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08.03
Wed
先日の小出先生の声はとてもつらそうでした。苦しそうでした。
お話しを聞きに行った4月末の「終焉に向かう原子力」という講演でも小出先生は話していらっしゃいましたが
その時もJCO臨界事故のことを話されていてとても苦しそうでした。

たねまきJ「福一から10シーベルト」小出裕章氏
(内容書き出し・参考あり)8/1


水野:10シーベルトで死ぬとおっしゃいますのは、どのくらいの時間を持って死亡に至るという・・
小出:通常は2週間で死にます

水野:2週間・・・
小出:以内で、
で、1999年9月30日に茨城県の東海村のJCOというところで被ばくの事故がありました
その時には10シーベルト、あるいは18シーベルトというような被ばくをした二人の労働者が
え・・・生じてしまいまして
日本の医学界が総出で彼らを助けようとしました
その結果、一番沢山被ばくしたのは大内さんという方でしたけれども
83日間延命された揚句に亡くなりました
どんなことをしてもやはり、助からないと言う事です



5/13原発「安全神話」溶融 小出裕章先生
(内容書き出し)


茨城県の東海村で臨界事故が起きた
大内さんと篠原さんはウランを移している時に事故が起きた
国立水戸病院では彼らの診察を「被ばくしているからいや」と拒否された
ヘリコプターに乗って放射線医学総合研究所に行ったが
拒否された「助けられない」
そして東大病院に運ばれた
東大病院に運ばれた時の大内さんの右手。被爆後8日
助けようとしたが努力むなしくこうなった
28日目の写真です
普通は2週間で死ぬのに1カ月生きていた
彼は83日間このような姿で生き延びさせられて最後は命を落としました
「朽ちて言った命」読むに堪えない本です
価値がある本です



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この大内さんの当時の病院での治療の記録youtubeがあります
非常にショッキングですので、大丈夫と思われる方だけご覧ください












ー途中までしか書き出せなかったですー


もっとも多くの放射線を浴びた大内さんの右手です
この時は少し赤くはれているだけでした
事故当日、大内さんは会社のマニュアルに沿って放射線物質を扱う仕事をしていました
バケツを使ってウランを濃縮する作業でした
臨界が起こる可能性については全く知らされていませんでした
同僚がバケツでウラン溶液を注ぎ
大内さんはロートを右手で支えていました
7杯目のウラン溶液が注がれた時 突然青い光が走りました
核分裂が連続する臨界が起きたのです
放射線が大内さんの細胞の染色体を直撃しました
染色体はすべての遺伝情報が収められた人体の設計図です
それぞれ番号が決まっていて順番に並べる事が出来ます
しかし、放射線に直撃された大内さんの染色体は並べる事もできませんでした
断ち切られ、別の染色体とくっついている物もありました
染色体が破壊された事は今後新しい細胞がつくられないことを意味します
被ばくした瞬間、大内さんの体は設計図を失ってしまったのです

平井久丸医師(無菌治療部):
染色体がダメージを被っていますから、そこから推測される事は
おそらく肝臓の細胞あるいは腸の粘膜の細胞
そういったものが全てダメージを受けていて おそらく細胞は再生が出来ないのではないか

染色体が破壊された事によって、最初に異常が現れたのは血液の細胞でした
中でも体を守る働きをする白血球が急激に減少していました
ウイルスや細菌に感染されやすい極めて危険な状態でした
感染を防ぐため大内さんは無菌室に移されました
白血球の数は健康な人の10分の1にまで減少していました
前川医師達医療チームは治療方針を検討しました
唯一の治療は白血球を作る細胞を移植する事でした
移植を行うためには大内さんと白血球の型が合う人が必要でした
一致したのは大内さんの妹でした
この、血液を分離する装置を使って直ちに妹から採血が行われました
その中から白血球を作る細胞が取り出されました
採血には2日間、合わせて9時間余りかかりました

血液の細胞移植(被ばく7日目)

妹の細胞が大内さんに移植されました
今後の病状は妹の細胞が大内さんの体内で白血球を作りだすかどうかにかかっていました
結果が出るのは10日後でした

この頃大内さんは面会に訪れた家族や看護婦達と会話を交わせる状態でした

看護婦さん:
どういういきさつで結婚されたんですか?って
高校の時からの知り合いで、格好長く、7年位お付き合いがあって結婚したって聞いていて
で、「へぇ~。ラブラブな大恋愛で結婚したんですね」っていう話しをしました

前川医師は大内さんの病状や治療について毎日かかさず家族に説明していました
説明が行われた応接室です
今後予想される病状の悪化についても率直に伝えました


前川医師:
家族の方には少なくても毎日毎日みていただいて
で、真実を受け入れていただくという努力はしました
決してきれいごとではなくてですね
やっぱり、すごい放射線量ですので
見た目にもやはり、大きな変化が起こりますから
それはそれなりに真実として受け入れていただけるように
毎日毎日みていただいてましたけれどもね


放射線障害は体の表面にも現れました
1週間を過ぎたころから治療用のテープをはがした跡が消えなくなりました

看護婦花田麻希さん:
最初は普通にテープとか使っていたんですけれども
テープを貼ったところが全部そのままテープをはがす時に皮膚がくっついて取れてしまうっていうのが
どんどんひどくなって
最終的にはテープは1カ所も使えなくなりました

健康な時、皮膚の細胞はさかんに分裂して新しい物に置き換わります
しかし、放射線を浴びた大内さんの皮膚では新しい細胞はできなくなりました
古い皮膚ははがれおちていきました
皮膚に走る激痛
感染との戦い
肺には水が溜まり呼吸が困難になり始めていました
看護記録に記された大内さんの言葉です  8:06


呼吸を助けるため気管に管を入れて人工呼吸器を付けることが検討されました
それは、家族と言葉をかわせなくなることを意味していました
面会に訪れた奥さんに大内さんは語りかけました


看護婦花田麻希さん:
大内さん、多分その頃はすごく色々と体のだるさとかが出てきていて
お話しをするのもたぶん・・・それこそ
話しをするのも力がいるっていうか、そういう感じだったと思うんですね
それでもなんか、こう、ちょっと優しい口調で
すこし笑いながら奥さんに「愛してるよ」とおっしゃってて
そういうのがやっぱり伝わってくると
あの・・わたしたちは・・・つらいですよね
私達は確かに分からないとは言っても
大内さんがこれから状態が悪くなると言うのは分かっていましたし
あと、大内さんももちろん少しは知っていたと思うんですね
悪くなるだろうと言う事を
そのなかで、家族にそういう事を伝えたと言うことが
大内さんはどんな気持ちで奥さんにそのひと事を言ったんだろうと思うと
ほほえましいと思いながらも・・・
・・・何と言えばいいんでしょうね
大内さんが伝えたかった事がその一言に
その一言に込められていたんだなと思いました


翌日大内さんは呼吸困難になりました
その直後挿管
気管に管を入れる処置が行われました

人工呼吸管理開始(被ばく11日目)

大内さんの無言の闘いが始まりました


・・・ここまで・・・

83日目
奥さんと息子は初めて顔のガーゼを外した大内さんと面会した
「お父さん頑張って」
その時初めて奥さんは泣いていました
しかもとても我慢して・・・
その夜大内さんは息を引き取りました

医療が進歩したが為に
本来なら2週間の命が83日も生きた
担当医も看護婦もみな一生懸命だった
けれど50何日目かに心臓が止まった時
おもわず「もうやめて!」と叫んでしまいました。



前川医師:
「今回の事で感じた事は
人間が作ったものが一歩間違えるととんでもないことになるなと
とんでもないことをやっぱり我々医師が
医師が何んとも仕様がない、
たとえどんなに最新の技術や機器を持ってしてもですね
とってもとても太刀打ちが出来ない
破滅的な影響をもたらすんだなと、ぼくは実感しました」


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コメント
こいつら自分で自分の首しめたんじゃん
死んで当然
それよか周辺住民のが被害者だ
死神 | 2013.11.09 15:14 | 編集
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