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12.18
Tue
IAEAはどの世に誕生し…現代社会を蝕んでいるか

IAEAはこのような歴史の中でどのようにして誕生したかという事をお話します。

1938年12月、
ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランに中性子を照射した時、
ウランよりも原子量の小さいバリウムを発見してウランの核分裂を発見。
この事実は、大西洋をわたってアメリカのブリンストン大学教授ニールス・ボーアに伝えられ、
コロンビア大学教授のイシドール・ラビとウィリス・ラムの二人がエンリコ・フェルミに伝えた。


ウランに中性子をあてるとウランよりも原子量の小さいものが出来る、
という事はウランに核分裂が起こる事を発見して、これが伝えられていきまして、

そして1941年第二次世界大戦、ナチスの侵略がはじまるわけですが、
第二次世界大戦が始まる直前ですけど、

1941年2月23日、アメリカの化学者グレン・T・シーボーグ博士らが、
バークレーの60インチサイクロトロンを使ってウランに重水素を衝突させる方法により、
世界で最初にプルトニウムを合成・分離した。


重水素というものをぶつけるとですね、ウランがプルトニウムに変わるという事を発見しまして、
それでちょうど第二次世界大戦に突入して言ったんですが、
アメリカがこの時中心になって、極秘裡に皆さんご存じの原子爆弾を製造しようという事で、
マンハッタン計画がスタート(1943年)して、
そしてこの原爆を製造するマンハッタン計画の科学者たちはこういうふうに考えました。

当時の彼らの漫画を見るとこういう漫画が書いてあります。
マッチ棒をこのように並べておくと、1本目に火を付けるとどうなるでしょう?
広瀬隆121417 広瀬隆121418

こうして次々に火が広がって行くと。これが何か?というとですね、
今言った原爆の原理なんです。

ウラン235というものに中性子をぶつけると核分裂をして、
その時に二個以上の中性子が飛び出す事を発見しました。
そうして近くにあるウランがまた核分裂をする、
そうしてこうして次々に雪崩のように核分裂が進むんだ。
これが原子爆弾の発想の原理でした。

広瀬隆121419

これ、一瞬にですね、ダーーーッ!と雪崩のように連鎖反応が起こって巨大なエネルギーが出る。


で、原子力発電はですね、
この核分裂するウラン235の濃縮度をとにかく低くしている。
そうするとぶつかって同じように中性子が二個出てくるけれど、
濃縮度が低いので、235だけじゃなく、核分裂をしないものも、これは核分裂をしない(ウラン238)
こういう状態になると一定の比率で核分裂を取得できる。

広瀬隆121420

こうすれば原子力の燃焼を爆弾としてではなく、電気に使えるんではないか、ということで、
原子力発電の原理が生まれるわけです。
これは、後になってです。

しかしですね42年には
1942年12月2日
イタリアの物理学者エンリコ・フェルミと、ハンガリーの物理学者レオ・シラードが、
シカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成して臨界に達し、
史上初めて原子核分裂の連鎖反応を維持することに成功します。


そして1945年7月16日、
アメリカで人類最初の原子爆弾の実験が行われました。
これはプルトニウムを使ったものでした。
これがですね、その時の記録の写真ですが、
0.016秒後

広瀬隆121421

我々にはカウントできない短時間のうちにボンッ!と爆発が起こって、
そして次々と巨大な炎になって行く。
この事がついに明らかになって、
そして日本は当時アメリカと太平洋戦争をしていました。
それで彼ら自身が「地獄の日」と呼んだ原爆がですね広島に8月6日に投下されました。

そして、爆心地の温度は100万度というですね、想像を絶する、我々には理解できないものとなって、
爆風とそれから強烈な放射線が人間の身体を射抜いて、
そして生き残った人達も当時降ってきた雨、黒い雨と呼ばれる、そういうみなさんが浴びたものと同じ、
当時我々は死の灰と呼んでいましたが、死の灰を浴びまして、
それで今も沢山の人が後遺症に悩んだわけです。

当時の広島がこうですね、
14万人が一瞬で殺されていく。
まだ日本が戦争を止めないので、続いて長崎に原爆が投下されました。
この街の写真をよーく見て下さい。
街にまだ家がありますね、原爆投下前です。
で、原爆がここに投下されました。
そうしてどういう事が起こったかというと、
見て下さい、なんにも無くなっていますね。

広瀬隆121422

こうして一瞬に長崎で7万人の人達が焼き殺されるという、こういう悲惨な事が起こりました。
簡単に原理だけ申し上げます
ウラン235、ここに火薬で火を付けて火薬が爆発しますと、これがくっつきます。
くっつくと、さっき言った臨界を超えるんですね、そうするとこれが爆発を起こす、一瞬で。
100万分の1秒単位で。

広瀬隆121423

こうして広島がやられる。
そして長崎のプルトニウムの場合は外側に同じように爆薬を点火して、
そして真ん中に集まる、集まった時に臨界を超える。そして爆発をする。
こうして殺されたんですが、そうして日本が敗戦を迎える。


日本敗戦、そして東西冷戦の時代へ

この後大変なことが起こります。それは東西冷戦時代です。
それはどういう事かというと、
1946年、ですから日本が敗戦した翌年ですが、

敗戦翌年の1946年3月5日 鉄のカーテン。
イギリスのチャーチル前首相が、アメリカ大統領トールマンに招かれ、
ミズーリ州フルトンの大学で行った演説の中で、
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで
ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンiron curtain が降ろされた。
中部ヨーロッパと東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある」と、鉄のカーテン演説。
これに対して13日に、ソ連のスターリンがプラウダ汽車に「チャーチルは戦争挑発者」と批判して、
東西冷戦の時代に突入。


チャーチルがアメリカで演説をしまして、
ソ連は鉄のカーテンの向こう側にあるという演説をいたしまして、
直ちにソ連側は反論しました。という事で東西冷戦時代、民主主義と共産主義の世界的な冷戦。
直接火花は散らさないがお互いに対立していくという、そういう時代に入りました。

それでアメリカはすぐに、
1946年6月30日
南太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で最初の原爆実験が行われ、
恐怖の大気中核実験の時代が幕を切って落とした。


そしてこれは私が小学校の頃なんですが、こうして核実験が、
皆さん若い方には想像もできない事ですが、こうして最初の原爆実験が行われまして、
見て下さい、これ、これは最初の海中原爆実験なんですが、

広瀬隆121424

これ、ここにあるのが船ですよ。
とてつもない原爆実験ですが、こんなことを始めた訳です。


核兵器

じゃあ、核兵器と我々が呼んでいるものはなにかと言いますと、
私たちが子どもの頃は核兵器という言葉は使いませんでした。
原爆、水爆あるいは原水爆といっていました。

核兵器というのは、殺す側の言葉です。
殺される側は原爆水爆と言います。被害者の方はね。
だから、私はどうも核という言葉は好きじゃありません。これは殺す側の言葉です。
核兵器、それがいつの間にか使われるようになりましたが、

1946年7月23日にビキニで2発目の核実験(最初の海中核実験)が実施され、
予期せぬプルトニウム汚染を起こしたことから、被ばく研究の必要性を感じたアメリカは、
11月26日にトールマン大統領が海軍省覚書(Shields Warren博士作成)に署名し、
原爆傷害調査委員会(ABCC-Atomic Bomb Casualty commission)を設立して、
広島と長崎の原爆被爆生存者に関する放射線の医学的・生物学的影響を調査し始めた。


海柱の中にプルトニウム汚染が起きたんです、アメリカ人が自分でやりながらですね、
それで被爆汚染の調査をしました。
実際に自分たちで実験をやっていながら、自分たちも被ばくするんだという事で、
それでABCCというのをつくりました。
これは悪名高いものです。
これは広島長崎の原爆で生存した人達を調べて、そうすればわかるだろうという事で、
放射線の医学的生物学的影響を調べ始めました。

このABCCは、長期的影響について、
生存者ばかりでなく子どもに対する遺伝的な影響も含めて、調査を行った。
だが、被爆者の治療を一切行わず、被爆者を人体実験の被験者として調べた。
なぜか?
ABCC創設を提唱した男シールズ・ウォーレンは→
1947~52年原子力委員会AEC)生物医学班のボス→
1952~58年AEC医学顧問→
1955~63年原爆の放射線影響科学委員会の国連代表となる。


子どもに対する調査も大量に行って、そしてそれを全部持ち帰って、日本人には知らせない。
そして被爆者の治療を一切行わないんですね。
ともかく実際に人体実験という形で広島長崎の被爆者をずーーっと調べ上げている。
じゃあ、誰がやったのか?という事はどこにも書かれていないんですが、
私は調べてみました。
シールズ・ウォーレンという人物がいたことがわかりまして、
これがのちにアメリカの原子力委員会の生物医学班のボスになって、
ここが大事なんですが、原爆の放射線影響科学委員会の国連代表、
いま、我々が大事にしている国連という組織がですね、
このころからやっている、それもトップになっている。
これがなんでわかったか?と言いますと、私は調べる方法を知っていまして、
Who was Who Americaという本があります。
それをずっと調べていけばよくて、この人間を調べますとこういう記録が出てきます。
シールズ・ウォーレンというのがね。
アメリカは全部調べられるようになっています。
そしてずっと読んでいくとABCCや国連でやっていた事が分かりますが、
大事なことは、
「日本の原爆の医学的な影響を調べる、その事で彼は非常に評価されている」と書かれています。
この言葉を覚えておいてほしいんですが、
「遺伝の影響を調べる」という事で、これは私がいま一番心配している現象ですね。
身体の中に起こっているそういう事を調べていたという事ですね。

広島と長崎の生き残って生存した被爆者を調べたとここにも書いてある。
治療はしていません、ただ調べただけです。

こうしてですね、こういう連中がトップになったわけですが、
ここからがおそらくほとんどの方がご存じないでしょう。
大変なことがこの背後に進行していたんです、


ーーーつづく



動画はこちら↓
<1> 原子力マフィアによる被ばく強制の歴史“IAEAとICRP”
12/14広瀬隆氏郡山(内容書き出し)


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