子どもが描いた絵がそのままスパイに、全部カーテンを降ろされて、そういうものが出来るんですよ11/20小中陽太郎さん(文字起こし)

2013年11月20日 
秘密保護法案反対 メディア関係者らによる総決起集会



文字起こし部分のYoutube→http://youtu.be/ZEaNSrn8A-s?t=28m05s
小中陽太郎さん
(こなか ようたろう、1934年9月9日 - )日本の作家、評論家、翻訳家。
小中陽太郎

原さんが戦前の話をしたので恥ずかしいんですけど、なるべく短くして。

私は田原と同じ歳です。
昭和15年、
1隻のヨーロッパ航路田島丸 昭和15年4月6日。
神戸港を出てロンドンへ向かう途中で上海に向かっていきます。
私の父は●の銀行員でしたので、初めてですが、母と上海へ向かっていました。
2日経って揚子江、あと3時間で上海港に入るというところでチャイムが鳴って、
「全員ゆうべの食堂の席に座りなさい」
私は母に連れられて入っていった途端にサーッとテーブルの周りに男たちが張って、
他の客たちは船室に戻されました。
で、いきなりですね、母に向かって、
「これはあなたが描いたのか?」
ほぼ同じ絵を
母は物持ちがよくまだ同じ絵をこうやって持っていますが、
高射砲というか戦車というか、私が書いた天才ピカソみたいな絵ですが、6つかな。
「これはなんだ?」
母が、「おとん」
そして僕が見て、「あ、それ僕が描いたんだよ」
ドッと、どよめきというか、
で、彼は、「これは外国人スパイが描いた絵だ」
そして全外国人船客を昭和15年ですが、検問というか、訊問したんですね。
誰も書いてないとなった。

最後に、少し年かさの男が「坊や、これは何で書いたんだ?」と、
だから僕は「クレヨンだよ」
そしたら「やられた!」

つまり彼はですね、これは時間が経つと突然消える特殊インクで書かれたというので、
一晩調査したけど遂に分からなかった。
さくらクレヨンですけどね。

そして、何故私たちが呼ばれたのか、どうしても分からないので、
ゆうべと同じ席に座らせて、
落っこってたわけですこれ(絵)がね。
そこへ二人が入ってきたんで、私たちを特別室に連れていきましたけれども、

で、結局ま、あまりにもばかばかしいので、
それ以上の、パスポートというかその当時は渡航証明書ですけど、ひかえたと思いますが、
そのまま上海に帰って父に話をすると真面目な銀行員ですが、
「絶対に人に話しちゃいけない!」ま、そうでしょうね。

ちょうどその年、ゾルゲ尾崎秀実死刑の年ですから、
そりゃ私が死刑になる事はないでしょう、でも、ずーっと。
ま、あまりにばかばかしいのと、この事の意味を私もよく分からないままに70年過ごして、
昨日、東京新聞で 厚岸で2000人の人達が船で沈んだという記事を読んで
思い出して倉庫をひっくり返しましたら、出てきました。

ということで、これの教訓は何だ?と言われても困るんですが、
スパイなんていうものはなんでも。
あなた達が、あるいは子どもたちが描いた絵がそのまま。
それはもうよく覚えています。
我々は船に乗ったり列車に乗って、たとえば●の八幡製鐵の前を通る、窓を降ろされる。
横浜銀行に、横須賀に行けば全部カーテンを降ろされるようにして、今まで生きてきて
全然忘れていましたが、

そういうものが、できるんですよ!みなさん。

そう思って、母の念ということもありませんが、探して持ってきました。
どうも時間を取って、ありがとうございました。




軍機密、戦後も闇の中 輸送船撃沈 北海道・厚岸海岸
東京新聞 2013年11月18日 07時06分

写真
1944年に日連丸の乗組員の遺体が打ち上げられた海岸=北海道厚岸町で


国家の秘密はときに悲劇を生む。
終戦前年の1944年、北海道近海で二千数百人の陸軍兵を乗せた輸送船「日連丸」が米軍に沈められた。
事件は軍機保護法により軍事機密として伏せられ、うわさした人も同法違反で刑務所に送られた。
死んだという事実しか知らされなかった乗船者の遺族は戦後、
最愛の肉親の最期の地を求め、38年間も道内をさまよった。 (飯田孝幸)

北海道・釧路港から東に約五十キロ。
厚岸(あっけし)町の海岸近くにある正行寺(しょうぎょうじ)に
1982年7月初旬、釧路市役所から電話が入った。
「日連丸の遺族が遺体の漂着した場所を探している。何か知りませんか」。
当時住職だった朝日正芳さん(95)の脳裏に、家族にも長年秘してきた出来事が浮かんだ。

44年3月18日夜、寺の周囲にはまだ雪が残っていた。
突然現れた憲兵が、負傷者を寺に収容することを告げる。
すぐに40人近い負傷者と数体の遺体が納骨堂に運び込まれた。

彼らは日連丸の数少ない生き残りだった。
2日前、千島に向けて釧路港を出発したが2時間後に潜水艦に撃沈された。
大本営は日本軍の「快進撃」を発表している。
日本近海まで米軍が迫っていることを国民に伏せるため、日連丸の沈没は軍事機密となった。


負傷兵は人目に触れないよう正行寺に運ばれた。
正芳さんは
「憲兵が常駐し、負傷兵とは一切口を利くことができなかった。私たちは外出も許されなかった」と振り返る。

やがて、近くの海岸にも遺体が何体も漂着。
磯漁のシーズンだったが、地元の人たちは海岸から閉め出され、口を閉ざした。
せき払い一つできない、がんじがらめの時代だった」と正芳さん。
釧路では船舶会社の役員ら二人が、日連丸沈没のうわさ話をしたとして逮捕され、実刑判決を受けた。

日連丸の兵士らの遺族が戦死を知るのは三カ月後。
届けられた白木の箱に遺骨はなく、戦死公報に「北方海域にて戦死」とだけ書かれていた。

戦後、遺族たちは夫や父親の最期を知ろうと、わずかな手掛かりを頼りに北海道内を尋ね歩いた。
夫を亡くした仙台市の志田すえのさんはある日、探し疲れて
「夢でいいから、どこにいるか教えて」とつぶやいた。
同じく夫を亡くした佐久間つねさんと長男の博信さんも、仙台市から何度も釧路を訪れた。

82年7月、博信さんは会社を一週間休んで釧路に。
最終日、市役所を訪ねると、担当者は
「遺体を収容したことがあるかも」と、市内の全ての寺に電話してくれた。
念のため近くの厚岸町にも広げたところ、正行寺にたどり着いた。
地元紙などに報道され、一気に情報が集まった。

「厚岸の海と多くの人が、私たちが来るのを40年間待っている」。
母の言葉に押され博信さんは84年、正行寺で慰霊法要を行う。
4年後、遺族らは太平洋を見下ろす愛冠(あいかっぷ)岬に慰霊碑を建立した。

再び、国家が秘密を定める特定秘密保護法案の審議が国会で進められている。
志田さんと佐久間さん、博信さんはすでに亡くなったが、
日連丸遺族会の事務局を務める志田さんの長男辰継(たつつぐ)さん(69)は
「何でも秘密にする時代じゃない。あんな時代にもどるべきじゃない」と静かな口調で話した。

<軍機保護法> 
1899(明治32)年に制定された。条文は8条だけ。
軍事秘密の探知・収集、職務上あるいは偶然知り得た軍事秘密の漏えい、
防衛施設の撮影・模写などを禁止した。
1937年に改正され、秘密の種類・範囲を明確化する一方、
軍事上秘密にする必要のある地域への立ち入り制限を可能にし、スパイ団の編成を処罰できるようになった。






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