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吉永 小百合 & 姜 尚中  福島〜憲法 (文字起こし)

People 「多士済々」悩みの海を漕ぎ渡れ

2013年7月14日放送 ゲスト:吉永小百合【音声】



姜 尚中:
おはようございます、姜尚中です。
People 姜尚中「多士済々」悩みの海を漕ぎ渡れ。
今回は皆さん、なんと吉永小百合さんが「多士済々」のゲストです。
戦後日本を代表するというよりは、もう、戦後日本の女優そのものの吉永さんをお迎えするというのは、私にとっては望外の喜びですし、きっとみなさんも少しビックリされているかもしれませんね。
じゃあ、これから1時間、お付き合いをよろしくお願いします。


ナレーション:
People 姜尚中「多士済々」悩みの海を漕ぎ渡れ。
今回スタジオにお迎えする多士済々は、吉永小百合さんです。
言わずと知れた日本を代表する女優、吉永小百合さん。
『キューポラのある街』、『愛と死を見つめて』、『北の零年』、『母べえ』、『おとうと』など代表作は数知れず、これまでに100本をはるかに超える映画に出演。
また、ライフワークとして原爆詩の朗読会にも精力的に取り組んでいらっしゃいます。
今回お二人の対談が行われたのは、丘の上のホテルの一室。
対談はお二人の交流のお話からスタートしました。

714

姜 尚中:吉永さん、今日はどうもありがとうございます。

吉永小百合:こちらこそよろしくお願いいたします。

姜 :
最初吉永さんにお会いしたのはラジオ番組だったんです。
それで、吉永さんとお会いするというんで、僕はその日前の晩からドギマギしてですね(笑)、ちょっと心臓が張り裂けそうな、この歳になって、と思ったんですが。
お会いした吉永さんは本当に気さくにいろいろと話されて、あれはもう数年前になりますか。

吉永:
もう、ずいぶん前になりますよね。二度出ていただいたんですよね。
色々な方に3ヶ月に1度ぐらいゲストに出ていただいているんですけれども、2回出ていただいたのは姜先生だけなんです。

姜 :あ、僕が初めてでしたか。光栄だな。

吉永:
もう本当にね、みなさん是非姜先生にいらしていただきたい、お話を伺いたいということで、とてもとても有意義に、私も伺いたいことがたくさん、お聞きできましたし、楽しかったです。

姜 :
あの時吉永さんがいろんな本を読まれて、ちょと僕もビックリして。
考えてみると吉永さんの最初のデビューはラジオだったように記憶しているんです。

吉永:
そうです。
小学校の6年生の時に「赤胴鈴之助」というラジオドラマに子役で、受かったんですね。
それで、それからずっとラジオをやって、テレビをやって、映画という道です。

姜 :
そうですね。
ですからある意味「吉永さんの始まりがラジオだ」っていうのは、今となっては知らない人もいるんじゃないですか?

吉永:そうですね。

姜 :
それから随分、私の方が一方的に、なんかいろいろお願いばっかりをして、書いたものに推薦文までもいただいて。
あれから私もいろんなことがあって、ま、4年前に息子を亡くしたんですけど、それで悲嘆にくれて、正直いうとちょっと荒(すさ)んでいたんですね。
気持ちが荒んで、「どう生きようかな」というか。
ですから政治や社会という、そういうレベルとは違う、もっと人間の深い「なぜ生きるのか」ということですね。
そんなことをちょっと考えさせられて、「ん…これはどうしたものか」と思っている時に、1年と10ヶ月ぐらいして大震災が起きたんですね。

それで、まぁ、息子といろいろ話している時に彼が言うには「不幸や悲惨というのは外にあるんじゃなくて内にあるんだ」と。
その意味が僕はよくわからなかったんですね。

それですぐに東北の方に、特に福島に行ったんですけど、そこでいろんなものを見て、それでこれは何か書きたいということになって。
ただいろいろ連載はやっていたんですが、やっぱり途中でライフセーバーをやっているある青年と出会いまして、それはこのラジオ番組にも出てもらったんですが、蛭間(龍矢)君という
それで彼に出会って、正直いうと「自分の息子もこういう青年になっていればな」ってこう、なんかこう、思いがあって。
それを主人公にして小説にしてみようと思って、ああいう風になって。
編集者に聞いたら、ま、ああいうものでしたけれど「吉永さんが読んでくださった」って聞いたので、読まれた読後感だとか、


吉永:
そうですね、やっぱり私たちにとって、3月11日の震災というのはとっても大きくって、
…そしてまた原発事故、ですよね。
ですからその二つっていうのは、乗り越えられないのではないかと思うぐらいのものだと思うんですよね。
ただ、私自身も何度も、被災地に行って、あの、避難されてらっしゃる方とか、被災して家を失った方とかにお会いした時に、とってもこう、、明るくって前を向いてらっしゃるんですね。
ま、それは今だからかもしれないんですけれど、2年前にも名取とか宮城県の方に行ったんですけど、
「それはどういうことなんだろう?」って、常に自分に聞いてみるんですよね。
本当に明るいのか?それとも明るく務めてらっしゃるのか?という思いがしているんですけれども。
とにかくしっかりと前に歩こうとしている。
そういうものにとても、逆にこちらが勇気をもらって、力をもらって帰ってきたということが度々ありました。

それで、そういう中で先生の「」を拝読して、やっぱり
姜先生の中でもすごく強い思いが、東北の地震に関してあった、ということを、、が、よくわかりましたし。
それでそういう中で希望を失わない、というか、一人の青年を通して、どういう風に私たちはあの大震災を乗り越えていくか、あの震災の後どう生きるべきか?というのを私たちに問いかけているという思いがしました。


姜 :
そう言っていただければ。
僕の言葉で言うと、株価の上げ下げに、ま、乱痴気騒ぎをしているとしか僕には見えないんですけど、
東洋には「喪に服すのは3年」と言われているんですが、「3年も経たないでこんなふうでいいいのかな」という気持ちが内側にありましてね、

吉永:ありますね。

姜 :
それで、なんとかこれを伝えたいと。
それから息子が亡くなった事とどうしてもこう、重なり合って。
で、漱石の「心」という小説は主人公の先生が自死を選ぶんですけど、最後自分は明治が終わったら明治とともに消えていくと。
明治天皇が崩御して乃木希典が殉死して。
若い時にあれを読んだ時に、なんか、ちょっとこう、こじつけのような気がしたんですね。

ただ今回僕は、なぜ原発事故が起きた南相馬に近いところに行きたいと思ったのか。
ちょっと、私自身の中に自分をいじめたいという気持ちもあったんですね。
原発事故から2週間ぐらいでしたから、放射能もかなり高かったけど、むしろ「リスクの大きいところに行きたい」と。
そういう思いでだんだんと個人的な息子の死と、それから2万人近くの死とが、だんだんこう、重なってきたんですね。
その原因や理由は違うにしても、残された喪失感をどう埋めるか?という。

だから、あ、そうだ。大文豪の漱石も「明治とともに消える」といった、「あれは僕には若い時にはこじつけだったけれども、今の僕には自然だ」と、そういう気持ちになったんですね。
ですから、そうなった時に「これは書いてみよう」と。

で、おっしゃる通り、なんでこんなに、あの方々は亡くなられて我々は記憶喪失に陥る事ができるのか?
普通は、例えば井伏鱒二という人は「黒い雨」を書かれたわけですね。
吉永さんの原爆詩の朗読も、ある意味ではそこに通じるものがあると思うんですけど、
「震災後文学」というものが僕はあってもいいのではないかと。
今の日本の作家さんや文学の力というものが、それに対するやるせない気持ちもあったんですね。


吉永:
そうですね。
私のラジオの番組で、震災の本当に直後に北山修さんに出ていただいたんですね。
その時に「どうやってこの震災を乗り越えたらいいんでしょう」とお話をしたら、
「必ず現地で芸術が生まれる」と。
「そういうものが逆に彼らを励ましながら、また残っていく」という風におっしゃっていて。

実際に福島でたくさんの方が、職業的に詩人の方もいらっしゃる、和合亮一さんとか。
後はもう80を過ぎた普通の主婦の方が「原発難民の詩 」という作品集を作られたり、いろんな形で詩を書いたり、子供たちも書いているんですね、今の思いを。
だからそういう形で、むしろ、実際に被災された方たちの方からきちっとしたものが残っているという気がするんですけどね。


姜 :
そうですね、確かに。
僕もやっぱりひしひしと思ったのは、おっしゃる通り10年経てば何か震災後文学、アートがそこから出てくるんじゃないかと僕は思うんですね。
そういうものが百花繚乱のように出て来れば、きっと僕は、あの悲惨な状況は1年や2年で忘れ去られるものではなくて、私たちの戦後の社会のあり方を根底から問いかけたと思いますね。

吉永:
そうですね。
あの、先生が朝日新聞だったと思うんですけど、「今年の3冊」という中に、「遺体 」という作品を挙げていらっしゃいましたけど、わたし本は読めなかったんですけど、映画で作られたものを見たんですね。


姜 :映画で、そうでしたか。

吉永:
それでやっぱり大変感動しまして、本当に辛いことなんですけれども、あの作品をフジテレビという、とても、普段はそういうものに全く興味のない会社の映画部が作ったということに、また、わたしは意義があると思いましたし、
多分ドキュメンタリーの本の方がもっと強くきちっと書いてあるという風に思うんですけれども。


姜 :
おっしゃる通り、僕はあれを取り上げて、今回の小説のどこかに通じるところがあったんですね。
あれの書評をした後だったでしょうか、蛭間君に会ったのは。
その時によりによって彼から「遺体と向き合うことの意味」を教えてもらって。
それはわたしの中に、息子の死とどうしても向き合えなかったんでね。
あまりにも辛くて。
でもそれに向き合わないといけない。
そういう思いがずーっとあったんですけど、なかなかそれを外側に出して言語化するということができなくて。
不幸なことにちょっとある週刊誌でディスクロージャー(Disclosure)されて、その時初めて「これは書こう」と。
書くことで、これは数字に換算された2万人近い方々の死と、それから私のように、いわば外側から体質的に封印を解かれた息子の死と共通しているのは何か?というと、やっぱり体質的な力でラベリングされているんですね。
それをなんとか奪還しようという、それがやっぱり「書くこと」なんじゃないかなと思ったんですね。
ある意味ではこの2万人の人が亡くなったというのは、被災地の出来事よりは外側のメディアとか、外側の人たちが1万9千いくらとか言って、「こんなに亡くなりました」「大変でした」それで終わりという。

だから、「遺体 」というあの本に最初に僕が直面した時は、きっと、「ちょっとややセンセーショナルな本かな」と最初思ったんですよ。
ただ読んでみたら全くそうではなくて、「あ、そうだ」と。
しっかりと死と向き合わなければ、結局あの戦争も、おそらく原爆も水俣も、向き合っていないから、ある種の●ニズムで前へ前へと。
だから、「それは過去のことにしましょう」という。
だからある政治学者の方がこれを無限に前進するオプティミズム(楽天主義)と。
「あ、そうだ」と。
だから過去を振り返ることをみんな嫌がる。
だからそう考えると、吉永さんがずーっと原爆詩に携わってこられたことの意味がね、前以上に僕にはわかるようになったんですね。


吉永:
でも、今は、必ずその原爆の詩を読んだ後に福島の詩を読んでいるんです。
どうしてもそれは離せない問題だと思うんですね。


姜 :
そうだと思います。
それは一昨年(2011年)だったでしょうか、8月6日の時にNHKの被爆者からの手紙というのに出たんですけど、その時僕はやっぱり、胸がつかえたのは、漱石の言葉で言うと「胸の筋が1本杭に刺さったような」。
それは、「申し訳なかった」と、被爆者の方が。
「自分が被爆者であることを隠していたから福島があったんじゃないか」と。
「自分がしっかりとそれと向き合って、被爆者であることをしっかりと社会に公言して生きていれば、2度とそういう苦しみを味合わなくて済ませられたんじゃないか」と。

これはびっくりしましたね。
そういう、こう、「最大の犠牲を背負われてきた人がまた自分を責めている」
そういうものに出会った時に、
「やっぱりこれは、広島・長崎と福島は、これは対にならなければいけない」と。
ですから、あの「原発や原子力というのはなんなのか」ということを、今回の自然災害とともにしっかりと受け止めるというか。

ま、結局「原発で誰一人亡くなっていないじゃないか」と言う人がいたんですね。


吉永:
つい最近そういう発言をされた政府の方がいらっしゃいましたね。
驚きましたけどね。

自民党高市早苗政調会長「福島第一原発で事故が起きたが、それによって死亡者が出ている状況ではない」



姜 :
僕もびっくりしました。
ただ、避難する時にそれの副次的な結果として亡くなったり、それから自ら死を選ばれた方もいるんですね。
酪農家の中でも。
だからそれを考えると、僕はこれは単に放射能被害だけではなくて、その一つのコロラリー(corollary 必然的な結果)というか副次的なものとして、そういう悲惨がまた出てきているし。

吉永さんが今まで、原爆詩を読む中で、「吉永小百合、オックスフォード大学で原爆詩を読む 」ということで、早川敦子さんが本にまとめられましたけど、僕はそれを読みながら、ま、ゲラの段階で読んでいたんですが。
あぁ、もう本当に、というか奇跡的に坂本龍一さんもご一緒されて、それはいかがでしたか?
「会場の雰囲気がとても良かった」と僕は、

2011年10月
イギリスオックスフォード 朗読会・坂本龍一&吉永小百合(内容書き出し)




吉永:
ええ。
小さなチャペルだったことも幸いしたんですけれども、皆さんが本当に「聞きたい」という思いで集まってくださって、なるべく日本人の方はご遠慮願って、イギリスで日本のことを勉強してらっしゃる学生さんが主だったものですから、日本語もある程度理解してくださって。
そして原爆のこともすごく深く受け止めてくださったように思ったんですね。

そしてそのあとの福島のことも、私は英語が喋れないので、ただ詩を読んで。
ま、多少の英語の詩も読んだんですけど。
坂本さんがその詩の前にきちっとしたメッセージを皆さんに語ってくださったんですね。
原爆でこんな思いをした私たちが、今ね、また原発でこういうことをしている」ということを。
本当に良くないことだ。恥ずかしいことだ」ということをはっきりおっしゃって。

で、「私たちは、しっかりとそういうことを自分たちの中で持ちながらこれから生きていくべきだ」と、私は思っているんですね。


姜 :
そうですね、だからやっぱり福島は。
私は熊本で生まれたので、どうしても水俣病のことが。
水俣病に関しては著名な熊本大学の先生がいらっしゃったんです。
この間お亡くなりになりましたけど。
彼は亡くなる前に、「水俣病の場合には有機水銀中毒患者はある種の症状をある程度特定できた。ただ、放射能汚染の場合には、時系列的に因果関係が何十年後も出てくるかもしれない。
だから今やらなければいけないことは、政府が中心になって調査をすることだ」と。
「早くやってほしい」と。
それはね、あの先生なりの遺言だったと思うんですが。

今見ていると、ほとんどそういう動きもなく放置されて。
僕は、水俣病のあの甚大な犠牲をはらった歴史がある日本で、なぜこんなことが起きるのか?
改めてね、本当に考えさせられたというか。

原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - 2012年6月11日)
日本の医師。学位は医学博士

2012年06月22日 (金) NHKエコチャンネルのブログ
原田正純さんの死と「水俣からの問いかけ」




https://youtu.be/iUU7-O-vy0c?t=21m36s

姜 :
吉永さんから見て、やっぱり野坂昭如さんの沖縄をめぐるあの童話も昔CDで聞かせてもらいましたし、やっぱり、戦争ということは吉永さんの中にずーっとテーマとしてあるということですか?

吉永:
そうですね、何も親から聞かないで今になってしまったということはとても後悔しているんですけれども、ただ、戦争の終わる年に生まれたということで、「戦後」という言いかたをいつもされて、自分の年齢が、続いてきたんですね。
ですから永遠に「戦後」というのと同じ自分の年齢が重なり合ってほしいという願いがあります。


姜 :そうですか

吉永:
だからもしも新しい、憲法が変わって新しい形で日本が戦争をする国になってしまったら、そういうことはもう言われなくなってしまうし、それは「絶対に良くないことだ」というふうに思っています。


姜 :
様々な問題があることは事実なんですけど、私は本当の意味で戦後初発の原点は、もっともっと磨かれなければならないし、憲法もただただ邪険にする動きだけ広がっていて。
だから昔誰かがパントマイムかなんかで憲法になり切った人がいて「私をそんなに邪険にしていいんですか?」と。
「これで死を宣告していいんでしょうか?」と語りかける、そういうパントマイムがあるんですが、私はまだまだ戦後、憲法、こういうものを日本の国民はもっともっと利用しなければいけないし、活用しなければいけないし。
ですから今度の3月11日の原発の問題は、戦後をもう一回生き抜こうと。
もう一回ね。
戦後にもう一回生命を吹き込んで、私の言葉だと生まれかわりというか、戦後がもう一回再生するような。
そのためにもあの3月11日の原発・広島をやり過ごしてはいけないと思うんですね。
吉永さんのなんかずーっと、それこそ戦後、それ時代を代表するような大女優でありながら、本当にいろんなところで小さな集会でも厭わずに行かれて、原爆詞を朗読されてきた歴史というものを改めて、
私は今回、3月11日が起きて本を書いて、ま、少し年齢は違いますけど、その気持ちがなんかとてもわかるようになりました。


吉永:
姜先生が今回、若者を主人公にして書かれたのは、本当に若い方に読んでもらいたい、若い方に考えてもらいたいという思いがすごく良く伝わってきたんですけど、私も今年3月に京都の同志社大学で朗読会をやったんですけど、そういうふうにたくさんの若い方に聞いてもらって、
「あなたたちどう思う?」っていう問いかけをしたいと、これからもしたいというふうに思っているんですね。


姜 :
是非ともまた機会があれば、私は聖学院大学というミッション系の大学に移ったんですけど、是非ともそこでの若い人との出会いがあればありがたいです。


吉永:
それがもう、とっても偶然なんですけれども、東京で一度は平和集会でやってから二度目に朗読をやったのが聖学院の高校だった、多分女子の高校だったと思うんですけれども、

姜 :そうでしたか。

吉永:
それで先生が聖学院の大学にかわられたというのを伺って「覚えがあるな」と思いましたし、
私の第二楽章、原爆詩の朗読のCDは、村治佳織さんがギターを弾いてくださって、彼女は聖学院の卒業生なんですね。
で、とってもやっぱり、学生たち、生徒たちにそういう平和教育をしっかりやってらっしゃるっていうのを先生にお目にかかった伺いましたので、とても素敵なことだと思っています。


姜 :
おそらく吉永さんも、これほどお忙しい方はいないと思うんですが、いつか大学までおいでになる機会があれば、是非ともおいでください。

吉永:
はい、そうですね。
はい、伺って皆さんに聞いていただきたいと思います。


姜 :今日は本当に長い間ありがとうございました。

吉永:こちらこそありがとうございました。


26;42


姜 :
みなさん、吉永さんとの話、いかがでしたでしょうか?
戦後日本の女優そのものであるような吉永さんが、戦後という時代を自分がこれまで歩んできた生涯と重ね合わせていらっしゃることにいたく感銘を受けました。
そして吉永さんの熱い思いがストレートに伝わってきましたし、本当に気さくで飾らない人柄が溢れている、そういう方だということが切々とわかりました。

また同時に、若い人に何かを伝えたいという、それは本当に私が本を書いた動機とまるっきり同じで、やっぱり我々は60代として、若い人たちに何かを伝えたいという強い強い願望がおありになるということで、とても強い共鳴を受けました。
みなさんも、吉永さんの飾らない率直な言葉から何かを受け止めていただきたいと思います。

28:21


ーーー



2014年7月
吉永小百合「これほど地震の多い国で原子力の発電というのは止めて欲しい。もうサヨナラ原発にして欲しい」・岸恵子「私だって原発なんて無い方がいいと思います」7/7日本記者クラブ会見動画&文字起こし

















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