11.13
Sun
ーーー原子力損害賠償紛争審議会 第15回会合
東京電力福島第一原子力発電事故による損害賠償の枠組みを決める原子力損害賠償紛争審査会。
10月19日に15回目の会合が開かれ、
政府の指定した避難区域外の地域で自主的に避難している人たちに対して
どのような補償をいっていくのか、初の聞き取り調査が行われました。
いわき市 渡辺淑彦弁護士:
まず、自主避難者という事で今日わたくしは呼ばれました。
しかし、「自主」ではありません。
とんでもございません。怖くて逃げたんです。
子どもたちの命を守りたくて逃げたんです。
子どもは外で遊びます。自然です。
自然からいろんなドングリを拾ったり松ぼっくりを拾ったり、そんな事を子どもはやります。
これが今出来ていないのです。
保育の先生に聞きました。外に出せていないんです。
今、園庭が使えないんです。
今までだったら近くの山に行ってドングリを拾っていたのに拾えないんです。
このような事というのは憲法上の教育を受ける権利というものを侵害しているのではないでしょうか。
福島市 瀬戸孝則市長:
福島市は避難区域に当たっておりませんけれども、低線量の放射線被ばく地帯であります。
避難したくてもできないという家庭や子どもたちが沢山いるという事実。
こうなりますと、私は区別はできない。
我々のように低線量で被曝しているところに長期間いることによって、
時間が経てばたつほど、課題が深まって問題が増えてくる、深まっているというのが
実はこの放射能の災害ではないでしょうか
市長、市民といった立場を超えて悲痛な訴えが続きます
伊達市 宍戸隆子さん:
私が自主避難させていただいているところは、実は自主避難者だけで160世帯おります。
500人を超えます。その中の殆どは母子避難です。
お父さんは福島に残って生活を支えています。
住宅ローンを必死に返しています。
あのー、すごく小さいお子さんのいる家庭が多いんですね。
で、福島って、子どもが生まれたら、なんか、家建てなきゃなっていう雰囲気があるんですよ。
この事故によって、小さな子を持つ親御さんたちはすごくみんな悩まれました。
それでも、子どもたちを、子どもたちの命を守りたいと
お父さんと別れて、お母さんと子どもたちだけでも安全なところへと、逃がした家庭ばかりです。
お父さんが連休に北海道まで会いに来るんです。母子避難している家庭に。
本当に交通費が大変です。
数日親子で過ごしてお父さんは帰って行くんですけれど、
飛行場に見送りに行って、誰が一番泣くっていったらお父さんだそうです。
もう、離れて暮らすことが、家族と離れて暮らすことが本当に切ない。
お金の話しだけではないんです。
自主避難の権利が欲しいんです。
ーーー自主避難者のいま
おじゃましまーす。
原子力損害紛争審議会で証言をした宍戸隆子さん。
福島県伊達市から札幌に家族4人で移住しました。
隆子さんと子ども二人が引っ越しをしたのが6月
その後父親の俊則さんは2カ月遅れで引っ越してきました。
Q:お父さん、お一人でいらしたのは2カ月位ありましたか
俊則さん:2カ月位ありましたね。
Q:やっぱり家族でご飯食べるとあれですか。
俊則さん:
家族で食べて、最初の夜、俺泣いたもん。ね。
北海道についた最初の夜、一緒にご飯を食べに行って、その場で泣いていました。
夫の俊則さんは県立高校の国語の教師でした。
1学期で仕事を辞め、いまは嘱託の教員をしています。
俊則さん:
担任を持っていなかったので、担任を持っていたら思いきれたかどうかっていうのは、
本当に自分でも分からないです。
担任を持っていなかったからできたことかもしれないんですけれども、
残してくる子達には・・・ん・・・出来れば卒業まで見たかったなって、3年生に関しては特に思いましたね。
ただ、あそこで残る事で、一緒に辛抱する事よりも、
「いろんな可能性があるよ」って、生徒たちに見せたかった。っていうのは、あの時期ありましたよね。
「避難っていう選択肢はあるんだよ」っていう。
「恐いって思ったら出来るし、受け止めてもらう場所はあるんだよ」っていうのを
高校生自身もかなり不安にはなっていても、
もしかしたら、我々大人以上に言いにくい状況だったんだろうなって思うので、
宍戸さん夫婦は10年前に建てた家をそのまま残してきました。
家族写真ーー
まだ周りに殆どおうちが建っていなくてゆづきが生まれる前ですね
お腹の中
お庭でプールやってたんだ
引っ越し前の放射線量は、市が測って言ったので毎時1.5μシーベルト。
俊則さん:
1.5で、公園の地面近くで毎時2.5μシーベルトというところがありました。
隆子さん:
1ないと、0.7~0.8μシーベルトだと「低いね」って言われる。
普通はもうひとケタ低いんですけど、マヒしてます。本当に。
Q:でも、物は置いてあるから、何か取りに帰ったりする事はあるんですか?
隆子さん:
いや、私はもう帰らないです。本当に。
いろんな役を放り出してきちゃったから、子ども会だけじゃなくて育成会とかもやっていたんですよ。
ーーー京都
郡山から京都に避難している、星紀孝さんと千春さん
やはり、6月に千春さんと息子の凛太郎くんが先に入居し、その後8月に夫の紀孝さんが京都にやってきました。
事故が起きた当時、息子の凛太郎君は生後11カ月。
ちょうど、ハイハイからタッチに移行し、歩けるようになる時期でした。
千春さん:
ちょうど地震の一ヶ月後に1歳になったんですけど、
その後やっぱり、家の中で歩けるようになって、
初めての歩きをしても、靴をはかせて外で歩かせることもできないので、
成長の過程で、こんな悔しい思いをするのかなと。
もう、元気いっぱいな子なのに、外で歩かせることが出来ない。
親としては、もう・・切ない、よね。
郡山から京都に避難してから4カ月。
凛太郎君は自然の中ですくすくと成長していました。
千春さん:
こういう自然の中で遊ぶっていうのは、全然、なんか、違うかなっていうのは、こっちに来て思いますね。
家の中でとか、室内で遊ぶよりもやっぱり、外に出ると、
人工じゃなくて、自然にできたものがいっぱいあるじゃないですか。
そういう面では、外はすごい、子どもにとっては宝の山なんでしょうね。
砂利ひとつにしても、葉っぱひとつにしても
今星さんは、事故以前のような伸び伸びとした生活に戻りました。
千春さん:
子どもの面では本当に良かったなと思う反面、
周りの事を考えると・・罪悪感ですね。
なんか・・おいてきてしまった、
故郷を捨てちゃった、っていう気はないんですけれど、
そう思われても仕方ないだろうし、
復興のために何もできてない自分も、やっぱり、なんか・「・申し訳ないな」。っていう
その、自主避難は、おおげさじゃなかったっていう事を・・・なんだろう・・
公の場で決まってもらえると、そういう面では、
精神的な面で「、間違いではなかったのかな」って言う考えにもなれるのかなって思うんですけど。
紀孝さん:
やっぱり、自主避難した人たちに対しての補償もなにもしてくれない。
これから、逃げたがっている人たちがね、何時でも逃げられるような体制を取って欲しいよね。本当に。
ーーーーーーー
前出の宍戸さんは書き出している途中で気がついたのですが、
「放射能の危険を生徒に話せない」福島の高校教諭退職・東京新聞こちら特報部8/6(書き出しました)
この記事の先生でした。
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを保証する義務がある」
と児玉先生もおっしゃっていますが、
子どもを守るために避難された方々が、罪悪感を抱えながら避難している。
このことは、除染をして、住民を戻すことばかりを考えている政策にあるのでは。と思います。
逃げたのではない。
故郷を捨てて逃げたのではない。
勇気を持った、子どものため、大きく言えば将来の人類のための行動なのだと、
自主避難の権利を国が認め、補償する事。
補償される事は、当り前のことなのに、
避難したことによって、過去を捨てなければならないように感じた。
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コメント
一般公衆の被ばくは1年1ミリって法律で決まっていると聞いたけど、この法律まだ生きているんですよね。訴えたらどうにかなるのかなあ。
うな | 2011.11.13 13:23 | 編集
私は自主避難をして3年になろうとしています。当時は避難区域では無かった為、本当に迷いましたが、妹家族と共に避難を選びました。
安定していた仕事も辞め、住み慣れた町を捨ててまで!
遠く離れた土地で生活をするのは苦労します。やはり自分の家があるので、幾度も帰りたい、帰りたい、と思い続け月日だけが過ぎる毎日です。いずれは帰る!という気持ちがあるので、もちろん定職にもつけません。最近もう頑張ることに疲れを感じています。
安定していた仕事も辞め、住み慣れた町を捨ててまで!
遠く離れた土地で生活をするのは苦労します。やはり自分の家があるので、幾度も帰りたい、帰りたい、と思い続け月日だけが過ぎる毎日です。いずれは帰る!という気持ちがあるので、もちろん定職にもつけません。最近もう頑張ることに疲れを感じています。
ローズマリー | 2014.05.06 18:34 | 編集