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06.11
Mon
生きる
愚かさを自覚する 2012年6月9日 東京新聞朝刊13面より

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縁を生きる存在
新たな生き方の一歩   
  本多 雅人


私のお寺には、小さな竹やぶがあり、毎年4月になると近くの園児がタケノコ掘りにやってきます。
無駄を省き合理化された現代は、人間と人間、人間と自然を分断してきたといえます。
タケノコ掘りには、自然と戯れ、皆で協力し、
皮をむいて時間をかけ調理する喜びを取り戻そうという願いが込められています。

しかし、寺のある東京都葛飾区は放射能汚染が高い地域と指定されました。
そこでタケノコの汚染具合を調べてみると、セシウムが68ベクレル検出されたのです。
基準値の100ベクレル以下でしたが、園児の事を考え、園長先生と相談した結果、
掘るだけにして食べるのは断念することにしました。


わたしは掘っても捨てるしかないタケノコを見ながら、原発を恨みました。
「何ていうことをしてくれたのだ」との怒りがこみ上げたのです。
しかし、次の瞬間、知らず知らずのうちに経済の豊かさをよしとし、
原発を支えてきたのは私自身ではなかったのかとの思いがよぎりました。
わたしも加害者の一人なのです。
さらに原発を批判し、東京電力を批判している私が、
もし東電の幹部だったら同じ事が言えたであろうかとの思いにいたって、あぜんとしました。
立場が違えば善悪の基準は違ってしまうのです。
終始徹底できないのが人間存在の悲しさなのでしょう。

「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞の言葉があります。
人間は縁によって何を考え、何をしでかすかわからない存在、つまり「業縁存在」であるというのです。
以前はこの言葉が大嫌いでした。
何があっても動じない自分を作り出さなければ競争の激しい時代では生きていけない、
親鸞の教えは軟弱であり、現代にそぐわないと。

タケノコの話でもわかるように「業縁存在」は実は私そのものなのです。
教えの言葉は頭で理解するのではなく、我が身を通してうなずくものです。
そうすると、進歩発展とか、努力意識にがんじがらめになっていた私自身から解放され心地よい風が吹いてくるのです。
「愚かさ」を自覚すると、真に現実と真向いになって生きる道を新たに歩き始めるのです。

誤解のないように申し上げます。
縁次第だから何をしてもいいのではありません。
起こしてしまった過ちを絶対に忘れてはなりません。
要は「存在」を問題にしているのです。
業縁を生きる人間存在の悲しみや痛みが「愚かさ」の自覚を促します。
愚かさを自覚すると、新たな世界が広がり、今までと違った生き方が始まるのです。

「己生(いしょう)の罪業(ざいぎょう)」とはすでに間違った行為をしてしまったことですが、
「未生の罪業」とはそういう行為をしかねないということです。
生きることで知らず知らずに犯してきた罪、
そういう悪や罪を犯してしか生きられない「存在」そのものが問われているのです。
現代に生きる私たちは、自分が自分でない感覚のまま何かにせき立てられるように生きています。
常に眼が外に向き、肝心の自分自身を見つめる眼を失ってしまいました。

「3.11」は対象化された人やものへの批判だけで終わってはならないのです。
業縁存在としての人間そのものを深く見つめ、
「愚かさ」の大地から再び立ち上がっていくことが願われているのでしょう。
震災で被害を受けた人達は言うまでもありません。
東電や政府関係者の人達も含め、私たち自身も全ての人達が救われていくような救いがどこで成り立つのかー。
これこそが宗教的課題と言われるものです。

政策、対策では解決しえない問題を問い続けることが、一人ひとりに求められているのでしょう。

「3・11」はさまざまな問題を私たちに投げかけました。
しかし、あれから1年3か月、人間そのものを問題にした語り合いはほとんどなされていないことが気になっています。
「3.11」は何よりも根源的人間のあり方を深く見つめて行く機縁としたいものです。
それがあらゆることに向かい合っていく根本的な視座を作り出すからです。


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本多 雅人(ほんだ まさと)
1960年、東京都生まれ。中央大学文学部史学科卒業。真宗大谷派蓮光寺(東京亀有)住職。東本願寺同朋会館教導。
宗祖親鸞聖企画運営委員。元親鸞仏教センター嘱託研究員。
元高校教員。
著書に『今を生きる親鸞』(共著 樹心社)
『人間といういのちの相』(共著 東本願寺出版部)など。


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さらっと読んだだけでは難しい言葉が多くて、ちゃんと理解できなかったので、
書き出したww






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