スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

<16歳兵士の証言>猪熊得郎「とにかく戦争が終わったときに真っ先に逃げたのは将校ですね、上官ですよ」8/15報道するラジオ(文字起こし)

■8月15日(金)放送分
[16歳の兵士~戦争に奪われた青春~]

MBS 報道するラジオ http://www.mbs1179.com/hou/
新保風子記者

5:25~http://youtu.be/cEro8XccUhs?t=5m25s
報道するラジオ、先週は元兵士の93歳の方の証言をお送りしたんですが、
今日は戦争の貴重な証言を再びお送りするんですが、今回は16歳という年齢で戦場に駆り出された方の証言です。
16歳って、高校生ですよね、まだ。
いまで言うところの高校生、高校1年ですか、
そんな人が駆り出された、その時の現実を語って下さっています。
ぜひ、お聞きください。



水野:
今日の報道するラジオ
特集テーマは「16歳の兵士~戦争に奪われた青春~」です。
報告はMBSの新保風子記者です、こんばんは。

新保:
先週に引き続き不戦兵士・市民の会という市民グループの方にお話を伺ってきました。
このグループは、元日本兵の方々が
二度と戦争が起きないように、自分が戦場で体験したことを後世に語り継ぐ活動をしています。
今回は7月に横浜で行われた元日本兵の方の講演会に参加してきました。
お話しされたのは猪熊得郎(いのくま とくろう)さんという方です。
猪熊さんは現在85歳で、
終戦の1年前の1944年4月に中学を卒業したばかりのまだ15歳の時に初年兵に志願したそうです。


水野:
15歳で志願、はい。

新保:
で、当時はですね、男は20歳になると徴兵されました。
少年兵というのはそれよりも若い14歳から19歳の少年たちで、
自ら志願して兵士になった人達なんです。

短期間の訓練で戦場に送りだされ、
特攻隊で亡くなった人の中には少年兵も大勢いたそうです。

まずは猪熊さんに少年兵に志願した理由を聞きました。


猪熊:
「いずれは、アメリカが日本の上陸することが起こるかもしれない。一体この日本はどうなるんだろう?」
というふうに少年は考えだします。

「アメリカの兵隊が日本の上陸してきたら、俺たちの家族はどうなるんだろう?」
少年たちはそういうふうに考えたんです。

そして、15ですから、中学3年の2学期ですか、
2学期の終わりに父親にですね、「少年兵に志願する」と。
当然親はこれに賛成する訳はありません。
親は必死になってですね、
「20歳になれば徴兵制という事で兵隊に行くんじゃないか」と。
「あと4~4年の事なんだ」と。
え・・・、3日間父親と話し合いをしましたけど、とうとうですね、
4日目からですね、ただ父親の顔を黙って睨みつけていると。
遂に仕方がなしに父親もですね、
「そんなにお前は兵隊になりたいのか」と
「仕方がない、いきなさい。しかし、命だけは大切にしなさい」と、
そう言った父親のさびしそうな顔をいまだに忘れる事が出来ません。

入隊した時に戦友たちに聞いてみましたら、
3人に一人ですね、
当時の3人に一人の男の子たちは、
家族の反対を押し切るために内緒で父親のハンコを盗んで志願書を書いて、
そして、内緒で入隊試験を受けて、
そして入隊が決まると軍から文書がきますね。
その時になって初めて家族が知ると。


これは当時の戦争中であっても、
「戦争に賛成する」と、「万歳万歳」と言っている大人たちも、
いざ子どもが兵隊に行くとなると賛成する大人というのは一人もいませんでした。


ですから、どこの家でも家族との間で悶着が起こると。



水野:家族も必死に止めたんですね。

新保:
そうですね。
特に猪熊さんは、男の子4人、女一人の5人兄弟の4男だったそうです。
で、母親は早くに亡くなっていると。
上の3人の兄たちはすでに陸軍や海軍に入隊していて、兵隊に取られていた訳なんですね。
最後に残ったまだ15歳の猪熊さんまで志願するというので、父親は大反対したそうなんです。

当時、1944年というのは神風特攻隊が初めて突撃した年で、
サイパン島で日本軍3万人が玉砕。
つまり全滅した頃なんですね。

戦況の悪化によって、兵士として戦える年代の男というのも少なくなりましたので、
徴兵を猶予をされていた学生たちも「学徒出陣」として戦場に行きました。

その敗戦濃厚の状況で、今でいう高校生ぐらいの少年たちが戦地に送りこまれていたんですね。
で、猪熊さんの調べなんですが、
少年兵の数は1930年から終戦までの間に42万人にのぼって、



水野:そんなにいらしたんですか?!

新保:
はい。
しかもそのうち30万人というのは終戦間近の1944年以後の採用だそうです。
そしてその後猪熊さんは航空通信学校で9ヶ月の訓練を受けて、
1945年の4月に満州に配属されました。

で、満洲国というのは日本が満州事変で占領した土地に作り上げた傀儡(かいらい)国家ですね。
しかし日本国内では満州の事を「五族共和の王道楽土」と言って、
「五つの民族が平和に暮らしている楽園のような場所だ」と宣伝されていたんです。
猪熊さんも実際にそう信じていて満州に行き、現実を知ることになります。



猪熊:
満州国というのは「王道楽土」といった訳でしょ。
ところが日本人はふんぞり返っていて、きたない仕事はみんな中国人がやっていて、
日本兵なんかだってね、例えば日曜日に街に出る。
電車に乗れば無賃乗車でね、
物売りをやっていれば、先頭のやつが話しかけている間に後ろの方の奴がみんなかっぱらうとかね。

とにかくそれはね、日本軍隊の加害行為というのはね、
やっぱり、略奪、暴行、強姦ね。
ただそれをみんな伝えないだけで、話さないだけでね。

あれがやっぱり植民地っていう実態でしょうね。


記者:
従軍慰安婦の方々の慰安所の問題なんですけど、
そういう場所っていうのは軍隊の近くには必ずあった?


猪熊:軍隊の近くには必ずあります

記者:どんな感じのところだったか分かりますか?

猪熊:
こっちは傍へ行くのが嫌でね。
だいたい・・・、見に行こうと思って近くにはいったんですけれども、
ちょっと遠くから見てね、
日本の兵隊が休みの日ですよね。
並んで待っているんですよね、ベルトに手をかけてね。

やっぱり少年兵としての潔癖感がありますからね、
「これは何事だ!」と・・・。



水野:はー・・・慰安婦についてもその証言がありましたね。

新保:はい。
「日本はアジアの平和のために戦っているんだ」と教えられてきた猪熊さんだったんですけど、
実際には日本兵は満州で略奪・暴行・強姦をしていたということに非常に大きいショックを受けたそうです。

そして、軍の理不尽さを経験するこんな出来事を経験します。


猪熊:
最初の外出のときです。
最初の外出といっても私たちは少年兵ですから、
まだ10代でした。
今でいう高校1年ですね。
外出するときに服装検査がありました。
「突撃一番を持っていないと外出させない」って言うんですよ。
突撃一番というのはサックのことです。
避妊具のことですね。
「これはいったいなんだ」と。
それで少年兵ですから純粋ですから抵抗した訳ですね。

日本帝国陸軍の軍人が、
「その”突撃一番”というサックを持って外出をして慰安婦を買ってこなければ、
立派な帝国軍人になれないのですか?」って、こうやったわけです。
それで上官は烈火の如く怒りましてね、
「上官を侮辱するのか!」と
「女を買うのは当たり前だ」と、
「女を買えない奴に敵が殺せるのか」と、
ぶん殴られて、蹴っ飛ばされて、踏みつけられて、
血だらけになったのが、私の初めての外出の時でありました。

日本の陸軍のあるところ、
日本の軍隊があるところ、
慰安婦がいて、慰安女がいて、
軍隊の中では立派な兵士にするために、
民主主義もなければ自由もない。
ただ無批判に無感動に敵を殺せる兵隊を作る。

敵を殺せる兵隊というのは常識があっては立派な兵隊になれない。
そういう中でリンチがあり虐待があり自由なんて無い無い。
だからそれを憂さ晴らしに兵士たちは慰安所に求める。
そして慰安所に兵士たちを送り込んで、軍人の戦闘精神をもたせる。
これが日本軍隊の真実の姿であります。


水野:はあ〜・・・、
「慰安所がどういうものだったか」というのを本当に赤裸々に語ってくださっています。

新保:
まだ15や16の少年に「慰安所へ行って女を買え」というんですよね。
拒否すると「女を買えない奴に敵が殺せるか!」と言って殴る蹴るの暴行をした訳ですよね。
それが日本軍の姿だった訳です。

そして猪熊さんは、なんと軍の飛行場でほかの少年兵の訓練の様子を目撃することになります。


猪熊:
飛行場に行きますと、少年飛行兵がいます。
少年飛行兵と言いますのはだいたい同年代ですね。
15歳から19歳の少年たちで、これが飛行機で訓練をしているんですね。
それで何の飛行機で訓練しているか?と言いますと、
「赤とんぼ」と言いましてね、二枚羽のね、あの飛行機で訓練しているんですよ。
それで、同じ少年たちですからね、
「おまえ、あんな飛行機で訓練しててどうするんだ?」と
「ソ連の飛行機がやってきたらどうするんだ?」と言ったら、
「飛行機がこれしか無いんだ」と。
「これしか無いたって、それで戦えるのか?」って言ったらね、
いや、ソ連の飛行機が来るって分かったらですね、
上空に待機しててですね、
「上空から敵の飛行機にぶつかるんだ」と言うんですよ。
「ぶつかって当たらなかったらどうするんだ?」って言ったら、
「そのまま突っ込むんだ」って言うんですね。

これが私たちと同じ年代の15歳から17歳のですね、少年飛行兵が一生懸命訓練をしてたんですね。


新保:
お話の中に出てきた「赤とんぼ」って言うのは、
二枚羽の練習用の飛行機のことなんです。
その頃には最新の飛行機というものも少なくなっていたので、
練習用などしか残っていなかったんですね。
なので「その飛行機で敵に体当たりして死んでこい」と、
高校生ぐらいの少年たちがそんな訓練をさせられていた訳なんですね。

そして8月、日本は終戦を迎えます。


猪熊:
8月の9日に、「ソ連が満州の領空に侵入してきた」ということで招集がかかりまして、
そこで暗闇の中にロウソクを灯してですね、
「関東軍は最後の1兵まで戦う」
「関東軍がもし敗れたならば長白山に集結しよう」と。
要するに関東軍が負けたら長白山に集結してゲリラ活動をやろうと、
で、それから戦闘態勢を固めましてね、
私のところは8月17日まで戦いまして、8月18日に停戦の命令を傍受しまして、
そして初めて「戦争に負けたんだ」と。

とにかく戦争が終わったときに真っ先に逃げたのは将校ですね、上官ですよ。

飛行場にいたらですね、「最後の1兵まで戦う」と。
「ソ連の戦車に戦うんだ」と。
飛行機を出してくれって言うんだからね、
兵隊たち、しょぼんとしていた兵隊たちが喜んでですね、飛行機を出してきて、
将校が飛んでいくのに、こう手を振ったんですよね。

空を3回旋回してね、ソ連の方向に行くんじゃないんです。
みんな日本に向かって飛んでいくんですね。

士官学校の学生がですね、満州で教育をしました。
これが真っ先に日本に逃げ帰ったんですよ。

「日本の再建のための国土復興のための優位な人材だ」
じゃあ我々は優位な人材じゃないのか!?


この連中はみんな真っ先に、飛行機がある限りですね、
上官たちはその飛行機に乗って、
「殺せ殺せ」「死ね死ね」と言った将校たちはみんな日本に帰ってしまった。

あのときに私はですね、「日本は負けたんだ」と。
負けるべくして負けたんだ」というのを骨身に沁みて思ったですね。



水野:あー…、こんな状態だったんですか。

新保:
今まで「敵を攻撃して死んでこい」と命令していた将校や上官だけが、
敗戦した途端に先に日本に帰ってしまったんですよね。
でも下級兵と民間人だけが残されたんです。
その後猪熊さんたちは、やってきたソ連兵に「東京ダモイ」「東京に帰れる」と言われて、
半信半疑貨物列車に乗り込んだそうです。

しかし列車はどんどんどんどん北へと向かって、
ソ連領へと連れて行かれました。

猪熊さんは捕虜として収容所に入れられて、
製材工場で過酷な肉体労働を強いられます。


猪熊:
えー、シベリアはですね、2月の平均気温がマイナスの20度から30度です。
冷凍庫の温度がマイナス20度ですね。
これよりも寒いところで作業をする訳ですから、
私らの収容所で言いますと6人に一人死にましたけども、ほとんどが冬の間ですね。

栄養失調、下痢、ということで隣の戦友たちがバタバタと倒れていく。
昨日まで隣に寝ていた戦友が、ある日突然立ち上がって
「日本に帰れるんですね」
「汽車が出るんですね」
「お米が食べられる」
「ご飯が食べられる」
「おかあさん」
そう言ってバタッ!と倒れるんですね。

そういう戦友の声が今でも耳に残っています。

そうして戦友が倒れると、医務室の前に遺体が並べてあります。
遺体が並べてありますけれども、冬寒いときには凍っています。
凍った死体が並んでいます。
翌日の朝になると、死体は全部裸になっています。
着ているものは、
日本の戦友たちがその遺体の衣服を剥いで、パンと代えて
なんとか生き延びたんです。

で、戦友が亡くなるとですね、
製材工場でしたから、え…、棺桶を作っておきましたけれども、
背の高い戦友が亡くなると、足が入らないんですね。

ですから、凍っていますから、
斧でポンッ!と叩くとボキッ!と折れてですね、その棺桶の中に入れることができると。
山へ持っていって穴を掘るんですけれども、
シベリアは凍土ですから、1mまで凍ってますね。
ですから30cm掘るのがやっとですね。
30cmというと、棺桶を入れるのが精一杯ですね。

ですから、春になるとですね、
山犬が掻きむしってですね、食い散らしていると。
そういう状況に何体も何体も死体が放り出されているという状況でしてね。

ですから、自分が生きていくために、なんとしても生きていかなければならないです。
「生きて帰りたい」と、「家族に会いたい」と。
と、隣の戦友がね、下痢すると嬉しくなるんですよ。
「ああ、こいつの飯が食える」
できることなら明日もあさっても、こいつの下痢が治らないでくれたらいい。

これが本当の姿なんですね。

なんとしても生きて帰りたい。
生きて帰るためにはどうやって生きていくか。
とにかく、他の人のことなんか考えていられない。

それが本当の姿だと思うんですね。



水野:
シベリアに抑留された経験を、こんなに具体的に克明に生の声で伺ったのは、
私は、初めてです。

新保:
私も初めてで、非常に過酷な状況の中で労働させられていたんだなということを、
このお話を聞いて初めて知りました。
シベリア抑留でおよそ58万人が捕虜としてソ連に連行されて、
そのうち6万人が死亡したと言われています。

猪熊さんも2年4ヶ月の間収容所で暮らしていたんですけれども、
これはまだ短い方なんだそうですね。
中には10年以上収容されていたという方もいるそうです。


水野:
平野さん、猪熊さんたちはやっと終戦を迎えて、
「ふるさとに帰れる」と思っていた貨物列車に乗ったら、そこはソ連領だった。
そして、今お聞きいただいたような、壮絶な状況の中に置かれて、
だけど、終戦したにもかかわらず、猪熊さんの場合で2年4ヶ月。
長い方で10年程って。
なんでそんなシベリア抑留が続くのか。


平野:
そうですね。
そもそも、7月26日にもう、ポツダム宣言を受諾されているんで、
日本としてはもう、武装解除を早く最前線に伝えなければ、

水野:もっと早く伝えるべきだったんですね。

平野:
ところが一部の軍部がですね、
国体の保持ということにこだわって、
「天皇制を保証してくれ」と、天皇とずっと最後まで交渉を続けるんですよね。
しかし昭和天皇は「もう限界である」ということで
「はやく戦争を終わりたい」という意向を表明をしたにも関わらずですね、引っ張る訳ですよ。

ですから、もう本来であれば避けられているシベリア抑留なんですよね、武装解除して。
しかも、当時は百万人以上の民間人も満州にいた訳ですよね。
その人たちも略奪されてですね、時には強姦されて、
もう本当にその…命からがらですね、一部の人しか帰れなかったという過酷な状態が続いたと。

これはもう一部の戦争指導者の判断の、言ってみれば盲信ですよね。
ソ連とは中立条約を結んでいたものですから、
「ソ連は攻めてこないだろう」と、ずっと過信をしてたんですね。

だけど歴史を振り返れば、その年の2月、半年以内ですね。
ヤルタ会談でソ連はドイツが降伏した3ヶ月後に、
対日参戦をするということを3国でもう決めてたわけですよ。

それを日本は全然察知できずにですね、
ソ連に、逆にですね、アメリカとの和平工作を依頼するようなね、
トンチンカンなことをやってしまっていると。
こういう本当の指導部のですね、あのーーー、


水野:情報のなさ、判断ミス、

平野:盲信過信ですね。

水野:そうですね、やっぱり盲信過信が招いた判断ミスということになりますよね。

平野:そういう事が逆に浮かび上がって、ま、その犠牲者、と言わざるを得ないんですけどね。

水野:そしてその間に命を落とされた方が本当の大勢いらした。

平野:
ええ。
民間人でも18万人の方が亡くなっていると。

水野:は〜

平野:
兵士の方も本当に大変な抑留経験をされたんですけれども、
それはもう逃げ惑う。
朝鮮半島まで来てですね、時には集団自決までして、
「もうだめだ」という事で川に飛び込んだりして、
この悲劇の話は本当に数えきれないほどあるんですよね。

水野:ん〜、本当は防げたのに。

平野:ええ。

水野:
「じゃあその責任はいったい誰にあるのか?」って、
それは本当に言いたくなりますよね。

平野:
でもそもそもこの満州国の成立というところから、
今回のアジア太平洋戦争というものを語らなければならないと思うんですよね。
やっぱり、日露戦争で獲得した満州の権益を守ろうとして、
日本の国土を超えて、海を越えて朝鮮半島、さらには満州にまでですね、
国防権というものを生命線として維持しなければならないという事で、
要するに、「守りのために海外国家を作った」っていうところからですね、
もう誤りがあるんですよね。
で、そこにどんどん、中国の人たちの土地を収奪したりですね、
財産を略奪したりですね、
そういう事がまかり通った歴史がある訳ですよね。

水野:そうですね、そこを分かっておかないと、

平野:
そういう歴史を、いわゆる加害責任としての歴史を日本の戦後教育はほとんど教えてこなかったと。
そういう事が今の、その、「戦争賛美」とかですね、
犠牲者を「英霊」とか言ってね。
私にとってはもう、「犠牲者」と思われるんですけれども、
そうやって自省しない国になってしまった印象がですね、
もとをたどれば、私は満州国に元凶があるんじゃないかなと思っているんですけれどね。


水野:
いろいろ伺うと、そうか、そういう事でシベリア抑留で長い時間をね、本当に費やされたんだなと。
だんだん分かってくるんですけれど、
猪熊さんの場合は、新保さん、2年4ヶ月収容所の暮らしが続いて、
その後、どうなられました?


新保:
その過酷な収容所での暮らしの後、ようやく日本に帰国できる事になり、
猪熊さんたちは港に近いソ連のナホトカの収容所に移されました。


猪熊:
で、なんとか私は生き延びる事ができまして、
昭和22年の11月に帰って来る事ができました。
帰るときはですね、ナホトカの海から船が出るんですけれども、
ナホトカの収容所っていうのは海岸につながっているんですね。
ですからナホトカの収容所に入ってきますと、
みんな一斉に砂浜に駆け出しまして、海の際に行って手を海に突っ込んでですね、
「ああ、この海が日本につながっているんだ」と、
「この海の水が日本につながっているんだ」と、
そういって考えるんですね。

そして、そのまま軍国主義の考え方がまだ残っています。
「捕虜になってしまった」と。
「捕虜なんて恥ずかしい事だ」と。
「家族たちはどんな肩身の狭い思いをして待っているんだろうか」
「家に帰ったらなんて言おうか」と、
「ただいま帰りました」と、「捕虜になっていました」と言えるかと。

そしてそれが過ぎるとですね、
戦友たち。
一緒にいるはずの戦友がいない。
・・・・。
「あいつはどうして帰っていないんだ」と、
「あいつはなんでここに居ないんだ」と、
「あいつの家族になんて言おうか」と、
「なんて言えるのか」と、
「私は生きて帰る。だけども戦友はここに居ない」
「私の家族が喜ぶのと同じように、戦友たちのも待っているに違いない」と。
「なんて言おうか」
みんな話し合いました。

結局は「戦争があったから亡くなったんだ」と、
「戦争が無ければ生きて帰れたんだ」と、それを言う意外に無いんじゃないかと。
そう思ったのがナホトカで考えた事でした。




水野:はい・・・、

新保:
1947年の10月に、ようやく猪熊さんは帰国する事ができました。
しかし東京にあった家は空襲で跡形も無くなっていて、
一人親の父親も亡くなっていたそうなんです。
また、一つ上の兄も人間魚雷、海軍の特攻隊要因として、
沖縄の出撃の途中にまだ18歳で戦死していた事が分かりました。

最後に戦争体験を語る猪熊さんの思いを聞きました。


猪熊:
つまり戦争体験というと、いわゆる被害体験になっているんですよね。
被害体験も大変大切なんですけれども、
あのー、日本が、被害者の立場だけだった訳じゃないでしょう。
つまり、日本は他国の人たちを苦しめる加害者だったんだと。


つまり単なる被害者じゃなくて、
加害者に加担した被害者
あるいは加担させられた被害者
という立場だと思うんですよね。


それは当然中国にしてみればさ、自分の国に攻め込まれて、殺されてね。
それは日本兵がやった訳なんですから。
実際にはね、一生懸命「日中親善」だって言われても
「自分のおじいさんはね、日本人に殺された」という思い出は心の中に残っている訳ですからね。

つまり、他国の人たちは日本の戦争武力によってね、
どれだけ苦しめられたのか、悲しめられたのかというところがほとんど抜けている、
8割方抜けててね、被害者としての立場しか残っていないと。

そこに加害者として加担させられた被害者という立場が入ればね、
もっともっと深くね、相手の国を理解する事ができるし、共感する事ができるのではないかと。




水野:
いま、猪熊さんがおっしゃった
「加害行為に加担させられた被害者」という立場をちゃんと自覚した方がいいと、
これはどういう思いでらっしゃるんですかね?

新保:
はい。
猪熊さんが満州で見たように、
日本軍は満州で強盗、略奪、強姦など
加害行為をしてきたんですよね。
つまり加害者である訳なんです。
しかし、そうした日本兵というのも、国家によって戦場に駆り出され、
そうした加害行為に加担させられるような状況に追い込まれたと。
そういう意味では兵士ひとりひとりも被害者だと言えるんですね。

水野:
そうですね、
あ・・・、あの、今回ね、取材を通して、
新保記者はまだお若いですけど、生まれたのは昭和何年ですか?


新保:平成元年なんです。

水野:
あ、平成生まれなんだ。
平成生まれの新保さんが、今回16歳の兵士の体験を聞いて、どんな事を感じました?

新保:
いままででも、学校の授業などでも戦争の体験を聞く機会というのはあったんですけど、
空襲で家を焼かれたとか、
あるいは広島や長崎で被爆をしたという辛い体験ですよね。
ただそれは「日本が被害を受けた」というお話だった訳ですよね。
で、こうして日本の加害について体験談を聞いたというのは今回が初めてだったんですよ。

猪熊さんのお話にもあったように、
一部の日本兵というのは中国やフィリピンなんかで、
強盗や略奪とか強姦とか、むちゃくちゃしていた訳ですよね。
もうそれがすごく、こう、当たり前の事なんですけど、
「日本が加害者」というのがすごく驚きでした。

もちろんわたしが小中学生の時は、社会の授業で戦争の事を勉強するんですけど、
でも、「日本の加害」についてって詳しく書かれてないんですよね。
「南京大虐殺」についても、私の記憶ではページの半分ぐらいしか書かれていませんし、
その後にやっぱり、日本の被害について大きく、何倍もの時間をかけて習う訳ですよね。


修学旅行で広島へ行けば、原爆の事を習いますし、
そうやって、そうした教育の中で私は、日本が受けた被害のイメージというのがすごく強かったんですよね。

で、正直これまで、中国や韓国っていうのは、
歴史認識問題に強くこだわっているというのがいまいちピンとこなかったんですけど、
「もう、戦争が終わって70年近くたつのにな」って正直思っていたところがあったんですけど、
このお互いの「感覚のずれ」みたいなものが、
「日本が加害者であったんだ」という意識が、やはり欠如しているからなんじゃないかなと、
今回の話を聞いてすごく強く思いました。



水野:
平野さん、リスナーの方がね、今日聞いてて、
「今日の放送こそ小学校、中学校、高校の歴史の教科書に書かなくてはならない事じゃないですか」

平野:
そうです。
本当に新保さんがおっしゃるように日本の歴史教育というものを、
きちんと、自分がした事に向かい合っていないですよね。
逆に言えば「もう無かった事にしよう」ということまであってですね、
安倍さんは「侵略の定義が定まってない」みたいな事を先日まで言ってたと。
これはもう、明らかに侵略をしている訳ですよね。
武力でもって他国の主権を奪い取ったという事がもう侵略なんですよね。

そんな基本的な事さえね、一国の総理が誤った言葉しかできないという国を
もう一回改めて、我々は批判して、考えるべきじゃないかなと思いますね。



水野:
他のリスナーの方は
今日の話を聞いていた亡くなった叔父の事を思い出しました。
叔父もシベリアに抑留されていて、
生前「シベリア抑留について教えて」とお願いしたんですが、
いつも笑顔を絶やさない温厚な叔父の笑みが消えて、
一言「いろいろあった」とおっしゃっただけなんだそうです。

本当に真実を知るのには難しい。
お辛い体験ですけど、

平野:今日のお話は大変貴重でしたね。

水野:
そうですね。
今日は新保風子記者の報告でした。

41:45



<元日本兵の証言>
谷口末廣「自衛権というのは『軍隊を持つ』という事だけじゃないんですよ」
8/8報道するラジオ(文字起こし)


飢えたらね、人間っていうのはどういう事をやるか分からないよ。
まあ、だから…、まぁ、あれで人肉を食べたことは確かだと思うのよ、僕は。

相手をね、自分よりも犬畜生とみなければ殺せないです。
相手はもう人間じゃないんだと、だから殺せと。
そうすると殺せないんですよ。
お互いが人間だと思っていたら。

だから「人間からね、離れる訓練をどうするか」っていうのが軍隊なんですよ、ええ。


関連記事

コメント

非公開コメント

No title

きーこ様、書き起こしありがとうございます。
戦争中、東大で日本史学の大家であった平泉澄氏は、敗戦時自分が戦犯に問われると認識していたそうです。戦後さすがに東大教授の席は追われたのですが、その第一の弟子が文部省の視学官として、戦後の歴史教育に隠然たる力を発揮しています。
私たちは、戦後の国の作り方をもう一度検証し、きちんと正すべきところを正していく必要が有るようです。
自分の生活を守るために、不正に目をつぶるったり、気にかけないようにしているうちに、生活・命そのものを奪われる可能性が出てきていると言うことを認識すべきかと、つれづれ思うようになりました。
江戸時代では、見ざる言わざる聞かざるが、生き延びる方策だったかもしれませんが、現代では滅びの道だと言わざるを得ません。
このブログは、私に見ること・聞くことをさせてくれるので、とてもありがたいです。感謝しています。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

きーこさん、初めて参りました。
ツイッターで紹介されていたので、来てみました。
素晴らしいブログですね。いろいろ勉強になります。

書き起こしをされているのですね。大変なことです。
読ませていただきありがとうございます。

私の祖父もシベリアに抑留されました。
祖母が言うことには、祖父は抑留される前はよくしゃべる明るい人だったらしいです。私は「ご飯、ふろ、寝ろ」の三言しか聞いたことがありませんでした。戦争は人変わるのではなく、人が変わらないと戦争はできないと私は思います。
戦争はしてはなりません。

貴重な証言のご紹介に感謝。

貴重な証言のご紹介、有難うございました。

ただ1か所、余計な言上ですが、文意から考えますに、
文中の「猛進」は「盲信」または「妄信」ではないかと思われます。

世も人も冷える一方ではありますが、どうぞご自愛の上、
今後ともお励み下さい。これにて失礼致します。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。