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3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)

「原爆体験を世界に」
橋爪 文(広島被爆者)2011年8月4日・5日放送 NHKラジオ深夜便

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2011年8月5日放送



聞き手:
橋爪さんは昨日、原爆の日の当日も大変だったけれども、実はその後の生活も大変だった。
その後の事をなかなか話す機会が無いんだとおっしゃってましたけれども、
少し今日は、その原爆後の日々のご生活をちょっとお話しいただけるでしょうか?

橋爪:
はい、
田舎の方に避難していく人はいらしたんですけど、
私たち何人かと家族と、それから近所の方が戻ってらして、
焼け跡にバラック、といっても焼け跡から4本の焼け残った柱を、棒を拾ってきて、
それをがれきに突っ込んで建てて、
その上に焼け残ったトタン。
一枚がたたみ一畳ぐらいのものを二枚乗せた、それだけのバラックなんです。
壁ももちろん無いですし、そして下はがれきですね。
そこに近所の方と私たち家族とで、13人が夜露をしのいだんですけど、
昼間は木陰も全然ないですし、本当に見渡す限りがれきの、赤茶けた野原で、
で、真夏ですから、こう、肌がじりじり焦げるんじゃないかと思うような強烈な太陽でした。

でも夕方日が落ちると急に寒くなって、
私たちはみんなすごい、13人が重傷を負っていましたので、
そのせいか、寒さもひとしお感じたのか、
夜、夜露に当たらないように、その2畳ぐらいのトタンの下に頭を入れて寝るんですけれども、
2畳ぐらいに13人ですから、真ん中の人はお団子になったみたいに手足を丸めて、
で、座った人は座ったまま、
外側の人は頭だけ入ればいいっていうふうに、みんなくっつきあって夜を過ごしたんですね。

何日間か過ごしましたけれど、
みんなあれから食べ物は何にも、ほとんど食べないんだから、
お腹が当然すいていると思います。
それでみんな重症を負っていますね。
でも、お腹がすいていることも、傷が痛いことも、辛いことも、
一言も、誰もそういう事を口にしなかったんです。

ただくっつきあって寝てて、隣の人が、体温がこう伝わってきますね、
そうすると、「ああ、この人は生きていて下さるんだ」と、
お互いにそれを感じながら、それで励まし合って、口にはしませんけれど、過ごしたんですね。


聞き手:その時は、あの、一番あの、お水なんかはどうなさったんですかね?

橋爪:
お水もね、その時はもう水を飲んだっていう記憶は特に。
みんな何を食べたか、なにを、お水を飲んだかって覚えてないんですけれども、
少し後は雨水をずっと。
雨水を飲んで草を食べて過ごしました。

あの…、その後いろんな病気をしました。
今も沢山の病気を持っていますけれど、
あの時草を食べて生きた事を思えば、これは贅沢でありがたいなと思いますし、
それから目が原爆白内障ではやくに手術しました。

で、目が見えるようになったらこんなに世界が変わったかと思う位に嬉しかったんですけど、
またすぐに視力が落ちて、
今片方の目に3重ぐらいずつレーザーで穴を開けて見えるようにしているんです。
ですから、目が非常に疲れやすいんですね。
でも私はこうして、あの時に目が見えなくなったと思ったのが見えるんだから、
「ああ感謝だな」と思って。
なんでもね、すぐ感謝、感謝だと思って、
辛いこともあの時の事を思えば遥かに今の方がね、
感謝しなければいけないと思いながら自分の中で生きていますね。


聞き手:
そして昨日のお話ですけれども、
あれだけ極限状態にあってもですね、人助けをなさる方、
飯田さんのお話をなさいましたけれども、本当に素晴らしいお方ですね。


橋爪:
飯田さんも16歳のね、昨日お話ししましたけれど16歳の少年で、
自分も重傷を負っていましたけれど、歩くことが彼は出来たんですね。
で、私のために火の中に、本当に一晩中火の中に残って、
そして一晩中おやかんに水を入れて死んでいく人達に一口ずつ水を与えて歩いていましたから、
ああいう中でね、そういう事をしている彼を見た時に、
本当に人間以上の神様みたいなものを感じました。
それもありましたし、バラックで身体をくっつけあってね、重症者達が。
何にも苦情を言わない。
隣の人の事を常に思って過ごした、ああいう人間の極限状態にあった時には
「人間って素晴らしいな」っていう事を、私はあの時に見た気がします。


聞き手:
あぁ…、極限状態にありますとね、
人間も恥知らずになって、「自分が自分が」というふうになるんじゃないかとも思いますけど、
その逆の人間像をご覧になったんですね。

橋爪:
いや、多分私はいろいろ思うんですけど、
私のまわり、私が知っている被爆者の方達が報復だとか憎しみなんか全然訴えないで、
そういう憎しみとか何とかね、考える余地が無いくらい、
なんか人のものを盗もうとか、盗むものもないんですよ勿論ね。
だけどもそういうのをもう通り越した極限状態というのがあったような気がするんですね。

ですからその後、私が生きてきた中で、ずーっとそれがね、根っこにあるような気がするんですね。
あの時見た人間の、「人間っていうのは素晴らしいんだ」っていうことが。
だからいろんな事があっても私は人間を信じたくなる方ですね。

海外に、いろんな国に行きましたけれど、
ニュージーランドで高校生、いろんな中高生と話した時に、
高校生が質問で、
「文は原爆によって哲学が変わりましたか?」と質問があって、
わっ!難しい質問がきてね、その時に私は、
「原爆で非常に悲惨で辛い思いしましたけど、
でもその中で、極限状態の人間の素晴らしさを見る事が出来ました」って言ったんですね。
いった後で手が沢山、質問の手が上がってますから、説明する時間がないから、
「難しいこと言っちゃったな」と思ってんですけど、
次の日に先生が感想文を持ってきて下さった中に、
彼の、高校生の手紙がありまして、

原爆の話はとっても心に衝撃を与えたし感動したけれども、
私が一番感動した事は、文がそんな中にあって人間の素晴らしさを見たっていう、
あの一言に非常に心を打たれて、
わたしもこれから文のように人間の素晴らしさを信じて生きていきます。
っていうのがあったので、
「あぁ、分かってくれたんだな」と思って私の方が感動しましたね。


聞き手:
今ニュージーランドのお話が出ましたけれども、
橋爪さんはもうすでに海外各国行ってらっしゃいますけども、
橋爪さんがそもそも海外にお出かけになる、海外とのご縁のきっかけはどういうところですか?


橋爪:
きっかけはね、大家族の中の主婦で、
日本の女性、主婦っていうのは古い美徳で育ちましたから、
忍従、家族に使えること、主人とかひたすらそういう生き方をしていました。

聞き手:
あ、そうしたら橋爪さんは、あの、被曝されていろいろ病気に悩まれたけれども、
その後結婚されてお子さんもお出来になったんですね。

橋爪:
30歳の時に、ま、一応いろんな病気があって、
病気のために東京に広島から移ったってお話ししましたね。
それで、通院しながら治療して、完全には治らないんですけれども、
一応、軽癒ということで30歳で結婚して30代で3人の男の子を授かりました。
それで厳しい生活でした。
昔の家族だから、どうしても主人を私が立てて家を守っていくという昔風の家庭でしたから、
自分の事なんか省みる時間もなくて、それがもう女性の生き方だと、
おばあちゃんとか母なんかを見ていて自分もそうしていたんですけど、

60歳になった時に長男が、長男が33歳の時の子どもですけど、
彼がふっと私と二人だけになった時に、
「お母さんの生き方をしてほしい、せめて5年でいいからお母さんの、自分のために生きて欲しいね」って、
ま、希望、そうしてほしいんですけど実際には不可能っていうことも
彼は分かりながらそういう事をふっと口に漏らしたんですね。
でも実際にはやっぱり毎日の忙しい生活でした。

だけど還暦ですから、60歳だから。
何か私も、子どもたちもある程度大きくなりましたから何かしたいなと思って、
むしろ勉強できない時代と環境にありましたから、勉強したい事がいっぱいあったので、
ちょうど放送大学が始まったころだったので、放送大学、家にいて勉強が出来ると思って、
それで取り寄せて、書類をみたんですけど、
「4万円のアンテナを建てないといけない」
その4万円が無かったんです、生活が苦しくて。
それと、1ヶ月に1回横浜まで出かけないといけない


聞き手:スクーリングっていうのがあるんですよね。

橋爪:
そうです、それも私は時間が無いっていうので諦めて、
そうすると、「何か一つに絞って出来る事をしようかな」って思って、英語を選んだんですね。
何故英語か?って言いますと、
やっぱり原爆が根底にあったんでしょうか、
世界の中、アフリカとか東南アジアとか中南米、
非常に虐げられて苦しい生活している人たちが大勢いますね。
で、その人たちと直に触れて人間って、人間の幸せって何か?っていう事をね、
こう、触れ合っていきたいという事をですね、
そのためには一人で飛行機に乗らなければいけないので、それで英語の勉強を選んだんですけれど、
で、お金も時間もないですから、NHKの朝6時の基礎英語ですか、あれのテキストを買って
それでそれも続かなくなって一時辞めたんですけど、
そうしたら歩いていけるところに英会話教室が出来たんですね。
ちょうど私は60歳になっていましたから、
60歳過ぎた人はシニア料金って安くなるって、半額だって。
それにも惹かれて歩いていけるし時間も。そこに行き始めました。
あの、スコットランド人でしてね、とってもいい先生で私は幸せだったんです。
先生が半年経ってスコットランドに帰る時に、
「文がスコットランドに行ったら英語が話せるようになるよ」って。
「ぼくは帰ったら推薦しておくから」って学校を紹介して帰って下さいました。


聞き手:それでスコットランドの学校へいらっしゃる事になったんですか?

橋爪:
はい。
ちょうどいろんな、そういうチャンスが来たんですね。

聞き手:そしてそのスコットランド、最初の海外体験はいかがでした?

橋爪:
とっても勉強に、いろんな点でね。
英語はどこへ行っても最低ですけれど、たとえば教科書があるんですけれど、それに絵が出てますね、
そうすると、その中で自分の言える事を話せる事を話す。
たとえば、赤い洋服を着ている人がいたら「レッド」だけでもいいんですよね。


聞き手:ああ、なるほど。そんなに文章をきちっとしなくても

橋爪:
そう。
でも、話せる人はもっと話してもいい。だから私がついていけたんですけど、
最年長者ですから、みんなに助けられてあったかくされて、
実は私は、詩を、短い詩を書いていたんですけど、
行く前に友達のご主人が英訳して下さって、
「これを持っていらっしゃい」っておっしゃったんですね。
それを持ってましたので、スコットランドで先生にそれを渡しました。
すると先生が被爆者がいるっていうことでビックリなさって、まず先生方、
日本語で言うと職員室ですか、そこでおっしゃって、それから生徒達に。


聞き手:そうしますと、その詩の内容は自分の被爆体験を書いてらしたんですね。

橋爪:そうです。

聞き手:
その詩は沢山、ここにコピーがありますけれども、
そのうちの短いのを一つご紹介いただけます?

橋爪:はい。恥ずかしいけれど、じゃあ短いの。


空の星を沈めた水槽の雨水で
わずかな食べ物を煮炊きした
星の光が痛いほど降る露天風呂で湯を浴びた
両手を思いっきり天に伸ばすと星の話が聞こえた
私は生きている
星がきらめいて答えた
お前は生きている
天の下の水槽の底にはミミズが住んでいた
ミミズと私は一緒に生きていた


聞き手:これはまさに、原爆のですね、バラックに住んでいらしたころのご体験ですね。

橋爪:
はい、
昔は五右衛門風呂って言って鉄の丸いね、お風呂を使ってまして、
で、鉄ですから焼け残っているんですね。
建物は全部焼けても。
そこに雨水が溜まります。
ま、火はがれきをちょっと掘ると火種はまだ残っていましたし、
火の焼け残りがあちこちにありましたからそれを拾ってきて、
お風呂をね、お湯を沸かして入ろうっていうことで、
でみんながそれに1人ずつ入って、
周りに何にもないんですけれども、やっぱりまだ10代の女の子ですから、
着ている物ってないんですよ、着の身着のままでね。
でもそれを、五右衛門風呂の陰でそっと脱いでね、お湯に入って、
全身にね、いま思うとですけれど、
全身傷だらけですよね。
だけれども、全然その傷の事なんか考えなくて、
それは本当に、「お風呂ってこんなにいいものか」っていう。
気持もね、穏やかになるし、体も休まるし、
本当に、本当の露天風呂です。
広島にまだ家が無いですから、明かりは全然なくて。
星空の下の、下は地上は闇ですから。


聞き手:その詩を英訳されたのを先生がご覧になって、随分ビックリされたんでしょうね。

橋爪:
ビックリなさったでしょうね。
皆さんビックリして、学生たちもね、
目の前に原爆の生き残りがいるっていう事に先ずショックを受けて、
そのショックが自分の目の前に今原爆が落ちたようなショックだったんですね。
それを私は見て、
私は「言葉が通じなくても、私がここに存在するだけでこれだけ訴える力があるんだな」
っていう事を感じましたね。

「生き残り」というのは、「あ、こういう事なのか」と思ったんですね。

原爆なんて事は遠いアジアの国の昔の事だと思っていたところに、
目の前に生き残りの人がいたのでショックを受けたんだと思いますよ。
14歳で被曝して、その時61歳でしたから。



ーーーつづく






【内容情報】(「BOOK」データベースより)
勤労動員先で被爆、奇跡的に生きのびた少女は、翌朝、たった一人で死の街を縦断、
わが家へ向かって歩き始める…。
それから半世紀、60歳を超えての英国留学はやがて「反核海外ひとり行脚」へと発展、
訪れた国は30カ国以上。その被爆者がいま、フクシマと向き合って…。

【目次】(「BOOK」データベースより)
太陽が落ちた日/父の場合/母と弟/戸坂小学校/終戦/夕焼けと鴉/伯父の死/祖母/天と地といのちだけの日/子供たちの周辺/緑/被曝症状/ABCC/骨仏/友柳さんのこと/飯田さんのこと/私のその後

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
橋爪文(ハシズメブン)
1931年1月、広島に生まれる。14歳で被爆。日本ペンクラブ、日本詩人クラブに所属(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)








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