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11.28
Thu

医者が治せなかった病気を治せたら、「奇跡」と呼んでいいとすれば、
ウクライナの子どもは次々と奇跡を起こしていました。
放射能の少ない食品をみな様からのカンパで無償提供し、
ウクライナの子を救いながら福島の子も助かる道を見つけました。

食品と暮らしの安全基金 第4回ウクライナ調査報告(上)より




2013年11月21日 衆議院第一議員会館
タチアナ・アンドロシェンコ女史講演 
「低線量汚染地域・健康被害の真実」
放射能の少ない食事にしたら 健康被害がどのように回復したか


http://youtu.be/2HgH1pbXiZI?t=19m15s
2013112421.jpg

みなさまこんにちは。
この素晴らしい国日本に訪れる事を私に与えて下さったことに感謝いたします。
そしてみなさなと、小若さんの食品と暮らしの安全基金のおかげでこちらに来る事が出来ました事に、
心より感謝いたします。
ウクライナ人にとっては日本はとても遠い国ですけれども、同時にとても有名な国でもあります。
ですので、私にとってはこちらに来て見た事をまた国に帰って話ができるのは二重の喜びです。

ウクライナ人と日本人というのは大変異なっておりますけれども、
悲しい事にチェルノブイリと福島の悲劇が私たちを近づけました。

ウクライナ人は日本の専門家やお医者さん達が真っ先に
技術的そして医学的な援助のために駆けつけて下さった事を覚えていて、大変感謝しております。

今、医療関係者たちが予想してきた事は、この27年の間に実際に起きた事だと思います。
私たちは確かに自分の国で多くの誤りを犯しましたけれども、沢山の事を経験しましたので、
このたび小若さんの基金のおかげをもちまして皆さんにその経験をお伝えできることをうれしく思っております。
私はこのようなとてもハイレベルの場所でお話しさせていただきます事をとても嬉しく思っていると同時に、
自分の話の内容にとても責任を感じております。
そして皆様がとてもこの事に関心を持って下さり、お集まりいただいた事をありがたく思っております。

私たちが小若さんの基金と一緒に始めたプロジェクトは、
1986年生まれの子どもを含む10の家族の調査から始まりました。
私たちの家族も、汚染された地域からの移住者ですので、
1986年生まれの子どもを含む家族を集めるという事は難しい事ではありませんでした。
そして7人の子どもたちを含む家族が集まりました。
こうした子どもたちを見つける過程で小若さんは一人の女の子。
皆さんがスライドで見ていらっしゃるナタリアという女の子に放射能に汚染されていない食品を与え、
それから汚染されていない地域に保養に出すというプロジェクトを提案されました。

このナタリアは30日間ウクライナの南の方の汚染されていない地域に保養に行きまして、
そこで汚染されていない食べ物をとりました。
それからさらに30日間彼女は療養したんですけれども、
それは科学的な療養ではなくて、マッサージ、それから入浴、
そしてきれいな空気のもとで過ごすという療養を、
ウクライナの南の方の町で行いました。

ナタリアが保養に出かける時に彼女と話をしまして、
もちろんその当時の健康状態のアンケート調査をしました。
彼女は10歳の時から甲状腺障害がありました。
心臓にも障害を抱えており、20歳の時から婦人科の病気がありました。
そして目まいと足の痛みを生まれた時から抱えていました。
彼女が保養から戻ってまいりました時には、外見的にも非常に元気になっていまして、
見違えるようになっていました。

ウクライナ20

そして彼女が保養に出かける時の写真が左側なんですけれども、
その時には外見的にも非常に青白く、そして体の具合が悪くて、
若い女性であるのに生きる喜びというのを全くもっていませんでした。

しかしこの70日の保養という実験をした後では、彼女は全く別人のようになっていました。
彼女は顔色も良くなり、そして目の輝きも強くなり、そして髪のツヤもよくなりました。
彼女は曲がっていた背中を延ばして、とても美しいスマートな女性になって、
その結果、私よりも背が高いという事が分かりました。
彼女は生きる喜びを取り戻し、そして働くことにも、仕事にも興味を持つようになり、
自分の周りのいろいろなことに対する興味を取り戻しました。
私にとってもとても嬉しい事に、彼女は結婚をし、
そしてこの1月には赤ちゃんが生まれることになっています。
という訳で、彼女はとてもハッキリとしたいい方へ変わった例を示しております。

小若さんの提案された、「放射能に汚染されていない食品をとる」という考えを、
彼女は最初ゴヴァリン村で実行していました。
ですので初めにゴヴァリン村の事についてすこしお話したいと思います。

ゴヴァリン村というのは、
チェルノブイリ原発から32km地点に住んでいた村の人々が移住した場所です。

私たちが移住させられたのは92年でした。
つまり事故から7年の間、私たちは汚染された地域に住んでいたという事になります。
そのため、どの家族にも実際に健康に問題を抱えている人がいました。

という訳で、私の親戚、友人、近くにいる人すべてがチェルノブイリのゾーンから移住してきた人々なのです。

それで私たちは顔を合わせるといつもいろいろな痛みについて、
「頭が痛い」とか、「足が痛い」とか「心臓が痛い」という事について、話していました。

皆様方には信じがたい事かもしれませんけれども、
私はその当時は、「ウクライナ人はみんながみんなそうなんだ」と思っていたのです。
しかし小若さんが私に、
南ウクライナに住んでいる子ども達と私たちの子どもたちとの比較調査をする事をすすめて下さいました。
実際にそれを行ってみてその結果にビックリしました。

私は800km、700km、900kmと、原発から離れたところにある村々を訪れました。
私はそこに車で行きまして、子どもたちにいろいろと直接尋ねてアンケート調査を行いました。
そして私たちが住んでいるような汚染された地域、モジャリ村やピシャニッツァ村やゴヴァリン村で、
「足が痛いかどうか」という事を聞いた時に
60%、70%の子どもたちが手を挙げるのに対して、
ウクライナの南の方に住んでいる子どもたちは、
その90%が「一体何を聞いているんだろう?」という疑いの目で私の事を見て、
「どこかが痛いなんていう事はあり得ない」という顔をしていたんです。

こうした反応は鼻血に対して、そして目まいに対しても同じでした。

もちろんその地域にも他の問題はありますが、
そこの子どもたちはどうして、頭の痛み、足の痛み、そして鼻血について聞かれるのか?
という事が理解できなかったのです。

それで私は自分の住んでいる村に戻った時に、
そこの行政府、それから社会団体と話をして、
「子どもたちが痛みを抱えているという状態はノーマルではない」という話をしました。

私はこの10年間ウクライナで社会団体の代表をしております。
そしてその間この社会団体と様々な外国の基金と一緒に活動をしてきました。
アメリカ、ドイツ、ウクライナの基金と共に活動をしました。

しかしここで申し上げたい事は、小若さんの食品と暮らしの安全基金がなさっているような活動は、
今までかかわってきたいろいろな基金はやってこなかったということです。
他の基金の人達は、質問をして、そして資料を集めていっただけでした。

しかし小若さんの基金の場合はウクライナの家族に対して具体的な支援をして下さいましたので、
私はその事について皆さんにご報告をして、その経験を皆様にお伝えできるとを嬉しく思っております。

そして私自身の家族もこのプロジェクトに参加しております。
うちの長女は27歳でチェルノブイリ原発事故があった1986年の生まれです。
長女が生まれましてから3年後に二女が生まれまして、
今日来ているのは末娘ですけれども、私たち自身の家族というのは、ウクライナの家族の典型的なものです。

日本の学者が予想していましたように、いろいろな問題は少しあとになってから起こってきました。
子どもに健康上の問題が出てきたのは1989年生まれの二女の時からでした。
彼女は3歳の時からひどい胃の痛みに悩まされていました。
このしばしば続く胃の痛みは今年の4月まで定期的に起こりました。

放射能に汚染されていない食品をとるという事を11月に始めてから、
この4月になってようやく彼女は胃の痛みが無くなりました。

しかし、この娘たちの中で一番健康状態がよくなかったのは3番目のオリガです。
オリガは7ヶ月で、月足らずで生まれました。
ウクライナでは普通、3人目の子どものお産というのは軽く済むというふうに考えられていました。
彼女は3歳の時に先天性の乱視である事たまたま見つかりました。
もし、この乱視が見つからず眼鏡をかける事がなかったら、視力を失ったかもしれないのです。
4歳の時には、ひどい背中の痛みを訴えたので、キエフの大きな医療センターで検査を受けました。
その時に彼女は4歳半だったんですけれども、
お医者さんが「椎間板ヘルニア」という診断を下しました。
しかしそれと同時に、「そんな事がこんなに小さい子どもに起きる筈がない」
そして、「これを治療することは不可能だ」と言ったのです。
小学校に入ってから偶然、彼女の片方の足が少し短くてそのせいでその痛みが起きるという事、
そしてこれが先天的な異常だという事が分かりました。

鼻血についてですけれども、
オリガが学校に行っている時に担任の先生から電話がかかってきて、
鼻血が少し出るという状態ではなく、「白いノートのところに滝のように鼻血が流れている状態だ」
電話がかかってきました。

私たちの家族は11月からプロジェクトに参加しましたけれども、
幸いなことに彼女は2月の末から鼻血は出ていません。
それから頭痛や目まいもほとんど無くなっています。


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2012年11月~2013年3月<キノコと川魚をやめ、隣村の肉と牛乳を提供>
「天然だし調味粉」=煮干し 焼きアコ 昆布の粉末=カリウムとカルシウムを多く含む
=同族元素のセシウム137、ストロンチウム90の吸収を減らし、体外排泄を促進させた。



私たちのゴヴァリン村には大家族でミーシャという男の子の家族があります。
ミーシャが6歳で小学校に入学した時は
彼は他の子どもと何ら変わりなく健康な子どもに見えました。

しかしミーシャが2年生になってから、
先生たちがミーシャがペンを上手く握れない事、
それから、歩き方が変だという事に気が付きました。

ミーシャの家族は1年前にこのプロジェクトに参加しました。
それまでもう2年の間ミーシャは学校に通う事が出来ずに家にいて、
先生たちがミーシャに授業をするために彼の家を訪問していました。
その時は彼は歩くことができませんでしたし、
そしてペンも上手く持てませんでしたし、うまく読むことができませんでした。
「読む事が出来ない」という事の意味は、彼の顔の筋肉がうまく動かなくて、
その結果として本が読めなかったということです。

その間ずっとミーシャの事をキエフの医療センターが観察をしていました。
しかし、ミーシャに対して診断を付ける事が出来ず、
科学療法としても何らかの薬を投与するという事ができませんでした。
言われた事は「新陳代謝の異常がある」そして「脳の働きに異常がある」という事だけでした。

ミーシャに対しては10月からミネラルを含有する魚の粉を与え始め、
11月からは放射能に汚染されていない食べ物をそれと一緒に無償で提供し始めました。
私にとってとても嬉しかった事は、この家族は私の家のとても近くに住んでいて、
私もよく見に行っているんですけれど、
私のところにこの1月にミーシャのおばあさんがやってきてこう言った事です。

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「近所の人が私のところにきて、ミーシャが前より上手に歩くようになった事に気が付いたか?といったんです」
と話してくれたんです。
この家族の人達はとても嬉しそうでした。
というのは、はたから見ていて変化に気が付くという事は
本当にそういう変化が現れたという事だからです。

それから、私が出発する10日前ぐらいに、おばあさんが家にやってきて、
ミーシャの事を動画で撮ったものを見せてくれました。
私はおばあさんにミーシャが歩いているところのビデオを撮ってくれるように頼んでいました。
ところがミーシャは歩くだけじゃなくて走ろうとしたんです。
そして私はミーシャに彼が読んだことのない本を渡しましたが、
彼はちゃんとその本を読んだのです。

彼は同じ年の子どもが読むように、その読んだことのない本を読みあげました。

彼に対しては1週間あとぐらいに医学的な検査がされることになっていますので、
私が自分の目で見た事が医学的な裏付けがされるといいなと思っています。

と言いますのは、ミーシャには下に弟と妹がいるんですけれど、
妹を見ていても全く前とは様子が違っているからです。
ミーシャの弟も妹もとても病気がちで痩せていて、顔色が悪く、目の下にクマが出来ていました。
ミーシャの弟はもう2年生で通っているんですけれど、
妹も1年生に入り、そして先生たちの話では、彼女はとても活発で勉強もできるし、
1年生に入ったいろいろな医学的な検査でも検査の値が悪くないということでした。
この子たちはまるで、しおれて枯れかけていた草花に
新鮮な水といい環境を与えられてまた生き返ったかのように見えます。


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2012年11月~2013年3月<キノコと川魚をやめ、隣村の肉と牛乳を提供>

次のゴヴァリン村の家族もやはり移住者の家族です。
ここでも一番上の男の子は健康面で問題はありません。
しかし、下の二人の子どもたち、男の子と女の子には先天的な皮膚障害、サメ肌があります。
この写真に写っている、特に女の子の方なんですけれど、皮膚の障害が生まれた時からあって、
それがこのプロジェクトに参加するまで続いていました。

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しかし今では非常に状態が改善されて、
顔や手や足、背中にサメ肌状態がありました。
その状態が悪い時というのは特に冬の間は乾燥していますので、
ひび割れたりささくれ立ったりして、それが可能してしまうという事もありました。

彼等に対しては10月から良質のワセリンとミネラルを含んだ魚の粉がわたされ、
11月からは汚染されていない食べ物の供給が始まりました。
そして彼らのこともこの冬の間中ずっと観察をしていましたけれども、
非常に状態の改善が見られます。
冬になってもサメ肌とかささくれ立つという事は起こらず、ただ、その痕が残っているだけでした。

それから春から夏になって太陽の光が強くなった時期でも、
状態がぶり返すという事はありませんでした。
ウクライナでは夏は30度を超す暑さになって相当暑くなるんですけれども、
そういった前の症状を再びぶり返すという事はありませんでした。

それからこの家族のお父さんも、関節と骨に痛みがありまして、
例年ですと春になるとそこが炎症をおこしたですけど、この春はありませんでした。



タチアナ・アンドロシェンコ女史講演 2013年11月21日 衆議院第一議員会館
書き出しブログ

動画はここにあります↓
<学校給食は1ベクレル/㎏規制に!>実際には1.1ベクレルでいろんな被害が出ている
11/21ウクライナ調査結果・小若順一氏(内容書き出し)


<前半>放射能抜き食事による健康回復事例
11/21タチアナ女史「低線量汚染地域・健康被害の真実」(内容書き出し)


<後半>放射能抜き食事による健康回復事例
11/21タチアナ女史「低線量汚染地域・健康被害の真実」(内容書き出し)














2012年の小若氏の報告

<ウクライナ報告>
「5から10ベクレルの食品で被害が出ているという事を確認しました」小若順一氏11/2(内容書き出し)


<質疑応答・ウクライナ報告>
「5~10ベクレルの食事を食べ続けると起こる身体の痛み」小若順一氏11/2(内容書き出し)






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