肥田舜太郎氏が語っていた事実と真実。
原発の真実とは、核抑止力の一部であり
マンハッタン計画と安保の軌道上に則った計画的産物であることを
大昔から肥田氏等は訴えてきたが、我々がそれを知ろうとしなかった。
それはもはや知らなかっただけでは済まされない罪である。
(youtube投稿者のコメントを転記)
長崎では公式には成立しないはずの残留放射能を測る兵士たちがいた
兵士の一人が巡回パトロールについてこう語っている
どうしてここにいるのか分からなかった
住民はいない。皆死んだ
鳥もいない。動物も昆虫もいない。
この静けさを伝えるのはとても難しい
マンハッタン計画の一角で長崎に視察に来た兵士たち
中央がスタッフフォード・ウォーレン医師
被ばく者の治療に来たのではなく、プルトニウム爆弾さく裂後の人体に与える影響を調査に来ていた
日本の医師の調査データを入念に収集し、アメリカに送った
それはのちに医療用の映画になる
映画ー「PADIATIONSIKNESS 放射線による疾病」アメリカ陸軍製作
2週間の危機的な期間が過ぎ、
治り始めているように見えた火傷や傷跡が、突然さらにひどい状態になった
出血も止められないどころかむしろ広がっていった
多くの人が亡くなり、死亡者数は毎日増えて言った
大半の患者の、まず、上半身に発疹が現れ全身に広がると
さらに体調が悪くなった
また、毛髪が抜けるのも特徴的な症状の一つである

この兵士は爆心地から1キロメートル北東の兵舎にいた
火傷はなかったが原爆投下から7週間過ぎた9月28日朝8時ごろ
毛髪が抜け出し、発疹が現れ、39度5分の発熱と下痢を起こした
ウォーレン医師の助手たちは医療カルテを集め
血液、死者の臓器のサンプルなどを押収し、症状の変化を映像に撮った
爆心地の距離と被ばく時の状況
障害の個人データを作った
それらのデータはアメリカ本国に送られ軍事機密とされた
日本の医師、肥田舜太郎は当時を語っている
院長から、職員患者全員に対し厚生大臣の通達があるので厳重に守るようにと命令があった
広島、長崎の原爆被害はアメリカ軍の機密であり、
何人も被害の実際について 見た事、聞いた事、知ったことを
話したり、書いたり、絵にかいたり、写真に撮ったりしてはならない
違反したものは厳罰に処す
1945年9月から日本政府の協力を得て
占領軍による検閲が実施され始めた
1年後にはGHQ支配下の民間検閲隊は9000人近くに膨れ上がった
検閲は特に核爆弾の攻撃を受けた広島と長崎に適用された
広島の新聞では
原子爆弾投下と放射能の文字が紙面から消えた
およそ10年にわたり、被ばく者に対するあらゆる情報が日本では隠された
広島と長崎を襲ったのは活版印刷の活字を封印する事実隠蔽であった。
検閲により没収された資料は今日、ワシントン近く、メリーランド大学に保存されている
数万冊に及ぶ本や新聞、ポスターなどが微に入り際にわたる検閲の厳しさを物語る
GHQに対し、軍の一部は自由の国アメリカが検閲を行うことに反発し始めていた
しかしマッカーサは断固とした態度をとり続けた
「それは間違ったプロパガンダだ
我々が一方的検閲を行っているというイメージを植え付けるものだ」
言論抑圧の後にはより繊細な仕事が待っていた
それは、原爆に関する情報操作だ
帰国後、ウォーレン医師の最初の報告書(1945年 マンハッタン計画 医療班報告)
「原爆はわずかな放射能を短期間残しただけで影響は極めて小さい」と断言している
「核爆発に伴う放射線は、爆発後数秒続き、人々を傷つけたが、全て初めの1分間で終わった」
「他の2種類、残留放射能と爆心地付近の瓦礫の放射能はいかなる犠牲者も生まなかった。
それは、確固たる方法で証明されている」
広島長崎の検閲と対照的に、戦後アメリカでは検閲が解除された
アメリカ国民はこの時まで、原子爆弾が自国で作られたということを全く知らなかった
9月11日グローブス兆軍とオッペンハイマーは
記者団を初の核実験を行ったトリニティーの爆心地へと案内した
放射線測定機では付近はなお放射線に汚染されていた
しかし、オッペンハイマーは
「日本では空中爆破したため地上で爆破したトリニティーより汚染が少ない」と記者団に説いた

「化学兵器や放射性物質による土壌汚染に比較しうる影響はなかった筈だ
通常火薬の大規模な爆発と変わりない」(オッペンハイマー)
世論に向けたメッセージは核爆弾は汚染を引き起こさない綺麗な爆弾
ジュネーブ条約に抵触する化学兵器ではないというものであった
11月、アメリカ憲法議会では原子力の発展と使用、制限に関する審議会が開かれた
召喚されたグローブ将軍は上院議員らを前にこう語った
「日本で本土決戦となれば犠牲者の数は膨大だっただろう。
チャーチルは100万人以上とみていた。
原子爆弾は日本人の医師を砕き戦争を終わらせた
戦闘が続いていたなら、数万のアメリカ兵士の犠牲は確実だ」
戦争を終わらせ100万人の命を救った原爆
マンハッタントップのこの言葉は、いまだ欧米では神話的作用を保っている
審議会では残留放射能に関する質問がグローブスに投げかけた
「ありません。きっぱりゼロだと言えます。
爆発の瞬間を除き放射能の障害はありません。一瞬の被害だけでした。」
一人の議員が放射線に対する解毒剤があるかどうか質問しました
「放射能の被害は色々です。大量に浴びれば即死です。
少量なら、死期がやや早まっても、苦しみはまず無い。
安楽死のようなものだというのが医師の見解です。
ごく少量だと時間がかかるにせよ、とにかく治せます」
ーー治療すれば。ということ?それとも、時間の問題?
「時間ですね。放射性物質にうっかり被ばくしても
ちょっと休暇を取って仕事を離れれば、そのうち、すっかり回復するんです」
グローブスは残留放射能の影響をきっぱりと否定し
マンハッタン計画の研究所や工場を死守する事に専念した
1945年末、ニューヨーク
原子力の将来に関するシンポジウムが科学者、企業、軍人を集めて開かれた
マンハッタン計画の主役たちが揃った
過去より未来の話しをしましょう
マンハッタン計画の成功はよくご存知ですね
これまで一度も報道されなかった方々がここに並んでいます
これまで計画に協力してきた各企業のトップです
代表してここにいるのです
企業としてマンハッタン計画を支えてくれました
明白で確かな結果を出したのです
みなさんには忘れずにいただきたい
(ニューヨーク・タイムズ記者 ウィリアム・ローレンス)
原爆の製造でも大変な困難を乗り越えてきました
原子力の平和利用においても違いは無いはずです

原爆開発の体制がそのまま平和利用へ
戦後の原子力発電は彼らが作っていく
1946年8月
トルーマンは原子力法にサインし、マンハッタン計画を軍から政府組織AEC、原子力委員会に移管。
AECは原子爆弾に関する軍事研究を進めながら
同時に核エネルギーの民間利用を発展させる
マンハッタン計画医療研究プログラムも継続した
1945年夏
ウォーレン医師らはプルトニウムの人体実験を再び始めた
ロジェスター病院では1947年夏までに11人の患者が被験者となったが
そのうち3人は投与を始めたその年に死亡する
スキャンダルを恐れたAECは世間から隠す事に決めた
「人体実験に関する資料は一般に公開しないことが望まれる
世間にマイナス効果を与えるだろうし、訴訟問題も引き起こすであろう
この件に関する資料は機密とする」
(1947年4月17日 AEC文書)
時期を同じくして日本ではより大規模な医学調査プログラムが始まる
アメリカ海軍長官フォレスタルはトルーマンに
広島、長崎で集めた医学データを早く活用するようせき立てた
予備調査は原爆の放射線にさらされたおよそ1万4千の日本人に関してです。
「このグループとこれから調査する人々は
放射線の医学的生物学的影響について
合衆国にとって最も重要な情報を得るかけがえのない機会を提供します
このような研究はまだ、終結されるべきではなく
時間をかけて継続するべきです
かけがえのない機会
間もなく、トルーマンの命令により
ABCC、原爆の傷害調査委員会が
(1946年11月18日 フォレスタル海軍長官から大統領宛て文書)
ABCC(原爆障害調査委員会)は日本の厚生省と協力して
被ばく者の放射線の影響を長期的に調査し始める

そこで被害者は放射線医療の被ばく調査に半ば強制的に協力を求められた
集められた情報は分類され、整理保存されアメリカに送られた
この医学データは1975年まで防衛機密となっていた
その防衛機密が開かされる2年前、ABCCの報告書には将来の世代に向けたこの研究に置かれる重要性が説かれている
(1973年 ABCC文書)
放射線防御に関しては原子爆弾の影響調査が重要であり、有効である。
癌、老化現象、細胞変化、遺伝に関して被害者の生涯を通して追跡調査するべきである。

この調査結果は、将来 国家が放射線による大事故に直面する際に
医学行政の指針となり得るであろう
被ばくに関する類例のない情報が集積された

しかし、被爆者の苦しみは記録されなかった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内容を書き出していて
身体の奥深くが叫んでいる気がした
心臓がドキドキして、やり場のない怒りと悲しみに包まれた
このような事があっていいのだろうか
このように隠されて
一部の人の手の中で事実が簡単に歪められていいのだろうか
いい筈はない。
同じ歴史を繰り返してはいけないのだと・・・・・思った
4/24広島にて内科医の肥田舜太郎医師講演(内容書き出しました)
原発の真実とは、核抑止力の一部であり
マンハッタン計画と安保の軌道上に則った計画的産物であることを
大昔から肥田氏等は訴えてきたが、我々がそれを知ろうとしなかった。
それはもはや知らなかっただけでは済まされない罪である。
(youtube投稿者のコメントを転記)
長崎では公式には成立しないはずの残留放射能を測る兵士たちがいた
兵士の一人が巡回パトロールについてこう語っている
どうしてここにいるのか分からなかった
住民はいない。皆死んだ
鳥もいない。動物も昆虫もいない。
この静けさを伝えるのはとても難しい
マンハッタン計画の一角で長崎に視察に来た兵士たち
中央がスタッフフォード・ウォーレン医師
被ばく者の治療に来たのではなく、プルトニウム爆弾さく裂後の人体に与える影響を調査に来ていた
日本の医師の調査データを入念に収集し、アメリカに送った
それはのちに医療用の映画になる
映画ー「PADIATIONSIKNESS 放射線による疾病」アメリカ陸軍製作
2週間の危機的な期間が過ぎ、
治り始めているように見えた火傷や傷跡が、突然さらにひどい状態になった
出血も止められないどころかむしろ広がっていった
多くの人が亡くなり、死亡者数は毎日増えて言った
大半の患者の、まず、上半身に発疹が現れ全身に広がると
さらに体調が悪くなった
また、毛髪が抜けるのも特徴的な症状の一つである

この兵士は爆心地から1キロメートル北東の兵舎にいた
火傷はなかったが原爆投下から7週間過ぎた9月28日朝8時ごろ
毛髪が抜け出し、発疹が現れ、39度5分の発熱と下痢を起こした
ウォーレン医師の助手たちは医療カルテを集め
血液、死者の臓器のサンプルなどを押収し、症状の変化を映像に撮った
爆心地の距離と被ばく時の状況
障害の個人データを作った
それらのデータはアメリカ本国に送られ軍事機密とされた
日本の医師、肥田舜太郎は当時を語っている
院長から、職員患者全員に対し厚生大臣の通達があるので厳重に守るようにと命令があった
広島、長崎の原爆被害はアメリカ軍の機密であり、
何人も被害の実際について 見た事、聞いた事、知ったことを
話したり、書いたり、絵にかいたり、写真に撮ったりしてはならない
違反したものは厳罰に処す
1945年9月から日本政府の協力を得て
占領軍による検閲が実施され始めた
1年後にはGHQ支配下の民間検閲隊は9000人近くに膨れ上がった
検閲は特に核爆弾の攻撃を受けた広島と長崎に適用された
広島の新聞では
原子爆弾投下と放射能の文字が紙面から消えた
およそ10年にわたり、被ばく者に対するあらゆる情報が日本では隠された
広島と長崎を襲ったのは活版印刷の活字を封印する事実隠蔽であった。
検閲により没収された資料は今日、ワシントン近く、メリーランド大学に保存されている
数万冊に及ぶ本や新聞、ポスターなどが微に入り際にわたる検閲の厳しさを物語る
GHQに対し、軍の一部は自由の国アメリカが検閲を行うことに反発し始めていた
しかしマッカーサは断固とした態度をとり続けた
「それは間違ったプロパガンダだ
我々が一方的検閲を行っているというイメージを植え付けるものだ」
言論抑圧の後にはより繊細な仕事が待っていた
それは、原爆に関する情報操作だ
帰国後、ウォーレン医師の最初の報告書(1945年 マンハッタン計画 医療班報告)
「原爆はわずかな放射能を短期間残しただけで影響は極めて小さい」と断言している
「核爆発に伴う放射線は、爆発後数秒続き、人々を傷つけたが、全て初めの1分間で終わった」
「他の2種類、残留放射能と爆心地付近の瓦礫の放射能はいかなる犠牲者も生まなかった。
それは、確固たる方法で証明されている」
広島長崎の検閲と対照的に、戦後アメリカでは検閲が解除された
アメリカ国民はこの時まで、原子爆弾が自国で作られたということを全く知らなかった
9月11日グローブス兆軍とオッペンハイマーは
記者団を初の核実験を行ったトリニティーの爆心地へと案内した
放射線測定機では付近はなお放射線に汚染されていた
しかし、オッペンハイマーは
「日本では空中爆破したため地上で爆破したトリニティーより汚染が少ない」と記者団に説いた

「化学兵器や放射性物質による土壌汚染に比較しうる影響はなかった筈だ
通常火薬の大規模な爆発と変わりない」(オッペンハイマー)
世論に向けたメッセージは核爆弾は汚染を引き起こさない綺麗な爆弾
ジュネーブ条約に抵触する化学兵器ではないというものであった
11月、アメリカ憲法議会では原子力の発展と使用、制限に関する審議会が開かれた
召喚されたグローブ将軍は上院議員らを前にこう語った
「日本で本土決戦となれば犠牲者の数は膨大だっただろう。
チャーチルは100万人以上とみていた。
原子爆弾は日本人の医師を砕き戦争を終わらせた
戦闘が続いていたなら、数万のアメリカ兵士の犠牲は確実だ」
戦争を終わらせ100万人の命を救った原爆
マンハッタントップのこの言葉は、いまだ欧米では神話的作用を保っている
審議会では残留放射能に関する質問がグローブスに投げかけた
「ありません。きっぱりゼロだと言えます。
爆発の瞬間を除き放射能の障害はありません。一瞬の被害だけでした。」
一人の議員が放射線に対する解毒剤があるかどうか質問しました
「放射能の被害は色々です。大量に浴びれば即死です。
少量なら、死期がやや早まっても、苦しみはまず無い。
安楽死のようなものだというのが医師の見解です。
ごく少量だと時間がかかるにせよ、とにかく治せます」
ーー治療すれば。ということ?それとも、時間の問題?
「時間ですね。放射性物質にうっかり被ばくしても
ちょっと休暇を取って仕事を離れれば、そのうち、すっかり回復するんです」
グローブスは残留放射能の影響をきっぱりと否定し
マンハッタン計画の研究所や工場を死守する事に専念した
1945年末、ニューヨーク
原子力の将来に関するシンポジウムが科学者、企業、軍人を集めて開かれた
マンハッタン計画の主役たちが揃った
過去より未来の話しをしましょう
マンハッタン計画の成功はよくご存知ですね
これまで一度も報道されなかった方々がここに並んでいます
これまで計画に協力してきた各企業のトップです
代表してここにいるのです
企業としてマンハッタン計画を支えてくれました
明白で確かな結果を出したのです
みなさんには忘れずにいただきたい
(ニューヨーク・タイムズ記者 ウィリアム・ローレンス)
原爆の製造でも大変な困難を乗り越えてきました
原子力の平和利用においても違いは無いはずです

原爆開発の体制がそのまま平和利用へ
戦後の原子力発電は彼らが作っていく
1946年8月
トルーマンは原子力法にサインし、マンハッタン計画を軍から政府組織AEC、原子力委員会に移管。
AECは原子爆弾に関する軍事研究を進めながら
同時に核エネルギーの民間利用を発展させる
マンハッタン計画医療研究プログラムも継続した
1945年夏
ウォーレン医師らはプルトニウムの人体実験を再び始めた
ロジェスター病院では1947年夏までに11人の患者が被験者となったが
そのうち3人は投与を始めたその年に死亡する
スキャンダルを恐れたAECは世間から隠す事に決めた
「人体実験に関する資料は一般に公開しないことが望まれる
世間にマイナス効果を与えるだろうし、訴訟問題も引き起こすであろう
この件に関する資料は機密とする」
(1947年4月17日 AEC文書)
時期を同じくして日本ではより大規模な医学調査プログラムが始まる
アメリカ海軍長官フォレスタルはトルーマンに
広島、長崎で集めた医学データを早く活用するようせき立てた
予備調査は原爆の放射線にさらされたおよそ1万4千の日本人に関してです。
「このグループとこれから調査する人々は
放射線の医学的生物学的影響について
合衆国にとって最も重要な情報を得るかけがえのない機会を提供します
このような研究はまだ、終結されるべきではなく
時間をかけて継続するべきです
かけがえのない機会
間もなく、トルーマンの命令により
ABCC、原爆の傷害調査委員会が
(1946年11月18日 フォレスタル海軍長官から大統領宛て文書)
ABCC(原爆障害調査委員会)は日本の厚生省と協力して
被ばく者の放射線の影響を長期的に調査し始める

そこで被害者は放射線医療の被ばく調査に半ば強制的に協力を求められた
集められた情報は分類され、整理保存されアメリカに送られた
この医学データは1975年まで防衛機密となっていた
その防衛機密が開かされる2年前、ABCCの報告書には将来の世代に向けたこの研究に置かれる重要性が説かれている
(1973年 ABCC文書)
放射線防御に関しては原子爆弾の影響調査が重要であり、有効である。
癌、老化現象、細胞変化、遺伝に関して被害者の生涯を通して追跡調査するべきである。

この調査結果は、将来 国家が放射線による大事故に直面する際に
医学行政の指針となり得るであろう
被ばくに関する類例のない情報が集積された

しかし、被爆者の苦しみは記録されなかった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内容を書き出していて
身体の奥深くが叫んでいる気がした
心臓がドキドキして、やり場のない怒りと悲しみに包まれた
このような事があっていいのだろうか
このように隠されて
一部の人の手の中で事実が簡単に歪められていいのだろうか
いい筈はない。
同じ歴史を繰り返してはいけないのだと・・・・・思った
4/24広島にて内科医の肥田舜太郎医師講演(内容書き出しました)
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