「自主避難の人達がこうして繋がっているという事は九州の方では記事になるけれど、
故郷の方にはなかなか届かない」と、
「うみがめのたまご」の呼びかけ人である古田ひろみさんは映画の中でおっしゃっています。
この映画は「うみがめのたまご」
避難・移住者と宮崎県をつなぐネットワーク・交流会などを紹介しています。
また、受け入れ側の宮崎綾町の体制などもよくわかります。
一番最後に、
「アカウミガメの母親は子供を守るために卵を海の近くでは産卵しない。アカウミガメは人間の先生です」と
自然楽校未来船の門川校長先生が話していらっしゃいます。
主に、避難・移住された方へのインタビューの部分を書き出しました。
ーーー
フクシマからみやざきへ
避難・移住者のネットワーク「うみがめのたまご」
女性1:
今回の地震と原発事故の放射能を理由に宮崎に来られた方は、よかったら手をあげていただけませんか?
これだけの数の方が、
女性2:
すみません、見てもらっていいですか。
今、何で手をあげているかわかりますか?
聞いてましたか?

九電:すみません。
女性1:
ちゃんとお話を聞いていただきたいです。
結構勇気を出していますので、
九電:もうしわけない。
「私も畑を耕していたんですけれど、それが全て食べられなくなって逃げてきました」
「放射能の数値が高いので、妻と二人で自分の故郷を離れて、遠い宮崎県まできました」
女性2:
これからは本当に(原発を)ストップしないと、日本中が住めなくなってしまうという事は
想像した事はあるんですか?という質問をしたいと思います。
福島第一原発事故後、数万人が放射能汚染地域から避難しました。
この映画は、
故郷から遠く離れた宮崎で新しい生活を始めた避難・移住者のネットワークについて紹介するものです。
日本政府の支援対象外であることや、社会的な理解が浅いなど、避難・移住者が抱える現実。
福島のお母さんであり反原発運動の活動家である佐藤幸子さんに尋ねました。

佐藤幸子 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク:
最初にこういう状況になって、子どもたちを、
私はとにかく子供だけでいいから疎開をさせて欲しいという話をしたんです。
で、地元の、川俣町の議員さんとか、県議会の議員の方にも話したんですけど、
その時に言われたのが、まず一つショックだったのは、
「癌は医学が発達したら治す事が出来る病気なので心配ないよ」と。
「それよりも、経済が立ち行かなくなる事の方が大変なことになる」っていうふうに言われたんですね。
自主避難を呼び掛けている私たちは、実は行政とか経済界の人達からは、
「不安をあおっている市民」というふうに見られている位なので、
本当に避難や移住、保養の話をするという事は、すごい厳しい状況です。
国が定めた避難地域というのが、第一原発から20km圏内のところが避難区域に定められました。
その後計画的避難区域というのが定められたのが、飯館村と川俣町の一部が計画的避難区域という所です。

それ以外の、この緑のところと水色のところブルーのところの多くの地域は、
20ミリシーベルト以下なので避難をする必要はないという国の判断です。

で、この黄色いところも、放射能の汚染地帯になっているので、
東日本はほとんど汚染地帯に、もうなってしまっているという状況になっています。
20km圏内の人と、計画的避難区域の人達は国から補償が出て避難をしていますが、
それ以外の方たち、自主避難の方達は、国からの補償は基本的にありません。
自分の子どもを避難させるという事に関して、
家族の中で意見が湧かれてしまうというケースがかなり多くて、
夫婦であっても意見が違う。
親と子どもが違うということで、なかなか避難がすすめられない状況です。
もしくはもうすでに離婚をしてしまったという人も、私の周りにも何人かいます。
避難の必要性を感じている人の方が、割合的には少ないと思います。
“自分の子ども”のために自主避難を決めたお母さんたちはとても勇気があると思います。
家族が一時的には離ればなれになってしまっても、子どもの将来、長い将来のためには、
それはきっと、後で振り返った時に「あの決断は正しかったね」というふうに私はなると思っています。
福島から1200km離れている宮崎まで、数百家族が原発事故のため故郷を去って自主避難しました。
ーーー
<以下、避難・移住された方のインタビュー部分の内容を書き出します>
ーーー
女性3:
自宅は神奈川県だったんですけど、私も携帯とかパソコンで
「原発というものがこういうものだったんだ」という事を知った時に、
子どもたちを外で遊ばせるという事がとても怖くなってしまって、
今の仕事も全部やめて、「じゃあ宮崎に帰ろう」というふうになって、
Aさんは原発事故後、子どもたち3人を連れて宮崎に避難してきました。
旦那さんはそのまま東京に残っています。
この日はちょうど宮崎に遊びに来ていた旦那さんを空港に見送った直後で、
まだ悲しい気持ちのまま参加されたミーティングでした。
Aさん:
東京の町田にいたので、水から放射性物質が出たという事で、水を買いに回っていたりとかで、
全然気をつけずに生活をしました。
3人の子どもを食べさせることだけで精一杯で、生活をしてて、
「もしかしたらこれはまずいんではないか」って気が付き始めたのが、
本当にもう5月ぐらいになってからで、
この子もずっと外へは5月以降は出していなかったんですけれども、
家の中で子育てしていくのはしんどいという事で、
私自身は「東京から出たい」というふうに、常々主人の方には言っていました。
ただ、上の二人が市立の小学校に入れていたり、家も、まだ建てたばっかり、
まだ5年経ってない時だったので、
主人としてはこちらに出てくるというのはなかなか・・・
全てを本当に捨てて出てこなければいけないという状態だったので、
なかなか許してくれずにいたんですが…
Bさんは旦那さんの実家に嫁いだ1カ月後、原発事故が起きました。
被曝を恐れて、実家がある宮崎に何回も短期疎開をしてきました。
Bさん:
それでいつの間にか妊娠していて、で、埼玉にもどって、
でも気分が悪いし、放射能のことが危険だということはわかっていたから、
埼玉に戻っても、どんどん調べて、一生懸命携帯のインターネットで調べて、
「あ、本当に危ない」というのが分かって…
旦那さんと義理の父母は放射能が問題ないと考えていました。
彼らの理解を得るのは大変でしたが、結局川上さん自身が安全な宮崎で赤ちゃんを産む事に決めました。
こっちで生もうか、向こうで生もうかっていうことを迷っていて、
でも「うみがめのたまご」の存在を知って、とても支えられたというか、
そういうこともあって、こっちで生むという決心が出来て、
本当にみなさんに会えてよかったなというふうに思います。

シルバノ神父 南宮崎カトリック幼稚園・教会:
ここに避難しているお母さんたちは、
私の認識の中で、原発の事の知識があるお母さん達だと思っています。
いっぱいのお金が原発の周りに回っていますから、
そちらを選んでいるという事は私は間違いだと思っています。
「いのち」をみんな選ぶべきだと思っています。
Cさん:
地震の後、3月19日に仙台を離れて、
「帰りたい」と思いながらも、だんだん原発の悪い情報が後から後から、
ちょっとずつちょっとずつ出てくるので、なかなか帰る機会が無くて、
もうしばらく宮崎に住みたいなと思っています。
今日初めて私も息子も初めてデモに来る事が出来て、
やっと何か自分で「言えたな」と思うし、
これからは言うだけじゃなくてもっといろいろやって行かなければいけない。それは思いました。
(ご主人は)仙台に残っています。
月に一度は先代から宮崎に会いに来てくれるんですが、
退職してからだったら宮崎で暮らしたいと言っているんですが、
たとえばいま仕事を辞めてとか、そういうふうには考えていないようなので、
Dさん:
もともとは埼玉です。
今年の1月から(宮崎に来ました)
―:放射能の恐れとかあったんですか?
もちろんありました。
でも子どもたちはこっちならばなんとか外に出せるので安心しています。
古田ひろみさんは「うみがめのたまご」の呼びかけ人です。

避難したくても出来ない、東日本に取り残されている人たちの気持ちを思うと、
こちらで楽しく、優しく発信をしていくことで、その人たちのなにかの支えになったり、
「いつでもこっちに来ていいんだよ」というのが出来ればいいかなと思います。
2012年6月東京
・宮崎に避難したいが家族がバラバラになるのは避けたいので、短期滞在だけにしているお母さん
Eさん:
12歳と10歳の男の子がいます。
「うみがめのたまご」は、夏休みにつなげてくれた人とにつなげてもらって、
初めて宮崎の空港に降り立って、
何の縁もゆかりもない宮崎空港に降り立って、
ポツンと。
家族3人だけで見知らぬ人ばかりだって、急にすごく不安が襲ってきて、
そのときに、「うみがめのたまご」のひろみさんのほうから連絡をくれて、
「とりあえず明日、九州電力宮崎支店に行くけど、一緒に行く?」みたいなかんじで、
私もなにがなんだかわからないままとりあえず「じゃあ行ってみよう」って思って。
去年の夏に宮崎にいた時に、無理を言って、子どもと私と全部検査してもらって、
甲状腺やなんか。
なにも無かったとしても今現在のデータが欲しいと思って、検査してもらったら、
その時子どもたち二人とも甲状腺腫というものがもう出ていて、
血液検査は異常が無かったんだけども、なんか、こう、
「プチプチってちっちゃいのが出来てる」って言われて、
主人や、学校や主人の両親にも、検査結果は伝えたし、
子どものそういうデータを見たら、主人も心が動くだろうなって、ずっと思ってたんだけれども、
でもお医者さんが「経過観察でいい」って言っているし、
ん…すごく絆が強くて、おとうさんだけ東京に残って、子どもだけ宮崎でという選択肢も、
最初はもうそればかりを考えていたし、そうなると思っていたんだけど、
ん…わたしの思いはやっぱり家族一緒に、納得して主人も主人の両親も、
みんな一緒に安全な所に行けるんなら良いんだけれども、
その思いはずっと、3月の時から、今になっても消えない…消えないし、
毎日寝る前にその事を考えて、「もうやっぱり明日飛行機に乗って宮崎に行こう」とか。
喧嘩になっちゃう。
「その話また?」行けばいいじゃん母子でも。
東京にいて動けないなら、出来るだけの事をしようとおもって、
野菜も、去年の3月からずっと、
顔の分かる京都の、昔から野菜を作っているお友達って紹介された人とか、
顔の分かっている宮崎の人から野菜を取り寄せたりとか、
神経質なぐらいに部屋を掃除していた時とかもあったんですけど、
出来る限りの事をすれば、出来る筈だって…
近所の、仲が良いお友達とかに、ベビーがまだ生まれたばっかりの友達もいて、
「とにかく逃げて」って言ったんだけど、本当に近しい人だけにね。
でも、なんか「なに言ってるの?」っていう、
「みんないるし、大丈夫だよ」って。
普通の人は全く普通に、もう日常を送っているし、
相変わらずテレビではバラエティーばっかり流れているし、
「ふつう?」に思わされてる。
普通の毎日・・・
宮崎にいる間は、夏も冬もすごく良くしてもらって、
幸島に連れて行ってもらったのもひろみさんだし、
2012年の元旦にも連れて行ってもらって、元旦の幸島の海に子どもたちが入って、
暖かかったから。
宮崎の空もこんな東京の空と違って、
曇ったと思ったら晴れて、晴れたと思ったら雨が降って虹が出て、みたいな。
あの生きている感じの空がすごい素敵だなって思って、
宮崎にいると「生きている」っていう感じがする。なんでだろう。
2012年6月東京
・母子だけを宮崎に避難させて東京で仕事を続けているお父さん
Fさん(男性):
文京区に住んでいます。
これが家族の写真です。
子どもは今5歳の男の子です。
3月11日に地震が起きて、その後、福島の原発事故が起きて、
それで3月15日に、やはりその原発事故の影響が良く分からないと、
すぐには危なくないかもしれないけど、
特に小さい子どもにとっては「5年後10年後に影響が出るかもしれない」という判断をして、
先ずは、妻の実家の宮崎に妻と子どもを避難させ事を決めました。
テレビとかマスコミは「大丈夫」というふうに、その時は言っていましたけれど、
奥さんの友達とかという所で、やはり「福島は本当は危ないんじゃないか」という事を聞いていて、
私の、実は職業は金融のコンサルタントで、リスク管理が専門です。
で、リスク管理というのは常に最悪の状況を考える。
そういった状況が分からないときは、常に悪い事、「一番悪い事」を考えて、
今回の場合は「子どもを一番に考える」んです。
で、「すぐに影響が無いかもしれないけど、5年後10年後に影響がもしかしたらあるかもしれない」
と、判断したので、
それで、子どもと妻を宮崎に避難させるという決断をしました。
私の方は仕事があるので、すぐに東京を離れる事が出来ないので、
休みを取って宮崎の妻と子どもに会いに行くという生活を、この1年間ずっと続けています。
将来的には、私も、たとえ職業が代わっても、
東京を離れて宮崎へ行って、一緒に生活をしたいというふうに思っています。
ただ、なかなか、
友人と話していても理解を得られない。
「東京は本当は危なくないんじゃないか」と思っている人たちも多いので、
理解を得られないことも、今でも多いです、それは。
今までの経緯があって、原発が福島につくられましたけれど、
福島でつくられた電気というのは、実はこの首都圏の東京で使われています。
ですので、我々は被害者でもあるんですけれど、
同時に福島の人達にとっては加害者だと思っています。
宮崎は大きな産業とかはないと思うんですけど、
綺麗な、青島とかの海もありますし、山も霧島とかいうのもあるので、
とても自然に恵まれた生活しやすいところだと思っています。
なので、小さい子どもを育てるには、とてもいい場所だと思います。
Gさん(ご主人):
33歳です。
宮崎には去年の8月に来ました。
僕の地元は福島県の郡山市というところで、
震災後すぐに「放射能の影響で安心して生活ができない」と思って、
すぐに福井県の方に避難して、サーフィンしたくて、宮崎に移住しました。
宮崎はすごく気候もよくて、食べ物も美味しいし、
すごい、最高のところに来れてよかったなって思っています。
Gさん(奥さん)
歳は33歳です。
福島にいても、畑をやってたんだけど、
これから畑を作るのもちょっと、難しいし、
サーフィンするのにも海に入れないから、
どんどん、こう、前向きに考えていったら移住したほうが、
役目で福島に何か「食料を送ったりとかできるのかな」って、だんだん思うようになって、
私は移住をだんだん決意していって、
川も海も豊かで、山も近くにあって風も気持ちいいし、
海岸線走っているだけで、南国な感じが大好きで、
いるだけで何かハッピーみたいな。
F一家:
ママ、赤ちゃん、パパ
もう一人息子が、2歳半。
宮崎に来たのは5月の上旬です。
もともとは茨城県です。
福島と県境になっている町です。
爆発があって、「えっ!?」って思ったんですけれども、
2回目の時に、僕は出かけてたんだけど帰ってきたら
「また爆発あったよ」って言われて、
「え!またか」って思ったんです。
それからは「もう出るべきだな」と思って、何人にも言ったんですけど、
「いや、日本人って逃げることをしないんだ」って言われた。
それは理由がないと思っていますね。
とりあえず、今まだみんないるんですよね、むこうに。
まぁ、人それぞれですよね。
みんな同じ情報とか手に入るんだから、判断がね、人によって。
でも、我々から見ると、うちらの見ている情報って、
充分危険(ママ)
なんでそのまま子どもが一緒にいるのかが、ちょっと理解できないですね。
とりあえずちょっと、兵庫県の方に主人の友人がいたので、
そちらの方に1年近く避難していました。(ママ)
どういうところがいいかなぁって、探していたんですよ。
それで、何箇所も気にしてたんですけど、縁があったんです。
住まいと、偶然に仕事も見つかったんです。
だから綾町になりました。
ーどうですか?綾町は。
素晴らしいです。
茨城に住んでいた時と同じように緑がいっぱいで、とても、子供たちにもいい影響かなと。
住みやすい環境でとても嬉しく思っています(ママ)
H一家:
ママ、パパ、息子2歳です。
昨年の8月に、千葉県からこちらの宮崎に、
妻の母親の関係でこっちに家があるので、きました。
子供がまだその時1歳だったということもあるので、
放射能による内部被曝の問題ですとか、
自分たちの住んでいるところが高いというのがちょっと不安で、
子供が1歳で歩き始めて、葉っぱとかを、
落ちている葉っぱと開始とかを拾って口に入れたりとかをよくするのに、
そこに見えない放射能がついているっていうのが・・・。(ママ)
常に不安な日々を送っていたので、そういったことで、ま、宮崎に実家があるっていうことで、
こちらに来ました。
Iさん:
2歳と4歳の男の子がいます。
去年の3月15日に、福島県いわき市を出ました。
とりあえず車に詰めるだけの荷物を積んで飛び乗って、福島空港に行って、
そのあと、羽田に飛んで1泊して、それから宮崎の空港につきました。
だから、16日につきました。
旦那の実家が宮崎の日南市だったので、
とりあえず、もう、逃げられるところだったらどこだってということできました。
やっぱりね、兄弟とか親はまだ福島にいるんで、
会いに行きたいとは思うんですけど、
でも、この子達を連れて戻れるかどうか?っていうのは
やっぱり・・・戻りたいとは思わないです。
ー宮崎はどうですか?
すっごいいいところ。
避難してくるときはすごく精神的にもうしんどかったんですけど、
こっちに来て、人と自然にすごく癒されて、
おかげで元気になったっていう感じがすごくします。
やっぱり、子育てするには最高の環境だと思っています。
<チェルノブイリ法>
“年1ミリシーベルト”で避難の権利 アレクサンドル・ヴェリキン氏OurPlanetTV(内容書き出し)
故郷の方にはなかなか届かない」と、
「うみがめのたまご」の呼びかけ人である古田ひろみさんは映画の中でおっしゃっています。
この映画は「うみがめのたまご」
避難・移住者と宮崎県をつなぐネットワーク・交流会などを紹介しています。
また、受け入れ側の宮崎綾町の体制などもよくわかります。
一番最後に、
「アカウミガメの母親は子供を守るために卵を海の近くでは産卵しない。アカウミガメは人間の先生です」と
自然楽校未来船の門川校長先生が話していらっしゃいます。
主に、避難・移住された方へのインタビューの部分を書き出しました。
ーーー
フクシマからみやざきへ
避難・移住者のネットワーク「うみがめのたまご」
女性1:
今回の地震と原発事故の放射能を理由に宮崎に来られた方は、よかったら手をあげていただけませんか?
これだけの数の方が、
女性2:
すみません、見てもらっていいですか。
今、何で手をあげているかわかりますか?
聞いてましたか?

九電:すみません。
女性1:
ちゃんとお話を聞いていただきたいです。
結構勇気を出していますので、
九電:もうしわけない。
「私も畑を耕していたんですけれど、それが全て食べられなくなって逃げてきました」
「放射能の数値が高いので、妻と二人で自分の故郷を離れて、遠い宮崎県まできました」
女性2:
これからは本当に(原発を)ストップしないと、日本中が住めなくなってしまうという事は
想像した事はあるんですか?という質問をしたいと思います。
福島第一原発事故後、数万人が放射能汚染地域から避難しました。
この映画は、
故郷から遠く離れた宮崎で新しい生活を始めた避難・移住者のネットワークについて紹介するものです。
日本政府の支援対象外であることや、社会的な理解が浅いなど、避難・移住者が抱える現実。
福島のお母さんであり反原発運動の活動家である佐藤幸子さんに尋ねました。

佐藤幸子 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク:
最初にこういう状況になって、子どもたちを、
私はとにかく子供だけでいいから疎開をさせて欲しいという話をしたんです。
で、地元の、川俣町の議員さんとか、県議会の議員の方にも話したんですけど、
その時に言われたのが、まず一つショックだったのは、
「癌は医学が発達したら治す事が出来る病気なので心配ないよ」と。
「それよりも、経済が立ち行かなくなる事の方が大変なことになる」っていうふうに言われたんですね。
自主避難を呼び掛けている私たちは、実は行政とか経済界の人達からは、
「不安をあおっている市民」というふうに見られている位なので、
本当に避難や移住、保養の話をするという事は、すごい厳しい状況です。
国が定めた避難地域というのが、第一原発から20km圏内のところが避難区域に定められました。
その後計画的避難区域というのが定められたのが、飯館村と川俣町の一部が計画的避難区域という所です。

それ以外の、この緑のところと水色のところブルーのところの多くの地域は、
20ミリシーベルト以下なので避難をする必要はないという国の判断です。

で、この黄色いところも、放射能の汚染地帯になっているので、
東日本はほとんど汚染地帯に、もうなってしまっているという状況になっています。
20km圏内の人と、計画的避難区域の人達は国から補償が出て避難をしていますが、
それ以外の方たち、自主避難の方達は、国からの補償は基本的にありません。
自分の子どもを避難させるという事に関して、
家族の中で意見が湧かれてしまうというケースがかなり多くて、
夫婦であっても意見が違う。
親と子どもが違うということで、なかなか避難がすすめられない状況です。
もしくはもうすでに離婚をしてしまったという人も、私の周りにも何人かいます。
避難の必要性を感じている人の方が、割合的には少ないと思います。
“自分の子ども”のために自主避難を決めたお母さんたちはとても勇気があると思います。
家族が一時的には離ればなれになってしまっても、子どもの将来、長い将来のためには、
それはきっと、後で振り返った時に「あの決断は正しかったね」というふうに私はなると思っています。
福島から1200km離れている宮崎まで、数百家族が原発事故のため故郷を去って自主避難しました。
ーーー
<以下、避難・移住された方のインタビュー部分の内容を書き出します>
ーーー
女性3:
自宅は神奈川県だったんですけど、私も携帯とかパソコンで
「原発というものがこういうものだったんだ」という事を知った時に、
子どもたちを外で遊ばせるという事がとても怖くなってしまって、
今の仕事も全部やめて、「じゃあ宮崎に帰ろう」というふうになって、
Aさんは原発事故後、子どもたち3人を連れて宮崎に避難してきました。
旦那さんはそのまま東京に残っています。
この日はちょうど宮崎に遊びに来ていた旦那さんを空港に見送った直後で、
まだ悲しい気持ちのまま参加されたミーティングでした。
Aさん:
東京の町田にいたので、水から放射性物質が出たという事で、水を買いに回っていたりとかで、
全然気をつけずに生活をしました。
3人の子どもを食べさせることだけで精一杯で、生活をしてて、
「もしかしたらこれはまずいんではないか」って気が付き始めたのが、
本当にもう5月ぐらいになってからで、
この子もずっと外へは5月以降は出していなかったんですけれども、
家の中で子育てしていくのはしんどいという事で、
私自身は「東京から出たい」というふうに、常々主人の方には言っていました。
ただ、上の二人が市立の小学校に入れていたり、家も、まだ建てたばっかり、
まだ5年経ってない時だったので、
主人としてはこちらに出てくるというのはなかなか・・・
全てを本当に捨てて出てこなければいけないという状態だったので、
なかなか許してくれずにいたんですが…
Bさんは旦那さんの実家に嫁いだ1カ月後、原発事故が起きました。
被曝を恐れて、実家がある宮崎に何回も短期疎開をしてきました。
Bさん:
それでいつの間にか妊娠していて、で、埼玉にもどって、
でも気分が悪いし、放射能のことが危険だということはわかっていたから、
埼玉に戻っても、どんどん調べて、一生懸命携帯のインターネットで調べて、
「あ、本当に危ない」というのが分かって…
旦那さんと義理の父母は放射能が問題ないと考えていました。
彼らの理解を得るのは大変でしたが、結局川上さん自身が安全な宮崎で赤ちゃんを産む事に決めました。
こっちで生もうか、向こうで生もうかっていうことを迷っていて、
でも「うみがめのたまご」の存在を知って、とても支えられたというか、
そういうこともあって、こっちで生むという決心が出来て、
本当にみなさんに会えてよかったなというふうに思います。

シルバノ神父 南宮崎カトリック幼稚園・教会:
ここに避難しているお母さんたちは、
私の認識の中で、原発の事の知識があるお母さん達だと思っています。
いっぱいのお金が原発の周りに回っていますから、
そちらを選んでいるという事は私は間違いだと思っています。
「いのち」をみんな選ぶべきだと思っています。
Cさん:
地震の後、3月19日に仙台を離れて、
「帰りたい」と思いながらも、だんだん原発の悪い情報が後から後から、
ちょっとずつちょっとずつ出てくるので、なかなか帰る機会が無くて、
もうしばらく宮崎に住みたいなと思っています。
今日初めて私も息子も初めてデモに来る事が出来て、
やっと何か自分で「言えたな」と思うし、
これからは言うだけじゃなくてもっといろいろやって行かなければいけない。それは思いました。
(ご主人は)仙台に残っています。
月に一度は先代から宮崎に会いに来てくれるんですが、
退職してからだったら宮崎で暮らしたいと言っているんですが、
たとえばいま仕事を辞めてとか、そういうふうには考えていないようなので、
Dさん:
もともとは埼玉です。
今年の1月から(宮崎に来ました)
―:放射能の恐れとかあったんですか?
もちろんありました。
でも子どもたちはこっちならばなんとか外に出せるので安心しています。
古田ひろみさんは「うみがめのたまご」の呼びかけ人です。

避難したくても出来ない、東日本に取り残されている人たちの気持ちを思うと、
こちらで楽しく、優しく発信をしていくことで、その人たちのなにかの支えになったり、
「いつでもこっちに来ていいんだよ」というのが出来ればいいかなと思います。
2012年6月東京
・宮崎に避難したいが家族がバラバラになるのは避けたいので、短期滞在だけにしているお母さん
Eさん:
12歳と10歳の男の子がいます。
「うみがめのたまご」は、夏休みにつなげてくれた人とにつなげてもらって、
初めて宮崎の空港に降り立って、
何の縁もゆかりもない宮崎空港に降り立って、
ポツンと。
家族3人だけで見知らぬ人ばかりだって、急にすごく不安が襲ってきて、
そのときに、「うみがめのたまご」のひろみさんのほうから連絡をくれて、
「とりあえず明日、九州電力宮崎支店に行くけど、一緒に行く?」みたいなかんじで、
私もなにがなんだかわからないままとりあえず「じゃあ行ってみよう」って思って。
去年の夏に宮崎にいた時に、無理を言って、子どもと私と全部検査してもらって、
甲状腺やなんか。
なにも無かったとしても今現在のデータが欲しいと思って、検査してもらったら、
その時子どもたち二人とも甲状腺腫というものがもう出ていて、
血液検査は異常が無かったんだけども、なんか、こう、
「プチプチってちっちゃいのが出来てる」って言われて、
主人や、学校や主人の両親にも、検査結果は伝えたし、
子どものそういうデータを見たら、主人も心が動くだろうなって、ずっと思ってたんだけれども、
でもお医者さんが「経過観察でいい」って言っているし、
ん…すごく絆が強くて、おとうさんだけ東京に残って、子どもだけ宮崎でという選択肢も、
最初はもうそればかりを考えていたし、そうなると思っていたんだけど、
ん…わたしの思いはやっぱり家族一緒に、納得して主人も主人の両親も、
みんな一緒に安全な所に行けるんなら良いんだけれども、
その思いはずっと、3月の時から、今になっても消えない…消えないし、
毎日寝る前にその事を考えて、「もうやっぱり明日飛行機に乗って宮崎に行こう」とか。
喧嘩になっちゃう。
「その話また?」行けばいいじゃん母子でも。
東京にいて動けないなら、出来るだけの事をしようとおもって、
野菜も、去年の3月からずっと、
顔の分かる京都の、昔から野菜を作っているお友達って紹介された人とか、
顔の分かっている宮崎の人から野菜を取り寄せたりとか、
神経質なぐらいに部屋を掃除していた時とかもあったんですけど、
出来る限りの事をすれば、出来る筈だって…
近所の、仲が良いお友達とかに、ベビーがまだ生まれたばっかりの友達もいて、
「とにかく逃げて」って言ったんだけど、本当に近しい人だけにね。
でも、なんか「なに言ってるの?」っていう、
「みんないるし、大丈夫だよ」って。
普通の人は全く普通に、もう日常を送っているし、
相変わらずテレビではバラエティーばっかり流れているし、
「ふつう?」に思わされてる。
普通の毎日・・・
宮崎にいる間は、夏も冬もすごく良くしてもらって、
幸島に連れて行ってもらったのもひろみさんだし、
2012年の元旦にも連れて行ってもらって、元旦の幸島の海に子どもたちが入って、
暖かかったから。
宮崎の空もこんな東京の空と違って、
曇ったと思ったら晴れて、晴れたと思ったら雨が降って虹が出て、みたいな。
あの生きている感じの空がすごい素敵だなって思って、
宮崎にいると「生きている」っていう感じがする。なんでだろう。
2012年6月東京
・母子だけを宮崎に避難させて東京で仕事を続けているお父さん
Fさん(男性):
文京区に住んでいます。
これが家族の写真です。
子どもは今5歳の男の子です。
3月11日に地震が起きて、その後、福島の原発事故が起きて、
それで3月15日に、やはりその原発事故の影響が良く分からないと、
すぐには危なくないかもしれないけど、
特に小さい子どもにとっては「5年後10年後に影響が出るかもしれない」という判断をして、
先ずは、妻の実家の宮崎に妻と子どもを避難させ事を決めました。
テレビとかマスコミは「大丈夫」というふうに、その時は言っていましたけれど、
奥さんの友達とかという所で、やはり「福島は本当は危ないんじゃないか」という事を聞いていて、
私の、実は職業は金融のコンサルタントで、リスク管理が専門です。
で、リスク管理というのは常に最悪の状況を考える。
そういった状況が分からないときは、常に悪い事、「一番悪い事」を考えて、
今回の場合は「子どもを一番に考える」んです。
で、「すぐに影響が無いかもしれないけど、5年後10年後に影響がもしかしたらあるかもしれない」
と、判断したので、
それで、子どもと妻を宮崎に避難させるという決断をしました。
私の方は仕事があるので、すぐに東京を離れる事が出来ないので、
休みを取って宮崎の妻と子どもに会いに行くという生活を、この1年間ずっと続けています。
将来的には、私も、たとえ職業が代わっても、
東京を離れて宮崎へ行って、一緒に生活をしたいというふうに思っています。
ただ、なかなか、
友人と話していても理解を得られない。
「東京は本当は危なくないんじゃないか」と思っている人たちも多いので、
理解を得られないことも、今でも多いです、それは。
今までの経緯があって、原発が福島につくられましたけれど、
福島でつくられた電気というのは、実はこの首都圏の東京で使われています。
ですので、我々は被害者でもあるんですけれど、
同時に福島の人達にとっては加害者だと思っています。
宮崎は大きな産業とかはないと思うんですけど、
綺麗な、青島とかの海もありますし、山も霧島とかいうのもあるので、
とても自然に恵まれた生活しやすいところだと思っています。
なので、小さい子どもを育てるには、とてもいい場所だと思います。
Gさん(ご主人):
33歳です。
宮崎には去年の8月に来ました。
僕の地元は福島県の郡山市というところで、
震災後すぐに「放射能の影響で安心して生活ができない」と思って、
すぐに福井県の方に避難して、サーフィンしたくて、宮崎に移住しました。
宮崎はすごく気候もよくて、食べ物も美味しいし、
すごい、最高のところに来れてよかったなって思っています。
Gさん(奥さん)
歳は33歳です。
福島にいても、畑をやってたんだけど、
これから畑を作るのもちょっと、難しいし、
サーフィンするのにも海に入れないから、
どんどん、こう、前向きに考えていったら移住したほうが、
役目で福島に何か「食料を送ったりとかできるのかな」って、だんだん思うようになって、
私は移住をだんだん決意していって、
川も海も豊かで、山も近くにあって風も気持ちいいし、
海岸線走っているだけで、南国な感じが大好きで、
いるだけで何かハッピーみたいな。
F一家:
ママ、赤ちゃん、パパ
もう一人息子が、2歳半。
宮崎に来たのは5月の上旬です。
もともとは茨城県です。
福島と県境になっている町です。
爆発があって、「えっ!?」って思ったんですけれども、
2回目の時に、僕は出かけてたんだけど帰ってきたら
「また爆発あったよ」って言われて、
「え!またか」って思ったんです。
それからは「もう出るべきだな」と思って、何人にも言ったんですけど、
「いや、日本人って逃げることをしないんだ」って言われた。
それは理由がないと思っていますね。
とりあえず、今まだみんないるんですよね、むこうに。
まぁ、人それぞれですよね。
みんな同じ情報とか手に入るんだから、判断がね、人によって。
でも、我々から見ると、うちらの見ている情報って、
充分危険(ママ)
なんでそのまま子どもが一緒にいるのかが、ちょっと理解できないですね。
とりあえずちょっと、兵庫県の方に主人の友人がいたので、
そちらの方に1年近く避難していました。(ママ)
どういうところがいいかなぁって、探していたんですよ。
それで、何箇所も気にしてたんですけど、縁があったんです。
住まいと、偶然に仕事も見つかったんです。
だから綾町になりました。
ーどうですか?綾町は。
素晴らしいです。
茨城に住んでいた時と同じように緑がいっぱいで、とても、子供たちにもいい影響かなと。
住みやすい環境でとても嬉しく思っています(ママ)
H一家:
ママ、パパ、息子2歳です。
昨年の8月に、千葉県からこちらの宮崎に、
妻の母親の関係でこっちに家があるので、きました。
子供がまだその時1歳だったということもあるので、
放射能による内部被曝の問題ですとか、
自分たちの住んでいるところが高いというのがちょっと不安で、
子供が1歳で歩き始めて、葉っぱとかを、
落ちている葉っぱと開始とかを拾って口に入れたりとかをよくするのに、
そこに見えない放射能がついているっていうのが・・・。(ママ)
常に不安な日々を送っていたので、そういったことで、ま、宮崎に実家があるっていうことで、
こちらに来ました。
Iさん:
2歳と4歳の男の子がいます。
去年の3月15日に、福島県いわき市を出ました。
とりあえず車に詰めるだけの荷物を積んで飛び乗って、福島空港に行って、
そのあと、羽田に飛んで1泊して、それから宮崎の空港につきました。
だから、16日につきました。
旦那の実家が宮崎の日南市だったので、
とりあえず、もう、逃げられるところだったらどこだってということできました。
やっぱりね、兄弟とか親はまだ福島にいるんで、
会いに行きたいとは思うんですけど、
でも、この子達を連れて戻れるかどうか?っていうのは
やっぱり・・・戻りたいとは思わないです。
ー宮崎はどうですか?
すっごいいいところ。
避難してくるときはすごく精神的にもうしんどかったんですけど、
こっちに来て、人と自然にすごく癒されて、
おかげで元気になったっていう感じがすごくします。
やっぱり、子育てするには最高の環境だと思っています。
<チェルノブイリ法>
“年1ミリシーベルト”で避難の権利 アレクサンドル・ヴェリキン氏OurPlanetTV(内容書き出し)
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コメント
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| 2013.01.30 00:31 | 編集
コメントありがとうございます。
メルアドを教えていただいているようなのですが、何故か私のPCからアドレスを知ることができず、
メールでお返事をすることができません。こちらでお許し下さい。
わたしは、上記動画を偶然見つけました。映画だということですので、すべて了解済みのことと思っていました。
これから避難を考えている方々にとって、実際に自主避難されている方のお話はとても心強いものだと思い、
載せさせていただきました。
写真とお名前を削除いたしましたが、もし、不都合なようでしたら、申し訳ありませんがまたコメントをいただけますでしょうか。
よろしくおねがいいたします。
メルアドを教えていただいているようなのですが、何故か私のPCからアドレスを知ることができず、
メールでお返事をすることができません。こちらでお許し下さい。
わたしは、上記動画を偶然見つけました。映画だということですので、すべて了解済みのことと思っていました。
これから避難を考えている方々にとって、実際に自主避難されている方のお話はとても心強いものだと思い、
載せさせていただきました。
写真とお名前を削除いたしましたが、もし、不都合なようでしたら、申し訳ありませんがまたコメントをいただけますでしょうか。
よろしくおねがいいたします。
きーこ | 2013.01.30 08:10 | 編集
毎日のように更新されるきーこさんの継続する力に敬服しています。日本アイソトープ協会に1年以上前に寄稿されていたようですが、東北大学の記事で、被災家畜を解剖してテルルの甲状腺への影響が懸念されると書いてあり、ヨウ素の影響のみだけて甲状腺安心論がでてきていることに危惧をもっています。日本アイソトープ協会には他にも屋内遮蔽率に対する政府試算への疑問などの記事もありました。ご参照ください。http://www2.idac.tohoku.ac.jp/hisaidoubutsu/images/IsotopeNews.pdf
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| 2013.01.30 10:56 | 編集
ご連絡ありがとうございます。
了解しました。
了解しました。
きーこ | 2013.01.30 11:54 | 編集
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| 2013.01.30 19:28 | 編集
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| 2013.01.30 21:08 | 編集
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| 2013.01.31 10:52 | 編集
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| 2013.02.03 07:56 | 編集
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| 2013.02.05 11:15 | 編集
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| 2013.02.07 12:38 | 編集