしまった事で、「どうなんだろう?」って。
でもみなさん御存じだと思うんですけれども、
普通の小児科医、病院では一切「放射能のせいだね」なんていう事は一言も言わないし、
放射能の話も絶対に出ないんですよ。
で「放射能のせいとかじゃないんですかね?」とかちょっとでも言っても、
「あんた、そんな」とか、「じゃあ白血病の検査しましょうか」みたいな、そんな話になるので、
そこまでじゃないから、
結局鼻血をずーーっと出していても、
なんかその、「止血材を出しておいたから」みたいな、なんだったのかという事は絶対に言わないし、
どこの病院に行っても、私は3つ位行きましたけれど、絶対に言わないし、
甲状腺の検査もしてくれないし、
それは「県医大に任せてあるのでしません、やりません」という事はもう書いてあるんですね、受付などに。
なので交渉もしなかったし、
「あ、無理なんだな」っていう事で、そういう状況でした。
なのでずっと、九州に来るまではぜんそく治療薬は2男と3男はずっと吸わせていました。
そこは言われるままやっていましたね。
そして、夏休みは実家に帰ったり、あと保養をさせてもらったり。
もうその時はずっと、
私は、家もね、福島に来て2年経った頃に新築というか、家を買っちゃったんですよ。
なので、家も買ってローンもある。
旦那も福島の、転勤族ではないから、ね、伊達の仕事だし、移住とか引っ越しもあり得ないと思っていたから、
保養しながら福島を拠点として、
「なるべく低いところで過ごせるように最善を尽くすしかない」と思っていたので、
そうやって出たり入ったり出たり入ったり、
北海道へ行かせてもらったり、岡山へ行かせてもらったり、あと実家へ帰らせてもらったりとか、
夏休みとか連休とかを利用して、もういろんな忙しくしてたんですね。
それでいけると思っていたんです。
なんだけれども、
給食を断ってお弁当にしたんですけど、
クラスの中でお弁当にするというのは二人だけいました。
私ともう一人、
学年で多分二人ですね。
すごくそれも勇気がいる事で、
先生は何も言わないけれどもやっぱりなんか、みんなと違う事をする事が、
今もそうですけど、すごく抵抗があって、
でも「ここは」と思って「お弁当にしたいんです」というお願いをしてお弁当にするんですけれども、
その当時2年生の子が、「なんで僕はお弁当なの?」って言ってきて、
でも岡山で病院に行った時に、ほら、「やっぱり安心なものを食べた方がいいって言ったでしょ」って
「排泄が良い食事をした方が良いんだよ」っていうような感じで、私は正直に話しちゃったんですね。
「アレルギーだからね」とか言えば良かったんですけど、なんか、話しちゃったんですね。
そしたら子ども同士でね、
「僕のお母さんは、給食は安全だっていうよ。なんでお弁当なの?おかしい」って。
で、「うちのお母さんは安心なものを出している」って、弁当に入れてくれている。
イコール「給食は安心じゃない」っていう会話になるんですよ、子ども同士で。
で「おかしいって言われた」と泣きながら帰ってきて、
「ああ、もうちょっとうまくやればよかったな」とは思ったんですけど、
そういう苦痛もあって、
あと、懇談会などでは放射能の話はやっぱり出来ない空気になっています。
心配しているお母さんとか、んー、みんな心配しているとは思うんだけど、
それを出さない「前向きに行く」みたいなお母さんがメインに話をされるので、
私とか心配している方が、正直にね、たとえば(心配なんですよね)とかってお母さんだけの間で言うと、
やっぱりそういう、なんていうのかな、
「不安にさせる?言葉」は、こういう大勢の前で言ってもらうのは困るという事をハッキリ言われるんですね。
みんな、やっぱりどこか「怖い」とかいろいろあってね、こうやって騒がれているし、
それなのにここで頑張ろうって思っているのに、そんな事を言われたら子どもに通じて、
不安がね、通じて具合が悪くなる、精神的にストレスになる、って言われて、
やはり「えぇっ?」って思うんだけど、
「ああ、そうなんだ」って思って、それ以上の事はやっぱり言えなくて、
「言ってはいけないんだな」というふうになっていました。
そこがまた居心地がだんだん悪くなってきて、
そして、10月、11月ぐらいですかね、
団地に、みんなこう、お家を建てて、塊で住んでいるところに家を建てたんですけど、
自治会みたいなものがあって、ゴミ出しのルールとか、いろいろとあるんですけれどもね、
回覧板が10月位にきて、
まず、「土を絶対にゴミに出さないでください」っていうのと、
あと、草むしりをするじゃないですか、草とか落ち葉ね。
それは、ちゃんと払って出すとか、
その時はまだ袋の規制はなかったんですけど「えっ!?」
「木の丸太みたいなものは出さないでください」っていうのがきたんですよ。
木を出しちゃいけないんだって、
土を出しちゃいけないんだって、っていう話をしてて、
「やっぱり土は汚染されているもんね」みたいな話を主人としてて、
そう、それで大体うちの家の中の数値は
玄関から庭の当たりは0.5から1マイクロシーベルトっていう場所でした。
それは、伊達市の広報でくるんですけど、
分布図があって、私たちの住んでいるところは、メッシュみたいになっていて色分けされているんですけど、
0.5から1。
周りはもっと高いんですよ。
で、「あ、そうなんだ。そういう場所なんだね」みたいな感じなんですけど、
実際に数値を自分たちで測ると、ま、大体はあっているんです。
0.7~8ぐらいなんですけど、
やっぱりね、ある一点めちゃくちゃ高いっていうところは確かにあって、
ここは1を超えるし、
なんて言ったらいいんですかね、
「平均でいくつですよ」っていうお知らせは何の役にも立たないんだなっていう、
でもそれはね、私だけじゃなくて、みんな知っていますね。
テレビでも飯舘村は0.8とかって出るんですけれども、
笑ってます、みんな「ハハハっ」って。「あれ嘘だよ」って。
そこを綺麗にすればね、本当にきれいにすれば、そこだけを、本当になるんですけど、
それも知っているし、
周りがめちゃくちゃ高くてもそこが低かったら、そうやってなるし、
伊達市の市役所でも、そこだけを低くする事は出来ます。
福島市の数値もそうなんです。
でもみんな知ってる。
私たち、お母さん同士で「こんなの出しちゃってみんな知ってるのにね」って。
でも、ま、世間、もっと県外とかの人も多分知らないんだろうね、っていうふうな感じです。
で、家の中は0.2~3でした。
これはもうどんなに掃除をしても、水ぶきをしても、
あ、水ぶきは、直後はすごく低くなるんですけれども、乾くとやっぱり戻るし、
うちは2階も同じぐらいでしたけれど、
2階のベランダは0.7ぐらいですね。
そうだったんですね。
で、11月位になってもう一回回覧板がきて、
枝とか、草むしりをした草、落ち葉などのゴミは、
ゴミの日に「各家庭で一袋までにして下さい」ってきたんです。
わたしはその時にやっぱりどんどん怖くなっていたので、
そうだよね、落ち葉とかコケとかね、
コケはもうめちゃくちゃ、もう皆さん知っていると思うんですけど、
コケとか芝というのはなんか、めちゃくちゃ高く出るんですよね。
で、やっぱり親の心としては、子どもを外へ出さないようにはしていましたけれど、
全く出さない事は出来ないですね。
学校もあるし、ふざけていつ芝生に座るかもわからないし、
転ぶか分からないし、手をつくか分からないというのがあるので、ベタベタ壁にも触るしね。
やっぱりね、捨てたいんですよ。
もう、あって欲しくないから、
でも、除染はね、0.1~5のところは伊達市は、専門家に相談したい時は相談して、
「あとは自分でやって下さいね」という段階の場所だったんですね、わたしたちは。
なので誰にも頼れないし、もう自分でするしかないから、
マスクしながら草をとって、枝を取って、コケを取って、
週に2回ゴミの日に1袋ずつ出したりとかしてたんですね。
で、11月の後半にずーっとお休みだった「地域の掃除の日というのを再開します」ってお手紙がきたんですよ。
「あ、そうか、じゃあ日曜日はまた早く起きてやらなきゃね」なんて言ってやったんです。
夫婦で出てね、ごみ袋持って。
そしたら、家はやらないですよ、やっちゃ行けないというか、家じゃなくて公共の道路。
みんなが使っている地域の団地の中の道路とか、
子どもが通るようなところとかを重点的にやりましょうって、
もう、それは沢山のゴミが出てしまったんですけど、
「これは月曜日に回収しますので、一回持ち帰ってもらって、そして出して下さい」って言って、
月曜日は普通のゴミの日なので、家のゴミと別に出すんですけれど、
夕方になって家庭ごみだけ、生ごみだけは回収されているんだけど、
そのゴミがそのままあったんですね。
で「あれ、今日ゴミの回収がないね」なんて言って、
そしたら夜呼ばれて、班長さんが
その「ゴミの収集車についている線量計が集めている途中で鳴りましたので、そこで終わって帰りました」
というふうに言われたんですよ。
「なので、皆さん申し訳ないんですけれども、みんな分担して持って帰って下さい」
「持って帰られたら、それをそのまま出されたらまた高くなってしまうので、
持って帰ったらそのゴミを開けて、自分の家庭ごみを混ぜて、新聞かなんかで蓋をして出して下さい」
というお話があって、「えぇっ!」って。
もうその時もまた、「ヤバいんだ」と思って、
でもしょうがないからって言って持ち帰って、
それで、それをやりました、そのまま、そういうふうに。
で、その時に3つ位の袋を持って帰ったんです。
主人が帰ってきて、「もうこんなん言われて」とか言ったら、
「ちょっと調べてみる?」って言って、ごみ袋の上に線量計を置いたら、
3マイクロって出たんです。
もう、慌てて端の方に置いて、ビニールシートをかけたんですけど、
「もうヤバい」「もうヤバい」ってその時に二人で言ってて、
それで12月、1月、2月にかけて、
ホールボディカウンターの検査と、甲状腺のエコー検査があったんですね。
幼稚園とか小学校単位であって、
幼稚園の子は私が連れていったんですけど、親は入れないんですね。
見せてもらえないんですね、画像を。
「ちょっとお母さんここで待ってて下さい」みたいな感じでやってて、
子どもたちは小学校でやったのでそれも見ていないし、
私はホールボディカウンターの結果がすぐにきたので、「問題ない」ってきたんですよね。
でもあれはすごく許容範囲が広くて、
「あんまりあてにならないな」というのはあったんですけど、
私の中では「やっぱり大丈夫なのかな?」ってちょっと思ったりはしていて、
で、まだそんな事を思っている訳ですよ。
もう、精神状態がこんなふうに毎日違うんでね、
不安になったり、大丈夫頑張るみたいになったり、そんな感じなんで。
それで甲状腺検査の結果もなんか気にしていなかったんですね。
ホールボディカウンタ―みたいに「大丈夫」ってくるんでしょ。ぐらいな
ちょっとこう、そういう思いがありましたね。
そしたら、3月に結果が郵送されてきて、
次男と3男はA2という、
のう胞が、「5mm以下ののう胞が3つだか4つだかあります」というのが二人ともきたんです。
私はちょっと油断をしていたので、「大丈夫でしょ」みたいな感じで開けて、
もう、「あーーーっ」て。
で、それを見た時に私は、「私のせいだ」と思ったんですよね。
なんか、こうやってうだうだ悩みながら、ぐちゃぐちゃやってて、
その間にもう被ばくをさせていたという、それをすごく責めて、
建てたばっかりの家に住みたいし、
旦那の仕事を辞めさせられないし、
ここにいたいし、
生活レベルを落としたくないし、
「新しい土地で新しい生活なんて絶対に無理」って思っていながら、
「なんとなく気にしていればいいでしょ」位に住んでいて過ごしていた自分も、
もう、ムチャクチャ責めて、
「もう、全部諦めよう」と。
「しがみついているものを全部手放そう」というふうに、もうその時に決めたんですよね。
で、いつまでも、
毎日毎日旦那と、福島にいる間は、毎晩主人と話してね、
やっぱり放射能の話になっちゃうんですよね、どうしても。
「どうすんの?」って私がよく言うんだけど、
旦那に「じゃ、どうすんの?家建てたのにどうすんの?」って、
「じゃあ、仕事どうすんの?生活どうすんの?」って。
ってなって、決まって、旦那が「行ってきな」って。
子どもが僕も心配だけど家がある、仕事もある。全部なくせないからもう母子で行ってきな。
お兄ちゃん、長男と僕でこの家、後は実家でも何でもいいよ、って。
「保養でも避難でも行ってきな」って言って終わるんです。
「さあ、話は今日はこれでおしまい」みたいな感じで、毎晩同じ話をして疲れていたし、
だけど、その甲状腺の結果を見て、
3月何日かに、それはもう全部終わりにしようって言って。
主人にも相談じゃなくて、「私はこうします」っていう事を言おうと思って、メールをしたんです。
「甲状腺の結果、次男と3男がこうだった」って。
末っ子は問題なかったんですね、一番心配してたんですけど。
で、「そうだった、後で話があります」みたいなメールをしたんです。
主人はもう、見て、何を言われるのかわかるので、
いま話を聞くと「めちゃくちゃ怖いメールだった」みたいな事を言われたんですけれども、
私は主人と話をするために待ってて、帰ってきて、
こうだったからもう、もう、あなたはいいから、
私は自分の親に頼むから、もういいから、みたいな感じで、
「もう急いで準備するから」っていう感じで言ったら、
「一緒に行くよ」って言ってくれたんですよね。
私はすごく以外で、
「じゃあどうすんの?だって、誰もいなくなってどうすんのよ」みたいな感じで、
「いいよ行くよ、なんとかなるよ」
「もう諦めた、もういいよ」って。
やっぱり主人も自分を責めたんだと思うんですよね。
自分がいさせた。
保養に行く時も、「行ってきな」とは言うけれど、喜んではいないんですよね。
やっぱり自分が一人になっちゃうし、
長い間一人で、新しい家にポツンと、
ま、長男が居てもね、あんまり一緒にはいなかったから、
そんな家にいたってというのがあったし、
やっぱり面白くないような感じもあったから、それは分かっていたんですけど、
そういう自分をやっぱり責めてて、
「そういう生活があっても子どもの具合が悪くなる事と引き換えにはできない」という、
うちはやっぱり甲状腺の結果を見てからになってしまったんですけどね、
それで急いで準備をして、
そして北九州市と、いろいろ候補地をあげていただいて、知り合いの方に。
で、まあ、下見に来て避難が出来たというか、皆さんに支えられて引っ越す事が出来たんですね
「福島に戻りたい?」ってよく聞かれるんですけど、「戻りたいでしょ?」とかって。
私は、すごくこわかったので、
スーパーに行っても、なんにも入れられない。
「大丈夫だな」って思えるものが何一つない。
スーパーも何軒も回って、もうおかしくなって、怖かった思いとか、
あとは、報道されていないような、むちゃくちゃ高い、
二桁ぐらい高い数値が出るような小学校とかもあるんですね、福島市には。
あるんですよ、除染も終わったあとなのに。
そういうところをたまたま、やっぱり。
みんなお母さんは持っているんでね、線量計を。
そういうところを見たりとか、やっぱりしてて。
いま住んでいる方には申し訳ないけど、
やっぱり、怖いですよね、帰ることは。
子どもが、息子もね、置いてきているし、
矛盾がすごくあります、心の中には。
だけどやっぱり、仲良くしてくれたお母さんとか、良くしてくれた方には、
「本当に会いたいな」というのは思うんですよね、本当に。
あの、「楽しかったなぁ」とかね、
でも、そんな事ばかり考えていては前に進めないので、
あの・・・ま、それはね、それとして、感謝で収めておくんですけど、
ただ福島で起こっている事や、圧力がかかっている事は、
「本当に福島だけのことじゃないな」というのは北九州に来て本当に思ったし、
いろんな方に会って、いろんな体験をしましたけれど、
やっぱり自立して自分で動いて、
面倒くさいけど考えて、調べて、
ちょっと怖いけど、電話したりとかして聞くという事をやっていくことが、やっぱり私にもできる事で、
ま、皆さんにもそうなんですけど、
「それがすごく大事なんだな」って、ちょっと、ちょっと
原発はやっぱり、
誰でもね、原発は怖いと思うし、
ただそこから、如何に自分の事として考えられる事が、
「なんかなぁ」って、遠いことじゃなくて、
で、じゃあここにいて何ができるんだろう?って、すごく離れて、「東北の方とか大変だけど」っていうけど、
蓋を開けたら、私たちは何時そういう目に遭うか分からないし、
実際本当に怖い目にあっているのかもしれないし、
それを分からない様にされているのかもしれないという事は
起こっているんじゃないかなと私は思っているんですね。
で、こんなことを言いながらも、本当に、本当にもうビビリだし、
本当に役所に塚本さんと行ったりするんですけど、
わたしは一言もしゃべる事が出来ないんですよね。
役所の方も怖いし、塚本さんも負けていないし、
私はもう本当にそばにいるだけで、署名もね、するんですけれども、
最初は私なんかそういう事はやった事がないので、もう飛び込み営業みたいな感じですよ。
だけど、本当に怖くてね「なんだ!」とか言われたりすることもあるんですね。
なんだろ?正義感でやっているわけでもないんですけど、
やっぱり私は話を聞いたり、自分は何もできないただのお母さんなんですけど、
でもやっぱり自分が体験したことや、
こっちの子ども達も、何のいわれもない汚いものを吸う理由はないと思うし、
なんだろ、そういう思いで、
じゃどうする?って自分に言い聞かせて、この間自分の時間をどうするの?って思った時に、
できる事をやろうと思って、
できる範囲で勉強したりやっているんですね・・・・・・
おわり
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いわき市から北九州市へ自主避難された方の話
2013年9月 北九州市にて撮影
3.11福島原発事故で、故郷いわき市から、昨年1月に北九州市に自主避難してきました。
今日は、主に北九州市に来るまでの9ヶ月、
私が見てきたこと、体験したこと、感じたこと、そして今を話します。
原発から42kmに住んでいました。
いわき市は映画フラガールの舞台で、気候は、夏は涼しく冬は暖かく、東北なのに雪が積もらないところです。
私はそこで、ピアノ教室の主宰として、夫はいわき市職員、
子供2人と生徒たちに囲まれて、毎日楽しい時間を過ごしていました。
さて、3.11後私たちの生活は一変しました。
いわき市の北の方は30km圏内だったのに、市長が「風評被害」という言葉をつくり、圏内から外しました。
事故前は1時間あたり、0.05マイクロシーベルトだった放射線量は23マイクロシーベルト、460倍に。
当時、長崎大学の山下俊一教授が「100ミリシーベルトまで安全だ」と大キャンペーンを、
テレビ、新聞、ラジオ、学校、講演会で行き渡ったころには、学校で0.5マイクロシーベルト、
通常値の10倍でも、外の活動を安全だとして行いました。
100ミリシーベルトが安全ですので、当然、給食は最初地産地消ということになり、
私たちは署名活動を根気よく続けて、地産池消をすぐにやめさせました。
なお、教育委員会が“給食を食べない自由”を認めたのは、2学期になってからです。
ですから、安全説を信じた人の子供たちは、地産地消をして給食を食べさせていました。
先生や学校に言っても無駄でした。
外の放射線量は同じではありません、
10cm違っても、2.3マイクロ、5マイクロ、普段の46倍、100倍、と様々です。
私が、疑問に思ったのは、市の職員、学校の教員が子供を守らなかったことです。
さて、原発が爆発した時の事を話しましょう。
3月11日の大地震での被害は、私の家は殆どありませんでした。
ただ、いわき市の水道が20日間止まりました。
水道が止まったので、次の日給水車に2時間ほど子供と一緒に並びました。
この時、3月12日1回目の爆発がありました。
あとで測定データを見ると、23マイクロ普段の460倍でした。
この時、「危ないから屋内退避しなさい」という広報車もなく、
私たちは爆発したことも知らず2時間外にいました。
「日本は安全」と言っていましたが、
今現在私達親子3人共に、「甲状腺に異常有りの血液検査の結果」と、
息子には、5mmののう胞があります。
いま報道をみると、甲状腺がんは生活習慣病になりました。
たとえ癌になっても自己管理のせいといわれ、放射能の影響と国は言わないと思います。
私は、子供たちのホールボディカウンターを事故後すぐに受けようとしました。
しかし、どこに問い合わせても受けられませんでした。
東京まで行って受けてきた人がいましたが、「データーを渡してもらえない」と聞きました。
私も、何箇所か電話で確認しましたが、データーを渡してくれるところはありませんでした。
では、甲状腺の血液検査と思い電話をしましたが、
いわき市内一斉に「甲状腺の検査はしない」と、耳を疑う結果になりました。
「どこで被曝した証拠を残せるか?」と福島県に聞きましたが、「ない」と回答されました。
私の主人はいわき市の職員です。
「何かあったら1番に連絡があるはずだ」と主人は言ってましたが、
結果は爆発も知らされず、母子ともに外で被曝しました。
また、私の主人、市職員は放射能の知識はゼロですが、
国から与えられた文書を丸暗記するほど電話対応に追われていました。
事故から5か月後、いわき市発表の放射線量は0.12でした。
私が市役所からガイガーカウンターを借りて測ると、0.24~22.14。
また有志で土壌検査や剪定した木の測定をしました。
kgあたり2万ベクレルありました。
「行政は私たちを守らない」と主人と放射能の測定結果を見てそう感じました。
例えば、「水道水ND」といわき市のホームページで発表されています。
それで、「ストロンチウムやプルトニウムなどの核種の測定値を見たい」と公文書請求すると、
「市民が混乱する」という理由で詳細なデーターを出さず、ヨードとセシウムNDの文書が出されました。
私たちの無知につけ込んで本当に腹が立ちます。
避難の理由
私の避難の選択は、放射能を怖がるというよりは、
行政・学校の対応と自分たちの目でみた測定値と家族に起こった体の異変で判断しました。
毎日続く下痢、鼻血、口内炎、鼻の中のでき物。
これらは、原発事故後に家族、友人に実際に起きた身体の変化です。
放射能の影響は癌だけではないと知ったのも後になってです。
国の発表と事実はちがう。
国は明らかに法律違反を市民に強要しているのに、職員は国の言いなりにしか動きません。
文書公開制度すら、嘘にならない嘘で市民を騙し、出させない、書かせない、時間をかせぎます。
学校は生徒・児童を守らない。
放射能に気をつける父兄を許さない。
放射能をなるべく避けようとお弁当にすると、他のクラスメートからいじめられ、
暴力をうけても、いじめた児童父兄を指導せず、放射能を怖がらないように私が指導をうけました。
私が、避難を決意したのは、娘の登校拒否でした。
放射能を予防することを周りの空気が許しませんでした。
私はそれでも、いわきで暮らせる方法をたくさん探し、
行政に文書で色々請求しましたが、のらりくらりとかわされました。
年老いた両親と共に避難を説得しましたが、
「今更ふるさとから離れたくない」と言われ、
夫は安全論。
夫の母には「立場をわきまえなさい」と避難することを許してもらえませんでした。
結局、行政と格闘しながら、悩み、
私の両親から「子供を一番に考えなさい」と言われ、
夫を捨て、年老いた両親を福島に残し、北九州に避難しました。
今、話したように、報道と事実は違います。
先日、産廃の中間報告書を文書公開したら、
福岡県のある企業では、福島、茨城、山形、神奈川からも汚泥・煤塵を受け入れ、
北九州瓦礫受け入れ以前から今も処理しています。
瓦礫受け入れ騒動のかげで、粛々と放射性物質の焼却をバグフィルターのない状態で処分しています。
「PM2.5は中国からやってくる」と、大キャンペーンがはられましたが、
本当にこのPMは中国産でしょうか?
九州の産廃、セメント工場では、福島の石炭の焼却灰を受け入れリサイクルしています。
北九州の公文書を見ると、PM2.5が昨年4月に230超え、他の月でも100超えがありました。
このPMはここ九州産のPMで間違いありません。
これからは、福島県民に起こった事が日本国民に起きます。
それは、呼吸と食品からです。
先日も、北九の「ドンナマンマ」という情報誌で、
大学の教授や講師・行政職員が、福島と同じ手法で「放射能安全」と言ってました。
放射能安全説が完全に全国に行き渡ってしまいました。
放射能が「薄めて安全」という一方で実際に福島では人が死んでいます。
私の友人の甥が、先日、白血病になりました。
私の従兄弟が昨年の夏に亡くなった次の日に、友人の旦那様が亡くなりました。
私はなんでもかんでも放射能のせいとは言いません。
チェルノブイリの教訓があるだけです。
国は認めません。
でも私たちは安全論・危険論両方聞き、見たこと聞いたことで「選ぶ権利」があります。
私が、今このような状況にあるのは、原発の危険性を知らなかったからです。
放射能が消えないことを知らないで、家の前をひとりで除染し、放射能を吸い込みました。
今、福島には人が住んでいます。
「どうせ、わたしらモルモットだし」
「保障がないから逃げても貧乏」
「生活できない」
「今の生活レベルを落としたくない」
「国が安全といってるから安全だっぺよ」
「死ぬ人多いね」
「でも何もできない」
「変わらない、やっても無駄」
「楽しいことだけ考える」 と言いながら除染し、
生活排水は汚泥となって、高濃度の放射性廃棄物を毎日排出しています。
それが自分に返ってくる事実と向き合うことはありません。
除染は無駄です。
自分でやったので知っています。
「0.5マイクロシーベルトが0.2に下がり、2週間後には0.5マイクロシーベルトに戻ります」
大量の除染の汚染土壌はどこへいくのでしょうか?
国が責任をもって処理をするということは、産廃に出すということです。
産廃に出したものは、セメントやなべになって全部自分に返ってきます。
保養を否定はしませんが、根本的な救いにはなりません。
私は、測定、事実の公表、十分な補償を約束して、
福島県民に選んでもらうことが唯一の復興だと思っています。
放射能は拡散せず、福島に閉じ込める。
私の先祖の墓は、福島原発から2kmのところにあります。
どうぞ置いて下さい。
そう思っている福島県民は沢山いますが、その声は消されています。
実は今年の3月、福島県の鮫川村で8000ベクレルの稲わら焼却の実験炉の建設を止めに行きました。
あと一歩、書類の提出と記者会見を予定していましたが、
なんと反対をしていた本人に邪魔をされ、止められませんでした。
反対派が賛成派であるのではないかということをわたしは体験しました。
北九州のがれき反対運動の中でも、
公害防止締結の署名だけ、焼却炉周辺住民からいただいた署名40名分を渡していただけませんでした。
本来あってはならない「いただいた署名をシュレッダーにかける」なんていう事が起きてしまいました。
しかも、がれき焼却に反対していた自分たちの仲間に・・・。
北九で「漁協の反対が最後の砦」という話を聞きましたが、
実際に公文書請求したら、漁協からの「反対声明文」の提出は正式にありませんでした。
明確に「反対」と書いていないのです。
がれき焼却されてからも、反対派がテント村に集まっている頃、
私は「反対声明文」を出してくれるよう漁協にお願いして回りましたが、
会って下さったのは2か所で、どちらも反対声明を出してくださいませんでした。
あの時、どこか1つの漁協で反対声明文、
焼却炉周辺住民の「公害防止協定書の締結を求める声明文」を出せれば、
それらをさせないため、数々の妨害を受け、私だけが陥れられました。
反対運動の実態を見て、「福島が救われることは無理」と絶望しました。
さて、これからバグフィルターはほぼ100%セシウムを取るという嘘を通したように、
福島で「安全」と言って全国で8000ベクレルの焼却炉建設、
また、福島の森林を使ったバイオマス発電所が全国に建つのではないでしょうか。
国はお金持ちなので、テレビで考えることを止めさせ、殆ど嘘の報道で国民に一定の空気を作り、
そこから漏れた人たちを、様々な運動で取り込み、
「私たちはまたもうっかり、同じ方向を向くようにされています。」
私の考える本当の繋がりは、トップの言うことに従うのではなく、
わからないことを教え合い、一人一人の知識レベルをあげて事実の共有をして、
それを身近なところへ伝える。
もう少し勇気があれば、企業・行政が一番に抱き込む漁協、
清掃工場や産廃・セメント工場の周辺住民へ事実を伝える。
北九州ががれき受け入れの時に、清掃工場周辺自治会長へ「お一人様説明会」をしたように、
私たちも周辺住民に「お一人様の勉強会」をしていくことが、子供たちを守っていくことに繋がると思います。
私は報道に騙され、子供たちに被曝をさせてしまいました。
無知でうわべだけしか知らなかったので、避難しても子どもたちを守ることができませんでした。
私にできることは、経験した事実を話すことだけです。
知って選んでください。できれば、知って伝えてください。
事実を見誤ってはいけません。
「勇気」を持って「自分で考えて行動」すれば、事実が見えるはずです。
私達の最後の砦は本来は地方自治体です。
地道に住民教育からはじまり、知識を持った住民が教師、職員を教育していくしかありません。
やっぱり面倒でも、自分が動かないと自分の子供を守ることはできないことがわかりました。
忙しくても美味しいごはんを作りながら、出来ることをできる範囲で続けていきます。
~支援実施を求める原発事故被災者の声
2013年6月21日
避難の実情
1:27:30~
http://youtu.be/cu6CocaL_ZM?t=1h27m30s
それぞれの当事者として今の避難の実情や抱えている問題についてお話しいただきたいと思います。
まずは福島市から東京へ避難中の二瓶和子さんの方からお願いいたします。
1:28:09~
http://youtu.be/cu6CocaL_ZM?t=1h28m9s

福島市から2011年3月18日に東京練馬区の方へ自主避難をしてまいりました二瓶和子と申します。
当時娘は、長女3歳、次女1歳でございました。
いま現時点で長女は6歳、次女4歳になり、元気に過ごさせていただいています。
自主避難者の生活状況という事ですけれども、
「自主避難母子世帯は貧困の象徴なんですか?」ということをやはりお伺いしたいというか、
そういうことですよね?
本当に苦しくて辛い状況を話して下さいと言われていることが、
この場に居ることが、
本当にどれだけ辛いことか、
それも努力して、努力してそういう貧困とかそういうこと事態を改善していない訳じゃないんです。
これ、手書きで申し訳ないんですけれども、ちょっと自宅から保育園に送迎している様子です。
娘二人は別々の保育園に通っております。

2012年4月1日から、区立保育園に長女が入園できました。
1万2800円です。
それと同時に次女は保育園に入れませんでしたので、
3カ月後、7月まで友人宅に2カ所、今日はこっち、明日はあっちという形で預かって頂きました。
7月から認証保育園に入って1年になるんですけれども、5万5000円払っています。
家賃並みです、福島では。それもちょっと安い部屋になるのでしょうけれども。
5万5000円、1万2800円を払っている世帯が貧困世帯と言われているんです。
なおかつそのファミリーサポートで朝送ってもらえば良いじゃないかと。
一般家庭で「お母さん、送迎が大変でしたらファミリ―サポートさんっていうのがありますよ」と。
1時間900えんになります。
20日で1万8000円かかります。
保育園は分かりづらくて本当に申し訳ないんですけれども、
長女の保育園に朝7時半に送ります。
その後7時50分に次女の保育園に着くように出ています。
朝家をいったん7時に出ています。
子どもたちを起こすのは6時です。
私自身目覚まし時計をかけるのは4時50分ぐらいにかけないと、
なかなか、本当に体力的に辛くて起きられない。
それでもやっぱりそういう状況でやっています。
7時半というのは長女が保育園開始しても良いよと言われている時間です。
今度、帰りなんですけれども、
長女を先に6時半までに迎えに行かなくてはなりません。
延長保育はないので6時半で終わりですよと。
先日、電車の事故で遅れて、
遅くなって6時40分ぐらいになったんですけれども、
娘はひとりでした。
保育園で先生と一緒に先生のお部屋で待っているような状況で、
延長保育がないような所で過ごしています。
次女は8時30分まで延長保育が可能という所である認証保育園ですので、
時間をちょっとずらして7時のお迎えをしています。
そうしないと、二人一緒に保育園のお着替えのお荷物を持ち、
なおかつ一人は歩きたくないってぐずるような疲れて帰ってくる娘を、
とてもとても一緒に帰ってくることはできません。
なのでこういった生活をしている事。
これを一人でやらなければならない事。
そして私はここに来て、2月からここのこういう場で発言させていただいていますが、
「なにが大変ですか?」と聞かれ続けて、大変さが改善された事はありません。
ですから、だんだんと話をしたくなくなってくるお母さん方が多いんです。
言ったって変わらないじゃないですか!
なおかつ練馬区の孤立防止事業で800万円出ていたという事を聞くんです。
でも私はこの場に立てる位になるまでに孤立していましたし、
いま現時点でも練馬区行政からは何の支援もありません。
ですから、本当に自分自身が立ち上がらなければ何も変わらないんです。
それが支援法ならば、本当にやるしかないという事を関東全域で考えていただきたいですし、
関東だけじゃなくて日本がこれをやらなければならない事だと思ってもらいたいと思っています。
1:33;37
はい、どうもありがとうございました。
日本がこれをやらなければならないというメッセージ、本当に聞いていて辛くなるような話でした。
続きまして郡山市から北海道へ避難中の宍戸ちかさんからお願いいたします。
1:33:54
伊達市の特定避難勧奨地点 避難区域解除問題について6/21伊達市住民の声(文字起こし)
故郷の方にはなかなか届かない」と、
「うみがめのたまご」の呼びかけ人である古田ひろみさんは映画の中でおっしゃっています。
この映画は「うみがめのたまご」
避難・移住者と宮崎県をつなぐネットワーク・交流会などを紹介しています。
また、受け入れ側の宮崎綾町の体制などもよくわかります。
一番最後に、
「アカウミガメの母親は子供を守るために卵を海の近くでは産卵しない。アカウミガメは人間の先生です」と
自然楽校未来船の門川校長先生が話していらっしゃいます。
主に、避難・移住された方へのインタビューの部分を書き出しました。
ーーー
フクシマからみやざきへ
避難・移住者のネットワーク「うみがめのたまご」
女性1:
今回の地震と原発事故の放射能を理由に宮崎に来られた方は、よかったら手をあげていただけませんか?
これだけの数の方が、
女性2:
すみません、見てもらっていいですか。
今、何で手をあげているかわかりますか?
聞いてましたか?

九電:すみません。
女性1:
ちゃんとお話を聞いていただきたいです。
結構勇気を出していますので、
九電:もうしわけない。
「私も畑を耕していたんですけれど、それが全て食べられなくなって逃げてきました」
「放射能の数値が高いので、妻と二人で自分の故郷を離れて、遠い宮崎県まできました」
女性2:
これからは本当に(原発を)ストップしないと、日本中が住めなくなってしまうという事は
想像した事はあるんですか?という質問をしたいと思います。
福島第一原発事故後、数万人が放射能汚染地域から避難しました。
この映画は、
故郷から遠く離れた宮崎で新しい生活を始めた避難・移住者のネットワークについて紹介するものです。
日本政府の支援対象外であることや、社会的な理解が浅いなど、避難・移住者が抱える現実。
福島のお母さんであり反原発運動の活動家である佐藤幸子さんに尋ねました。

佐藤幸子 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク:
最初にこういう状況になって、子どもたちを、
私はとにかく子供だけでいいから疎開をさせて欲しいという話をしたんです。
で、地元の、川俣町の議員さんとか、県議会の議員の方にも話したんですけど、
その時に言われたのが、まず一つショックだったのは、
「癌は医学が発達したら治す事が出来る病気なので心配ないよ」と。
「それよりも、経済が立ち行かなくなる事の方が大変なことになる」っていうふうに言われたんですね。
自主避難を呼び掛けている私たちは、実は行政とか経済界の人達からは、
「不安をあおっている市民」というふうに見られている位なので、
本当に避難や移住、保養の話をするという事は、すごい厳しい状況です。
国が定めた避難地域というのが、第一原発から20km圏内のところが避難区域に定められました。
その後計画的避難区域というのが定められたのが、飯館村と川俣町の一部が計画的避難区域という所です。

それ以外の、この緑のところと水色のところブルーのところの多くの地域は、
20ミリシーベルト以下なので避難をする必要はないという国の判断です。

で、この黄色いところも、放射能の汚染地帯になっているので、
東日本はほとんど汚染地帯に、もうなってしまっているという状況になっています。
20km圏内の人と、計画的避難区域の人達は国から補償が出て避難をしていますが、
それ以外の方たち、自主避難の方達は、国からの補償は基本的にありません。
自分の子どもを避難させるという事に関して、
家族の中で意見が湧かれてしまうというケースがかなり多くて、
夫婦であっても意見が違う。
親と子どもが違うということで、なかなか避難がすすめられない状況です。
もしくはもうすでに離婚をしてしまったという人も、私の周りにも何人かいます。
避難の必要性を感じている人の方が、割合的には少ないと思います。
“自分の子ども”のために自主避難を決めたお母さんたちはとても勇気があると思います。
家族が一時的には離ればなれになってしまっても、子どもの将来、長い将来のためには、
それはきっと、後で振り返った時に「あの決断は正しかったね」というふうに私はなると思っています。
福島から1200km離れている宮崎まで、数百家族が原発事故のため故郷を去って自主避難しました。
ーーー
<以下、避難・移住された方のインタビュー部分の内容を書き出します>
ーーー
女性3:
自宅は神奈川県だったんですけど、私も携帯とかパソコンで
「原発というものがこういうものだったんだ」という事を知った時に、
子どもたちを外で遊ばせるという事がとても怖くなってしまって、
今の仕事も全部やめて、「じゃあ宮崎に帰ろう」というふうになって、
Aさんは原発事故後、子どもたち3人を連れて宮崎に避難してきました。
旦那さんはそのまま東京に残っています。
この日はちょうど宮崎に遊びに来ていた旦那さんを空港に見送った直後で、
まだ悲しい気持ちのまま参加されたミーティングでした。
Aさん:
東京の町田にいたので、水から放射性物質が出たという事で、水を買いに回っていたりとかで、
全然気をつけずに生活をしました。
3人の子どもを食べさせることだけで精一杯で、生活をしてて、
「もしかしたらこれはまずいんではないか」って気が付き始めたのが、
本当にもう5月ぐらいになってからで、
この子もずっと外へは5月以降は出していなかったんですけれども、
家の中で子育てしていくのはしんどいという事で、
私自身は「東京から出たい」というふうに、常々主人の方には言っていました。
ただ、上の二人が市立の小学校に入れていたり、家も、まだ建てたばっかり、
まだ5年経ってない時だったので、
主人としてはこちらに出てくるというのはなかなか・・・
全てを本当に捨てて出てこなければいけないという状態だったので、
なかなか許してくれずにいたんですが…
Bさんは旦那さんの実家に嫁いだ1カ月後、原発事故が起きました。
被曝を恐れて、実家がある宮崎に何回も短期疎開をしてきました。
Bさん:
それでいつの間にか妊娠していて、で、埼玉にもどって、
でも気分が悪いし、放射能のことが危険だということはわかっていたから、
埼玉に戻っても、どんどん調べて、一生懸命携帯のインターネットで調べて、
「あ、本当に危ない」というのが分かって…
旦那さんと義理の父母は放射能が問題ないと考えていました。
彼らの理解を得るのは大変でしたが、結局川上さん自身が安全な宮崎で赤ちゃんを産む事に決めました。
こっちで生もうか、向こうで生もうかっていうことを迷っていて、
でも「うみがめのたまご」の存在を知って、とても支えられたというか、
そういうこともあって、こっちで生むという決心が出来て、
本当にみなさんに会えてよかったなというふうに思います。

シルバノ神父 南宮崎カトリック幼稚園・教会:
ここに避難しているお母さんたちは、
私の認識の中で、原発の事の知識があるお母さん達だと思っています。
いっぱいのお金が原発の周りに回っていますから、
そちらを選んでいるという事は私は間違いだと思っています。
「いのち」をみんな選ぶべきだと思っています。
Cさん:
地震の後、3月19日に仙台を離れて、
「帰りたい」と思いながらも、だんだん原発の悪い情報が後から後から、
ちょっとずつちょっとずつ出てくるので、なかなか帰る機会が無くて、
もうしばらく宮崎に住みたいなと思っています。
今日初めて私も息子も初めてデモに来る事が出来て、
やっと何か自分で「言えたな」と思うし、
これからは言うだけじゃなくてもっといろいろやって行かなければいけない。それは思いました。
(ご主人は)仙台に残っています。
月に一度は先代から宮崎に会いに来てくれるんですが、
退職してからだったら宮崎で暮らしたいと言っているんですが、
たとえばいま仕事を辞めてとか、そういうふうには考えていないようなので、
Dさん:
もともとは埼玉です。
今年の1月から(宮崎に来ました)
―:放射能の恐れとかあったんですか?
もちろんありました。
でも子どもたちはこっちならばなんとか外に出せるので安心しています。
古田ひろみさんは「うみがめのたまご」の呼びかけ人です。

避難したくても出来ない、東日本に取り残されている人たちの気持ちを思うと、
こちらで楽しく、優しく発信をしていくことで、その人たちのなにかの支えになったり、
「いつでもこっちに来ていいんだよ」というのが出来ればいいかなと思います。
2012年6月東京
・宮崎に避難したいが家族がバラバラになるのは避けたいので、短期滞在だけにしているお母さん
Eさん:
12歳と10歳の男の子がいます。
「うみがめのたまご」は、夏休みにつなげてくれた人とにつなげてもらって、
初めて宮崎の空港に降り立って、
何の縁もゆかりもない宮崎空港に降り立って、
ポツンと。
家族3人だけで見知らぬ人ばかりだって、急にすごく不安が襲ってきて、
そのときに、「うみがめのたまご」のひろみさんのほうから連絡をくれて、
「とりあえず明日、九州電力宮崎支店に行くけど、一緒に行く?」みたいなかんじで、
私もなにがなんだかわからないままとりあえず「じゃあ行ってみよう」って思って。
去年の夏に宮崎にいた時に、無理を言って、子どもと私と全部検査してもらって、
甲状腺やなんか。
なにも無かったとしても今現在のデータが欲しいと思って、検査してもらったら、
その時子どもたち二人とも甲状腺腫というものがもう出ていて、
血液検査は異常が無かったんだけども、なんか、こう、
「プチプチってちっちゃいのが出来てる」って言われて、
主人や、学校や主人の両親にも、検査結果は伝えたし、
子どものそういうデータを見たら、主人も心が動くだろうなって、ずっと思ってたんだけれども、
でもお医者さんが「経過観察でいい」って言っているし、
ん…すごく絆が強くて、おとうさんだけ東京に残って、子どもだけ宮崎でという選択肢も、
最初はもうそればかりを考えていたし、そうなると思っていたんだけど、
ん…わたしの思いはやっぱり家族一緒に、納得して主人も主人の両親も、
みんな一緒に安全な所に行けるんなら良いんだけれども、
その思いはずっと、3月の時から、今になっても消えない…消えないし、
毎日寝る前にその事を考えて、「もうやっぱり明日飛行機に乗って宮崎に行こう」とか。
喧嘩になっちゃう。
「その話また?」行けばいいじゃん母子でも。
東京にいて動けないなら、出来るだけの事をしようとおもって、
野菜も、去年の3月からずっと、
顔の分かる京都の、昔から野菜を作っているお友達って紹介された人とか、
顔の分かっている宮崎の人から野菜を取り寄せたりとか、
神経質なぐらいに部屋を掃除していた時とかもあったんですけど、
出来る限りの事をすれば、出来る筈だって…
近所の、仲が良いお友達とかに、ベビーがまだ生まれたばっかりの友達もいて、
「とにかく逃げて」って言ったんだけど、本当に近しい人だけにね。
でも、なんか「なに言ってるの?」っていう、
「みんないるし、大丈夫だよ」って。
普通の人は全く普通に、もう日常を送っているし、
相変わらずテレビではバラエティーばっかり流れているし、
「ふつう?」に思わされてる。
普通の毎日・・・
宮崎にいる間は、夏も冬もすごく良くしてもらって、
幸島に連れて行ってもらったのもひろみさんだし、
2012年の元旦にも連れて行ってもらって、元旦の幸島の海に子どもたちが入って、
暖かかったから。
宮崎の空もこんな東京の空と違って、
曇ったと思ったら晴れて、晴れたと思ったら雨が降って虹が出て、みたいな。
あの生きている感じの空がすごい素敵だなって思って、
宮崎にいると「生きている」っていう感じがする。なんでだろう。
2012年6月東京
・母子だけを宮崎に避難させて東京で仕事を続けているお父さん
Fさん(男性):
文京区に住んでいます。
これが家族の写真です。
子どもは今5歳の男の子です。
3月11日に地震が起きて、その後、福島の原発事故が起きて、
それで3月15日に、やはりその原発事故の影響が良く分からないと、
すぐには危なくないかもしれないけど、
特に小さい子どもにとっては「5年後10年後に影響が出るかもしれない」という判断をして、
先ずは、妻の実家の宮崎に妻と子どもを避難させ事を決めました。
テレビとかマスコミは「大丈夫」というふうに、その時は言っていましたけれど、
奥さんの友達とかという所で、やはり「福島は本当は危ないんじゃないか」という事を聞いていて、
私の、実は職業は金融のコンサルタントで、リスク管理が専門です。
で、リスク管理というのは常に最悪の状況を考える。
そういった状況が分からないときは、常に悪い事、「一番悪い事」を考えて、
今回の場合は「子どもを一番に考える」んです。
で、「すぐに影響が無いかもしれないけど、5年後10年後に影響がもしかしたらあるかもしれない」
と、判断したので、
それで、子どもと妻を宮崎に避難させるという決断をしました。
私の方は仕事があるので、すぐに東京を離れる事が出来ないので、
休みを取って宮崎の妻と子どもに会いに行くという生活を、この1年間ずっと続けています。
将来的には、私も、たとえ職業が代わっても、
東京を離れて宮崎へ行って、一緒に生活をしたいというふうに思っています。
ただ、なかなか、
友人と話していても理解を得られない。
「東京は本当は危なくないんじゃないか」と思っている人たちも多いので、
理解を得られないことも、今でも多いです、それは。
今までの経緯があって、原発が福島につくられましたけれど、
福島でつくられた電気というのは、実はこの首都圏の東京で使われています。
ですので、我々は被害者でもあるんですけれど、
同時に福島の人達にとっては加害者だと思っています。
宮崎は大きな産業とかはないと思うんですけど、
綺麗な、青島とかの海もありますし、山も霧島とかいうのもあるので、
とても自然に恵まれた生活しやすいところだと思っています。
なので、小さい子どもを育てるには、とてもいい場所だと思います。
Gさん(ご主人):
33歳です。
宮崎には去年の8月に来ました。
僕の地元は福島県の郡山市というところで、
震災後すぐに「放射能の影響で安心して生活ができない」と思って、
すぐに福井県の方に避難して、サーフィンしたくて、宮崎に移住しました。
宮崎はすごく気候もよくて、食べ物も美味しいし、
すごい、最高のところに来れてよかったなって思っています。
Gさん(奥さん)
歳は33歳です。
福島にいても、畑をやってたんだけど、
これから畑を作るのもちょっと、難しいし、
サーフィンするのにも海に入れないから、
どんどん、こう、前向きに考えていったら移住したほうが、
役目で福島に何か「食料を送ったりとかできるのかな」って、だんだん思うようになって、
私は移住をだんだん決意していって、
川も海も豊かで、山も近くにあって風も気持ちいいし、
海岸線走っているだけで、南国な感じが大好きで、
いるだけで何かハッピーみたいな。
F一家:
ママ、赤ちゃん、パパ
もう一人息子が、2歳半。
宮崎に来たのは5月の上旬です。
もともとは茨城県です。
福島と県境になっている町です。
爆発があって、「えっ!?」って思ったんですけれども、
2回目の時に、僕は出かけてたんだけど帰ってきたら
「また爆発あったよ」って言われて、
「え!またか」って思ったんです。
それからは「もう出るべきだな」と思って、何人にも言ったんですけど、
「いや、日本人って逃げることをしないんだ」って言われた。
それは理由がないと思っていますね。
とりあえず、今まだみんないるんですよね、むこうに。
まぁ、人それぞれですよね。
みんな同じ情報とか手に入るんだから、判断がね、人によって。
でも、我々から見ると、うちらの見ている情報って、
充分危険(ママ)
なんでそのまま子どもが一緒にいるのかが、ちょっと理解できないですね。
とりあえずちょっと、兵庫県の方に主人の友人がいたので、
そちらの方に1年近く避難していました。(ママ)
どういうところがいいかなぁって、探していたんですよ。
それで、何箇所も気にしてたんですけど、縁があったんです。
住まいと、偶然に仕事も見つかったんです。
だから綾町になりました。
ーどうですか?綾町は。
素晴らしいです。
茨城に住んでいた時と同じように緑がいっぱいで、とても、子供たちにもいい影響かなと。
住みやすい環境でとても嬉しく思っています(ママ)
H一家:
ママ、パパ、息子2歳です。
昨年の8月に、千葉県からこちらの宮崎に、
妻の母親の関係でこっちに家があるので、きました。
子供がまだその時1歳だったということもあるので、
放射能による内部被曝の問題ですとか、
自分たちの住んでいるところが高いというのがちょっと不安で、
子供が1歳で歩き始めて、葉っぱとかを、
落ちている葉っぱと開始とかを拾って口に入れたりとかをよくするのに、
そこに見えない放射能がついているっていうのが・・・。(ママ)
常に不安な日々を送っていたので、そういったことで、ま、宮崎に実家があるっていうことで、
こちらに来ました。
Iさん:
2歳と4歳の男の子がいます。
去年の3月15日に、福島県いわき市を出ました。
とりあえず車に詰めるだけの荷物を積んで飛び乗って、福島空港に行って、
そのあと、羽田に飛んで1泊して、それから宮崎の空港につきました。
だから、16日につきました。
旦那の実家が宮崎の日南市だったので、
とりあえず、もう、逃げられるところだったらどこだってということできました。
やっぱりね、兄弟とか親はまだ福島にいるんで、
会いに行きたいとは思うんですけど、
でも、この子達を連れて戻れるかどうか?っていうのは
やっぱり・・・戻りたいとは思わないです。
ー宮崎はどうですか?
すっごいいいところ。
避難してくるときはすごく精神的にもうしんどかったんですけど、
こっちに来て、人と自然にすごく癒されて、
おかげで元気になったっていう感じがすごくします。
やっぱり、子育てするには最高の環境だと思っています。
<チェルノブイリ法>
“年1ミリシーベルト”で避難の権利 アレクサンドル・ヴェリキン氏OurPlanetTV(内容書き出し)
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双葉町の井戸川町長、「辞任の真意」を語る
投稿者: ourplanet 投稿日時: 木, 01/24/2013 - 15:23
だいぶ早いですよ、思ったのは。
町長職を背面するという事は、町民の総意の中で
「汚れちゃいけないな、汚しちゃいけないな」という思いで今までやってきました。
ずっとその思いは通しました。
しかし、その思いと今回の事故の中ですいいしていくと、
どうしても妥協できない部分っていうのは、今の避難基準ですね。
それをあの議会で強引に、いわきに の移転を決めましね。決めさせましたね。
あの時からやっぱり、気持ちは芽生えてきました。
「やはりいまの被ばくの基準はおかしい」
「20ミリシーベルトっていうのはおかしい」
日本では1ミリシーベルトというのが、最高裁判所の裁判の判例の中にさえ謳われているのに、
何故20ミリシーベルトか?と。
議会とのギャップというのはそこから始まったと、
私の給料も削減を2度も否決しました。
その辺からですね、「方向性がどうも違う方向を向いてきたな」という、ま、危険がありました。
で、昨日出したというのは、
私は自分の持論というのはまだ、私は正しいと思っていますから。
福島県に戻ることはできません。
従って、町長職を辞してですね、「戻れない」という事をずっと続けていきたいと思っているんです。
「戻す」のも、私は私の手で戻したくないと思うんですよ。
責任持てませんから。
25年後の双葉町の姿を見た時に、私は責任を持てませんから。
まだまだ、もっと多くの町民を県外に今は出すべきだと思っていますから。
福島市での町政懇談会239
みなさんからみますと、ここのこの席に町長がきていないのが非常に不自然に見えると思います。
<福島県双葉町>井戸川克隆町長 体調不良を訴え入院
毎日新聞 1月20日(日)20時0分配信
東京電力福島第1原発事故で埼玉県加須市に役場ごと避難している福島県双葉町の井戸川克隆町長(66)は20日、宿泊先の同県郡山市のホテルで「頭が重い」と職員に訴え、市内の病院に入院した。意識はあり21日以降に検査するという。
町によると、町長は19日に同県いわき市で開いた町政懇談会に出席し郡山市に宿泊。20日朝、体調不良を訴えた。20日に福島、郡山両市であった懇談会を欠席し、井上一芳副町長が代理出席した。21日の加須市での懇談会も代理出席する予定。
双葉町では昨年末、不信任決議を受けて町長が議会を解散。今月24日に町議選が告示される。【神保圭作】
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ーーー原子力損害賠償紛争審議会 第15回会合
東京電力福島第一原子力発電事故による損害賠償の枠組みを決める原子力損害賠償紛争審査会。
10月19日に15回目の会合が開かれ、
政府の指定した避難区域外の地域で自主的に避難している人たちに対して
どのような補償をいっていくのか、初の聞き取り調査が行われました。
いわき市 渡辺淑彦弁護士:
まず、自主避難者という事で今日わたくしは呼ばれました。
しかし、「自主」ではありません。
とんでもございません。怖くて逃げたんです。
子どもたちの命を守りたくて逃げたんです。
子どもは外で遊びます。自然です。
自然からいろんなドングリを拾ったり松ぼっくりを拾ったり、そんな事を子どもはやります。
これが今出来ていないのです。
保育の先生に聞きました。外に出せていないんです。
今、園庭が使えないんです。
今までだったら近くの山に行ってドングリを拾っていたのに拾えないんです。
このような事というのは憲法上の教育を受ける権利というものを侵害しているのではないでしょうか。
福島市 瀬戸孝則市長:
福島市は避難区域に当たっておりませんけれども、低線量の放射線被ばく地帯であります。
避難したくてもできないという家庭や子どもたちが沢山いるという事実。
こうなりますと、私は区別はできない。
我々のように低線量で被曝しているところに長期間いることによって、
時間が経てばたつほど、課題が深まって問題が増えてくる、深まっているというのが
実はこの放射能の災害ではないでしょうか
市長、市民といった立場を超えて悲痛な訴えが続きます
伊達市 宍戸隆子さん:
私が自主避難させていただいているところは、実は自主避難者だけで160世帯おります。
500人を超えます。その中の殆どは母子避難です。
お父さんは福島に残って生活を支えています。
住宅ローンを必死に返しています。
あのー、すごく小さいお子さんのいる家庭が多いんですね。
で、福島って、子どもが生まれたら、なんか、家建てなきゃなっていう雰囲気があるんですよ。
この事故によって、小さな子を持つ親御さんたちはすごくみんな悩まれました。
それでも、子どもたちを、子どもたちの命を守りたいと
お父さんと別れて、お母さんと子どもたちだけでも安全なところへと、逃がした家庭ばかりです。
お父さんが連休に北海道まで会いに来るんです。母子避難している家庭に。
本当に交通費が大変です。
数日親子で過ごしてお父さんは帰って行くんですけれど、
飛行場に見送りに行って、誰が一番泣くっていったらお父さんだそうです。
もう、離れて暮らすことが、家族と離れて暮らすことが本当に切ない。
お金の話しだけではないんです。
自主避難の権利が欲しいんです。
ーーー自主避難者のいま
おじゃましまーす。
原子力損害紛争審議会で証言をした宍戸隆子さん。
福島県伊達市から札幌に家族4人で移住しました。
隆子さんと子ども二人が引っ越しをしたのが6月
その後父親の俊則さんは2カ月遅れで引っ越してきました。
Q:お父さん、お一人でいらしたのは2カ月位ありましたか
俊則さん:2カ月位ありましたね。
Q:やっぱり家族でご飯食べるとあれですか。
俊則さん:
家族で食べて、最初の夜、俺泣いたもん。ね。
北海道についた最初の夜、一緒にご飯を食べに行って、その場で泣いていました。
夫の俊則さんは県立高校の国語の教師でした。
1学期で仕事を辞め、いまは嘱託の教員をしています。
俊則さん:
担任を持っていなかったので、担任を持っていたら思いきれたかどうかっていうのは、
本当に自分でも分からないです。
担任を持っていなかったからできたことかもしれないんですけれども、
残してくる子達には・・・ん・・・出来れば卒業まで見たかったなって、3年生に関しては特に思いましたね。
ただ、あそこで残る事で、一緒に辛抱する事よりも、
「いろんな可能性があるよ」って、生徒たちに見せたかった。っていうのは、あの時期ありましたよね。
「避難っていう選択肢はあるんだよ」っていう。
「恐いって思ったら出来るし、受け止めてもらう場所はあるんだよ」っていうのを
高校生自身もかなり不安にはなっていても、
もしかしたら、我々大人以上に言いにくい状況だったんだろうなって思うので、
宍戸さん夫婦は10年前に建てた家をそのまま残してきました。
家族写真ーー
まだ周りに殆どおうちが建っていなくてゆづきが生まれる前ですね
お腹の中
お庭でプールやってたんだ
引っ越し前の放射線量は、市が測って言ったので毎時1.5μシーベルト。
俊則さん:
1.5で、公園の地面近くで毎時2.5μシーベルトというところがありました。
隆子さん:
1ないと、0.7~0.8μシーベルトだと「低いね」って言われる。
普通はもうひとケタ低いんですけど、マヒしてます。本当に。
Q:でも、物は置いてあるから、何か取りに帰ったりする事はあるんですか?
隆子さん:
いや、私はもう帰らないです。本当に。
いろんな役を放り出してきちゃったから、子ども会だけじゃなくて育成会とかもやっていたんですよ。
ーーー京都
郡山から京都に避難している、星紀孝さんと千春さん
やはり、6月に千春さんと息子の凛太郎くんが先に入居し、その後8月に夫の紀孝さんが京都にやってきました。
事故が起きた当時、息子の凛太郎君は生後11カ月。
ちょうど、ハイハイからタッチに移行し、歩けるようになる時期でした。
千春さん:
ちょうど地震の一ヶ月後に1歳になったんですけど、
その後やっぱり、家の中で歩けるようになって、
初めての歩きをしても、靴をはかせて外で歩かせることもできないので、
成長の過程で、こんな悔しい思いをするのかなと。
もう、元気いっぱいな子なのに、外で歩かせることが出来ない。
親としては、もう・・切ない、よね。
郡山から京都に避難してから4カ月。
凛太郎君は自然の中ですくすくと成長していました。
千春さん:
こういう自然の中で遊ぶっていうのは、全然、なんか、違うかなっていうのは、こっちに来て思いますね。
家の中でとか、室内で遊ぶよりもやっぱり、外に出ると、
人工じゃなくて、自然にできたものがいっぱいあるじゃないですか。
そういう面では、外はすごい、子どもにとっては宝の山なんでしょうね。
砂利ひとつにしても、葉っぱひとつにしても
今星さんは、事故以前のような伸び伸びとした生活に戻りました。
千春さん:
子どもの面では本当に良かったなと思う反面、
周りの事を考えると・・罪悪感ですね。
なんか・・おいてきてしまった、
故郷を捨てちゃった、っていう気はないんですけれど、
そう思われても仕方ないだろうし、
復興のために何もできてない自分も、やっぱり、なんか・「・申し訳ないな」。っていう
その、自主避難は、おおげさじゃなかったっていう事を・・・なんだろう・・
公の場で決まってもらえると、そういう面では、
精神的な面で「、間違いではなかったのかな」って言う考えにもなれるのかなって思うんですけど。
紀孝さん:
やっぱり、自主避難した人たちに対しての補償もなにもしてくれない。
これから、逃げたがっている人たちがね、何時でも逃げられるような体制を取って欲しいよね。本当に。
ーーーーーーー
前出の宍戸さんは書き出している途中で気がついたのですが、
「放射能の危険を生徒に話せない」福島の高校教諭退職・東京新聞こちら特報部8/6(書き出しました)
この記事の先生でした。
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを保証する義務がある」
と児玉先生もおっしゃっていますが、
子どもを守るために避難された方々が、罪悪感を抱えながら避難している。
このことは、除染をして、住民を戻すことばかりを考えている政策にあるのでは。と思います。
逃げたのではない。
故郷を捨てて逃げたのではない。
勇気を持った、子どものため、大きく言えば将来の人類のための行動なのだと、
自主避難の権利を国が認め、補償する事。
補償される事は、当り前のことなのに、
避難したことによって、過去を捨てなければならないように感じた。