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「原爆症研究の父」都築正男氏

肥田:
ええ。
だから、その慢性症状という事も、
権威のあるちゃんとした公の文書の中に発表した医学者は、
一人いるだけです。

ん・・あの・・・戦後
まだみんながひっくり返って死んでいる時期に広島にきてね
放射線の影響はストロンチウムというのが骨に沈着してね、
骨に集中して、骨自身の中にあるリンという化合物を放射線リンに替えると。はっきり。
だから、人間の造血機能は、骨の真ん中の中空になった
管の中である骨髄というところで血液を作っているわけだ。
その血液を完全に作っている周りの側の骨自身が、リンが放射性リンに変わったために
造血機能を働いているその血液作りのそのものが、
自分の側の持った放射線で持続的に被ばくさせられるような状態になって、
だからそこで出来る血小板だとか云々とかいうものが
みんな死んでお釈迦が出来てくると、
で、正確な力が出来ないために、いろんな種類の貧血が起こったと。
だから、血小板減少性というのは、紫斑が出て、結局血小板が足りないための粘膜出血でみんな死んでいくと。
それから、白血球が足りないというのは、はっきり細菌との戦争が出来なくて、
逆に細菌に食い殺されるという形で、腐敗が起こったり、いろんな病気が起こると。
そういう事まで、アメリカの進駐する一か月ぐらいの間に、
そういう事をちゃんと研究して、発表した東大の教授がいるんですよ。
で、その先生は、マッカーサーに最初名指しで、もう、やられちゃって、
一切の資料、研究した資料を没収。ですね。
で、もう、その研究は明日から続けることはまかりならん。

岩上:その方はなんていう方なんですか

肥田:
都築正男,この人がね、
「広島新史」っていう上下2巻の、広島市が発行した報告書があるんですよ。
原爆の被害の。
その下巻の方だったと思うけれど、
後半の一番後ろに、その人の書いた原爆に対しての、いろんなところに発表した論文が、
10いくつ集団で載っているんです。
その中の一つに、「慢性症状」と名付けて、
要するに不思議な、あとあと症状が出たと、その事を「慢性症状」というようにひっくるめて、
いわゆる急性症状、私がさっき言った、不思議な、あれと対比するものとして
「慢性症状」が沢山の被ばく者に起こって、治療法がないために苦しんだという、
そういう公の文書がね「広島新史」のなかにでているんです。

で、そういう論文はね、あの、日本の一般の企業が出している
医療雑誌に、こう、分けて出されていたみたいですね。
だから、これは何月何日のなんていう雑誌に書かれたっていう根拠もちゃんと出ています。


肥田:そう
で、彼と付き合うとね、どっかの教授は付き合っているとやっぱり、その影響で睨まれるんですね。
だから、彼とは付き合わない様に、付き合わないようにみんなしていった。

岩上:あーーー、
それ、睨まれるというのは占領時代の7年間だけでなく、
その後もずーーっと・・

肥田:
もう、厚生省に引き継がれてからも。
やっぱり厚生省で出世しようと思うものは、
やっぱりその問題でアメリカに建てをつく側に入ったんじゃ、出世できないから。
おべんちゃら言う方に入っていく訳ですよ。


と、肥田舜太郎氏×岩上安身No4(文字起こし)2011年10月6日で語っていらっしゃいます。



「原爆症研究の父」と呼ばれる都築 正男氏に関して、下記の記事を見つけましたので転記します。
(つづき まさお、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)




ーーー神戸新聞よりーーーー

ヒロシマとともに ―原爆症研究の父・都築正男

都築正男 1892―1961年。姫路市生まれ。
原爆症研究の権威として国際的に活躍した。
1945年8月30日から広島で被爆調査に従事した功績に対し、
同市は58年9月17日、同市初の名誉市民の称号を贈った。

人類史上最悪の殺りく兵器・原子爆弾が広島、長崎に投下されてから今年で六十年。
いち早く広島に入り、被爆調査に当たった都築正男。
「原爆症研究の父」と称された彼の足跡をたどり、その生きざまが現代に問いかけるメッセージを探る。

上.不眠不休
神戸新聞 (2005/08/17)
24日後、壊滅した町へ

01.jpg
広島・平和記念公園の原爆慰霊碑(奥が爆心地に建つ原爆ドーム)。
炎天下、多くの人が慰霊に訪れていた=8月11日、広島市中区


一発の原爆で町が壊滅した日から二十四日がたっていた。

一九四五(昭和二十)年八月三十日早朝。
陸軍軍医学校、理化学研究所、東京帝国大学の合同調査団が広島を訪れた。

戦前、中国軍管区司令部が置かれ、にぎわいを見せた軍都は、
二〇〇〇度を超す熱線と爆風で破壊し尽くされていた。

一面のがれきの山、焼け野原。
被爆者や馬の死体が異臭を放ち、大量発生したハエが飛び交う。まさに、この世の地獄だった。

□   □

調査団を率いたのが、姫路市出身で、東京帝国大学医学部外科教室教授の都築正男。
放射能障害と熱傷研究の第一人者だった。

当時、小学校や病院の救護所は、大やけどした被爆者であふれ、
目立った外傷はなくても、脱毛や高熱、下痢、鼻からの出血、白血球数の低下などの症状に見舞われ、
亡くなるケースが相次いでいた。

都築らは、電気や水道も使えず、機材も不十分な中、不眠不休で被爆者の調査と治療に当たった。

調査団は九月十日までに、
症状や治療状況、病理解剖所見、放射線の分布などの詳細な調査報告書をまとめた。
地元の医師らを対象にした講演会では、被爆者の治療について説明した。

□   □

都築を広島に導いたのは、ある女優の死だった。

仲みどり。
軍施設を慰問する新劇移動演劇隊「桜隊」の団員だった仲は
八月六日、爆心地から七百五十メートルの事務所兼寮で被爆した。

大きなけがはなかったが、直後から胸の痛みやおう吐、血便、尿が黒くなる症状が出、
三日後、東京の実家に戻った。

仲は東大付属病院に入院、治療を担当したのが都築だった。
当時の最高レベルの治療を施したが、白血球数の異常な減少や高熱、脱毛などの症状が悪化し、
仲は同二十四日に亡くなった。

都築は死因を急性放射能症によるものと確信。
世界で初めてカルテに「原子爆弾症」(原爆症)と書き込む。
その年の十月、雑誌「総合医学」に発表した論文にも同じ言葉を使い、放射能障害の怖さを訴えた。

当時の都築について、長男の正和(73)=東京都=は
「家で仕事の話はほとんどしなかった。『広島に行く』という話は聞いたが、
中学一年の私は、父が共同研究者のアメリカ人からもらってくるチョコレートやキャンデーの方が楽しみでした」
と振り返る。

□   □

都築は一八九二(明治二十五)年、
姫路市光源寺前町(現・東駅前町)で八人きょうだいの長男として生まれた。
父宗正は地元の開業医だった。

旧制姫路中学(現・県立姫路西高)時代は、水泳部でならし、飾磨沖の遠泳で体を鍛えた。
医師を志し、東京帝国大学医学部に進み、
大学院時代には、強いレントゲン線が生物に及ぼす影響について論文を発表。
当時、大量の放射線被ばくの研究は世界でも例がなかったという。

弟子たちの間では「先生は怖い」と評判になるほど厳格な研究者だった半面、
日曜には家族を郊外のハイキングや公園に連れて行く面もあったという。

「夏休みには湘南海岸の逗子に海水浴に連れて行ってくれた。父は泳ぎが好きでいろいろ教えてくれた」と、
正和は懐かしむ。

□   □

都築が広島に入った八月三十日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立った。

米国はすぐに広島へ調査団を派遣することを決め、都築は米国調査団に協力することになる。
占領体制の始まりは、被爆調査にも針路変更を迫った。(敬称略)

■   ■

下.使命感
神戸新聞 (2005/08/18)

米側の口封じに抵抗

02_20111115210240.jpg
被爆者を診察する都築の写真パネルなどが並ぶ
姫路市平和資料館=同市西延末


原爆投下後、広島には大学や軍、理化学研究所の関係者ら多くの日本人が調査入りした。

これに対し、連合国軍総司令部(GHQ)は一九四五(昭和二十)年九月十九日、
プレスコード(新聞など刊行物の取り締まり方針)を指令。
原爆に関する報道や研究発表の制限に乗り出した。
調査結果が公表され、原爆の被害の実像が世界に伝わることを恐れたといわれる。

都築らの被爆調査は行く手を遮られた。

その中で、日本政府は物理や化学、地学、医学など各分野の専門家を集め、
原子爆弾災害調査研究特別委員会を設置。
都築は研究員ら約千七百人を擁する医学科会の会長となった。

医学者としての使命感に燃え、権力に立ち向かった都築を物語るエピソードがある。

同特別委の第一回報告会で、
米国の科学者が「原爆災害研究はGHQの許可を必要とし、結果公表は禁止する」と発言した。
これに対し、都築は「人道上許しがたい」と猛抗議した。
原爆症の治療法を見つけ出すには研究成果の公表が欠かせなかったからだ。

長男の正和は
「父は被爆者の話を家ではしなかったが、
残した文献から原爆症を二度と起こしてはならないと考えていたことがよく分かる」と話す。

   □   □

一方、広島では連日、原爆症で多くの命が失われていた。

被爆者の治療拠点となった救護所は、八月九日のピーク時に五十三カ所あったが、
医薬品などが不足、十分に治療できなかった。

さらに、その年の十、戦争災害保護法の適用が解除され、
救護所の閉鎖が相次ぎ、行き場をなくした被爆者は家族や親類に引き取られていった。

都築はその間も日米合同調査団の設立にかかわるなど、日本側の先頭に立ち続けたが、
四六年八月、戦時中の軍医歴を理由に公職追放処分を受けた。
厳しさを増す言論統制は、人々の広島への関心を次第に薄れさせていった。

広島平和記念資館の濱本康敬主査(47)は
「原爆投下の四年後に都市建設法が制定された。
国は戦災復興に早く取り組んだが、被爆者の治療など人の救済は遅れた」と指摘する。

   □   □

世界が再び核の脅威に直面したのが、五四年三月一日の第五福竜丸事件だ。

北太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で、
危険海域外で操業中の日本のマグロ漁船が被ばくし、
乗組員二十三人が死の灰を浴び、一人が急性放射能症で亡くなった。

この事件を機に、原水爆禁止運動が沸き上がり、五五年の第一回原水禁世界大会へとつながった。

追放解除後、東大名誉教授に復帰していた都築は、
この時も東大医学部付属病院などの医師団のメンバーとして活動したが、
広島、長崎に次ぐ被ばく者が出たことに心を痛めたという。

   □   □

都築らの一連の被爆調査は、その後のさまざまな取り組みの出発点となった。

国は五七年に原爆医療法を制定、国費による被爆者治療を始めた。
地元の医師会による対策協議会や、広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研)など研究機関も設立され、
広島で蓄積されたデータを国内外で役立てようという動きが広がった。

都築らの功績について、濱本主査は
「被爆調査の日米の橋渡し役を務めた。
戦勝国だけの一方的な調査だったら、その後の情報公開もなかっただろう。
初期段階で日本人が高度な調査を行ったことは大きな意義がある」と話す。

しかし、その後も放射能障害による犠牲者は後を絶たない。

八六年四月、旧ソ連・ウクライナで史上最悪の放射能流出事故といわれるチェルノブイリ原発事故が発生。
国内では九九年九月、茨城県東海村の核燃料加工会社で臨界事故が起き、
中性子線に被ばくした作業員二人が亡くなった。

父と同じ医学の道に進んだ正和は
「原爆症研究の成果はその後の放射能障害の治療に役立っている面はある。
ただ、ある程度以上の被ばくになると、現代医学は無力だ」と言う。
高レベルの放射能障害の場合、特効薬がないのが現状だ。

被爆死した女優、仲みどりのカルテに、都築が世界で初めて原爆症と書き込んでから六十年。
国際社会はいまだ核廃絶への道を見いだせず、ヒロシマ、ナガサキの苦悩は続いている。(敬称略)


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