1.その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)

やはり原点はここにあると思いました。
東日本大震災の年の放送で、途中まで文字起こしをしていましたが、
とても優しく温かい橋爪さんの話声であっても、
あまりにも過酷な内容で、苦しくて書き出せずにいました。

わたしは、最近とても恐ろしいのです。
NHKの掘潤アナウンサーが退職。
テレビをつければ国民がバカになるようなバラエティー番組しか放送していない。
ラジオもたね蒔きジャーナルからはじまって、まともな事を言う番組がどんどん終わっていく。
きちんとした意見を言うとどんどん表メディアから抹殺される。
こうして少しずつ、もっともっと真実が隠されていく方向に進んで行く気がして怖いのです。

戦争の恐ろしさと、原爆の恐ろしさを
きちんと正面から見つめ、ちゃんと知らなければいけないと思い、
途中で止まっていた文字起こしをやり遂げる事にしました。


「原爆体験を世界に」">「原爆体験を世界に」
橋爪 文(広島被爆者)2011年8月4日・5日放送 NHKラジオ深夜便

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橋爪文さんは旧制女学校3年生(14歳)のとき、勤労動員先の広島貯金局で原爆に遭いました。
爆心地から1.5キロメートル地点でした。
目もくらむせん光のあと、真っ暗闇にうずくまりました。
そして、頭からひどい出血があり、意識を失いました。
気が付いたら近くの日赤病院へ運ばれていました。
そのあとも橋爪さんは、おう吐、貧血など、いわゆる原爆症に悩まされ続けました。

1991年、還暦を迎えた橋爪さんは、若いころ、何一つ勉強ができなかった自分を顧みて、
海外を知りたいと、3か月のスコットランド英語留学を果たしました。
その後もヨーロッパ各地やニュージーランドなどを訪ねました。
 
ニュージーランドでは、著名な作家のエルシー・ロックさんから、
「あなたがたは原爆について書き、話さなければならない。
でないと人類史上もっとも重大なことが歴史の暗部に埋もれてしまう」と言われました。
以後、橋爪さんは、それまで語ることのなかった原爆体験を世界中で語り、
「平和の仲間」を広げ続けています。

番組では、原爆体験と被爆の恐ろしさや、
海外の人たちがどのように原爆の話を受け止めたかなどを、お話しいただきます。



2011年8月4日放送



聞き手:橋爪さんは長くこの原爆体験についてはお話しなさらなかったそうですね

橋爪:
はい、出来なかったんです。
あまりにも悲惨でね、やっぱり思いだしたくない、早く忘れてしまいたいって、
もうそれが、自分の本能みたいにね、「忘れたい忘れたい、思いだしたくない」って、
で、いくら話しても、あの事実は被ばく者の方がみなおっしゃるんですけれども、
「どんな言葉を尽くしても話せない」って、そういう思いもありますよね。
被ばく者でなければ分からないみたいな、それぐらい、あの、表現する言葉がないんですね。
話しても多分、他人には分かってもらえないっていう事と、
皆さん思いだしたくないんでしょうね、あまりにもひどい状態だったから。


聞き手:
その橋爪さんがですね、
1995年に手記を「少女14歳の原爆体験記」という本にまとめてらっしゃいますけれども、
このご本にはですね、
「私が体験記を書いたのは1995年、被爆50周年の時でした」と、この本にありますけれども、
原爆から50年経って、やっと、その、体験記を書こうという気になられたんですね。

橋爪:
友達に薦められて、「あ、書かなきゃいけないんだ」って思ったんですけれど、
私の友達でフリ-ライターの方がいらっしゃるんですね。
卯月文(うづきあや)さんっていう方が。
その方に、「あなた書かなきゃダメよ」って言われて、
本当に書きたくなかったんですけれど、しょっちゅうお電話を頂いて、
お尻ひっぱたかれるようにして書き始めたんですけれど、

苦しかったですね…、とっても苦しくって

結局、ま、どうにか書いたんですけど、
この本が完成するのがね、書き終えるのが先か、私の命がなくなるのが先かと、
それぐらい辛かったです、これを書くのは。
で、最後は5分ぐらい歩いたところにお医者さんがあって、点滴をしながら書いたんですよね。
でも、その5分が歩けなくって、
とにかく本を書かないと死んじゃいけないのかなぁ、
でもこれは書く前に私の方が先に命がなくなるかなと思う位に、
本当に辛かったですね。

聞き手:
はぁ…今もお体の具合が時々お悪いようでけれども、
ちょうど原爆から50年経って、この本をお書きになっているころ、やはりご体調が悪かったんですか、

橋爪:
ずっと良くないんですよ。
広島で被爆後、もう、いろんな病気をしましたから、
もう、広島中のお医者さんに母が・・・
もう、内科は当然ですけれど、あといろんなお医者さん、ほんと、皮膚科から耳鼻科まで、
全部のお医者さんを探して連れて行ってくれたんですけど、
結局原因も分からない、治療法もないという事で、

それで、逓信局(ていしんきょく)、電電公社に勤めましたので、逓信病院があるんですね。
広島に逓信病院がありますから、
そこの先生が、学会で東京に行ったら、
私の事をご近所にお住まいだったので「ふみちゃん、ふみちゃん」って、呼んで下さって、
「ふみちゃんと同じような病気の人がいたから、もう、頼んできたから即入院したら」っていうことで、
東京に来て、その病気のために東京に越してきたんです。

聞き手:
ああ、そうですか。
その後体調が悪い、いわゆる原爆症という事がありますけれども、その原爆症の一種と言いますか、

橋爪:
私はそう思っているんですけれど、結局病名がつかなくて、ま、全身病なんですけれど、
その時に、今研究されているような病気が一応「それかな」ってつけて、

聞き手:
いわゆる原爆症と、通俗的に言われますけれども、
本当に一番、原子爆弾、放射能で怖いのは、それが本当に放射能のせいなのかどうなのかっていうのは、
否定する人もいれば「そうかもしれない」と言う人もいて、
それが最終的に実証できない、こういうところが辛いところですよね。

橋爪:
そうですね、でも私たち被爆者は、原爆っていう事も知りませんでしたし、
ですから、放射能の事も知らなくて、
ただ、もうみんな、常に何か病気をしていましたね。

ただ食べて、その日その日、救援が全く無かったですから、当分、何カ月間か、
そうするとお水は雨水ですね。
食べ物は草が生えてきたら草。
最初は芽がポチッっと出ると、
そんな草を食べたってお腹の足しにならないので、10センチぐらいまでのびるのを待って、
それから根っこごと抜いて食べたり、
そんな状態で、身体が悪いですから、みんな。
がれきの上から、焼け後から柱を4本拾ってきて、その上に焼けたトタンを乗っけて、
そんな生活から始まりましたから、

ま、ラジオも新聞もないですから、
自分たちが、どうしてこんなになったのか、・・
ま、アメリカの爆弾が落ちたぐらいはみんな分かっていますよ、戦争していましたからね。

聞き手:
そうすると、実際に広島の方は、原子爆弾という事もお分かりにならないし、
ただ、もう、町が丸焼けに全壊するという形、
そしてその後の生活も大変だったという事ですけれども、
その後ですね、橋爪さんは、今日の番組のタイトルは「原爆を世界に」ということですけれども、
原爆の後、半世紀ぐらい経ってから、積極的に手記も書かれたんですけれども、
一方、海外の方々に原爆の話をされるようになったんですね。

橋爪:はい、

聞き手:
お体はお疲れになるんですけれども、ご体調は必ずしも良くないんだけれども、
でも積極的に海外へいらして、原爆のお話しをなさっているようですけれども、
もうすでに何カ国ぐらいいらしたんですか?

橋爪:
毎年行ってね、ちょっと体調がいい時には1年に3回ぐらい日本を出るんですね。
そして一回に、たいてい3カ国ですね。
3回出ると、9カ国ですか、一回に。
だから、8カ国か9カ国を毎年歩いたという事になりますね。

聞き手:
それをもう、10数年以上続けていらっしゃいますね、
そういう橋爪さんでいらっしゃいますけれども、
そうした世界の人々に原爆を話されたご体験ものちほど伺いたいのですが、
まずは橋爪さんのですね、原爆。
8月6日。
昭和20年、1945年8月6日の朝の、橋爪さんのご体験をお話しいただけますでしょうか。


8月6日 朝

橋爪:
私は14歳で、本当は昔の旧制女学校の最後の年になるんですけれど、
本当は勉強しなければいけなかったんですけれど、
当時は若い男の方はもちろん、中年の人まで、軍隊に、兵隊にとられて、
私たち学生だとか、それから主婦たちが、学徒動員とか主婦動員で、社会に出て働いていたんですね。
で、私はね、本当に幸運だったんですけれど、
殆どの方々が、建物疎開と言って、大きな建物の周りの民家をわざと壊して空き地にしていたんです。
あの、病院とか大学とか、観光地を、類焼を防ぐために。
その後片づけに学生のほとんどが行っていたんですね。

だけど、私は運が良かったのか、貯金局に行く事になって、勤労動員に。
で、貯金局に行っていました。

聞き手:そうするとその建物を壊す作業ではなくて屋内の作業に、

橋爪:そうなんです

聞き手:事務的な仕事をなさっていたんですね。

橋爪:そうですね、お手伝いですね、普通の正社員の。

聞き手:
その貯金局でのお仕事をなさっている最中に、もう、朝の8時過ぎですけれど、原爆、
その時はもうご出勤になっていたのですか?

橋爪:
ええ、私の家は広島市の北の方、お城の北の方です。
貯金局は南の方で、今の日赤病院の傍ですから、
そこは毎日歩いて通っていましたから、片道1時間ぐらい、私は割と歩くのが早かったんですけれど、
1時間ぐらいかかったと思いますね。
ですから、8時半が勤務が始まる時間だったかもしれませんけれど、
8時には大抵の人が行っていましたので、
8時に間に合うように行くという事は7時か7時前に出る。
で、その日は出ようとしたら、ちょっと、空襲警報のサイレンが鳴ったので、
一度家に戻って、また、解除になったので出ましたから、
着いたのが、8時5分か10分ぐらいじゃなかったかなと思います。

聞き手:そして、事務の机かなんかに向かわれていたんですかね、

橋爪:
それでね、前の日に小さいんですけどおみかんの缶詰の配給があったんです。
当時はそういうものは非常に貴重品でしたから、
みんなに配る数がないので、学徒の学生だけがいただいたんですね。
で、それを持って帰って、私の家では弟と妹が学童疎開していましたから、
「その時のお土産に持っていく」って、母が大事にしまいこんじゃって食べなかったんですけど、
で、そのお金をね、係長さんのところにお払いしに行ったんですね。
そうして、お金を、こう、差し出した途端です。

係長さんは大きな窓を背にして坐っていらして、
ですから、私は窓の方、係長さんに向かってそのお金を差し出したとたんに、
その大きな窓がね、本当に鮮烈な光を発しました、
異様に鮮烈でした。

で、一瞬それを見たんですけれども、
光線、それこそ光線
光線がね、七色でしたよ。
赤とかオレンジとか黄色、青だとかね、
七色の光線が、こう、沢山集まって、それがもっと、100も1000も集まったようなね、
だから、一本づつに私には見えたんです、線が。

で、それを見て、その瞬間に、わたしは
「太陽が目の前に落ちた」と思いましたね。
と同時に記憶を失っていました。


聞き手:
じゃ、気を失われて、閃光があった後、いわゆるピカドンと言われますけれども、
ピカッっと光った途端に、もう、気を失われたんですか。


橋爪:はい
そして気が付いたら、あの、広い部屋なんですよね、その事務室が。
広い部屋の真ん中に、こう、何本か柱がありました。
その柱の根元にしゃがんでいましたから、窓からそこまで飛ばされたんでしょうね。
で、多分、柱にぶつかって、そこに落ちたんだと思います。

聞き手:それで身体に痛みとか?

橋爪:
いえ、全然何も感じないで、ただ、真っ暗でね、
異常な静けさ、”しじま”って言うんでしょうか、それがたちこめていて、真っ暗だったから、
まず、「目が見えなくなった」と瞬間に思いましたけれど、
ただ当時、空襲になった時の姿勢の訓練を何時もしていました、防空演習の時に。
それが、人差し指と中指で目を、目玉が飛び出さないように目を押さえて、
鼓膜が破れないように親指で耳を押さえて、
あとは、お腹が裂けて腸が飛びださないように平らな所に腹ばう姿勢だったんですね。
で、私は目と耳は出来ましたけれど、腹ばう余地がない狭いところにしゃがんでいました。

しばらくすると、その、目と耳を押さえている私の右手の腕を、肘をつたって、
生温かーい、ねっとりしたものが流れてくるのでね、
当時、大阪、東京、横浜みんな油脂焼夷弾(ゆししょういだん)というのが、空襲を受けていましたから、
私は4階建ての3階で勤務していました。
で、4階に焼夷弾が落ちて、その油が滴り落ちてくるんだなぁと思っていました。
  (※油脂焼夷弾  ゼリー状にしたガソリンを主成分とする焼夷弾)

しばらくしたら、流れてくるのがドッと量が増えたので、そっと手を目の前に広げました。
するとあたりがうすぼんやりと、薄墨を流した位に見えるようになっていて、
で、手にべっとりと血が付いていました。

聞き手:やっぱり、血だったんですね…

橋爪:
そうです。
これ、目と耳を押さえている右手ですから、頭を怪我していると思って、
それで、自分の机を探して、救急袋を持っていましたから、
その中に三角巾とか、ちょっとしたものが入っていましたから、
なにか、布を当てようと思って立ちあがってビックリしたんですけれど、

私の全身はガラスの破片が突き刺さっているし、
部屋中は机もイスもガタガタになって・・もう・・でも、やっと自分の机を探して、
で、布を出して、タオルだったか三角巾だったか、覚えていないんですけれども、
傷らしいところ、右の耳の上ですけれど、そこに当てた時に、
誰か男の方がかすれた声で、「にげろーー!!」って。
で、その声がしたら、暗闇の中から同僚たちが一人立ち、二人立ちして、出口の方に向かって歩きました。

みんな、もう、茫然としていますしね、
で、私は、その柱のところにいましたけれど、出口から一番遠いところだったんですね。

そこに向かって出る時に、3階の窓のところに高圧電線が走っていましたけれど、
その電線が吹きちぎれて、部屋の中にぐるぐる巻きになって、天井まであるんです、床から。
出口はその向こうにありますから、

だから、最初、右手は血が出ているらしいところを抑えて、
左手で、そーっと、こうね、電線に感電しないかな?と思って触ったら、
当然しないですよ、吹き千切られているんだから。
で、感電しないので、それから、その電線をかき分けてかき分けて出たんですけれどもね、
誰も言葉もないし、友達の逃げる姿も、記憶にないですね。

で、その途中で、まだ部屋の中ですけれど、
電線に絡まって、男の人があおむけに倒れて亡くなってたんですよ。
見たところ、どこにも怪我していないようなんですけれど、
もう明らかに亡くなっているという事は、蒼白な顔で、
その時は、私の全身をね、こう、なんか、怖い思いが走ったんですけど、
それが、その日初めて目にした遺体でした。

あの、私が3階の部屋を出て、4階から下りてくる、殆どが女性なんですけど、
髪をこう、振り乱して、
着ている物もすすけてボロの様になって、
本当に亡霊のような人たちが、黙って4階から降りてきました。
で、私もその流れに入って、降りて、
階段を3,4段、4,5段降りたところかしら、4,5歳の女の子、
お掃除のおばさんの子どもだったんですけれども、かわいい,お人形さんみたいな、
その子が裸でね、階段に倒れているんです。
多分着ている物は爆風で飛ばされたんでしょう、裸で。
で、その子のお腹が裂けて、中からピンク色の、
子どもですから、ピンク色の綺麗な腸が、モコモコ、モコモコ湧き出ていて、
彼女はまだ生きていて、苦しそうに身もだえする
私が、ほんの一瞬立ち止まった目の前でね、彼女のお腹の大きさ位の量位の腸が出ましたね。

聞き手:あ・・・しかし、どうしてもあげようがなかったんですよね、

橋爪:
ええ
で、私よりも後から逃げた人、多分4階に居た人でしょう、その後で、私より後に降りていったら、
おかあさんがね、お掃除のおばさんですね、
その子を抱いて、腸が垂れ下がった子どもを抱いて、階段のところで
「誰かこの子を、誰かこの子を」ってね、
あの・・・言ってらしたって、
そういうのが、あの日、いろんな処であったでしょうね。

ーーつづく












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コメント

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きーこさん、いつもありがとうございます。
私もつい最近、橋爪文さんのこのラジオ放送を聞き返したくて、、、
保存していたはずのデーターが無くなってて、、、
探して探して、聞きたーい!と思っていたところでした。
なので、
びっくり(°д°)嬉しいです!