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12.01
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【後半】福島原発事故四年目の真実 ~脱原発をめざす女たちの会
20141122 UPLAN
http://youtu.be/wcqiUcTtuUk?t=28m50s
「被ばく者として─今も福島で」古川好子さん(避難を考える会/ 会津若松市在住)

ご紹介いただきました、古川と言います。
私は東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、強制避難地域と言われる場所ができたんですが、
そこの住民です。
ですからいわゆる強制避難者というやつです。
今は会津若松で暮らしています。

「被ばく者として」という大仰な題にしたんですけど、
こんなにふくよかな感じで、被ばく者というと、
「おいおい、大げさじゃないか」って思われる方がもしかするといらっしゃるかと思います。
それと私が「被ばく者」なんて言うと、うちの子供達がどう思うのかというのも、
聞いたことはありません、実は。
ただ、聞いたらきっと「俺たちもだろ」って言うのだろうなと想像はします。

私は事故のすぐ直後から自分を「被ばく者」というふうに自覚していたのか?と言ったら全くそうではないです。
少なからず「逃げ切った」というふうに自分で自信があったんですね。
事故の直後にすぐ県外に出て、1週間ほどで福井の方におりましたので、
ま、大きなところというか
一番危険なところからは逃げ切ったんじゃないかなというふうに、自分では思っていました。
そのあと事情もあって、4月中旬から会津若松に戻るんですが、
放射線のことは非常に心配していましたので、
被ばくをしないようにいろいろなことを考えて、いろんなことを調べて、
とにかく神経質に暮らしたりもしましたから、
自分が被ばく者だということをその時点から自覚したわけではないです。
ただ、徐々に徐々に徐々になんですけど、
「あの日どのくらいの放射線量だったのか」ということとか、
さっきの資料にもありましたけど、
「どこまで放射線の被害があったのか」ということが徐々に発表されてるんです。
それを見るたびに、「あ、わたしここにいた」「あ、あの時じゃない?これ」って思って、
「なんでよ、がっつり浴びてるじゃない」というふうに思うわけです。
そこから、
がっつり浴びているんだとしたら、被ばくして傷ついた私の遺伝子はどう考えてもそう簡単には回復しない。
ましてや、元に戻るっていうことはないだろうなっていうふうに思うようになりました。
で、傷ついたと言っても、日々痛む傷ではないので、それほど苦しむということはないんですが、
やっぱりショックでしたし、どうしようかなというのはありました。
ただ、出来るだけ悲観ではなくて、そこから先は自覚、
「自分は被ばく者」という自覚を持って行こうと考えるようになりました。

で、その自覚の一つなんですが、
臓器提供の意思の署名をするところがありますよね、保険証とか免許書とか。
そこに署名するのをまずは止めました。
子供達にはなんていうか?というと、
私が臓器提供ができるような状態で死んだ時には、
私があの事故の被害者で少なからず被ばくをしている人間である。
ということをきちんと説明して、ちゃんと理解してもらって、
「それでも」という方がいるんだったら、どこでもいいから全部差し上げなさい。
っていうふうに言ってあります。

被ばくしている私の臓器でもと思われるほど切迫した状態の方というのも確かにいるんだろうなと思うので、
それすらもお断りしなさいとは思えないところがあるんですね。

同じような理由で献血も一切止めました。
事故の前までは年に2回ぐらい400mlの献血をするように心がけていたんですが、
事故以降は一度も献血をしていません。

やっぱり、被ばく者の血なので、それを健康な人じゃないです。
怪我をしていたり病気をしたりして弱っている方の体の中に輸血するっていうのは、
どう考えても私には許せない。
そういうふうに思うので、献血を一切止めました。

有楽町の交通会館の前で「献血お願いします」と言ってらしゃる方をよく見かけるんですけれども、
やっぱり見ると心が痛みます。

臓器提供にしても輸血にしても、被ばく者のものであるかどうか?ということを確認しない。
相手の方が理解しないということをしないということは問題じゃないかなというふうに、
わたしなら納得できないというふうに思うんですが、
どうしてこうなっているのか?というと、
実は今時はどの血液もどの臓器もそれなりに被ばくしていると誰かが思っているんじゃないかと思うぐらい、
私は被ばく者として見られることもないですし、扱われることもないです。

で「被ばく者だ」というふうに自覚してからは、
会津若松での生活は、それ以前にもまして神経質にもなりました。
食べ物にカルシウムの錠剤を毎晩欠かさず飲んでいましたし、
季節外れのリンゴを一生懸命食べていました。
食品にすごく気を使って、体の中に入れるものにすごく気を使って、
産地を吟味して、
今でもあんまりそれは変わらないんですが、
北海道と、あとは北陸以西のものっていうふうに、常に気になります。
あと、水道水は一切口にしませんし、料理にも使いませんし、お米を研ぐのにも使いません。
そういうふうに生活をしています。
まだそういうふうに生活をしている部分もあります。
また、外に出るときは、夏でも長袖を着てマスクをして帽子をかぶって、
ちょっと異常な感じで歩いていたんですが、
その点だけはだいぶこういうふうに緩和された、というか、緩んできていて、
今はこの格好で会津若松市内も歩いています。

そういうふうにしている私から見ると、
会津若松の人々はとても普通に暮らしてらしたんです、あの頃から。
で「どうしたものかな」というふうにすごく気になるところがあって、
かといって「ここも危ないんじゃないでしょうか」とか
「気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか」って声を上げるようなことはやっぱりできなくて、
自分の中では「私は被ばく者なので追加の被ばくをなるべく避けたほうがいい」
「会津の方は被ばく者じゃないので、とりあえず普通の生活でもいいんだ」っていうことに、
頭の中で線を引きました。

そうすると日々の生活がすご〜く楽になったので、
で、なんていうんでしょう、篭るようにして暮らしたのでどんどん孤立して、
被ばく者という自覚だけが強くなるという、そういう生活をしばらくしました。

ところが、篭る、孤立するという生活は意外に長く続けられなかったんですね。
同じアパートの方が、私が避難者であるということで心配して声をかけてくれたりとか、
あと、会津若松市内のスーパーマーケットで、10年ぶりに友人に会ったりして、
そうすると元々の性格がこんなもんですから、ついつい話をしてしまいます、長らく。
そうすると、無口で大人しい女性というイメージが一気に崩れてしまって、
こういう形だっていうのが露呈すると、声をかけてくれる人が少しずつ増えるようになって、
で、会話の時間が増えて、会話の回数が増えて、
少しずついろんなことを話すようになってくると、
実は会津若松の方も決して安心して暮らしていたんではないんだということに気づかされるんです。
心配はしているけれども、どうしたらいいかわからなくってこんな感じで暮らしているとか、
「ここは大丈夫」って言われているしな、と思って暮らしているとか、
そういう話を聞くようになりました。

それ以上にもっと私が驚いたのは、
きちんと放射線の危険を感じて、
被ばくをできるだけしないように気をつけて暮らしている方がたくさんいらっしゃったんです。
そういう方は大概お子さんを持つお母さん方なんですけど、
そういう方とも知り合うことができて、お話をするようになって、
すると私の方が今度は勉強させてもらうぐらいに、皆さんいろんなことをご存知でした。

だから外から見るだけでは決してわからない。
本当はどういう心配をしているのか?
どういうふうに考えてらっしゃるのか?
そこは外から見ただけじゃわからないんだなと、大きく感じたことです。

で、そういう生活は実は今でも続いています。
会津若松で暮らしている私、会津若松で暮らしている皆さん。
今日も被ばくしているだろうな、昨日も被ばくしただろうな、
というふうにやっぱり思って暮らしているんですね。

「そんなに心配しているのに、じゃあなんであなたは福島にいつまでもいるんですか?」
って、きっと思われる方もあると思うんです。
わざわざ被ばくしそうなところにいなくても、他に引っ越せばいいのではないかとか、
それこそ避難をすればいいのではないかとか、
私もそう思わないことはないんですが、
どうしていつまでも会津若松にいる、っていうか、福島にいるかというと、
「現実を忘れないように」「危険性を忘れないように」
家族が県外におりますので、そこに入ってしばらく県外で暮らすと、
私でもさえが、「あ、福島のあの事故って、もしかしたらもう大丈夫なの?」とか、
「あ、アンダーコントロールだったわけね」っていうふうに思えるぐらい報道は少ないです。

で、福島に帰ると、一気に汚染水の話が出て、トレンチの話が出て、
防護カバーを外すとか外さないとか、燃料棒を移動するとか移動しないとか、
そういうニュースがバーッと入ってくるんです。
それを見るとさすがに「ウワー、やだな」っていう思いもしますけど、
現実それが起こっているっていうことは、どこにいても危険性は同じなんじゃないかなと思うんです。
で、会津若松市っていうのは福島第一原子力発電所から100kmです。
それをぐるっと円にすると、
栃木県の那須塩原のあたり、茨城県だと日立、宮城県だと仙台市のあたりがちょうど同じくらい。
距離でいうとそんな感じです。
で、線量計を時々持って歩くんですけど、
会津にいてもこちらにいてもそんなに大きく変わるっていう感じがしなかったんです。
特別なところに行かない限りなんですが。
だとしたら、この危険性をきちんと思って、きちんと自覚をして生きていくために、
とにかく福島に帰る場所を一つ置こうと思って、私は会津若松に今もアパートがあります。

で、皆さんにお願いしたいのは、
私は皆さんの前例になると思います。
「決してない」と言われた原子力発電所の事故が起こったので、
これは「決してないことではない」と思うんですね。
私が被ばく者というときに長崎広島の方は私の前例にはならないというふうに言われたことがあります。
それは被ばくの原因が違うからです。
で、私が原発事故の被害者だというときにチェルノブイリは前例にならないと言われました。
それは国が違うからです。
でも私は日本で、原子力発電所の事故によって被ばくをしました。
次にどこかで起きた時、皆さんの前例は私たちです。
私たちはどういうふうにされたのか?
どういうふうにしてどういうふうになったのか?
そこをできれば、見ていてください。

そうすると、次の自分の時に何に気をつければいいのか?
どう動けばいいのか?
少しだけわかっていただけると嬉しいです。
どうもありがとうございました。

42:45

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