4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)

2011年8月5日放送
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聞き手:そしてその後ですね、外国へ毎年のようにお出かけになるようになるんですが、このきっかけは?

橋爪:
まだ帰って来ましたら、やっぱり主婦ですから、海外に行こうなんてチャンスもなかったです。
その2年後にまたまたチャンスが訪れて、
「シルバー英語研修でニュージーランドへ行きませんか?」っていうお誘いがあって、
すぐそれにまた応募して2週間ニュージーランドに行きました。
そこからが始まりですね、海外で話すようになったのは。


聞き手:それからでももう、17~8年経ちますよね。

橋爪:そうですね。
1年に多い時で3回。
たとえばヨーロッパに行くと、ヨーロッパは周りに国が沢山あって、
せっかく行ったんだからその近隣のところをまわろうと思って、
一回に3カ国ぐらい回りりますね、自分が歩いてユースホステルに泊りながら、リュック背負って。
そうすると1年に8カ国から9カ国歩く年がありましたね。

最初はニュージーランドのお友達が、私が書いたエッセーみたいなものを英訳して下さって、
それを、そうですね、A4に20枚ぐらいの英文なんですけど、
それを10部から20部コピーしてリュックに詰めて行くと結構重いんですね。
で、それを配って、向こうで日本人だっていう事が分かるから、
向こうの方って不思議に生まれたところを聞くんです。
「広島」って言いますと、みんなパッと顔が変わって、
もっと聞きたいけど私の英語が出来ないって事で、差し上げていたら、
あっという間にその20部は無くなりましたので、
帰って来てからハガキ大のブックレットを作りまして、それに刷って、
それからは100冊ぐらいは持って歩けますから、
そして自分で「海外反核平和ひとり行脚(あんぎゃ)」って自分の中で、
「種蒔きの旅」って言って、それをこう蒔きながら歩いて、
それが結構本当に種が育ってね、あちこちから今度は呼んで下さるようになりました。
「話して欲しいと」


聞き手:ご招待があるようになった。

橋爪:
招待といってもね、旅費は私が安いチケットを買って、
それから向こうの滞在費は向こうが持って下さいます。
フランスは、これは最近、5~6年前から呼んで下さるのはチケットも送って下さいます。

反応は大きいですね。
向こうの人達は、みんな良く原爆の事に関心を持っていて、勉強もしてたり、
いつも日本に帰ってきて思うんですけど、
日本人っていうのは広島・長崎知っていますね、原爆のこともね。
「知っているつもりで知らないのは日本だな」っと私は痛感しながらここ10数年海外を歩きました。

特にニュージーランドは反核の国で、
一応先進国ですけれども、原発も一基もありません。
それから人間らしい生活。
夜は暗いものですね、必要最低限の街灯もあります、家の中もありますけれども、
日本みたいにコンビニで四六時中やっている、そういうこともないです。
大体5時か5時半に閉まります。


聞き手:
エコライフというか、省エネの生活が、
市民、国民全体に浸み渡っているんですね。

橋爪:
そんなもんだと思った生き方をしていますから、
原発がなくても十分、誰も不満を持たないでやってきてますよね。
だからとても強く惹かれまして、
自然も美しいし、そういう生活をしてるせいか国民性も非常に温かい、優しいですね。

それと、ニュージーランドに常に毎年行くようになったのは、
今は広島・長崎って言っていますけれども、ヒロシマデ―って8月6日に毎年やっていて、
灯篭流しをやっている。
それを知ったので「えぇっ、こんなところで灯篭流し!?」って、こんな遠いところでと思って、
それに参加したことから、ニュージーランドへ毎年行きます。

で、その時、灯篭流しをするようになったきっかけのことをちょっと聞いたんですけれども、
広島を流れている太田川は太平洋に注いでいる。
クライストチャーチ、この間地震があったところですけど、
クライストチャーチを流れているエイボン川も太平洋に注ぐ。
同じ太平洋に注ぐ川を持つ私たちは広島と同じ思いで反核を訴えようという事が趣旨だって聞いたので、
それにひどく感動しましてね、行くようになりました。

そしてヒロシマデ―に私が行く事を知った友達がまたいろんな情報を教えてくれて、
世界のあちこちでヒロシマデ―ってやっているんですね、
それを今度尋ね歩こうかなと思って、
行ったところは一年に一回って限られているんですけど、
フィンランド、ヘルシンキに行きました。
それからスウェーデンの灯篭流し。
それからカナダの灯篭流し。
今は広島・長崎デーにいずれもなっていますけれど、
最初はヒロシマデ―でしたね、どこもね。


2100
聞き手:
そして、そうした灯篭流しもあって、それこそ北欧からカナダ、いろんな国へいらしてるんですけど、
そういったところで公演されたその反応をいくつか具体例を。

橋爪:
どこでも出る質問、それは大人も子供も同じで単純な事ですけど、
「アメリカ人を憎んでいますか?憎くないですか?」ということがほとんどのところで出ますね。

聞き手:それに対してどう答えられるんですか?

橋爪:
私は、「人間はね、憎みません」って。
たとえばアメリカ人でも、あなた達スウェーデン人、フランス人、日本人でも、
みんな人間は同じだから人間を憎む事はないんですけれども、
「アメリカが原爆を人間の上に落としたっていう事に対しては、私は許せません」って言いました。

そしたら、その同じ子がね、
私が「憎しみは人間に対してもたない」って言った時に、
「報復を考えた事がありますか?」って言いました。
だから、「憎しみとか報復があるところに平和は来ないでしょ」と答えました。

また、同じような質問をフランスの大人の方から、女性ですけど、
それはおととしの秋だったと思うんですけれども、
「あれから63年経ちますけれども、あなたは今もアメリカに謝罪してほしいですか?保証してほしいですか?」
っていう質問をもらったんです。
その時に私は、私たちね、被爆者に対してじゃなくて、
「原爆を人間に落としたという事は、人類史上始まって以来の最大の罪悪だ」って私は思いますから、
「全人類に対して謝罪するのがアメリカの良心じゃないんでしょうか」って答えたんですけれども、
そういう気持ちですから、憎むとか、許す許せないっていう事じゃないところにいるような気がしますね。


聞き手:
先ほどニュージーランドのお話をしていただきましたけれども、
このニュージーランドでは特別な出会いがあったようですね。

橋爪:
そうですね、最初にヒロシマデ―があるっていう事を知ったのがスコットランド。
エジンバラから2年経って、またシニア英会話で2週間行きましたね、それがクライストチャーチでした。
その時に学校に事務員の方が、日本人の事務員のがいらして、
その方がこちらにいらして、「一番感動した本なの」って日本語になっている短編小説を下さったんですね。
それを読んでビックリしたのが、
ヒロシマデ―の事が書いてあって、クライストチャーチでやっているというのでね、
どうしてもその作家に会いたくなりまして、エルシー・ロックっていう人なんですね。
彼女は、ヒロシマデ―を始めた発起人の中に1人なんですけれども、
是非会いたいということで行きましたら、
「あなたはね、話さなきゃいけない」
で、私が詩を書いている事を知っていましたから、
「書かなければいけない」
それは
原爆は広島だけの事ではない。日本だけの事でもない。
現在の世界と、またそれだけでもなく未来の地球のことでしょ。
で、私たちは被爆者のひとりずつの言葉を寄せ集めて、でしか知ることができません。
あなたは話さなきゃいけない。書かなきゃいけない。
その時の彼女の、小柄な方です、私と同じくらいの背丈で小柄な方ですけど、
目が本当にね、こう射るような目をして私をね、見てお話をなさったときに、

私は初めて、なんていうんですか自分の、言葉にすれば「使命感」でしょうか、
2年前にスコットランドで
「被ばくしちゃったってこういう事だったのか」と思ってそのままだったけれど、
「それを、私がしなきゃいけない事があったんだ」と思って、
「そのために、あるいは生かされているのかな」と思って、
その言葉がきっかけで、それからニュージーランドに行って、
日本に帰ると生活も忙しくて辛いですから、病気を持ってて、
で、また行って、彼女エルシー・ロックに会うとね、また励まされて、
会った時必ず最初に言う事は「書いてますか、話してますか」
別れる時に「書かなきゃいけません、話さなきゃいけません」それなんですね。
それで励まされて、ずっと。

私は家事に明け暮れていましたね。
そして私が詩を作り始めたのは、きっかけは
子どもたち、男の子3人が多分3歳6歳9歳だったと思うんですけど、
お医者さんから、あなたはね、「あと半年の命かもしれません」
「あと半年ですね」って言われた時に、
もう死ぬのは、何回か死に直面していますから、もう自然に受け入れる以外にないですから、

ただ子どもたちが幼いですから、
この子たちが母親がいなくて、父親が仕事人間だと、
とっても生きて行くのが辛くてさみしい思いをするだろうなと思って、
「何か残そう」と思って、
童謡をひとつ作れないかな、
その童謡を作って、彼らが苦しい時にその童謡を口ずさんで、
お母さんが「生きるのよ」って励ましてくれていると思ってくれればいいなと思って、詩を作りはじめて、
で、10年、この前のメッセージの詩を書いていたんですけど、家事の合間で。

10年経ったので、私も生きていたので、
一応子どもへのメッセージの詩をまとめようかなと思って、
まとめている、そういう作業をしている時に、ちょうど次男が16歳になっていました。
鎌倉に住んでいましたから、横須賀に米軍の基地ですね、
核搭載疑惑の潜水艦が入港するということで「反対の座り込みに行く」って言ったんですね、次男が。

もともと私たちは東京に住んでいたんですけど、
次男がずっと喘息持ちで、それで、気候温暖な鎌倉に行ったんですね。
で、「座り込みに行く」って言った時に、ずっと喘息が治らなかったんですね。
前の晩も発作を起こして寝ていませんので、
私が止めました、息子を。
「あなたが行って、おまわりさんに引きずり戻されて、また義憤を感じて行く。
それを繰り返しているうちに、あなたもうね、悪くいったら命が無くなるかもしれない。
今は、自分に出来ること。
たとえばおこずかいからちょっと募金をするとか、署名するとか、
後は健康になる事に専念したらどうかしら。
20年経って、あなたが26歳。
大人になってやはり反核とか平和をね、訴えるんだったら、お母さんは全力で応援するから」って言いました。

おとなしい子なんですけど、
鼻と鼻をくっつけるほどに私にこう迫ってきて、
両方の握り拳をぐっと握りしめて、
涙を手放しでボロボロ流しながら、
「お母さんは被爆者で平和を求めているのになにもしないじゃない。
家事が大変なのはわかるけれども、新聞の投書とか何か出来るでしょ」ってなじりました。

で、彼が寝た後で、「私になにが出来るのかな」って思っても、何も考え付かないんですね。
それで、やりかけていた10年間の子どもへのメッセージの詩をまとめるために、
鉛筆を持って紙に向かったら、
原爆の6日の夜、火の中で飯田さんと過ごした、火の粉を浴びながら。
あの夜の事が詩になって出てきました。

出来上がったのが明け方ですけど、
それを、息子のお弁当を作って入れてあげたんですね。

息子は学校から帰って、「お母さん、わかったよ」って言いましたけど、
非常に不思議なんですけど、それを書いた途端にね、
それまでずーーっと背中に重いものを背負って生きてきたんです。
それがフッと薄れてきました。

それからは、聞かれれば原爆の話を、自分からはすすんでしません。
聞かれれば話すようになりましたし、
原爆の詩も少しずつ書けるようになって、
さっき読んだ詩もそれから、書けるようになってから書いた詩ですね。



ーーーつづく





【内容情報】(「BOOK」データベースより)
勤労動員先で被爆、奇跡的に生きのびた少女は、翌朝、たった一人で死の街を縦断、
わが家へ向かって歩き始める…。
それから半世紀、60歳を超えての英国留学はやがて「反核海外ひとり行脚」へと発展、
訪れた国は30カ国以上。その被爆者がいま、フクシマと向き合って…。

【目次】(「BOOK」データベースより)
太陽が落ちた日/父の場合/母と弟/戸坂小学校/終戦/夕焼けと鴉/伯父の死/祖母/天と地といのちだけの日/子供たちの周辺/緑/被曝症状/ABCC/骨仏/友柳さんのこと/飯田さんのこと/私のその後

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
橋爪文(ハシズメブン)
1931年1月、広島に生まれる。14歳で被爆。日本ペンクラブ、日本詩人クラブに所属(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)






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