11.19
Sat
肥田舜太郎先生の貴重なインタビューです。
直接被ばく者が亡くなった後、
軽いやけどの被ばく者が同じ症状で亡くなり始め、
ついには直接原爆を浴びていない、入市しただけの方にも同様の症状が出て亡くなっていきます。
「ぶらぶら病」の患者さんの、その「だるい」瞬間を目の当たりに見た肥田先生のお話し
「死ぬべき人はもう死んだ」と内部被ばくを決して認めようとしないアメリカと日本政府。
戦後の時代に真実が歪められ、隠されていく現実を体験された
肥田先生の大切な大切な生の声だと思います。
心をこめて文字起こししました。本編だけで4部に分かれています。
お時間がある方は、アーカイブで声を聞いて、表情を見ていただきたいと思います。
No2 アーカイブ1 57分30秒~2時間13分36秒まで
・3日目から現れた放射線の急性症状
・ピカにあっていない兵隊の死
・だるくてたまらない人々
・マッカーサーの「原爆の被害者に、と、日本の医療機関、医師と学者に与える」という声明
・1975年国連で肥田氏内部被ばくについて発言
・ABCC(原爆障害調査委員会)
・原爆による内部被ばくを隠す二つの目的
・ブラブラ病の症状を目の前で見たとき
・アメリカの内部被曝の問題
・英国がアメリカに「内部被ばくは危険だ」反旗を翻す
・被爆裁判で負けた日本の国の言い分
・御用学者になるワケ
・マッカーサーにクビを切られた肥田氏
111006肥田舜太郎氏インタビュー
肥田舜太郎氏×岩上安身No1(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎氏×岩上安身No3(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎氏×岩上安身No4(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎&岩上安身 10/6(最後の部分の内容書き出しました)
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できるだけ正確に文字起こししました。
57分30秒から
岩上:
今、間をつないでしゃべっていたんですけれども、
あの、広島の、
僕は59年生まれなので、子どもの時に広島、長崎への原爆投下の、
それは、当然言い聞かせられますよね。テレビでもみます。
そして僕は実は、小学校の1年生の時に同級生の女の子が白血病で亡くなるんですね。
肥田:ほぅ・・・
岩上:
それで、何が起こったか分からないんです。まだ、こっちは、ほんの子供だったので。
確か同じクラスじゃなくて隣のクラスかなんかの子だったんですね。
で、校長先生が、すごく、深刻な演説というか、講話みたいなことをされるんですね。
肥田:はぁ・・
岩上:
で、何が起きたのか分からない。
というので、大変な事があって、ま、2世ですよね。本人は戦後の子どもですので、
でも、亡くなってしまったんだという・・で、
多分、お父さんかお母さんのどちらかが、広島か長崎で被ばくされたんだと思います。
もう、ちょっと、記憶がたどれないんですけれども、
ただ、「そんなことが起こるんだ」っていう事があったんです。
肥田:2世ですね。
岩上:多分。僕と同じ年ですから、59年生まれですから。
肥田:あぁ・・59年っていうと、あ、そうか
岩上:1959年生まれ。
肥田:あーー
岩上:
昭和34年生まれなんです。私は。
だから、あのー、戦後にね、生まれた子どもです。
お父さんか、お母さんかが、多分被曝されていたんではないかと思うんです。
そして、小学校1年の時に亡くなったということがあって、
本当に記憶はあいまいなんですけれども、そういう話しを聞きました。
ぼかした言い方を大人たちはするんで、あのー、分からないんですよ。東京の子どもですし、なにがなんやら・・
あまり悲劇的な事はいいたくないというのもあって。
さっぱり分からなかった。正直言って、すぐには。
で、周りの大人に聞いても、口をこう・・もごもごするような説明でですね。
これが広島だったらば、もっとはっきり、体験者もいるし、語ってくれて人もいたんだろうなって思いますけど、
東京ですのでね、曖昧な言い方なんですね。分からないんです。
そういう事もありましてですね、あのーー、過去のことだと思っていたんですね。
んー、で、この、まさか、
こんなに、二度とね、われわれが、その、原爆症のようなもの。
そうした放射能の災禍というものをですね、もう一度真剣に、
今日の出来事として考えざるを得ないような事態になるとは思えなかったんですね。
半世紀生きてきて、たかをくくっていたところがどっかにありまして、
今こそ真剣になって、本当に、もう、こう、
耳をそばだててですね、先生のお話しを聞かなければならないというふうに思っている訳でして、
まさか、そんな日がね、今日もう一回日本に訪れるとはと・・・
ちょうど先生のお話しが、いま、セールスマンで遮られてしまいましたけれど・・
第3波ですよね。
肥田:
そうです。
急性の直接の即死と、それから、ま、火傷ですね
岩上:軽い火傷ですね
肥田:
それから次に、初めて放射線の急性症状というのを3日目から僕らは見ることが出来た。
それまでは出てこなかったんですね。
あるいは、その前もそれで死んでいたのかもしれないけど、全然分からなかったと。
で、結局、火傷はあるけれども、たいしてない、火傷もない人までも含めて、
強烈な放射線に直接やられた。その放射線症状が3日目の朝から現れ始めた。
そして、大体それがね、続いたのが、ちょうど年の暮れまでです。
12月31日までの死亡を、僕らは即死という中に入れているんです。
何を治療しても絶対に助からないという事が分かっている死ですから、
それを即死の中に入れて勘定した。
だから、始め政府が発表した死亡者の数というのは6万とか7万だったんですけど、
何年か経って、1970年・・・えっと、終戦が・・・
岩上:終戦は45年です
肥田:
45年だから、55年。
1955年に・・そうですね、そうじゃなくってね、・・・ちょっとまってください
ちょっといま、頭がボケて・・ごめんなさい
1977年にね、日本政府の発表も、アメリカの政府の発表も、
全くデタラメだっていうんで、世界中の学者、
放射線が明るい学者と、そういうのを日本に集めてシンポジウムをやろうと。
で、長野のシンポジウムの時にみんなで何人死んだかというのを全国で手分けして、
手書きでね被ばく者から、もう、全部集めて、精密なのを書いたものが、
広島と長崎合わせて、21万プラスマイナス1万だったかな。
それが広島の原爆の被ばく者というふうに世界的に決めて、
これで世界歴史の中へとどめましょうという事になって
これが国際的に大きな公の数字になっている。
で、その時にね、内部被ばく問題をわたくしが訴えようと思ったんですけれど、
その、ちょうどその時に、なにかね、入院しちゃったんですよ。急病が起こって。
で、友達に頼んでおいたんだけど、その人は僕ほど、その、内部被ばくに対して熱心な人じゃなかったもんだから、
会場からの発言かなんかで抵抗されてね、しゃべりきらなかったんですね。
だから、そのシンポジウムでは、
「内部被ばくについてはさらに研究を要する」みたいな事で結論的に認めていないんですね。
もう、わたくしは大変に悪いことをしたと思っております。
ま、出でいても上手くいったかどうかは分かりませんが、
日本の、つまり、それに出席した日本医科の幹部は、
「全く内部被ばくはない」という立場の幹部ばっかりだったので、
議題にも入れないです。そういうのを。
アメリカのいうなりの・・
岩上:
そこも是非お聞きしたいんですけれども、
その年の暮れまで、ちょっと話を戻して、ま、即死というふうに勘定したと。
そして、その後本当に遭遇していない。つまり・・ま・・
肥田:
後から町に入って、
岩上:
あとから、後日入域した人達が具合が悪くなった。
そういう具合の悪くなり方というのはいつごろからなんですか?
それはもうけっこう
肥田:
それはね、早い人は、戸坂で急性症状が起こって暫くしたころですから、
そうですね、3週間から4週間ぐらい経って、もう、出始めています。
それは非常に例外ですよ。
例外です。はい。
だから、私達はそれを経験したけれども、なぜ、そんなね、後になって入った人が、
同じような症状を出して死ぬかっていうのがね、
なんにも、その、説明が出来なかった。自分に。
岩上:なるほど
肥田:
はい。
ただ、事実として、それは認めておかなければならない。
これだけはきちっと覚えています。
そりゃ、ドラマチックでしたよね、聞いた時、見た時には。
はじめ、ある集団の中で、死んだから、そこへたまたま行って処理したら、
後ろに居た、ま、兵隊なんですけど、
焼けてない。汚れてはいるけど、焼けてない服を着た兵隊が、
わたくしに「軍医どの」って言って、こう引っ張ってね、
「どうした?」って言ったら、
「わしは、軍医どの、ピカにあっとらんけんね」って言うんですよね。
だから、「ピカにあってないならどういう訳だ」って言ったら
「わたしは福山の部隊にいた人間だ」と。
で、当日6日のお昼に部隊長が全員集めて
「これから中央の命令で広島へ援助に行く」と
それで、「いろいろ死も出ているから、難しいと思うけど頑張って働いてくれ」というんで、
トラックに乗せられて連れてきて、それで今の、キリンビールかな?
(かいざいちゅう)の近所で車を止めて、あとは歩いて市内に入った。
それから、6日の午後入って7日と8日、そう、9日の、やっぱり朝ですよ。
朝、その男がね、なんていうんですか、あの・・脱水症状で気絶して倒れてた。
まぁ、あんまり、働き過ぎたんですね。飲まず食わずで。
ま、水は飲んだんですね。
それで、友達が担いで、
「辺坂村には軍医が沢山いて治療をやっているから、あそこに連れて行けば診てもらえる」と言って担いで来て、
村の、自分らも忙しいし、軍医を探したけれども、どこに居るか分かんないからね
一番入口に近いところに、こう・・まとまっている被爆者の寝ているところに置いていかれちゃったの。
「そこに寝ていれば看護婦さんかお医者さんがきて診てくれる」って、周りの人が言うもんだから置いておかれたの。
で、たまたまそこへ死人が出て行ったら、それがそういう話しを、
だから、
「私は被ばくをした人間に、ずーっと飯も食わず、夜も長いこと寝ないで働いている」と。
被ばくをしていないなんていうのはね、もう、診る必要はないと。
「どっちみち風邪に決まっているからそこに寝ていろ。そのうち治る」って言って、
診もしないでいなくなっちゃった。
それで、また、3日後だったかな、確か。
あの、死人が出て、またそこに行ったんです。
それで、
「この間ここで寝ていた、あの焼けていない服着ていたあの兵隊どうした?」って言ったら、
「死にました」って言うの。
「えぇーーっ!」って言って、
「どうした?」って言ったら
「みんなと同じような症状で死にました」って、
「血を吐いたか?」
「最後は血を口から吹き出した」って
「じゃ、頭の毛も取れたんか?」って言ったら
「全部とれました」
聞いてみりゃ、同じなんですね。
だから、分からないの。おれも。
本人がね、原爆にあっていないと、翌日町に入っただけだと、
なんでそんなことになるのかが、全く分からない。
そういうのが、一緒に来た他の軍医も、
「まだ知らないけど、そう言っている奴が今、寝ている」と
「なんか、症状から見たら危なそうだ」何人もいるんだそうで
だから、私だけが経験したんではなしに、そういうのが次から次に、
で、だんだん日にちが経ってね、年末近くなった頃に典型的な奴が出始めた。
それはね、被曝したその日はなんか、市内で、じゃない
翌日入って、探して歩いて、何にも分からなくって、
家が近かったんですけれども2日ぐらい市内に寝泊まりしたのもいて、
いくら探しても子どもが見つからないものだから、
家へ帰ったんですね。
で、家族は心配していたから、「父ちゃん良かったね」って
「どこも何ともないの?」って言ったら
「なんともないよ」って「俺、腹減ったから飯食うわ」って言って食ってね、
それで、2,3日、ま、元気でほったて小屋作ったりね、ま、うちのそんなことをしていて
3日目か4日目になったら
「ちょっと、俺、かったるくなったから、寝る」って言うんでね、
どっかの村の友達の家に寄せてもらって、そこで横になって寝たんですね。
で、翌日の朝元気になって帰ってきて、
でまた、いろんな、うちのね、事をやっていたら、
翌日また「だるくなった」って言うんで、また、寝に行った。
そういうのが、2日か3日あって、とうとう家に帰ってこなくなって、そこで泊めてもらうことになっちゃった。
で、そういうふうに、後から入って、一時元気でいたものが、
かったるくなったというのを繰り返して、
その・・寝ている時間が多くなる。という症例が、だんだん、だんだん増えてきたんですね。
で、初めて、まとめてそういうのに、医療を持ったのは、
山口県に、僕たちは辺坂村から移って、軍隊の古い兵舎を一つもらって、
国立柳井病院というのを作ったんですね。
アメリカの差し金で。
それで、ま、日本中、別に被ばく者だけじゃなくて、
貧乏人で病院にかかれないというのがいっぱい居る訳だから、
日本全国の海軍病院と陸軍病院を、全部政府は国立病院に、
初めて日本は・・・国立病院なんて持ったことなかった。
それをアメリカから言われて、持って。
戦後の、貧困者に、「いざとなったら無料でも診ます」という制度を作ったんですね。
その一つに、広島の陸軍病院は厚生省の命令でなって、
僕らの身分は厚生省の医官。いわゆる厚生省の医者ですよね。
になって、そこで患者を診始めたんです。
連れて行った患者と、山口県に逃げて行った、その、日本で一番多かったんですね。山口県に逃げて行ったのが。
広島市内は知りませんから、
広島市内は殆ど全部山口に逃げて、いろんな処に厄介になっていたのが、病院が出来たと言うので、
ま、荷車にのせてね、運んできて、
元兵舎ですから、なんぼでも部屋がある。増やせば。
だから、あの、藁布団、だけは沢山あったんでね、それを並べてベッドにして、
で、暖房は各自がみんな村の農家に行って、
古い七輪をもらってきて、その中に端切れをこう、入れたりね、何かこう、作ってボーボー燃やしたのは、
枕元に置いて、それで入院したって、ま、そんな病院でした。
でも、医者はそれでも7人ぐらいいて、
400人位入院しましたけれども、ま、ろくな事は出来ない。
ただ「診るだけ」みたいなね。
その中に、その、いっぺん山口県に逃げてきて、
うちに居たとか、親せきに居たというのが具合が悪くなったっていうのが、病院に入院し始めた。
そのなかに、自分は3日後に広島に入って、元気でいたんだけども、そのうちだるいという症状が出始めて、
どうにも我慢が出来なくて、御厄介になりに来たって言うのがいて、
で、ま、相手も白衣を着ている。こっちもね、白衣を着て看護婦を連れて
いわゆる病院らしい医療を始めたんです。
なんぼ一生けん命その人を診ても、病気らしい痕跡がなんにもないんです。
熱もでなきゃね、食欲もある。夜も眠れる。
それで訴えるから、おしっこを調べたり、貧血を調べたり、
もう、できる限りのことをやってもね、引っかかるものが何にもないのね。
本人がかったるいって言うだけなの。
そのうちに気の短い医者は、
「おまえは、なんぼ調べても病気なんかない」と
「お前は被ばくのことが気になって神経衰弱になっているんだ」
当時、ノイローゼという言葉はまだなかった。今のノイローゼは神経衰弱。
岩上:今は何でもかんでもストレスだと。そういう言い替えですよね。
肥田:ええ
岩上:
じゃぁ同じ事が。「そんなの気のせいだよ」と。今、福島の人達が
肥田:同じ事が言われている。
岩上:言われていますよね。
肥田:
おんなじです。それはもう東大に行っても、慶大にいっても、京大に行っても同じだった
全く、その、放射線の被害に無知だったんですね。
そうなった理由はね、9月の1日だったと思う、2日だったか、調べれば分かります。
厚木の飛行場にマッカーサーが着いた日です。
この日に彼は飛行機を降りて飛行場に降りた瞬間に、
日本全国の日本の各省の役人を全部呼んで、
「自分が、本日ただ今から日本を占領して国民を支配する」
「天皇も総理大臣も一切権限はない」という宣言をして、
軍隊を解散するという事からはじまって、
「日本の国民は何何をしてはならん」というのをずーっと並べたんです。
で、彼は、あと後のことを考えて文章では言ってないんですね。
口頭で述べて、日本の役所がそれぞれ、各自がみんな通訳と速記者を連れて行って、
全部速記して、通訳がその場で訳して、それを役人が全部日本語に写し直して、
自分の役所から、全国の関係のところに流したんです。
広島の僕のところに来た時に、
他のところはね、負けたんだからしょうがないと思ったけど、
一つだけどうしても許せないと思ったのが、
被ばく者に、つまり、「原爆の被害者に、と、日本の医療機関、医師と学者に与える」という声明。
これが、ものすごい腹が立った。
それはね、
「被害を受けた人間は自分の見た、経験した、聞いた、その被害の現状について、一切話してはならぬ」
それから、「書いても、写真も絵もいけない」と。
全く黙を通せと。これは親子だろうが夫婦だろうがしゃべっちゃいけないと。
これをやった。
理由は、「お前たちの受けた被害は、それが痛みであれ、火傷であれ、病気であれ、怪我であれ
全てはアメリカの軍の機密である」と。
うん。
だから、「何一つしゃべってはいけない」とやった。
それから、医療機関の学者に対しては、
職務がら「患者がきて被害者が診てくれと頼まれたら、これは診てよろしい」と。「それは自由だ」と。
「ただしその結果を複数の医師で研究したり、論文に書いて発表したり、
あるいは学会に報告したり、あるいは学会で討議をしたり、これは一切いけない」と。
本人を診る、命を診て、なにかする。それはいいと。
あくまでも個人でやれと。
医師が集団になって一切タッチしてはいけない。
というのをやった。この二つが、これが原因なんですよ。
日本中が黙っちゃった。
うん。アメリカの、つまり「軍事機密だから触るな」って言うのが、
岩上:
なるほど、これは、本当に今でも、こんなに敗戦の特集とともに
8月15日、8月6日、広島に投下された日に必ずNHKが番組をやるとか。
どこかもつつましやかに祈念の番組とか、テレビでもやったりするわけです。新聞も特集を組むんです。
毎年何十年も続いてきているんですけれども、
最も肝心な、こうしたことは殆ど報じられてこなかったですよね。
それはほんとうに・・・
肥田:
私は戦後ずーっとこのことをしゃべってきたし、
特に今度取材を受けた62社かな、ま、記録してあるから全部名前は分かっていますけれども、
大新聞から週刊誌から、皆さん一般の、なんていうんですかね、全国紙、雑誌、全部、
ありとあらゆるのがきましたから、全部しゃべっていますよ。それは。
だけど、そのことに触れて書いたのは、どっこもないですね。
岩上:これは書いていないんですか?
肥田:
書いてないですよ。
アメリカがそれをね、
岩上:62社って言うのはこの福島の事故の
肥田:
それの前の広島の事実について、そういう事があったというのを、
それが原因で、日本ではね、被爆者があれだけ居ながら、誰もそれから学んでいないと。
そういう事が起こったのは、アメリカのその声明が元だと。
で、本来は7年経ってアメリカが占領を解いて帰った。
日本は形式的には独立したと。
ところがその時の直後に、安保条約を結ばれ軍事同盟を結ぶ。
その内容はそのまんま、私は引き継がれているんだろうと思った。
つまり、それ以後同じ事が続いていると。
「もう、アメリカが帰ったからいいよ」という話しは一遍も聞いていないと。
ん。
岩上:
先生、その時の声明というか、お達しですよね。
マッカーサーが記述されお達しが出た。その全文というものは・・
肥田:残ってないんです。
岩上:
残ってない。
先生のご記憶だけなんですか。
肥田:そうなんです。
岩上:あーー
肥田:
というのはね、
そりゃ、あの、日本も占領されたんだから、
軍隊を解散するとか、公になっている物は政府もその時の口承の公文書としてね、
いわゆる、講和条約結ぶ時の公文書の中に
そういうお達しがあったら、みんな書いてあると思うんです。
ーー岩上氏の携帯の着信音ーー
岩上:
申し訳ない。ちょっとごめんなさい。
すみません、電源を消し忘れていました。はい、ごめんなさい。
肥田:
だから僕は、もちろん政府関係で、それの控えがどっかにあると思っていたら、
「そんなものはない」との一点張りだった。
で、国連に行った時に、僕が行ったのは1975年ですけれど
その時に私が国連にね、
そう、77年のシンポのことを国連の主催でやってくれという事を頼みに行った。
で、そのときに、現在でも、ちょうど原爆から30年経っているけれども
日本の医師が診断もできないし、治療も分からない症状で被ばく者が沢山苦しんでいる
だから、アメリカがこの問題に対する、きっと、良い資料を持っているはずだから、
それをアメリカにね、公開させて欲しいと。
で、国連の力で困っている病人と日本の医者に、
サジェスションを与えて欲しいという事を嘆願に行ったんです。
始めて国連に。
で、他の代表はみんな、核実験をやめて欲しいという、全部それで大きな集団がいたんです。
僕だけが医者で混じって、そういう要請だけを日本の民医連という組織の医者が発想して言いに行ったけれど、
そしたら、国連の事務総長が、他の核実験の事は責任を持って取り付くと。
しかし(独断被弾)の要請だけは自分は受けられないと 1:26:07
で、何故だったら、その1975年の時に、7年前だったかな?
1900、・・23年後だから、
岩上:先生、昭和20年からですね。1968年ですね。7年前。
肥田:
そうです。7年前ですね。
その時にアメリカと日本政府が共同で、
国連に対して広島長崎原爆の医学的影響についてという報告を出している。
その時に
「もう、『日本の国内には原爆の影響と思われる病人は一人もいないし、死没者は全部死んだ』
というのを文書で出してる。
だから、ドクターが、ここでそういう事を言っても、国家として国連にそういう報告が出ている以上、
私としては、ドクター個人の今の要望を受け入れる訳にはいかない」
と言って断られたんです。
それで、「その報告というのを見せてもらいたい。国民はしらない」と、そんなものは。
それで、みんなで要請して取り寄せて、で、通訳に全部訳してもらった。
同じ文書が出ている。ちゃんと。
それで、この文書はね、なんとね、被爆後、確か、一か月経つか経たないかの時に、
あの、アメリカの、何て言ったかな、・・・何とかって言う
マンハッタン計画の、トップから2番目っていう。名前は向こうに書いてあるから、
何とかっていうのが日本に来て、声明。
まだ、広島に行かないでね、東京の帝国ホテルで、外人記者集めて、話した時に同じ事を言っているんですね。
「今日、今、電話を受けて広島から報告を聞いたら、広島では死ぬべきものはみな死んで、現在病人は1人もいない」
というのを、だから、被爆した年の1カ月後に、もう言っているんですね。
岩上:45年の・・9月。
肥田:
うん、9月です。
これは、「原爆犯罪」という本を書いた椎名(椎名麻紗枝)さんという弁護士さんが書いた
「原爆犯罪」という本の中に詳しく出ていますね。日にちも名前も入れて。
これは有名な話しですから。
それとおんなじ事をね23年目に国連に報告しているのね。
だから、何にもしていないという事ですね。調査を。
岩上:あの、戦後ABCC(原爆障害調査委員会)というものが作られますよね。
肥田:はい。4年後に作った。
岩上:Atomic Bomb Casualty Commission だっけ?
肥田:ええ
岩上:そのABCCは、ま、検査をしてデータを集めるけれども一切治療をしない。
肥田:はい
岩上:
被ばく者に対してという事を行った。そこまではよく知られているんですけれども、その背景に、そういう
秘密と言っちゃおかしいですよね、医者とか、後被ばく者に対しても直接そういう言い方をしたんですよね
肥田:
被ばく者達が一番よく知っているんだわ。
私が面倒を見ていた被ばく者が次々と呼ばれる訳ですよ。
呼ぶって言うか迎えに来るのね。
みんな重症のね、当日被ばくして、今なんとか、それが生き残っている連中がね、呼ばれた。
ところが入市してね、後から入っても具合が悪いのはいっぱいいましたから、
それにも診てもらえると思ってみんな行ったんですよ。
ところが、入り口で問診があって、
どこで何時被ばくしたか、どういうに被ばくしたかっていうのをみんな聞くんですね。
だから、当日、直接頭から浴びたと。どれ位のところで、何町の何番地っていうと
地図持っててちゃんと記しつけて、それをみんな中に入れてくれる。
ところが、翌日入ったとかね、つまり、爆発後に入ったっていうのは
「あなたは関係ありませんから、お帰り下さい」って、全然中に入れなかったの。
だから、内部被ばく者は、全く彼らは初めから扱っていない。
直接被ばく者だけを対象にデータを集めるという計画だった。
岩上:
それは彼らがその時点で、内部被曝のメカニズムを知らずにそうしたのか、
それとも分かっていたけれども、
肥田:不要だったんです
岩上:不要だった
肥田:
つまり、これから新しく作る、ソ連と抵抗していてね、
ずっと続いて使える核兵器が必ず相手より有利なもの。
それは最初のうちは野戦で使うつもりでしょう。
だから内部被ばくを目的に何処かの都市へ事前に落とすなんて事はなかったんですね。そんな計画は。
だから、初めから調べなかったんだと
岩上:軍事的な理由なんですね
肥田:そうです。軍事的な。
岩上:自分たちはこれから、これから彼らは、実際の核戦争を行うつもりでいたし
肥田:そうそう
岩上:
ま、現代に至るまで米ソ間の戦争は確かに起きなかったけれど、
でも、何時でもやるつもりで・・
肥田:やるつもり。もう、寸前まで行った事は何度もあるわけだから。
岩上:その時のために、即死させられるとか、兵士を
肥田:
もっと、なんていうのかな、経費が安くて、それでしかも、危険なく扱えて、
で、しかも効果は広島よりももっと大きい物。
だから水素爆弾という発想に結び付いて行く訳ですね。
岩上:
で、私何処かで聞いたことがあるんですけれども、
あれは、沢田昭二さんから聞いたのかもしれませんが、
こういう内部被曝の問題を徹底的に無視して軽視して、それを研究しようという事に抑圧を加えてきた。
日本国内でもよく圧力があった。
というのは、原爆の脅威、原爆の力。
これは、核兵器の力というのは見せつけたい。
それによって実際の戦争になるよりもですね、政治的な効果、脅威というものを与えて、
相手を有無を言わせず、いう事か聞かせられる。
日本人は実際そうやって、いう事を聞かせられてきたのですけれども、
そうしたのが一方にあり、他方で、ずーっと、何十年経ってもその影響が残存するという苦しみを人に与える。
で、それも兵士ではない民間人にも苦しみを与える。
こういう内部被曝の問題。残存放射能による被害というものが、
これが世に広く知られると、あまりに非人道的なので、
肥田:うん、抵抗が増える
岩上:
抵抗が増える。
アメリカ国内の支持が得られなくなる。反核運動が盛り上がってしまう。
なので、これは何としても抑えたいということで、
核兵器というのは瞬間的には大変な威力を発揮して、戦時には有効であって、
「悪い敵」をやっつけるためには必要なんだと。そういう説得はするけれども、
その後ずーっと多くの人々を苦しめるような非人道的な兵器ではないというプロバガンダを繰り返してきた。
そういうプロバガンダのために日本の被ばく者は多数犠牲になり、
そして日本の放射線防護医学そのもの、日本だけじゃないですね、世界なんでしょうけれども、
全部歪められてきたと。いう
肥田:
それはあなたの、そういうふうにお聞きになった事はね、
正確また新しい事。
また、あの原爆には二つ目的があって、
一つは「自分もまだ使ったことのない放射線兵器の効果をね、日本人を使って実験をする」と。
幸いに黄色人種で、自分たちが占領しても自由になるね、敗戦国だという条件から
そういうのをやると、これはもう、落とす前から決めてた。
もう一つは今最初に言われた、あまりにも非人道的なそういう問題を知られる事がね、
欧州の白人の中に必ず抵抗を生み出すと。
もうひとつは、自分の国内からもね、必ずしも自分の将来の核兵器政策が支持されるとは限らなくなる。
その二つの理由で秘密を守ったというのが、大体共通の認識ですね。世界で。
岩上:
いやー、こういう事があって、そもそもみんな口をつぐんでしまった。
そして、ABCCというものが、これは非常に重要な事なんですけれども
放影研というか、放射線影響研究所、そしてもう一つは放医研という放射能医学研究所ができて、
日本における放射線防護医学のメッカになって、
で、それの流れをくんでいる人たちが、今日も活躍して発言している
肥田:安全だ―、安全だーって
岩上:
安全だって、全く、言いつのっている人たちがいるんですね。
ここ、一気に行きすぎると分からなくなるので、
先生の口から、ちょっとその、成り立ちとか、どういう経緯で、その人たちが実際にどんな人物なのかを
ちょっと、お聞かせいただきたいんですけれども。
肥田:
具体的に、向こう側について決定的に利用されたっていう人物は沢山いるんですけれども、
私が知っているのは、陸軍軍医学校のレントゲンの教授だった・・・ン・・何て名前だっけ、ちょっとど忘れしちゃった。
あの、ずーっとアメリカにくっついて、日本の放射線問題のリードをしてきた、
これ、元軍医少尉、いや元軍医大佐だったな。
これが一番わたくしは戦犯だと思っているんですけれどもね。
岩上:なるほど。戦後の戦犯ですね。
肥田:
ぼくの、私が学校にやらされた時に私を教えたレントゲンの、嫌な男だったけど、案の定・・・米軍にゴマすって。
それともう一人は、クマキっていう、ビキニの被災の福竜丸の患者の治療をした
東大グループのトップにいたクマキなんとかっていうのが
ABCCの流れをくんだ放医研の中心人物になって、日本の放射線対策の、
ま、全部を指揮してきた男だというふうに僕は理解しています。
岩上:これもやはり、内部被ばくを軽視するという方向にいう訳ですか
肥田:そう。軽視してた。初めから。
岩上:
この時に、戦後ずーっと見ていって、最初、初期は大変な急性な症状で死んでいく人達を見ていました。
で、時間が経つにつれ、やはり緩やかに現れてくる訳ですよね。
肥田:はいはい。
岩上:
その状態というのをもう少し教えていただけますか?
「年が変わってから様相が変わる」と先程おっしゃってましたけれども、
肥田:
あの、・・・つまり、”ぶらぶら病”というのは代表的な名前なんですけれど、
これは、沢山出た時に、医師じゃなくて、患者の家族が、誰言うとなくつけた名前が”ぶらぶら病”で。
で、ようするに、「ぶらぶらしていて働かない」と、あるいは「働けない」というのを総称してそういう言葉で言ったんです。
私を頼ってぽつんぽつんと来る、いわゆる民医連の医者として、
民医連の診療所の所長をして一般外来をやっていると、
「あの先生は優秀な経験があるから」と言って被爆者の人が訪ねてくる。
っていうのは、どこでやっていても来たんですけれども、
しかし私は、その「かったるいかったるい」って言うね、その主訴っていいますかね、患者の。
それの、「かったるい」って言っている時を見たことがあんまりなかったんです。
その時は来れないから、治って元気になってから「実は・・」って来る。
その時はかったるくないわけね、あんまり。
岩上:いい時期に。これは波があるんですね。
肥田:
ええ。波がある。
それで、一ぺんだけ、目の前で。
来た時は何でもなくて、
「そういう病気を持って自分は就職もできなくて、いろんな処で苦労して、いま貧乏で家族にも迷惑かけている」
っていうんで、「先生に一度詳しい話しが聞きたかった」って来た人がね、
それは、受付で。
夜の診療の時にね、僕の机の向こう側に座って、
「何の誰べいで」で、僕に会って初めて、「私は広島で被爆した人間です」と。
「直接原爆は浴びないで、翌日自分の娘を探しに市内に入った」と。
で、「丸一日探して歩いて家に帰った」と。
「その後何日かしたら、普通に動けたからだが急にだるくなって、毎日それが続いて、2,3回寝た覚えはある」と。
「それっきり治っちゃって全然何もなかった」と。
それが、私のところに来た時は、あれは50何歳で、被爆した時が25歳位ですから、
ま、27,8年経った時なんですね。
で、今、確か、新潟県で小さな町工場を5つ位束ねてやっている中小企業の、田舎のちょっとした名士なのね。
それが、働いてくる人間がいるから、みんなを励ます意味で、
自分は必ず、朝早くから工場をまわってね、色々段取りを示したりなんかしていると。
それが、「ある日朝食事をして、行こうと思ったら急に体がだるくなって動けなくなった」と。
で、変な事があるなって思って、ずーっと思いだしてみたら、
「原爆を浴びた後にね、こんなことが何日か会って、経験したことがある」と
その時は自然にいつの間にか治ってね、忘れちゃったと。そういうことは。
で、今回でも忘れていて、全く、「思いだすのに困難なぐらいだった」と。
それがまた、今現れてきたと。
それで、今度は、「何日か続いちゃ無くなり、また何日か続いちゃ、っていうんでずっと治らない」と。
で、「どこのお医者さんに行っても説明がない」と。
「『あんたは病気じゃない』って言うだけだ」と。
最後は何か、「自分の新潟の大学の先生に紹介状をもらって東大まで行って来た」と。
3日東京に泊って、自分は診てもらって、「今度こそわかるだろう」と思ったら、
その東大教授が「自分に分からない病気はない」と非常に威張って
「その俺が、全然診てどこも悪くないんだから、あなたは病気ではない」と言って、また帰された。
それで、この教授の言い方にむかっ腹が立ってね、
「『自分はかなり明るい方だけども、あなたの病気っていうのは見たことがない』というんなら分かる」と。
「『私ほど分かる人間が知らないんだから、あなたの病気は病気じゃない』ってこの言い方がありますか!」って言って
のっけから怒ってたのね。
それがね、そんな話しして、
「まぁ、わたしもそんな教授はね、本当はいて欲しくない」なんて話ししてたの。
そしたら、
「先生、ちょ、ちょっとごめんなさいね」って言ってね、向こう側でこうやって手をついたんですよ。頬づえを。
「あれ?この人だるいのかな?」って思っていたら、
「ちょっとごめんなさい」って言って、椅子から降りて、床下にあぐらをかいちゃったの。
「あなた、どうしたの?」って言ったら、
「先生、あの、私の言うだるさが今始まっちゃって、座っていられない」って言って
それで下にね、肘枕で横になっちゃったの。床へ。
それで初めてね、「これは容易なだるさじゃない」
岩上:椅子に座っていることもできない?
肥田:
できないんだ。
それで初めて、この人達の言う「だるさ」っていうのが、
「なるほど普通のものじゃない」っていうのがその時初めて分かったの。
それで、ま、その人に、私の知っている限りの内部被曝の特徴を色々お話しして、
それはあなたが広島の原爆が終わった後ね、もう済んだと思って入ったら、
そのキノコ雲って言うのは放射線の塵の塊なんだと
巻きあげた土砂と爆発で出た放射線がいっぱいあの中に詰まって、それで上へあがって行った。
それで、うーんと高いところに行って、もうここでおしまいというところで、
雨の粒に捕まったのが、黒い雨という格好でどしゃぶりで降ってきたと。
だから、当たった人はみんな黒い線がついて、それは、放射線の病気が起こると。
厚生省もちゃんと認めて、いわゆる認定の条件の中に入っていると。
ところが、雨の粒に入らなかった埃の方は、そのまんまゆっくりと落ちてきたと。
雨ほど重くないからね。時間をかけてゆっくりと落ちてくる。
目に見えないから、あなた方はそれを鼻から吸ったと。
それから、広島のいわゆる水源地に沢山降って、水道の水が汚染され
それが毎日毎日人がいない焼跡へジャージャー、ジャージャー水道管から出ていたと。
だからみんな被ばく者はそれをすくって飲んだりね、後から入った人間も飲んだと。
それから、腹がすくと、食べ物がない。
で、その辺の、何て言うのかな、
みんなが作っていたちっぽけな畑やなんかに残っていたキュウリとか、なすびとか、それからトマト。
そういうのを手づかみで掴んでね、埃を払って、みんなガブッて齧ったと。
それでみんな体内に放射線の粒が入ったと。
それを「内部被曝」というと。
だから、それが元で起こる病気を、アメリカでもね沢山の被ばく者が出ているけれども、
「放射線のせい」だというふうには認められないで病人になっているのがうんといると。
一つは実験で動員された普通の兵隊が、線上のまねをして、
その降ってくる中で、鉄砲を撃ったり、機関銃を撃ったり演習をやった。
それでみんな被ばくして、うちに帰ってからね、肺がんになったり病気になる。
これが放射線のせいだというふうには政府が認めてないから、
アメリカの医者は「その事の研究をしてはいけない」と言われて、誰も診ない事になっている。
それからその、
岩上:じゃぁ、アメリカでもって言う事・・
肥田:
アメリカでも。
で、原発が起こって、何回か大きな事故が起こっている。
それから、原爆製造工場でひとつ大きな事故があって、
やっぱりその周辺で、沢山市民が被ばくをしている。
そういうのがアメリカには、ま、広いけれどあちこちにいっぱい居てね、
それが会を作って「これはみんな政府の責任だ」と。
だから、軍人はみんな政府に要求すると。「賠償しろ」「治療してくれ」と。
それから、原発の方は会社にみんなが裁判かけてやっていると、
だけど、みんな被ばく者の方が今まで負けてきている。うん、勝ったのは一つもないと。
岩上:
ひとつ「大きな事故」っていうのは、スリーマイルの事ではなくて、その前なんですか?
原発の製造工場の・・
肥田:
チェルノブイリの前にね、スリーマイル島って原発の事故がある。
この時に私がいろいろと教えてもらった、
スタイン・グラスというアメリカのピッツバーグ大学っていう大学のレントゲンの教授だった。
この男が比較的、原発を造る仕事にも参加している位、放射線に明るい人間なの。
で、初めはウェスティングハウスなんていうむこうの会社の顧問かなんかになって、
原発を造る手伝いもしてた。
そのうちに、「放射線の被害は体内に入ってからひどくなる」というのをいろんな事で勉強して、
実際にそういう論を自分でたてて、で、いろんな症例を研究し出したのね。
原発実験があった翌年のアメリカの新生児。新しく生まれる子どもの数が急速に減るんですね。
岩上:あーー・・・
肥田:
翌々年、つまり被ばくして死んじゃうっていうのが
岩上:あったわけ
肥田:
そう
それが大きな実験があった時にずーっと統計を取っていくと、
翌年必ずゲクンと減るっていうのがグラフの上に出てくる。
それで、それが死の灰の中にある放射性物質が牧場に降って、それを食べた牛のミルクが汚染して
それを飲まされた赤ん坊がみんな被ばくしちゃって、
早産とかね、あるいは新生児のすぐ死亡。あるいは低体重の出産とかいうのが
いっぱい統計が出てきて、それが何年にもわたってグラフになって出てきて、
「もう間違いない」っていうんで、彼は発表してね、
それで政府に、特に核実験の被害を受けた時にはその知事にね、
「周辺の妊婦をすぐに疎開させろと、一番危険なんだ」っていうんで、
そしたら知事が3日間言われたけれど、何のことかわからなくて、取り入れなくて、
4日目に、あんまり言われるんで恐くなって疎開させたら、やっぱり間に合わなくって、
何人か疎開した主婦の中から癌が、乳がんが出たと。いうようなことがあって、
その学者を中心に、アメリカの内部被曝の問題がずっと、
ま、彼を信頼する弟子ですね。それが保険者の中に伝わって研究するのがずっと増えたんです。
それで書いた本を私は貰って、日本で初めて内部被曝のアメリカの専門書をずっと翻訳して4冊出しましたかね。
でも、日本でそれを読んでくれた人っていうのはあんまりいない。
本屋がだいいち出版してくれませんから、
自分で打ったパソコンのあれをコピーして、で、コピーした分を、
ま、30部とか50部、300ページぐらいのものを自分でコピーして、ものすごく時間がかかるんです。
それを、懇意な印刷屋に仮綴じの製本にしてもらって、できるだけ安く、
だから、1冊せいぜい7~800円から1000円位で50冊とか100冊作ってもらっちゃ、
まぁ、何とか私の話しを聞いてくれる医者にね、送ってきたんです。
岩上:先生、それは何年ぐらいの時ですか?
肥田:
一番最初はね、彼から貰ったのは1975年に彼が初めて書いた本をもらって帰って、
それを帰ってすぐに訳したから1983年かな。
時事新報っていう、あそこが僕の本を出してくれて、
「死にすぎた赤ん坊」という名前で本を出しました。
2版まで出たから2000部位出たんじゃないかな。
それっきりもう、絶版になっちゃいましたから。
(死にすぎた赤ん坊―低レベル放射線の恐怖(1978年)[古書] E.J.スターングラス(著)肥田 舜太郎(翻訳))
その次はね、私が80歳になってから初めて出し始めたんだから、今より10年ぐらい前ですね。
正確に言うと、今2011年ですから、1993年4年5年の頃じゃないですか。
その頃から、毎年か2年に一回位、ずっと、こう、出してきた。
2005年に出したのが最後でした。
これが、鎌仲と一緒に訳した。 (『内部被曝の脅威』)肥田舜太郎/鎌仲ひとみ)
岩上:ぜんぶその、はぁ、
電話のベルーー
肥田:ごめんなさい
岩上:どうぞ
ーーー電話中 略ーーー
肥田:
ですから、今年になってね、今まで出した本を正式に本屋さんで出したいといった人が現れてきて、
今まで訳したのがが全部本になって出ました。
一番高いのが5800何十円かで高い本が出てます。でも、全部売れちゃったそうです。
よく売れてます。
岩上:
はぁーー。なるほど。
本当はできるだけ多くの人に読んでもらいたいですよね。
肥田:ええ
岩上:専門書ですか?ほとんど。
肥田:
いや、それもね、医学的な事はまだ分かりませんから書く人がいないんですよ。
今の医学っていうのは、細胞医学って言って、生命の一番小さな単位は細胞なんですね。
で、細胞を作っている分子。今は分子生物学とか分子医学っていうけど、
その段階で、分子の段階で放射線と噛みあっていろんな変化を起こす。その段階はまだ分からないのね。
見ることもできないし、何が起こっているかという化学方程式にできないんですね。
だから医学は他の学問と比べて、ま、100年位遅れているわけだ。
科学の進行度から言うと。
それはやっぱりアメリカが1920年の段階で、原爆の瞬間から研究をストップさせた
これは日本だけじゃなくて、アメリカにもストップさせていますからね。
だから、世界中の学者が同じように遅れている。
で、英国がアメリカに反旗を翻して、アメリカと全く違う。「内部被ばくは危険だ」ということを公に言い出した。
それはね、英国はもう嘘付けなくなったんです。狭いでしょ、日本と同じように。
狭いところに、セラフィールドというところに原爆の製造工場がある。
そこの排水が、あの狭いね、英国海峡の海を汚染するし、
工場周辺のあらゆるところで市民の子どもに癌がどんどん増えて、もう、隠しようがなくなっちゃった。
で、イギリスの婦人団体がもう、公然とね、「核兵器は危険」といい、それから「原発も危ない」と言い始めて、
特にイギリスの婦人の戦い方は、本当に僕は傑作だと思うんだけど、
ノーチラス(Nautilus)っていうんですか?原発の推進団体がロンドンに入るんですね
そうすると、金槌を持ってね、ひっぱたきに行くんだ。
岩上:ハハハハ・・ッ
肥田:
そうすると必ず警官に捕まえられるんだ。
なんで自分たちが捕まったか。
「ノーチラスという潜水艦を金槌でひっぱたいた。だから私達は捕まった」と。
「だけどね、私達は捕まって、みなさん方に訴えたいんだ」と。
「この潜水艦ぐらい悪いものはない」って言って、放射線の話しをするわけなんです。
そういう運動をやっているんですよ。
岩上:
なるほど…これは何年ごろから動き始めたんですか?
イギリスのその抵抗運動っていうのは。
肥田:イギリスはね・・もう、5年前ですね。
岩上:
5年前。
じゃぁ、わりと新しいですね。
肥田:
はい。新しいです。
それから急にアメリカが孤立して、
内部被曝の本がアメリカにあったものが、ま、方々で翻訳されて、
沢山の学者の中に支持者が出始めた。
岩上:
あの、今の婦人団体の抵抗でしたけれども、
イギリスはじめヨーロッパでは、たとえば、ICRPに抵抗するECRRとか、そういうのがありますよね。
ICRPっていうのは、圧倒的にアメリカの核政策の影響下にあったわけですよね。
肥田:そうそう。離れられないのね。
岩上:
離れられない・・はぁ。
それは、マンハッタン計画やあるいはABCCとも密接な関係にあったわけですよね。
先生、そのあたり、ICRPのいろんな基準。
今回も、このICRPの基準に則してと、それを唯一絶対の尺度にしながら日本政府は、
その中で、できるだけ緩い基準を探そうと。
肥田:都合のいいのだけ取ってるよね。
岩上:
都合のいいのだけ取ってますね。
ICRPだけがすべてであるかのように言うんですけれども、
肥田:
だけど、もうね、
アメリカにもいるし、欧州にも沢山いる。日本にもいる。
要するに基本的に原発を反対と、一切の放射線は危ないというところに結集している人間のなかに、
かなり、その本の、翻訳した原則が入り始めて、
ただ、医学がないだけにね、証明が出来ないのね。反対する側は。
私もこの間の集団訴訟で、全ての被ばく者を勝たせる浦和の証言をしてきましたけれど、
裁判には圧倒的に全部勝ったんだけど、政府は負けたくせに反省しないのね。
自分たちが今までやってきた、その、入市して直接浴びていない人達の放射線被害は
どんな病気であっても補償の対象にはならないって言って、認定をしなかった。
これ、「間違ってない」って、まだ言ってるんですよ。
その理由はね、裁判官は全部素人だと。
医者じゃないんだ。医学を知らない。と。
それがみなさんの弁護の証言の中で、何となく人間的にそっちの方が分かりやすくて、よく分かったっていうんで、
ああいう結論を出したけれども、あれは全部素人だ。
厚生省の方はアメリカに留学をして、向こうの放射線医学の最高峰を身に付けてきた人たちが20何人顧問でいると。
この人達が集まって、この法律の運用をしてね、
「この人の病気は放射線の影響ではない」というのを、ちゃんとお医者さんが証明しているんだから、
「こちらが正しい」って、まだ頑張っている。
で、この医者がね、もう、
アメリカに行って、ま、最高の知恵を授けられて、で、
日本に帰ってくると、最高の放射線医学者っていうんで、
金をたんまり貰う、で、東芝からも貰う。っていう感じで、
「なんでもありません」っていう先頭に立っている訳なんです。
岩上:
たとえばそういう人たちが、その・・・何て言うんでしょうね・・今回の福島の第一原発の事故の後ですね、
「安全だ」と。さまざまなプロパガンダというんでしょうかね、
ま、安全デマといえるような、ま、発言を繰り返すわけですよね。
それは現代の学者で、それこそ先生の世代からずーっと延々と来てですね、引き継がれている。
この人達は、ずっと、その、何て言うんでしょう・・我々から見ると非常に奇妙に見えるんですけれども、
なぜ、その、・・安全だと・・・。
その事実を見れば解りそうなものなのに、それを無視して、
こう、何て言うんでしょ、政治的に占領直後に定められた枠内で、
その枠内の中で研究を続けていくという事が出来ているんでしょうか。
肥田:
彼らの特徴はね、学校を卒業して、6年間っ?ていう教室で勉強する。
内科とか外科とか。内科でも循環器とか。ま、専門の教授について一人前になる。
それで、教授から「お前は大丈夫だよ。もう博士だ」というんで、証明されて、で、初めて社会に出て、
教授の紹介の何何病院の内科のナントカだとか、ま、就職。
全部自分が習った教授の支配下で生きていく訳です。
結婚も就職も。
で、それから背いて、その医局から離れたら最後、
もう、日本全国どこに行っても医者扱いしてもらえないんです。
岩上:はぁ・・・
肥田:
そういう、ま、日本の制度があるわけです。
だから、大学に残って、講師から助教授から教授になって行くっていうコースを狙うのが一つ。
もう一つは大病院へ派遣されてそこの内科部長とかね、外科部長、あわよくば医院長になって、
それで、そこを辞めて、患者をいっぱい持っているから、その地域で最後は開業して、
ま、有終の美を飾ると。
それまでには、うんと蓄財はできてる。だから、土地を買ったりなんだっていうんで、
ま、いわゆる、有力者の中に入る。
それしか・・
あ、それと後は初めから、親の影響で開業してね、
親の意向で前からいる患者、お金持ちを含め有力者から支持されて、そこの保守勢力の重要な一人になって、
ま、安定した生涯を終える。
大体、この3つしかないんですよ。医者のコースは。
だから、僕みたいに、マッカーサーからクビ切られたのを軸にして、
日本全国のどこに行っても医者では飯が食えないというふうになった時にどうするか。
やっぱり、医者以外の事はできませんから、
仲間で何人か、やっぱりクビになった連中が、それぞれその地域の、共産党とか、ま、進歩的な文化人とか、
そういう人達と相談して、つまり、金もうけをしない、純粋に正しいと思う医療だけをやると。
そして、ま、一般のお金よりは安いけれども、
まぁまぁ、子どももね、大学にやれる位の収入は保障する。
そういう新しい開業形態っていうのが戦後、ポッと生まれたんです。
それが僕らのやってきた、いわゆる民医連運動。民主的な医療機関。
つまり、建物とか、購入する資材は原則として住民が持つと。
より集めてみんなが買うんですね。
で、その組織が所有するんです。
所有権は患者の団体が持つわけだ。法人になってね。
で、院長以下僕らは、そこに行ってる月給で雇われるんだ。
うん。もちろん労働会もできるし、民主的な、全てが話し合いで決めていくっていうルールで、戦後始まった。
岩上:
マッカーサーにクビになったって、今おっしゃいましたけれど、
それは軍医として、それから、こんど、厚生省の技官が、つまり国の医者になるんですよね。
パージされるんですか?
肥田:
パージです。
あの当時、日本の政府の大蔵省から内務省からすべての中に居た、
共産党員もしくはその新派と称されるメンバーが全部クビ切られたわけ。
岩上:
ん・・、それは、共産党というと、ま、今のイメージがありますけれども、
それはみんな共産党員だったんですか?それとも共産党員か共産党の新派だったんですか?
それとも当時はですね、
アメリカと戦って叩き潰されて、唯々諾々となるのが悔しくてたまらない。
ついこの間まで国政主義者だったんですから。日本全国。
その国政主義者みたいな魂持っている人も、これ、もうアメリカの占領政策に従う
肥田:
ま、向こうが見てね、都合が悪いと思ったら、もう、要するにMVもいるしスパイもいますから、
民間の中で労働者とか、農民とか、婦人とか、市民の中で活動している、
それぞれの戦後のあの時期の、ま、民主的な活動家を、もう、ずーっとマークして
「こいつはいけない」っていうのを、勝手に向こうで作ったんですよ。
で、私は、マッカーサーが一番嫌った「特に被ばく者に親切にしすぎる」と。うん。
彼は被ばく者というのが一番大きな抵抗勢力だと初めは思ってたんだ。
占領した時に。
岩上;なぜ
肥田:
やっぱり、原爆をやられたっていうことで、ああいう非人道的な・・
自分で知っているわけだから、
そんなもので被曝してね、しかも政府からは何の援助もしてもらえないと。
ま、初めから「させてない」訳だから。
それだから、この中からはもう、かなりの抵抗勢力が生まれると勘定しているから、
そういう面で見ている訳ですね。
岩上:今のアルカイダみたいな
肥田:そうそう
岩上:
その、要するに反米主義者になっていくだろうというふうに、彼らはみなしていた。
ということですよね。
実際日本人は、みんな優し過ぎたのか、あのー、そういうなんて言うんでしょうかね、
反米テロリストの紋章に被ばく者という存在はならなかったわけですよね。
これはかなりのずれがあったわけですよね。
見方と、実際の日本人と。
先生はその時の感情、ご自身も被ばくされたとおっしゃいましたけれど、
その当時の一番ひどい状況を見られて怒りも沸いてこなかったと。
肥田:そうです。
02:13:36
ーーーーーーー
続きはこちら↓
肥田舜太郎氏×岩上安身No3(文字起こし)2011年10月6日

直接被ばく者が亡くなった後、
軽いやけどの被ばく者が同じ症状で亡くなり始め、
ついには直接原爆を浴びていない、入市しただけの方にも同様の症状が出て亡くなっていきます。
「ぶらぶら病」の患者さんの、その「だるい」瞬間を目の当たりに見た肥田先生のお話し
「死ぬべき人はもう死んだ」と内部被ばくを決して認めようとしないアメリカと日本政府。
戦後の時代に真実が歪められ、隠されていく現実を体験された
肥田先生の大切な大切な生の声だと思います。
心をこめて文字起こししました。本編だけで4部に分かれています。
お時間がある方は、アーカイブで声を聞いて、表情を見ていただきたいと思います。
No2 アーカイブ1 57分30秒~2時間13分36秒まで
・3日目から現れた放射線の急性症状
・ピカにあっていない兵隊の死
・だるくてたまらない人々
・マッカーサーの「原爆の被害者に、と、日本の医療機関、医師と学者に与える」という声明
・1975年国連で肥田氏内部被ばくについて発言
・ABCC(原爆障害調査委員会)
・原爆による内部被ばくを隠す二つの目的
・ブラブラ病の症状を目の前で見たとき
・アメリカの内部被曝の問題
・英国がアメリカに「内部被ばくは危険だ」反旗を翻す
・被爆裁判で負けた日本の国の言い分
・御用学者になるワケ
・マッカーサーにクビを切られた肥田氏
111006肥田舜太郎氏インタビュー
肥田舜太郎氏×岩上安身No1(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎氏×岩上安身No3(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎氏×岩上安身No4(文字起こし)2011年10月6日
肥田舜太郎&岩上安身 10/6(最後の部分の内容書き出しました)
続きを読むに

57分30秒から
岩上:
今、間をつないでしゃべっていたんですけれども、
あの、広島の、
僕は59年生まれなので、子どもの時に広島、長崎への原爆投下の、
それは、当然言い聞かせられますよね。テレビでもみます。
そして僕は実は、小学校の1年生の時に同級生の女の子が白血病で亡くなるんですね。
肥田:ほぅ・・・
岩上:
それで、何が起こったか分からないんです。まだ、こっちは、ほんの子供だったので。
確か同じクラスじゃなくて隣のクラスかなんかの子だったんですね。
で、校長先生が、すごく、深刻な演説というか、講話みたいなことをされるんですね。
肥田:はぁ・・
岩上:
で、何が起きたのか分からない。
というので、大変な事があって、ま、2世ですよね。本人は戦後の子どもですので、
でも、亡くなってしまったんだという・・で、
多分、お父さんかお母さんのどちらかが、広島か長崎で被ばくされたんだと思います。
もう、ちょっと、記憶がたどれないんですけれども、
ただ、「そんなことが起こるんだ」っていう事があったんです。
肥田:2世ですね。
岩上:多分。僕と同じ年ですから、59年生まれですから。
肥田:あぁ・・59年っていうと、あ、そうか
岩上:1959年生まれ。
肥田:あーー
岩上:
昭和34年生まれなんです。私は。
だから、あのー、戦後にね、生まれた子どもです。
お父さんか、お母さんかが、多分被曝されていたんではないかと思うんです。
そして、小学校1年の時に亡くなったということがあって、
本当に記憶はあいまいなんですけれども、そういう話しを聞きました。
ぼかした言い方を大人たちはするんで、あのー、分からないんですよ。東京の子どもですし、なにがなんやら・・
あまり悲劇的な事はいいたくないというのもあって。
さっぱり分からなかった。正直言って、すぐには。
で、周りの大人に聞いても、口をこう・・もごもごするような説明でですね。
これが広島だったらば、もっとはっきり、体験者もいるし、語ってくれて人もいたんだろうなって思いますけど、
東京ですのでね、曖昧な言い方なんですね。分からないんです。
そういう事もありましてですね、あのーー、過去のことだと思っていたんですね。
んー、で、この、まさか、
こんなに、二度とね、われわれが、その、原爆症のようなもの。
そうした放射能の災禍というものをですね、もう一度真剣に、
今日の出来事として考えざるを得ないような事態になるとは思えなかったんですね。
半世紀生きてきて、たかをくくっていたところがどっかにありまして、
今こそ真剣になって、本当に、もう、こう、
耳をそばだててですね、先生のお話しを聞かなければならないというふうに思っている訳でして、
まさか、そんな日がね、今日もう一回日本に訪れるとはと・・・
ちょうど先生のお話しが、いま、セールスマンで遮られてしまいましたけれど・・
第3波ですよね。
肥田:
そうです。
急性の直接の即死と、それから、ま、火傷ですね
岩上:軽い火傷ですね
肥田:
それから次に、初めて放射線の急性症状というのを3日目から僕らは見ることが出来た。
それまでは出てこなかったんですね。
あるいは、その前もそれで死んでいたのかもしれないけど、全然分からなかったと。
で、結局、火傷はあるけれども、たいしてない、火傷もない人までも含めて、
強烈な放射線に直接やられた。その放射線症状が3日目の朝から現れ始めた。
そして、大体それがね、続いたのが、ちょうど年の暮れまでです。
12月31日までの死亡を、僕らは即死という中に入れているんです。
何を治療しても絶対に助からないという事が分かっている死ですから、
それを即死の中に入れて勘定した。
だから、始め政府が発表した死亡者の数というのは6万とか7万だったんですけど、
何年か経って、1970年・・・えっと、終戦が・・・
岩上:終戦は45年です
肥田:
45年だから、55年。
1955年に・・そうですね、そうじゃなくってね、・・・ちょっとまってください
ちょっといま、頭がボケて・・ごめんなさい
1977年にね、日本政府の発表も、アメリカの政府の発表も、
全くデタラメだっていうんで、世界中の学者、
放射線が明るい学者と、そういうのを日本に集めてシンポジウムをやろうと。
で、長野のシンポジウムの時にみんなで何人死んだかというのを全国で手分けして、
手書きでね被ばく者から、もう、全部集めて、精密なのを書いたものが、
広島と長崎合わせて、21万プラスマイナス1万だったかな。
それが広島の原爆の被ばく者というふうに世界的に決めて、
これで世界歴史の中へとどめましょうという事になって
これが国際的に大きな公の数字になっている。
で、その時にね、内部被ばく問題をわたくしが訴えようと思ったんですけれど、
その、ちょうどその時に、なにかね、入院しちゃったんですよ。急病が起こって。
で、友達に頼んでおいたんだけど、その人は僕ほど、その、内部被ばくに対して熱心な人じゃなかったもんだから、
会場からの発言かなんかで抵抗されてね、しゃべりきらなかったんですね。
だから、そのシンポジウムでは、
「内部被ばくについてはさらに研究を要する」みたいな事で結論的に認めていないんですね。
もう、わたくしは大変に悪いことをしたと思っております。
ま、出でいても上手くいったかどうかは分かりませんが、
日本の、つまり、それに出席した日本医科の幹部は、
「全く内部被ばくはない」という立場の幹部ばっかりだったので、
議題にも入れないです。そういうのを。
アメリカのいうなりの・・
岩上:
そこも是非お聞きしたいんですけれども、
その年の暮れまで、ちょっと話を戻して、ま、即死というふうに勘定したと。
そして、その後本当に遭遇していない。つまり・・ま・・
肥田:
後から町に入って、
岩上:
あとから、後日入域した人達が具合が悪くなった。
そういう具合の悪くなり方というのはいつごろからなんですか?
それはもうけっこう
肥田:
それはね、早い人は、戸坂で急性症状が起こって暫くしたころですから、
そうですね、3週間から4週間ぐらい経って、もう、出始めています。
それは非常に例外ですよ。
例外です。はい。
だから、私達はそれを経験したけれども、なぜ、そんなね、後になって入った人が、
同じような症状を出して死ぬかっていうのがね、
なんにも、その、説明が出来なかった。自分に。
岩上:なるほど
肥田:
はい。
ただ、事実として、それは認めておかなければならない。
これだけはきちっと覚えています。
そりゃ、ドラマチックでしたよね、聞いた時、見た時には。
はじめ、ある集団の中で、死んだから、そこへたまたま行って処理したら、
後ろに居た、ま、兵隊なんですけど、
焼けてない。汚れてはいるけど、焼けてない服を着た兵隊が、
わたくしに「軍医どの」って言って、こう引っ張ってね、
「どうした?」って言ったら、
「わしは、軍医どの、ピカにあっとらんけんね」って言うんですよね。
だから、「ピカにあってないならどういう訳だ」って言ったら
「わたしは福山の部隊にいた人間だ」と。
で、当日6日のお昼に部隊長が全員集めて
「これから中央の命令で広島へ援助に行く」と
それで、「いろいろ死も出ているから、難しいと思うけど頑張って働いてくれ」というんで、
トラックに乗せられて連れてきて、それで今の、キリンビールかな?
(かいざいちゅう)の近所で車を止めて、あとは歩いて市内に入った。
それから、6日の午後入って7日と8日、そう、9日の、やっぱり朝ですよ。
朝、その男がね、なんていうんですか、あの・・脱水症状で気絶して倒れてた。
まぁ、あんまり、働き過ぎたんですね。飲まず食わずで。
ま、水は飲んだんですね。
それで、友達が担いで、
「辺坂村には軍医が沢山いて治療をやっているから、あそこに連れて行けば診てもらえる」と言って担いで来て、
村の、自分らも忙しいし、軍医を探したけれども、どこに居るか分かんないからね
一番入口に近いところに、こう・・まとまっている被爆者の寝ているところに置いていかれちゃったの。
「そこに寝ていれば看護婦さんかお医者さんがきて診てくれる」って、周りの人が言うもんだから置いておかれたの。
で、たまたまそこへ死人が出て行ったら、それがそういう話しを、
だから、
「私は被ばくをした人間に、ずーっと飯も食わず、夜も長いこと寝ないで働いている」と。
被ばくをしていないなんていうのはね、もう、診る必要はないと。
「どっちみち風邪に決まっているからそこに寝ていろ。そのうち治る」って言って、
診もしないでいなくなっちゃった。
それで、また、3日後だったかな、確か。
あの、死人が出て、またそこに行ったんです。
それで、
「この間ここで寝ていた、あの焼けていない服着ていたあの兵隊どうした?」って言ったら、
「死にました」って言うの。
「えぇーーっ!」って言って、
「どうした?」って言ったら
「みんなと同じような症状で死にました」って、
「血を吐いたか?」
「最後は血を口から吹き出した」って
「じゃ、頭の毛も取れたんか?」って言ったら
「全部とれました」
聞いてみりゃ、同じなんですね。
だから、分からないの。おれも。
本人がね、原爆にあっていないと、翌日町に入っただけだと、
なんでそんなことになるのかが、全く分からない。
そういうのが、一緒に来た他の軍医も、
「まだ知らないけど、そう言っている奴が今、寝ている」と
「なんか、症状から見たら危なそうだ」何人もいるんだそうで
だから、私だけが経験したんではなしに、そういうのが次から次に、
で、だんだん日にちが経ってね、年末近くなった頃に典型的な奴が出始めた。
それはね、被曝したその日はなんか、市内で、じゃない
翌日入って、探して歩いて、何にも分からなくって、
家が近かったんですけれども2日ぐらい市内に寝泊まりしたのもいて、
いくら探しても子どもが見つからないものだから、
家へ帰ったんですね。
で、家族は心配していたから、「父ちゃん良かったね」って
「どこも何ともないの?」って言ったら
「なんともないよ」って「俺、腹減ったから飯食うわ」って言って食ってね、
それで、2,3日、ま、元気でほったて小屋作ったりね、ま、うちのそんなことをしていて
3日目か4日目になったら
「ちょっと、俺、かったるくなったから、寝る」って言うんでね、
どっかの村の友達の家に寄せてもらって、そこで横になって寝たんですね。
で、翌日の朝元気になって帰ってきて、
でまた、いろんな、うちのね、事をやっていたら、
翌日また「だるくなった」って言うんで、また、寝に行った。
そういうのが、2日か3日あって、とうとう家に帰ってこなくなって、そこで泊めてもらうことになっちゃった。
で、そういうふうに、後から入って、一時元気でいたものが、
かったるくなったというのを繰り返して、
その・・寝ている時間が多くなる。という症例が、だんだん、だんだん増えてきたんですね。
で、初めて、まとめてそういうのに、医療を持ったのは、
山口県に、僕たちは辺坂村から移って、軍隊の古い兵舎を一つもらって、
国立柳井病院というのを作ったんですね。
アメリカの差し金で。
それで、ま、日本中、別に被ばく者だけじゃなくて、
貧乏人で病院にかかれないというのがいっぱい居る訳だから、
日本全国の海軍病院と陸軍病院を、全部政府は国立病院に、
初めて日本は・・・国立病院なんて持ったことなかった。
それをアメリカから言われて、持って。
戦後の、貧困者に、「いざとなったら無料でも診ます」という制度を作ったんですね。
その一つに、広島の陸軍病院は厚生省の命令でなって、
僕らの身分は厚生省の医官。いわゆる厚生省の医者ですよね。
になって、そこで患者を診始めたんです。
連れて行った患者と、山口県に逃げて行った、その、日本で一番多かったんですね。山口県に逃げて行ったのが。
広島市内は知りませんから、
広島市内は殆ど全部山口に逃げて、いろんな処に厄介になっていたのが、病院が出来たと言うので、
ま、荷車にのせてね、運んできて、
元兵舎ですから、なんぼでも部屋がある。増やせば。
だから、あの、藁布団、だけは沢山あったんでね、それを並べてベッドにして、
で、暖房は各自がみんな村の農家に行って、
古い七輪をもらってきて、その中に端切れをこう、入れたりね、何かこう、作ってボーボー燃やしたのは、
枕元に置いて、それで入院したって、ま、そんな病院でした。
でも、医者はそれでも7人ぐらいいて、
400人位入院しましたけれども、ま、ろくな事は出来ない。
ただ「診るだけ」みたいなね。
その中に、その、いっぺん山口県に逃げてきて、
うちに居たとか、親せきに居たというのが具合が悪くなったっていうのが、病院に入院し始めた。
そのなかに、自分は3日後に広島に入って、元気でいたんだけども、そのうちだるいという症状が出始めて、
どうにも我慢が出来なくて、御厄介になりに来たって言うのがいて、
で、ま、相手も白衣を着ている。こっちもね、白衣を着て看護婦を連れて
いわゆる病院らしい医療を始めたんです。
なんぼ一生けん命その人を診ても、病気らしい痕跡がなんにもないんです。
熱もでなきゃね、食欲もある。夜も眠れる。
それで訴えるから、おしっこを調べたり、貧血を調べたり、
もう、できる限りのことをやってもね、引っかかるものが何にもないのね。
本人がかったるいって言うだけなの。
そのうちに気の短い医者は、
「おまえは、なんぼ調べても病気なんかない」と
「お前は被ばくのことが気になって神経衰弱になっているんだ」
当時、ノイローゼという言葉はまだなかった。今のノイローゼは神経衰弱。
岩上:今は何でもかんでもストレスだと。そういう言い替えですよね。
肥田:ええ
岩上:
じゃぁ同じ事が。「そんなの気のせいだよ」と。今、福島の人達が
肥田:同じ事が言われている。
岩上:言われていますよね。
肥田:
おんなじです。それはもう東大に行っても、慶大にいっても、京大に行っても同じだった
全く、その、放射線の被害に無知だったんですね。
そうなった理由はね、9月の1日だったと思う、2日だったか、調べれば分かります。
厚木の飛行場にマッカーサーが着いた日です。
この日に彼は飛行機を降りて飛行場に降りた瞬間に、
日本全国の日本の各省の役人を全部呼んで、
「自分が、本日ただ今から日本を占領して国民を支配する」
「天皇も総理大臣も一切権限はない」という宣言をして、
軍隊を解散するという事からはじまって、
「日本の国民は何何をしてはならん」というのをずーっと並べたんです。
で、彼は、あと後のことを考えて文章では言ってないんですね。
口頭で述べて、日本の役所がそれぞれ、各自がみんな通訳と速記者を連れて行って、
全部速記して、通訳がその場で訳して、それを役人が全部日本語に写し直して、
自分の役所から、全国の関係のところに流したんです。
広島の僕のところに来た時に、
他のところはね、負けたんだからしょうがないと思ったけど、
一つだけどうしても許せないと思ったのが、
被ばく者に、つまり、「原爆の被害者に、と、日本の医療機関、医師と学者に与える」という声明。
これが、ものすごい腹が立った。
それはね、
「被害を受けた人間は自分の見た、経験した、聞いた、その被害の現状について、一切話してはならぬ」
それから、「書いても、写真も絵もいけない」と。
全く黙を通せと。これは親子だろうが夫婦だろうがしゃべっちゃいけないと。
これをやった。
理由は、「お前たちの受けた被害は、それが痛みであれ、火傷であれ、病気であれ、怪我であれ
全てはアメリカの軍の機密である」と。
うん。
だから、「何一つしゃべってはいけない」とやった。
それから、医療機関の学者に対しては、
職務がら「患者がきて被害者が診てくれと頼まれたら、これは診てよろしい」と。「それは自由だ」と。
「ただしその結果を複数の医師で研究したり、論文に書いて発表したり、
あるいは学会に報告したり、あるいは学会で討議をしたり、これは一切いけない」と。
本人を診る、命を診て、なにかする。それはいいと。
あくまでも個人でやれと。
医師が集団になって一切タッチしてはいけない。
というのをやった。この二つが、これが原因なんですよ。
日本中が黙っちゃった。
うん。アメリカの、つまり「軍事機密だから触るな」って言うのが、
岩上:
なるほど、これは、本当に今でも、こんなに敗戦の特集とともに
8月15日、8月6日、広島に投下された日に必ずNHKが番組をやるとか。
どこかもつつましやかに祈念の番組とか、テレビでもやったりするわけです。新聞も特集を組むんです。
毎年何十年も続いてきているんですけれども、
最も肝心な、こうしたことは殆ど報じられてこなかったですよね。
それはほんとうに・・・
肥田:
私は戦後ずーっとこのことをしゃべってきたし、
特に今度取材を受けた62社かな、ま、記録してあるから全部名前は分かっていますけれども、
大新聞から週刊誌から、皆さん一般の、なんていうんですかね、全国紙、雑誌、全部、
ありとあらゆるのがきましたから、全部しゃべっていますよ。それは。
だけど、そのことに触れて書いたのは、どっこもないですね。
岩上:これは書いていないんですか?
肥田:
書いてないですよ。
アメリカがそれをね、
岩上:62社って言うのはこの福島の事故の
肥田:
それの前の広島の事実について、そういう事があったというのを、
それが原因で、日本ではね、被爆者があれだけ居ながら、誰もそれから学んでいないと。
そういう事が起こったのは、アメリカのその声明が元だと。
で、本来は7年経ってアメリカが占領を解いて帰った。
日本は形式的には独立したと。
ところがその時の直後に、安保条約を結ばれ軍事同盟を結ぶ。
その内容はそのまんま、私は引き継がれているんだろうと思った。
つまり、それ以後同じ事が続いていると。
「もう、アメリカが帰ったからいいよ」という話しは一遍も聞いていないと。
ん。
岩上:
先生、その時の声明というか、お達しですよね。
マッカーサーが記述されお達しが出た。その全文というものは・・
肥田:残ってないんです。
岩上:
残ってない。
先生のご記憶だけなんですか。
肥田:そうなんです。
岩上:あーー
肥田:
というのはね、
そりゃ、あの、日本も占領されたんだから、
軍隊を解散するとか、公になっている物は政府もその時の口承の公文書としてね、
いわゆる、講和条約結ぶ時の公文書の中に
そういうお達しがあったら、みんな書いてあると思うんです。
ーー岩上氏の携帯の着信音ーー
岩上:
申し訳ない。ちょっとごめんなさい。
すみません、電源を消し忘れていました。はい、ごめんなさい。
肥田:
だから僕は、もちろん政府関係で、それの控えがどっかにあると思っていたら、
「そんなものはない」との一点張りだった。
で、国連に行った時に、僕が行ったのは1975年ですけれど
その時に私が国連にね、
そう、77年のシンポのことを国連の主催でやってくれという事を頼みに行った。
で、そのときに、現在でも、ちょうど原爆から30年経っているけれども
日本の医師が診断もできないし、治療も分からない症状で被ばく者が沢山苦しんでいる
だから、アメリカがこの問題に対する、きっと、良い資料を持っているはずだから、
それをアメリカにね、公開させて欲しいと。
で、国連の力で困っている病人と日本の医者に、
サジェスションを与えて欲しいという事を嘆願に行ったんです。
始めて国連に。
で、他の代表はみんな、核実験をやめて欲しいという、全部それで大きな集団がいたんです。
僕だけが医者で混じって、そういう要請だけを日本の民医連という組織の医者が発想して言いに行ったけれど、
そしたら、国連の事務総長が、他の核実験の事は責任を持って取り付くと。
しかし(独断被弾)の要請だけは自分は受けられないと 1:26:07
で、何故だったら、その1975年の時に、7年前だったかな?
1900、・・23年後だから、
岩上:先生、昭和20年からですね。1968年ですね。7年前。
肥田:
そうです。7年前ですね。
その時にアメリカと日本政府が共同で、
国連に対して広島長崎原爆の医学的影響についてという報告を出している。
その時に
「もう、『日本の国内には原爆の影響と思われる病人は一人もいないし、死没者は全部死んだ』
というのを文書で出してる。
だから、ドクターが、ここでそういう事を言っても、国家として国連にそういう報告が出ている以上、
私としては、ドクター個人の今の要望を受け入れる訳にはいかない」
と言って断られたんです。
それで、「その報告というのを見せてもらいたい。国民はしらない」と、そんなものは。
それで、みんなで要請して取り寄せて、で、通訳に全部訳してもらった。
同じ文書が出ている。ちゃんと。
それで、この文書はね、なんとね、被爆後、確か、一か月経つか経たないかの時に、
あの、アメリカの、何て言ったかな、・・・何とかって言う
マンハッタン計画の、トップから2番目っていう。名前は向こうに書いてあるから、
何とかっていうのが日本に来て、声明。
まだ、広島に行かないでね、東京の帝国ホテルで、外人記者集めて、話した時に同じ事を言っているんですね。
「今日、今、電話を受けて広島から報告を聞いたら、広島では死ぬべきものはみな死んで、現在病人は1人もいない」
というのを、だから、被爆した年の1カ月後に、もう言っているんですね。
岩上:45年の・・9月。
肥田:
うん、9月です。
これは、「原爆犯罪」という本を書いた椎名(椎名麻紗枝)さんという弁護士さんが書いた
「原爆犯罪」という本の中に詳しく出ていますね。日にちも名前も入れて。
これは有名な話しですから。
それとおんなじ事をね23年目に国連に報告しているのね。
だから、何にもしていないという事ですね。調査を。
岩上:あの、戦後ABCC(原爆障害調査委員会)というものが作られますよね。
肥田:はい。4年後に作った。
岩上:Atomic Bomb Casualty Commission だっけ?
肥田:ええ
岩上:そのABCCは、ま、検査をしてデータを集めるけれども一切治療をしない。
肥田:はい
岩上:
被ばく者に対してという事を行った。そこまではよく知られているんですけれども、その背景に、そういう
秘密と言っちゃおかしいですよね、医者とか、後被ばく者に対しても直接そういう言い方をしたんですよね
肥田:
被ばく者達が一番よく知っているんだわ。
私が面倒を見ていた被ばく者が次々と呼ばれる訳ですよ。
呼ぶって言うか迎えに来るのね。
みんな重症のね、当日被ばくして、今なんとか、それが生き残っている連中がね、呼ばれた。
ところが入市してね、後から入っても具合が悪いのはいっぱいいましたから、
それにも診てもらえると思ってみんな行ったんですよ。
ところが、入り口で問診があって、
どこで何時被ばくしたか、どういうに被ばくしたかっていうのをみんな聞くんですね。
だから、当日、直接頭から浴びたと。どれ位のところで、何町の何番地っていうと
地図持っててちゃんと記しつけて、それをみんな中に入れてくれる。
ところが、翌日入ったとかね、つまり、爆発後に入ったっていうのは
「あなたは関係ありませんから、お帰り下さい」って、全然中に入れなかったの。
だから、内部被ばく者は、全く彼らは初めから扱っていない。
直接被ばく者だけを対象にデータを集めるという計画だった。
岩上:
それは彼らがその時点で、内部被曝のメカニズムを知らずにそうしたのか、
それとも分かっていたけれども、
肥田:不要だったんです
岩上:不要だった
肥田:
つまり、これから新しく作る、ソ連と抵抗していてね、
ずっと続いて使える核兵器が必ず相手より有利なもの。
それは最初のうちは野戦で使うつもりでしょう。
だから内部被ばくを目的に何処かの都市へ事前に落とすなんて事はなかったんですね。そんな計画は。
だから、初めから調べなかったんだと
岩上:軍事的な理由なんですね
肥田:そうです。軍事的な。
岩上:自分たちはこれから、これから彼らは、実際の核戦争を行うつもりでいたし
肥田:そうそう
岩上:
ま、現代に至るまで米ソ間の戦争は確かに起きなかったけれど、
でも、何時でもやるつもりで・・
肥田:やるつもり。もう、寸前まで行った事は何度もあるわけだから。
岩上:その時のために、即死させられるとか、兵士を
肥田:
もっと、なんていうのかな、経費が安くて、それでしかも、危険なく扱えて、
で、しかも効果は広島よりももっと大きい物。
だから水素爆弾という発想に結び付いて行く訳ですね。
岩上:
で、私何処かで聞いたことがあるんですけれども、
あれは、沢田昭二さんから聞いたのかもしれませんが、
こういう内部被曝の問題を徹底的に無視して軽視して、それを研究しようという事に抑圧を加えてきた。
日本国内でもよく圧力があった。
というのは、原爆の脅威、原爆の力。
これは、核兵器の力というのは見せつけたい。
それによって実際の戦争になるよりもですね、政治的な効果、脅威というものを与えて、
相手を有無を言わせず、いう事か聞かせられる。
日本人は実際そうやって、いう事を聞かせられてきたのですけれども、
そうしたのが一方にあり、他方で、ずーっと、何十年経ってもその影響が残存するという苦しみを人に与える。
で、それも兵士ではない民間人にも苦しみを与える。
こういう内部被曝の問題。残存放射能による被害というものが、
これが世に広く知られると、あまりに非人道的なので、
肥田:うん、抵抗が増える
岩上:
抵抗が増える。
アメリカ国内の支持が得られなくなる。反核運動が盛り上がってしまう。
なので、これは何としても抑えたいということで、
核兵器というのは瞬間的には大変な威力を発揮して、戦時には有効であって、
「悪い敵」をやっつけるためには必要なんだと。そういう説得はするけれども、
その後ずーっと多くの人々を苦しめるような非人道的な兵器ではないというプロバガンダを繰り返してきた。
そういうプロバガンダのために日本の被ばく者は多数犠牲になり、
そして日本の放射線防護医学そのもの、日本だけじゃないですね、世界なんでしょうけれども、
全部歪められてきたと。いう
肥田:
それはあなたの、そういうふうにお聞きになった事はね、
正確また新しい事。
また、あの原爆には二つ目的があって、
一つは「自分もまだ使ったことのない放射線兵器の効果をね、日本人を使って実験をする」と。
幸いに黄色人種で、自分たちが占領しても自由になるね、敗戦国だという条件から
そういうのをやると、これはもう、落とす前から決めてた。
もう一つは今最初に言われた、あまりにも非人道的なそういう問題を知られる事がね、
欧州の白人の中に必ず抵抗を生み出すと。
もうひとつは、自分の国内からもね、必ずしも自分の将来の核兵器政策が支持されるとは限らなくなる。
その二つの理由で秘密を守ったというのが、大体共通の認識ですね。世界で。
岩上:
いやー、こういう事があって、そもそもみんな口をつぐんでしまった。
そして、ABCCというものが、これは非常に重要な事なんですけれども
放影研というか、放射線影響研究所、そしてもう一つは放医研という放射能医学研究所ができて、
日本における放射線防護医学のメッカになって、
で、それの流れをくんでいる人たちが、今日も活躍して発言している
肥田:安全だ―、安全だーって
岩上:
安全だって、全く、言いつのっている人たちがいるんですね。
ここ、一気に行きすぎると分からなくなるので、
先生の口から、ちょっとその、成り立ちとか、どういう経緯で、その人たちが実際にどんな人物なのかを
ちょっと、お聞かせいただきたいんですけれども。
肥田:
具体的に、向こう側について決定的に利用されたっていう人物は沢山いるんですけれども、
私が知っているのは、陸軍軍医学校のレントゲンの教授だった・・・ン・・何て名前だっけ、ちょっとど忘れしちゃった。
あの、ずーっとアメリカにくっついて、日本の放射線問題のリードをしてきた、
これ、元軍医少尉、いや元軍医大佐だったな。
これが一番わたくしは戦犯だと思っているんですけれどもね。
岩上:なるほど。戦後の戦犯ですね。
肥田:
ぼくの、私が学校にやらされた時に私を教えたレントゲンの、嫌な男だったけど、案の定・・・米軍にゴマすって。
それともう一人は、クマキっていう、ビキニの被災の福竜丸の患者の治療をした
東大グループのトップにいたクマキなんとかっていうのが
ABCCの流れをくんだ放医研の中心人物になって、日本の放射線対策の、
ま、全部を指揮してきた男だというふうに僕は理解しています。
岩上:これもやはり、内部被ばくを軽視するという方向にいう訳ですか
肥田:そう。軽視してた。初めから。
岩上:
この時に、戦後ずーっと見ていって、最初、初期は大変な急性な症状で死んでいく人達を見ていました。
で、時間が経つにつれ、やはり緩やかに現れてくる訳ですよね。
肥田:はいはい。
岩上:
その状態というのをもう少し教えていただけますか?
「年が変わってから様相が変わる」と先程おっしゃってましたけれども、
肥田:
あの、・・・つまり、”ぶらぶら病”というのは代表的な名前なんですけれど、
これは、沢山出た時に、医師じゃなくて、患者の家族が、誰言うとなくつけた名前が”ぶらぶら病”で。
で、ようするに、「ぶらぶらしていて働かない」と、あるいは「働けない」というのを総称してそういう言葉で言ったんです。
私を頼ってぽつんぽつんと来る、いわゆる民医連の医者として、
民医連の診療所の所長をして一般外来をやっていると、
「あの先生は優秀な経験があるから」と言って被爆者の人が訪ねてくる。
っていうのは、どこでやっていても来たんですけれども、
しかし私は、その「かったるいかったるい」って言うね、その主訴っていいますかね、患者の。
それの、「かったるい」って言っている時を見たことがあんまりなかったんです。
その時は来れないから、治って元気になってから「実は・・」って来る。
その時はかったるくないわけね、あんまり。
岩上:いい時期に。これは波があるんですね。
肥田:
ええ。波がある。
それで、一ぺんだけ、目の前で。
来た時は何でもなくて、
「そういう病気を持って自分は就職もできなくて、いろんな処で苦労して、いま貧乏で家族にも迷惑かけている」
っていうんで、「先生に一度詳しい話しが聞きたかった」って来た人がね、
それは、受付で。
夜の診療の時にね、僕の机の向こう側に座って、
「何の誰べいで」で、僕に会って初めて、「私は広島で被爆した人間です」と。
「直接原爆は浴びないで、翌日自分の娘を探しに市内に入った」と。
で、「丸一日探して歩いて家に帰った」と。
「その後何日かしたら、普通に動けたからだが急にだるくなって、毎日それが続いて、2,3回寝た覚えはある」と。
「それっきり治っちゃって全然何もなかった」と。
それが、私のところに来た時は、あれは50何歳で、被爆した時が25歳位ですから、
ま、27,8年経った時なんですね。
で、今、確か、新潟県で小さな町工場を5つ位束ねてやっている中小企業の、田舎のちょっとした名士なのね。
それが、働いてくる人間がいるから、みんなを励ます意味で、
自分は必ず、朝早くから工場をまわってね、色々段取りを示したりなんかしていると。
それが、「ある日朝食事をして、行こうと思ったら急に体がだるくなって動けなくなった」と。
で、変な事があるなって思って、ずーっと思いだしてみたら、
「原爆を浴びた後にね、こんなことが何日か会って、経験したことがある」と
その時は自然にいつの間にか治ってね、忘れちゃったと。そういうことは。
で、今回でも忘れていて、全く、「思いだすのに困難なぐらいだった」と。
それがまた、今現れてきたと。
それで、今度は、「何日か続いちゃ無くなり、また何日か続いちゃ、っていうんでずっと治らない」と。
で、「どこのお医者さんに行っても説明がない」と。
「『あんたは病気じゃない』って言うだけだ」と。
最後は何か、「自分の新潟の大学の先生に紹介状をもらって東大まで行って来た」と。
3日東京に泊って、自分は診てもらって、「今度こそわかるだろう」と思ったら、
その東大教授が「自分に分からない病気はない」と非常に威張って
「その俺が、全然診てどこも悪くないんだから、あなたは病気ではない」と言って、また帰された。
それで、この教授の言い方にむかっ腹が立ってね、
「『自分はかなり明るい方だけども、あなたの病気っていうのは見たことがない』というんなら分かる」と。
「『私ほど分かる人間が知らないんだから、あなたの病気は病気じゃない』ってこの言い方がありますか!」って言って
のっけから怒ってたのね。
それがね、そんな話しして、
「まぁ、わたしもそんな教授はね、本当はいて欲しくない」なんて話ししてたの。
そしたら、
「先生、ちょ、ちょっとごめんなさいね」って言ってね、向こう側でこうやって手をついたんですよ。頬づえを。
「あれ?この人だるいのかな?」って思っていたら、
「ちょっとごめんなさい」って言って、椅子から降りて、床下にあぐらをかいちゃったの。
「あなた、どうしたの?」って言ったら、
「先生、あの、私の言うだるさが今始まっちゃって、座っていられない」って言って
それで下にね、肘枕で横になっちゃったの。床へ。
それで初めてね、「これは容易なだるさじゃない」
岩上:椅子に座っていることもできない?
肥田:
できないんだ。
それで初めて、この人達の言う「だるさ」っていうのが、
「なるほど普通のものじゃない」っていうのがその時初めて分かったの。
それで、ま、その人に、私の知っている限りの内部被曝の特徴を色々お話しして、
それはあなたが広島の原爆が終わった後ね、もう済んだと思って入ったら、
そのキノコ雲って言うのは放射線の塵の塊なんだと
巻きあげた土砂と爆発で出た放射線がいっぱいあの中に詰まって、それで上へあがって行った。
それで、うーんと高いところに行って、もうここでおしまいというところで、
雨の粒に捕まったのが、黒い雨という格好でどしゃぶりで降ってきたと。
だから、当たった人はみんな黒い線がついて、それは、放射線の病気が起こると。
厚生省もちゃんと認めて、いわゆる認定の条件の中に入っていると。
ところが、雨の粒に入らなかった埃の方は、そのまんまゆっくりと落ちてきたと。
雨ほど重くないからね。時間をかけてゆっくりと落ちてくる。
目に見えないから、あなた方はそれを鼻から吸ったと。
それから、広島のいわゆる水源地に沢山降って、水道の水が汚染され
それが毎日毎日人がいない焼跡へジャージャー、ジャージャー水道管から出ていたと。
だからみんな被ばく者はそれをすくって飲んだりね、後から入った人間も飲んだと。
それから、腹がすくと、食べ物がない。
で、その辺の、何て言うのかな、
みんなが作っていたちっぽけな畑やなんかに残っていたキュウリとか、なすびとか、それからトマト。
そういうのを手づかみで掴んでね、埃を払って、みんなガブッて齧ったと。
それでみんな体内に放射線の粒が入ったと。
それを「内部被曝」というと。
だから、それが元で起こる病気を、アメリカでもね沢山の被ばく者が出ているけれども、
「放射線のせい」だというふうには認められないで病人になっているのがうんといると。
一つは実験で動員された普通の兵隊が、線上のまねをして、
その降ってくる中で、鉄砲を撃ったり、機関銃を撃ったり演習をやった。
それでみんな被ばくして、うちに帰ってからね、肺がんになったり病気になる。
これが放射線のせいだというふうには政府が認めてないから、
アメリカの医者は「その事の研究をしてはいけない」と言われて、誰も診ない事になっている。
それからその、
岩上:じゃぁ、アメリカでもって言う事・・
肥田:
アメリカでも。
で、原発が起こって、何回か大きな事故が起こっている。
それから、原爆製造工場でひとつ大きな事故があって、
やっぱりその周辺で、沢山市民が被ばくをしている。
そういうのがアメリカには、ま、広いけれどあちこちにいっぱい居てね、
それが会を作って「これはみんな政府の責任だ」と。
だから、軍人はみんな政府に要求すると。「賠償しろ」「治療してくれ」と。
それから、原発の方は会社にみんなが裁判かけてやっていると、
だけど、みんな被ばく者の方が今まで負けてきている。うん、勝ったのは一つもないと。
岩上:
ひとつ「大きな事故」っていうのは、スリーマイルの事ではなくて、その前なんですか?
原発の製造工場の・・
肥田:
チェルノブイリの前にね、スリーマイル島って原発の事故がある。
この時に私がいろいろと教えてもらった、
スタイン・グラスというアメリカのピッツバーグ大学っていう大学のレントゲンの教授だった。
この男が比較的、原発を造る仕事にも参加している位、放射線に明るい人間なの。
で、初めはウェスティングハウスなんていうむこうの会社の顧問かなんかになって、
原発を造る手伝いもしてた。
そのうちに、「放射線の被害は体内に入ってからひどくなる」というのをいろんな事で勉強して、
実際にそういう論を自分でたてて、で、いろんな症例を研究し出したのね。
原発実験があった翌年のアメリカの新生児。新しく生まれる子どもの数が急速に減るんですね。
岩上:あーー・・・
肥田:
翌々年、つまり被ばくして死んじゃうっていうのが
岩上:あったわけ
肥田:
そう
それが大きな実験があった時にずーっと統計を取っていくと、
翌年必ずゲクンと減るっていうのがグラフの上に出てくる。
それで、それが死の灰の中にある放射性物質が牧場に降って、それを食べた牛のミルクが汚染して
それを飲まされた赤ん坊がみんな被ばくしちゃって、
早産とかね、あるいは新生児のすぐ死亡。あるいは低体重の出産とかいうのが
いっぱい統計が出てきて、それが何年にもわたってグラフになって出てきて、
「もう間違いない」っていうんで、彼は発表してね、
それで政府に、特に核実験の被害を受けた時にはその知事にね、
「周辺の妊婦をすぐに疎開させろと、一番危険なんだ」っていうんで、
そしたら知事が3日間言われたけれど、何のことかわからなくて、取り入れなくて、
4日目に、あんまり言われるんで恐くなって疎開させたら、やっぱり間に合わなくって、
何人か疎開した主婦の中から癌が、乳がんが出たと。いうようなことがあって、
その学者を中心に、アメリカの内部被曝の問題がずっと、
ま、彼を信頼する弟子ですね。それが保険者の中に伝わって研究するのがずっと増えたんです。
それで書いた本を私は貰って、日本で初めて内部被曝のアメリカの専門書をずっと翻訳して4冊出しましたかね。
でも、日本でそれを読んでくれた人っていうのはあんまりいない。
本屋がだいいち出版してくれませんから、
自分で打ったパソコンのあれをコピーして、で、コピーした分を、
ま、30部とか50部、300ページぐらいのものを自分でコピーして、ものすごく時間がかかるんです。
それを、懇意な印刷屋に仮綴じの製本にしてもらって、できるだけ安く、
だから、1冊せいぜい7~800円から1000円位で50冊とか100冊作ってもらっちゃ、
まぁ、何とか私の話しを聞いてくれる医者にね、送ってきたんです。
岩上:先生、それは何年ぐらいの時ですか?
肥田:
一番最初はね、彼から貰ったのは1975年に彼が初めて書いた本をもらって帰って、
それを帰ってすぐに訳したから1983年かな。
時事新報っていう、あそこが僕の本を出してくれて、
「死にすぎた赤ん坊」という名前で本を出しました。
2版まで出たから2000部位出たんじゃないかな。
それっきりもう、絶版になっちゃいましたから。
(死にすぎた赤ん坊―低レベル放射線の恐怖(1978年)[古書] E.J.スターングラス(著)肥田 舜太郎(翻訳))
その次はね、私が80歳になってから初めて出し始めたんだから、今より10年ぐらい前ですね。
正確に言うと、今2011年ですから、1993年4年5年の頃じゃないですか。
その頃から、毎年か2年に一回位、ずっと、こう、出してきた。
2005年に出したのが最後でした。
これが、鎌仲と一緒に訳した。 (『内部被曝の脅威』)肥田舜太郎/鎌仲ひとみ)
岩上:ぜんぶその、はぁ、
電話のベルーー
肥田:ごめんなさい
岩上:どうぞ
ーーー電話中 略ーーー
肥田:
ですから、今年になってね、今まで出した本を正式に本屋さんで出したいといった人が現れてきて、
今まで訳したのがが全部本になって出ました。
一番高いのが5800何十円かで高い本が出てます。でも、全部売れちゃったそうです。
よく売れてます。
岩上:
はぁーー。なるほど。
本当はできるだけ多くの人に読んでもらいたいですよね。
肥田:ええ
岩上:専門書ですか?ほとんど。
肥田:
いや、それもね、医学的な事はまだ分かりませんから書く人がいないんですよ。
今の医学っていうのは、細胞医学って言って、生命の一番小さな単位は細胞なんですね。
で、細胞を作っている分子。今は分子生物学とか分子医学っていうけど、
その段階で、分子の段階で放射線と噛みあっていろんな変化を起こす。その段階はまだ分からないのね。
見ることもできないし、何が起こっているかという化学方程式にできないんですね。
だから医学は他の学問と比べて、ま、100年位遅れているわけだ。
科学の進行度から言うと。
それはやっぱりアメリカが1920年の段階で、原爆の瞬間から研究をストップさせた
これは日本だけじゃなくて、アメリカにもストップさせていますからね。
だから、世界中の学者が同じように遅れている。
で、英国がアメリカに反旗を翻して、アメリカと全く違う。「内部被ばくは危険だ」ということを公に言い出した。
それはね、英国はもう嘘付けなくなったんです。狭いでしょ、日本と同じように。
狭いところに、セラフィールドというところに原爆の製造工場がある。
そこの排水が、あの狭いね、英国海峡の海を汚染するし、
工場周辺のあらゆるところで市民の子どもに癌がどんどん増えて、もう、隠しようがなくなっちゃった。
で、イギリスの婦人団体がもう、公然とね、「核兵器は危険」といい、それから「原発も危ない」と言い始めて、
特にイギリスの婦人の戦い方は、本当に僕は傑作だと思うんだけど、
ノーチラス(Nautilus)っていうんですか?原発の推進団体がロンドンに入るんですね
そうすると、金槌を持ってね、ひっぱたきに行くんだ。
岩上:ハハハハ・・ッ
肥田:
そうすると必ず警官に捕まえられるんだ。
なんで自分たちが捕まったか。
「ノーチラスという潜水艦を金槌でひっぱたいた。だから私達は捕まった」と。
「だけどね、私達は捕まって、みなさん方に訴えたいんだ」と。
「この潜水艦ぐらい悪いものはない」って言って、放射線の話しをするわけなんです。
そういう運動をやっているんですよ。
岩上:
なるほど…これは何年ごろから動き始めたんですか?
イギリスのその抵抗運動っていうのは。
肥田:イギリスはね・・もう、5年前ですね。
岩上:
5年前。
じゃぁ、わりと新しいですね。
肥田:
はい。新しいです。
それから急にアメリカが孤立して、
内部被曝の本がアメリカにあったものが、ま、方々で翻訳されて、
沢山の学者の中に支持者が出始めた。
岩上:
あの、今の婦人団体の抵抗でしたけれども、
イギリスはじめヨーロッパでは、たとえば、ICRPに抵抗するECRRとか、そういうのがありますよね。
ICRPっていうのは、圧倒的にアメリカの核政策の影響下にあったわけですよね。
肥田:そうそう。離れられないのね。
岩上:
離れられない・・はぁ。
それは、マンハッタン計画やあるいはABCCとも密接な関係にあったわけですよね。
先生、そのあたり、ICRPのいろんな基準。
今回も、このICRPの基準に則してと、それを唯一絶対の尺度にしながら日本政府は、
その中で、できるだけ緩い基準を探そうと。
肥田:都合のいいのだけ取ってるよね。
岩上:
都合のいいのだけ取ってますね。
ICRPだけがすべてであるかのように言うんですけれども、
肥田:
だけど、もうね、
アメリカにもいるし、欧州にも沢山いる。日本にもいる。
要するに基本的に原発を反対と、一切の放射線は危ないというところに結集している人間のなかに、
かなり、その本の、翻訳した原則が入り始めて、
ただ、医学がないだけにね、証明が出来ないのね。反対する側は。
私もこの間の集団訴訟で、全ての被ばく者を勝たせる浦和の証言をしてきましたけれど、
裁判には圧倒的に全部勝ったんだけど、政府は負けたくせに反省しないのね。
自分たちが今までやってきた、その、入市して直接浴びていない人達の放射線被害は
どんな病気であっても補償の対象にはならないって言って、認定をしなかった。
これ、「間違ってない」って、まだ言ってるんですよ。
その理由はね、裁判官は全部素人だと。
医者じゃないんだ。医学を知らない。と。
それがみなさんの弁護の証言の中で、何となく人間的にそっちの方が分かりやすくて、よく分かったっていうんで、
ああいう結論を出したけれども、あれは全部素人だ。
厚生省の方はアメリカに留学をして、向こうの放射線医学の最高峰を身に付けてきた人たちが20何人顧問でいると。
この人達が集まって、この法律の運用をしてね、
「この人の病気は放射線の影響ではない」というのを、ちゃんとお医者さんが証明しているんだから、
「こちらが正しい」って、まだ頑張っている。
で、この医者がね、もう、
アメリカに行って、ま、最高の知恵を授けられて、で、
日本に帰ってくると、最高の放射線医学者っていうんで、
金をたんまり貰う、で、東芝からも貰う。っていう感じで、
「なんでもありません」っていう先頭に立っている訳なんです。
岩上:
たとえばそういう人たちが、その・・・何て言うんでしょうね・・今回の福島の第一原発の事故の後ですね、
「安全だ」と。さまざまなプロパガンダというんでしょうかね、
ま、安全デマといえるような、ま、発言を繰り返すわけですよね。
それは現代の学者で、それこそ先生の世代からずーっと延々と来てですね、引き継がれている。
この人達は、ずっと、その、何て言うんでしょう・・我々から見ると非常に奇妙に見えるんですけれども、
なぜ、その、・・安全だと・・・。
その事実を見れば解りそうなものなのに、それを無視して、
こう、何て言うんでしょ、政治的に占領直後に定められた枠内で、
その枠内の中で研究を続けていくという事が出来ているんでしょうか。
肥田:
彼らの特徴はね、学校を卒業して、6年間っ?ていう教室で勉強する。
内科とか外科とか。内科でも循環器とか。ま、専門の教授について一人前になる。
それで、教授から「お前は大丈夫だよ。もう博士だ」というんで、証明されて、で、初めて社会に出て、
教授の紹介の何何病院の内科のナントカだとか、ま、就職。
全部自分が習った教授の支配下で生きていく訳です。
結婚も就職も。
で、それから背いて、その医局から離れたら最後、
もう、日本全国どこに行っても医者扱いしてもらえないんです。
岩上:はぁ・・・
肥田:
そういう、ま、日本の制度があるわけです。
だから、大学に残って、講師から助教授から教授になって行くっていうコースを狙うのが一つ。
もう一つは大病院へ派遣されてそこの内科部長とかね、外科部長、あわよくば医院長になって、
それで、そこを辞めて、患者をいっぱい持っているから、その地域で最後は開業して、
ま、有終の美を飾ると。
それまでには、うんと蓄財はできてる。だから、土地を買ったりなんだっていうんで、
ま、いわゆる、有力者の中に入る。
それしか・・
あ、それと後は初めから、親の影響で開業してね、
親の意向で前からいる患者、お金持ちを含め有力者から支持されて、そこの保守勢力の重要な一人になって、
ま、安定した生涯を終える。
大体、この3つしかないんですよ。医者のコースは。
だから、僕みたいに、マッカーサーからクビ切られたのを軸にして、
日本全国のどこに行っても医者では飯が食えないというふうになった時にどうするか。
やっぱり、医者以外の事はできませんから、
仲間で何人か、やっぱりクビになった連中が、それぞれその地域の、共産党とか、ま、進歩的な文化人とか、
そういう人達と相談して、つまり、金もうけをしない、純粋に正しいと思う医療だけをやると。
そして、ま、一般のお金よりは安いけれども、
まぁまぁ、子どももね、大学にやれる位の収入は保障する。
そういう新しい開業形態っていうのが戦後、ポッと生まれたんです。
それが僕らのやってきた、いわゆる民医連運動。民主的な医療機関。
つまり、建物とか、購入する資材は原則として住民が持つと。
より集めてみんなが買うんですね。
で、その組織が所有するんです。
所有権は患者の団体が持つわけだ。法人になってね。
で、院長以下僕らは、そこに行ってる月給で雇われるんだ。
うん。もちろん労働会もできるし、民主的な、全てが話し合いで決めていくっていうルールで、戦後始まった。
岩上:
マッカーサーにクビになったって、今おっしゃいましたけれど、
それは軍医として、それから、こんど、厚生省の技官が、つまり国の医者になるんですよね。
パージされるんですか?
肥田:
パージです。
あの当時、日本の政府の大蔵省から内務省からすべての中に居た、
共産党員もしくはその新派と称されるメンバーが全部クビ切られたわけ。
岩上:
ん・・、それは、共産党というと、ま、今のイメージがありますけれども、
それはみんな共産党員だったんですか?それとも共産党員か共産党の新派だったんですか?
それとも当時はですね、
アメリカと戦って叩き潰されて、唯々諾々となるのが悔しくてたまらない。
ついこの間まで国政主義者だったんですから。日本全国。
その国政主義者みたいな魂持っている人も、これ、もうアメリカの占領政策に従う
肥田:
ま、向こうが見てね、都合が悪いと思ったら、もう、要するにMVもいるしスパイもいますから、
民間の中で労働者とか、農民とか、婦人とか、市民の中で活動している、
それぞれの戦後のあの時期の、ま、民主的な活動家を、もう、ずーっとマークして
「こいつはいけない」っていうのを、勝手に向こうで作ったんですよ。
で、私は、マッカーサーが一番嫌った「特に被ばく者に親切にしすぎる」と。うん。
彼は被ばく者というのが一番大きな抵抗勢力だと初めは思ってたんだ。
占領した時に。
岩上;なぜ
肥田:
やっぱり、原爆をやられたっていうことで、ああいう非人道的な・・
自分で知っているわけだから、
そんなもので被曝してね、しかも政府からは何の援助もしてもらえないと。
ま、初めから「させてない」訳だから。
それだから、この中からはもう、かなりの抵抗勢力が生まれると勘定しているから、
そういう面で見ている訳ですね。
岩上:今のアルカイダみたいな
肥田:そうそう
岩上:
その、要するに反米主義者になっていくだろうというふうに、彼らはみなしていた。
ということですよね。
実際日本人は、みんな優し過ぎたのか、あのー、そういうなんて言うんでしょうかね、
反米テロリストの紋章に被ばく者という存在はならなかったわけですよね。
これはかなりのずれがあったわけですよね。
見方と、実際の日本人と。
先生はその時の感情、ご自身も被ばくされたとおっしゃいましたけれど、
その当時の一番ひどい状況を見られて怒りも沸いてこなかったと。
肥田:そうです。
02:13:36
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肥田舜太郎氏×岩上安身No3(文字起こし)2011年10月6日


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