なのに…。夫婦漫才「おしどりケン・マコ」のスケジュール帳には空白が目立つ。1/3東京新聞朝刊1面
茶の間あってこそ 漫才、国より客や
東京新聞1面 2015年1月3日 朝刊

漫才コンビ「おしどり」のケン(左)とマコ=東京・渋谷で(平野皓士朗撮影)

父・秋田実さんの写真を持つ藤田富美恵さん。舞台の壁に、中国の戦地を慰問した漫才の写真を投影=大阪市の道頓堀角座で(梅津忠之撮影)
「戦争は嫌」。今なら言える。でもそれが口にできない時代があった。あれから70年。戦争しないで積み重ねられた日々は、人々の小さな奮闘が支えてきた。「もの言えぬ空気」に再び平和が押しつぶされないように。
◇
漫才の起源は萬歳(まんざい)。年の初めに長寿を祝う民俗芸能で、平安時代末期にさかのぼるようだ。新年の漫才師の忙しさは800年以上の歴史の厚みがある。なのに…。夫婦漫才「おしどりケン・マコ」のスケジュール帳には空白が目立つ。
高校を卒業してパントマイムをしていたケン。大学を中退してちんどん屋をしていたマコ。三重県伊勢市の夏祭りの楽屋で出会って恋に落ちた二人は交際一週間で結婚、漫才を始める。デビューは順調だった。2003年、漫才のコンテスト「M-1グランプリ」に出ていきなり準決勝まで進む。師匠の横山ホットブラザーズが「こんなちっちゃい事務所にいるんじゃなく、吉本に行った方がいい」と背中を押してくれた。
月50、60件の営業に追われていた二人に、3・11が転機をもたらす。ファンの子どもたちへの放射能の影響を心配し、マコが原発の取材を始めた。インターネットなどで情報発信を続けるうち、三カ月後には仕事がゼロになった。
今は個人的につながりのある劇場の舞台や市民団体の講演会などがポツポツと入る。二人の心の支えは、漫才師喜味こいし(11年死亡)から楽屋で聞いた一言だ。「芸人は国のためにしゃべるな、目の前のお客さまのためにしゃべれ。そこ間違えたらあかん」
戦時中、漫才は貯金や節米などの国策を庶民に宣伝する道具とされた。こいしは1940年から兄とともに漫才の舞台に立ち、その後少年兵に志願。広島で被爆し、終戦を迎えた。「美談としては語っていなかった。時代に毒されて、みたいな感じで。こいし先生のアドバイスはすべてが『流されるな』だった」
45年の終戦後、こいしら若手漫才師は大阪で笑いの復興に挑む。中核を担ったのが漫才作家秋田実(77年に死亡)だった。
東大で左翼運動に関わった秋田は、満州事変後の34年に、思想犯の取り締まりに躍起となる国を、家庭内の父娘対決になぞらえた漫才「恋愛禁止法」を雑誌で発表したりしていた。しかし数年後には、国策漫才を量産するようになる。その経緯は死ぬまで明かしていない。
再出発で秋田らが目指したのは、漫才の原点復帰。何げない日常生活の話で、家族そろってお茶の間で笑ってもらう。空襲で焼け野原になった街で、それがいかにかけがえのないものなのか皆、骨身に染みていた。先人らの語りがたい思いが注ぎ込まれた漫才は、戦後70年の正月も初笑いを何げなく届けている。
秋田の長女で児童文学作家の藤田富美恵(76)=大阪市中央区=の手元には「漫才 戦争中」と手書きされたB4判ほどの封筒がある。中からは父の国策漫才が掲載された雑誌の切り抜きが束になって出てきた。死後数十年たって実家で見つかった遺品だ。
藤田は今年、父の「封印」を解き、戦争と笑いについて書こうと思う。本来対極にあるべきその二つを、二度とコンビにしたくはない。 (敬称略、飯田孝幸)

戦争の道具にされた芸人
東京新聞2面 2015年1月3日 朝刊

戦時中、旧満州などを慰問した漫才師内海桂子さん=東京都台東区で
国力のすべてを戦争に-。1938年に成立した国家総動員法は、経済活動のみならず、文化・芸術・芸能までも戦争の道具にしていった。漫才師たちは海を渡って戦地で兵隊を笑わせ、国内で戦時スローガンを浸透させる役割を担った。(飯田孝幸、渡辺大地)
「移動中に崖の上から銃撃されたこともある。線香を供えられた遺体は、前日、漫才を聞いてくれた兵隊だった」
漫才師の内海桂子さん(92)は43、44年に、陸軍が編成する戦地慰問団に参加し、旧満州と中国北部を訪れた。
軍部につながりのある芸能会社が慰問の仕事を請け負い、芸人を集めていた。慰問先は戦地だけでなく、内地の部隊や軍需工場にも及んだ。芸人も、芸能会社も、戦争で仕事を増やした人たちがいたという。
「国には戦争でえらくなる人もいる。戦争をあおって飯を食ってる人がいたんだよ。そんなのがなければ、戦争しなくても済んだかもしれないのに」
◆吉本は「わらわし隊」
漫才師の戦地慰問は31年の満州事変の直後に始まった。大阪に拠点を置く吉本興業は38年、日本の戦闘機部隊「荒鷲(あらわし)隊」にちなんだボランティアの慰問団「わらわし隊」を派遣する。同社文芸顧問の竹本浩三さん(79)は「戦争が進むと国内の劇場は閉鎖されていった。吉本は軍に協力して、興行を継続させようとしたんだろう」と話す。
当時、国内の舞台は事前検閲の上、警察の監視下で行われたが、戦地は別だった。竹本さんは「あすの命もしれない兵隊の前で、ぬるま湯の漫才なんてできない。軍批判も反戦的なものも自由にやった」と話す。
◆軍批判も反戦漫才も
陸軍情報局で言論統制の中心的役割を担った鈴木庫三(くらぞう)少佐は漫才を国策宣伝の有力な手段と認識していた。41年の雑誌の対談では「吉本興業で漫才師300人を集めて、午前2時まで講演したことがある。時局漫才は、笑わせながら時局認識を与えようというところがある」と話している。
漫才にとどまらず、文化芸能は戦争と深く結びついていた。「詩歌と戦争」の著者で東京外大大学院の中野敏男教授は軍の暴走だけでは、その背景は説明できないと考えている。32年の上海事変では、敵陣への突撃路を確保するため3人の兵隊が爆死し、爆弾三勇士と呼ばれた。新聞は関連記事を連日書き、映画、演劇、歌、講談、漫才になり、国民は熱狂した。「国民が求め、(見せる側が)大衆迎合した」と指摘する。
◇秋田実が書いた国策漫才
◆貯金戦は
A 余らん金を無理に余らすのが真の貯金や。
…中略…
B ぼくも明日から電車賃を節約しよう。天気のいい日は歩いて通う。
A 雨の日は、仕方がないから…
B 会社を休もう。
A そんなむちゃなこと。
B 家のやりくりも節約しよう。
A それがよろしい。
B まず、節約の手始めに、諸事の支払いを延ばして、その金を貯金に繰り入れる。貯金もたまるし借金もたまる。
◆国策百貨店
A いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます。こちらは国策百貨店でございます。
…中略…
A 6階はお菓子売り場でございます。ご参考に申し上げますが、砂糖が統制の折から、当店のお菓子は、せいぜい、古いものを選びましたから、ご利用願います。
B 君、古い菓子なら腐敗して、味が酸っぱくなってるんと違いますか。
A それだから、壁に、酸っぱい(スパイ)にご用心とポスターを貼りだしてございます。
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コメント
私が四代目柳家小さんの門を叩き、落語家になったのは、昭和八年六月のことで、師匠から栗之助という名前をもらった。栗のような顔をしていたから栗之助。
前座見習いとして修行しているうちに兵隊検査があって、入隊したのが、昭和十一年で麻布三連隊。入営早々に2.2.6にぶつかった訳である。
あの時のことは35年たった今でも、忘れることが出来ない。
前日、井の頭公園の軍事演習に出かけた際、我々初年兵が、茶店でなにか食ったという事で、全員散々な叱言と往復ビンタをくって、就寝したのがもう、夜中だった。うとうととまどろむのなく、非常呼集で叩き起されたのが、あれで、二月二十六日の、午前二時頃であっただろうか。寝台の前に整列を命ぜられ、班長から、これから指名された者は、直ちに出撃の準備をするよう命じられ、その中に私も加えられたというわけである。
出撃用意のため機関銃を2丁持ち出し、弾をもらいに行くと、いつもくれる演習用ではなく、実弾である。おかしいな、とは思ったが、その時はまだ、これから演習に出かけるぐらいの気持ちであった。指名された全員が、裏庭に集められ、ここで我々は、中野大尉の指揮下に入ることが伝えられた。
兵門を出たあたりで、いつもの演習とは違う雰囲気から
「なんです、演習ですか?」
と、たずねてみたが、二等兵にもよく分からない。なんでも、偉い人を襲撃する動きがあるので、それを鎮めにいくらしいというのだが、自分たちが反乱軍のほうだと気づくのは、ずっと後のことである。
出かけた先が、桜田門の警視庁で、裏門に機関銃を据えると弾をこめて、いつでも撃てる体勢が整ったが、この段階でも、
まだ演習かと思っていたのだから罪はない。その夜は地下の自動車置き場で夜営をし、交代で見張りにあたった。
二日目の夕方くらいまでは、連隊の方から食糧が来ていたのに、これが、ピタリと止められた。このころから、こっちのやっていることが、おぼろげに分かってきた。我々は警視庁から鉄道大臣の官邸に移され、ここを占拠したのだが、なにしろ腹が減ってしかたない。この官邸で中野大尉は
「勝てば官軍で、これはどうしても勝たねばならぬ。
みんなの生命をくれ」
と、涙ながらに訴えた。どうやら、大変なことになったのは分かるのだが、腹が減っているからそれどころじゃない。その時
どこで調達してきたのか、ひとりの下士官が、親子丼を一つだけ持ってきた。
「親子丼を食うと思うな、精神を食うと思え」
と、言われて、たったひとつを六十人ばかりで分け合ったのだから、ますます意気消沈してしまったのである。
こう士気が振るわなくては、困るというので、分隊長さんが上官に掛け合って、士気高揚のため、
「小林二等兵、なにか一席やれ」
と、いうことになった。仕方なく、『子ほめ』という与太郎物の落語を一席やったのだが、だれもクスリともしない。
私もこれまで随分、落語をやってきたが、これくらいウケなかったことも無かった。
官邸を出て、三宅坂の土手から、半蔵門に向け、機関銃をそすえたとき、将校から
「ここが、おまえたちの死に場所だ」
と、いわれた。学校帰りに毎日歩いた、こんな所で死ぬのはかなわないと、正直思った。いまでも、裸の婦人像のあるあの前を通ると、この時のことを思い出す。
結局、武装を解除され、帰隊するまで、事件の内容は何が何だか、さっぱりわからなかったというのが実情である。
有名な「兵ニ告グ」というビラ一枚、私たちの目に触れることはなかった。
その年の五月、私たちは満州へ送られた。満州では、反乱軍の汚名をそそぐという目的で、徹底的にしごかれた。半年ほど満州にいて私は内地の留守隊に帰された。
無論、満州に残された者も少なくなかったが、その間に、
例の盧溝橋事件が勃発して、多数の戦死者を出すことになるのである。 (引用終了)
2015-01-04 21:09 余目小学校OB URL 編集